岡崎郁単語

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オカザキカオル
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岡崎郁(おかざき かおる)とは、元プロ野球選手である。

概要

1961年6月7日生まれ。大分県大分市出身。

大分商業高等学校へ進学。投手ショートとしてプレーし、3年時には連続で甲子園大会出場。高校日本代表にも選ばれている。

卒業後の進路は法政大学への進学を希望していたが、1979年ドラフト会議読売ジャイアンツから3位名を受ける。その後、長嶋茂雄監督から直接説得され、入団を決意している。

ただ、入団当時の巨人内野には原辰徳はじめ、河埜和正篠塚利夫中畑清など、非常に層が厚かったこともあり、入団から4年間で一軍出場はわずか2試合、打席に至ってはたった1打席のみという厳しい状況が続いた。

1984年二軍で結果を残し、一軍昇格間近となったところで胸膜炎を発症。深呼吸をするだけで痛みが走る状態となってしまい、球団はリハビリに専念させようと、任意引退選手(練習生)扱いとして1年を過ごした。

1985年、胸膜炎が癒え、3月オープン戦では地元大分県での試合でサヨナラ本塁打を放った。この一打が首から評価され、一軍に定着。シーズン終盤にはショートレギュラーに定着し、打率.268、4本塁打、19打点記録

以降は毎年100試合前後に出場し、レギュラー争いを繰り広げる。

1989年キャンプからサードファーストにも挑戦し、オープン戦では首位打者を獲得するなどアピールに成功。中畑清の故障によりいたサードに定着すると、駒田徳広とともにクリーンナップの後ろを打つ6・7番打者として勝負強さを発揮。初めて規定打席に到達して、打率.268、12本塁打、59打点記録日本シリーズでは2本塁打を放ち、日本シリーズ優秀選手賞に選ばれた。また、この年オールスターゲームにも初出場を果たし、同年から1992年まで4年連続でオールスターゲームに出場。

1990年打率.289、12本塁打、49打点と安定した活躍を見せた他、守備面での貢献も認められて、ゴールデングラブ賞を初受賞。この年の日本シリーズでは孤軍奮闘とも言える活躍を見せ、日本シリーズ敢闘賞に選ばれた。

1991年からは選手会長将を任され、1992年には12本塁打を放つなどとして活躍。

ただ、1993年は不振に陥り、打率.212と低迷。

1994年打率.252、6本塁打、45打点と復調したが、その後は元木大介の成長や仁志敏久の加入により出場機会が減少。

1996年、現役引退

引退後は解説者としての活動を経て、古巣である巨人コーチ二軍監督を務めた。

2016年からはフロント入りし、編成やスカウトを担当していたが、球団のゴタゴタに巻き込まれる形で解任されてしまう。

その後、ジャイアンツアカデミー校長を経て、2022年11月から、大分B-リングスゼネラルマネージャーに就任。この他、YouTubeでも活動しており、2023年にはニコニコチャンネルも開設している(関連リンクチャンネル参照)。

人物・エピソード

抜群の勝負強さで存在感を放ったクラッチヒッター。守備面でも安定感のある守備と内野ならどこでも守れるユーティリティ性でチームに貢献した。

クリーンナップの後ろで痛打を放つことも多かったため、「恐怖の6番(7番)打者」とも呼ばれていた。

1990年日本シリーズ敗退後に残した「私の野球観が変わった」というコメントは、ワンサイドで終わった同シリーズ徴する言葉として残っている。

乃木坂46メンバー衛藤美彩は遠い戚にあたる。

成績

通算打撃成績

通算:14年



































NPB 1156 3962 3490 422 906 159 20 63 384 23 75 32 352 13 504 81 .260 .327

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