インパール作戦とは、太平洋戦争の一環として1944年にビルマ〜インドで行われた日本軍の作戦である。
ビルマの戦いの詳細については→『ビルマの戦い(太平洋戦争)』。
盧溝橋にて一発撃ち大勝利をおさめ支那事変に発展させ、さらに大東亜戦争に発展させた牟田口廉也司令官。マレー作戦では自身も銃創を負うほどの戦いぶりで英軍を圧倒し次々に撃破しシンガポールを制圧、ビルマにおいても英軍は彼の敵ではなく鎧袖一触、勝利のうちに英軍を駆逐せしめた。彼の率いた第十八師団は世界最強と称されるほどだった。 総理大臣、陸軍大臣、陸軍参謀総長兼任の東條英機大将の信頼も非常に厚い不屈の猛将である。 |
概要 インパール作戦への道 インパール作戦 戦況の変化 インパール作戦(雨期) インパール作戦の結果 |
1942年シンガポールで英軍を下した日本軍は、ビルマにおいても連戦連勝、英軍を駆逐し圧倒した。
1943年に英軍はビルマに反攻作戦を行ったが、第一次アキャブ作戦は日本軍の反撃に惨敗した。もう一つのオード・ウィンゲートの行った第一次チンデットに対し、日本軍は牟田口廉也中将率いる十八師団が守備をしていた。チンデットは負傷者は置き去りにし、多くが殺されたり日本軍の捕虜になった。2月チンドウィン川を渡河した3000人中6月までにインドに帰還したのはたった2182人、未帰還兵のうち450人が戦闘で死亡し残り430人が捕虜となった。この厳しい努力で達成したのは、マンダレー・ミートキーナ間の鉄道を4週間不通にして、日本軍にバーモ経由の長い兵站戦を使わせたことくらいであった。チンデットは多大な損害を受け、5月にインパールに帰還した。
43年5月より雨期に入ったビルマでは、両軍の活動は再び停滞することとなった。しかしチンデットはこの時期の活動に大きな影響を与えることになった。
インパール作戦への道 牟田口廉也中将の野望 大本営でのインパール作戦の浮上 連合軍のビルマをめぐる情勢 「ウ号」作戦の認可 アッサムの前哨戦 航空情勢の変化 |
第十八師団長として挺身団に対応した牟田口中将の旗下、日本側も英軍相手に大隊長の戦死を含む犠牲者を出しており、その英軍は日本側が不可能と断定していた経路を通ってきたのだ。
英軍ができるなら、シンガポールとビルマで英軍を難なく打倒した俺にだって必ずできるはずだ。野望はそれだけではなかった。大英帝国からインドをもぎ取るのだ。その当然の帰結として、イギリスの戦争継続能力に影響する。弱体化したイギリスは戦争から脱落するか、行き詰まりを認めるしかないだろう。アメリカは孤立し、講和に駆り立てられるだろう。ドイツと日本が、ペルシャで手をつなぐことになるかもしれない。自分は、これらすべてを達成するカギを握っているのだ。
余は盧溝橋の一発で支那事変を起こし、大勝利を獲得した。さらに兵を仏印、マレー半島へ進め、南下してシンガポールを占領、南方大陸いたるところにて大勝利をおさめ、大東亜戦争にまで発展させた。今度はインドに兵を進め、大東亜戦争を大勝利のうちに終結させる。これは余の務めである。余以外にこれを実行できるものはいない。 |
連合軍の反攻に備え、ビルマ方面軍が編成された。司令官には河辺正三中将が任命された。隷下には第十五軍、第二十八軍、第三十三軍が配置された。この機に第十五軍の飯田軍司令官は転出、後任の軍司令官に親補されたのがマレーで自身が銃創を受けながらも英印軍を撃退した不屈の猛将、牟田口廉也中将である。
「いまや全般の戦局は行き詰っている。この戦局を打開できるのは、ビルマ方面だけである。ビルマで戦局打開の端緒を開かねばならぬ。そのためにはただ防勢に立つだけではいけない。この際、攻勢に出て、インパール付近を攻略するはもちろん、進んでアッサム州まで進攻するつもりで作戦を指導したい」 |
この青天の霹靂のような申し渡しに、小畑軍参謀長は困惑した。小畑軍参謀長は長く陸軍大学校の兵站教官をやり、陸大に小畑兵站ありといわれたほどの兵站の権威者の一人であった。小畑軍参謀長は、アッサム進攻は兵站の見識から補給が続かず危険であると、反対の苦言を呈した。だが、牟田口軍司令官の意思は動かなかった。小畑軍参謀長は「事はあまりにも重大だ。軍司令官の目標はアッサム州にある。これは危険だ、なんとしてでも思いとどまらせなければならぬ。これは外力によって阻止するほかはない」と考えた。思い余った小畑軍参謀長は第十八師団長・田中新一中将を訪ね、同中将から意見具申をしてもらいたいと依頼した。だが、田中新一は陸軍参謀本部作戦部長として開戦強硬派として太平洋戦争を始めた張本人ともいえるいわくつきの人物である。田中師団長は、4月20日に開かれた兵団長会同で、小畑軍参謀長から依頼された内容を伝えるとともに、いやしくも軍参謀長が直接、軍司令官に進言せず、部下の師団長をかいして意見を具申しようとしたのは統率上憂慮すべき問題だと付言した。このことが牟田口軍司令官の逆鱗に触れ、小畑軍参謀長は就任後わずか一ヶ月で解任、5月3日にハルピンの特務機関長に転出させられた。小畑軍参謀長の解任を見て、軍司令官の意に反して苦言を呈することは、首が飛ぶことだと知って、幕僚たちは、それから誰一人として諌言を呈する者はいなくなった。
