安田義定(1134~1194)とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将である。
概要
義光流清和源氏の一派・甲斐源氏の一門。源義清の四男で母は源義業の娘と伝わり、後々長兄・源清光の養子になったようだ。そのため武田信義からは叔父、かつ義兄弟にあたる。甲斐国牧庄を本拠とし、山梨郡安田を苗字とした。妻は加藤景廉の娘・遠江局。
1180年の源頼朝の挙兵に呼応する形で、信濃に向かった武田信義と異なり、工藤景光、工藤行光、市川行房を率いて南下し、石橋山から転戦してきた俣野景久、橘遠茂を波志太山の戦いで破った。続けて武田信義とともに橘遠茂、長田入道率いる駿河・遠江連合軍を鉢田の戦いで破り、さらに京から遠征してきた平維盛軍を富士川の戦いで破った。そのまま遠江を制圧、武田信義の駿河と合わせて東海道を手中に収め、源頼朝はこれを追認せざるを得なかった。
1183年の源義仲入京の際にはこれに協力し、遠江守に任じられている。しかし義仲の権勢が傾くと、再び源頼朝の下に戻り、源義経とともに義仲追討戦や壇ノ浦の戦いに参戦した。
甲斐源氏の中でも門葉として厚遇された方ではあったが、次第に警戒され1190年に下総守に左遷。1192年には再び遠江守に戻ることができたが、1193年に嫡男の安田義資が幕府女房に艶書を投げこんだという罪を問われたことをきっかけに浅羽庄を没収。翌1194年には梶原景時と加藤景廉に攻められ、自害した。
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