新官制擬定書とは慶応3年10月、土佐脱藩浪士の坂本龍馬が提議したとされる、大政奉還後の新体制における職制案である。
概要
通説
慶応3年10月14日、江戸幕府第十五代将軍・徳川慶喜は、大政奉還の上表文を朝廷に提出し、翌15日、朝廷はこれを許した。土佐藩の大政奉還建白を裏方として支援していた坂本龍馬は、幕府に代わる新しい政府の職制とその人事案を構想し、当時付き添っていた三条実美の家臣である戸田雅楽(尾崎三良)に起草させた。
関白 一人
公卿中、最も徳望・知識兼備の人を以て之に充つ。
上一人を輔弼し、万機を関白し、大政を総裁す。(暗に公を以て之に擬す)
議奏 若干人
親王・諸王・諸侯の中、最も徳望・知識兼備の人を以て之に充つ。
可否を献替し、大政を議定、敷奏し、兼て諸官の長を分掌す。(暗に島津、毛利、山内、伊達宗城、鍋島、春嶽諸侯及、岩倉、東久世、嵯峨、中山の諸卿を以て之に擬す)
参議 若干人
公卿・諸侯・大夫・士庶人の才徳ある者を以て之に充つ。
大政に参与し、兼て諸官の次官を分掌す。(暗に小松、西郷、大久保、木戸、後藤、三岡八良、横井平四良、長岡良之助等を以て之に擬す)
後日、坂本は西郷吉之助を訪い、この職制案を示した。坂本の名が載っていなかったため、訝しく思った西郷が尋ねた所、坂本は次のように語ったという。
西郷龍馬に、案中君を擬するの職なし。理由如何と問ふ。龍馬答へて曰く、
『僕は役人を厭ふ。時を定めて家を出で、時を定めて帰るなどは僕の堪へざる所なり。土佐、如何に小国なりと雖も、役人たらんものは他に多かるべし』
と。西郷曰く、然らば官職をを外にして何をか為すと。龍馬空嘯いて曰く、
(千頭清臣『坂本龍馬』)
疑問点
船中八策と同様にこの新官制擬定書にも原本や写本は現存しない。語り残したのは起草した戸田雅楽こと尾崎三良本人で、尾崎が残した証言・文書を元に5種類の擬定書が明治から大正にかけて公表された。尾崎自身が記述・口述したものとしては『史談会速記録』(明治32年)及び『尾崎三良自叙略伝』(明治38年)がある。この尾崎自身による証言には現在一般に流布されている『新官制擬定書』に含まれていない以下の文言が含まれている。[1]
『尾崎三良自叙略伝』にはこれに「暗に徳川慶喜を以て之に擬す」と付け加えており、坂本が徳川慶喜を新体制に加える気があった事を示している。
更に重要な点として、上記二書及び『坂本龍馬関係文書・一』収録の『男爵尾崎三良手扣(てびかえ)』には、参議として坂本龍馬の名が記されている事が挙げられる。現在一般に流布されている説では坂本の名は載っておらず、それを西郷が尋ねた所「役人にはならない」「世界の海援隊でもやりますか」などと返したとされている有名な逸話との辻褄が合わない。
付け加えれば、大政奉還の上表文が朝廷に提出されたのは慶応3年10月14日だが、その3日後の17日に西郷・大久保・小松の三名は揃って鹿児島に帰還しており、この3日間に坂本が彼らと面会したという記録はない。[2]
一方、同じく『坂本龍馬関係文書・二』収録の『坂本龍馬海援隊始末』では、『男爵尾崎三良手扣』からの引用としながら坂本の名は新官制擬定書に載っていない。また、『維新土佐勤王史』においても坂本の名は無い。どういう事なのか。
明治の時代背景
『坂本龍馬海援隊始末』『維新土佐勤王史』を執筆した坂崎紫瀾は、坂本龍馬の生涯を初めて小説化した『汗血千里の駒』の作者として知られるが、他方土佐出身の自由民権運動家でもあった。
薩長藩閥政治に対抗する自由民権運動の立場上、坂本龍馬が新政府に加わろうとしていた事や、朝敵となった徳川慶喜を新政権に参加させる気があった事は都合が悪かったため、尾崎の証言にはあったこれらの記述を坂崎が改竄し、無かった事にしたのではないかという指摘もある。[3]
世界の咄し
『新官制擬定書』に付随する「世界の海援隊」の逸話は陸奥宗光が証言したとされており、大正3年出版の『坂本龍馬』にて以下のような記述がある。
「龍馬あらば、今の薩長人などは青菜に塩。維新前、新政府の役割を定めたる際、龍馬は世界の海援隊云々と言へり。此の時、龍馬は西郷より一層大人物のやうに思はれき」
(千頭清臣 『坂本龍馬』)
この逸話の初出は大正2年に出版された『坂本龍馬言行録』で、編者はアーネスト・サトウや陸奥宗光と交流のあった歴史家の渡辺修二郎という人物であった。陸奥の談話として収録されている逸話であるが、これを遡る証言や史料を見出すことは出来ない。また、先述のとおり坂本が大政奉還直後に西郷らと会った形跡は無い。そのためこの逸話も信憑性は低いと言わざるを得ない。
ただ、慶応3年11月7日の陸奥宛て坂本書状には以下の一文を見つける事が出来る。
追白、御てもとの品いかゞ相成候か、御見きりなくては又ふの(不能)と相成。
世界の咄しも相成可申か、此儀も白峰(白峰駿馬)より与三郎より少々うけたまはり申候。
此頃おもしろき御咄しもおかしき御咄しも実に々山々にて候。かしこ。
具体的に何を語ったのかは定かではないが、坂本が陸奥ら仲間達と語り合った世界進出の夢が後年「世界の海援隊」の逸話として語られるようになったのではないだろうか。
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脚注
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