ジャコモ・プッチーニ(1858~1924)とは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した作曲家で、ヴェルディに続く世代では最大の活躍をした人物である
概要
曾祖父アントニオ以来代々ルッカの教会オルガニストを受け継いできた家に生まれた。そのため彼の祖父ドメニコ・プッチーニのように作曲家も存在するような一門であった。
そのためプッチーニは当初は教会オルガニストを務めながら教会音楽を作曲している。しかしやがてミラノ音楽院で学び、オペラ作曲家を志すようになる。
当時のイタリアオペラ界は、ヴェルディの作品の出版権を持つリコルディ社に対抗し、ソンツォーニョ社がヴェルディに匹敵する若手をコンクールで拾い上げようとしている状況だったのである。そうして活躍していったのが、ヴェリズモ・オペラを代表するピエトロ・マスカーニやルッジェーロ・レオンカヴァッロであった。しかしプッチーニはこの1883年の第1回のコンクールに落選し、なんとライバル企業であったリコルディ社に出版権を買い取られたのである。
こうしてリコルディ社からの援助を得たプッチーニはこの借金を返済するために活躍を迫られ、「マノン・レスコー」、「ファルスタッフ」の2作で無事成功をおさめた。その後も台本作家のルイージ・イッリカ、ジュゼッペ・ジャコーザとの共同制作で、「ラ・ボエーム」、「トスカ」、そして日本を題材にした「蝶々夫人」を発表し、一躍世界的な作曲家となったのであった。
しかし、リコルディ社の社長がジュリオから息子のティートに変わり支援を失ったことなどで、「ジャンニ・スキッキ」などが知られるものの、かつてほどの成功をおさめることは難しくなったようであった。そこで1920年代一念発起して「トゥーランドット」の作曲に手掛けた。しかし彼は最後のわずかな部分を残して他界。フランコ・アルファーノによって補筆されたものの初演時には、指揮者であるアルトゥーロ・トスカニーニがプッチーニ作曲部分の終了箇所で「マエストロはここで仕事を終えました」と演奏を止めたことでも知られる。
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関連項目
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