次は配下の師団長である。昭和18年4月20日、牟田口軍司令官はメイミョウの軍司令部で隷下兵団長会同を行った。この会同で、牟田口軍司令官はインド進攻作戦を披露した。軍司令官はかつて第十八師団長としてマレー作戦に従った時の経験に基づいて英軍の弱点を熟知していた。
「敵は弱い、特に側背の脅威に対し極めて敏感で、包囲すれば忽ち潰走する。敵と衝突したら直ちに敵の側背に兵力を部署せよ。不意、敏速、果敢に行動して速やかに敵主力に対し包囲の輪を作れ、あとは一挙にこの輪を縮めるだけだ。戦勝は疑いない。敵が潰走する際遺棄する兵器、弾薬、糧秣は膨大なのを常とする。したがって補給においては憂うるに足らない。敵の装備、携行品、貯蔵物悉くこれわが補給線だ。軍はこれを十二分に胸算しこの度の作戦を敢行する。」 |
列席した各師団長は、いずれも唖然として驚いた。会同終了後、師団長相互の雑談で、第三十一師団長・佐藤幸徳中将は「あんな構想でアッサム州までいけるとは笑止の沙汰」ともらした。さらに、第三十三師団長・柳田元三中将も「まったく可能性の無い作戦だ。軍司令官の意図には不同意だ」と反対した。しかし牟田口中将はひるまなかった。
昭和18年5月、新任の南方軍総参謀副長・稲田正純少将(陸士29・陸大37恩賜)が戦線視察のためビルマに来て、ビルマ方面軍司令官・河辺中将と会談、さらに稲田副長はメイミョウの第十五軍司令部を訪ねて、牟田口中将に面会した。牟田口中将は待ち受けたように、インド進攻計画を訴えた。しかも雨季明けの9月に実施するというものだった。稲田副長は「次の機会までによく研究して欲しい」と再考を求めた。 すると牟田口軍司令官は、満州にいた当時の話を持ち出した。
「俺は盧溝橋で第一発を撃った時の連隊長として責任を感じている。どうしても誰か殺さねばならない作戦があれば、俺を使ってくれ。俺の気持ちはあの時と同じだ。ベンガル州にやって死なせてくれんか。私もし自分の努力でインドに侵攻し、大東亜戦争に決定的影響を与えることができれば、盧溝橋で今次大戦勃発の遠因を作った私としては、国家に対して申し訳が立つ!」 |
8期も後輩の稲田副長にこれほど頼むとは、本心に違いないと思われた。だが稲田副長は「インドに行って死ねば牟田口閣下はお気がすむかも知れませんが、日本がひっくりかえってはなんにもなりませんよ」と遠慮のない答えをした。それでも牟田口中将は、決意を変えようとはしなかった。ついに東條首相に直接手紙を送って、計画の承認を求めた。
小畑軍参謀長の後任の軍参謀長には久野村桃代少将が補任された。久野村少将は上官に苦言をあえて言う人ではなかった。昭和18年6月24日、ラングーンのビルマ方面軍司令部で兵棋演習が行われた。南方軍がビルマ防衛線の推進に関心を持ち、研究を要望したためだった。これを視察するため、大本営から第二課(作戦)の竹田宮恒徳王少佐と南方軍からは稲田総参謀副長以下、各主任参謀、シンガポールの第三航空軍からは高級参謀・佐藤直大佐が出席した。牟田口軍司令官は、この兵棋演習を絶好の機会ととらえた。ついに第十五軍のインド進攻、インパール占領作戦の兵棋演習が行われた。6月26日の夜、牟田口軍司令官は竹田宮に拝謁して、インパール作戦の必要性を説明して、大本営の認可を願った。その態度、語調には強烈な信念があふれていた。竹田宮は、はっきりと、「現在の十五軍の案ではインパール作戦は不可能だ」と答えた。「不完全な後方補給では大規模な進攻は困難である」と。牟田口軍司令官はそれでも、しつこく認可を願ってやまなかった。演習終了後、ビルマ方面軍参謀長・中永太郎中将も南方軍・稲田副長も反対した。ビルマ方面軍では高級参謀・片倉衷大佐が牟田口計画に真っ向から反対していた。だがビルマ方面軍司令官河辺正三中将は牟田口に味方した。
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河辺は盧溝橋事件以来、牟田口とはよく知った仲だった。1937年7月8日午後、河辺旅団長が北京に戻ってみると、牟田口はおお得意自信満々であった。河辺は牟田口に同調し、たぶん彼は牟田口が自分より上の連中の手先なのだということを、薄々感じていたが、知って一番抵抗の少ない道を選んだのだ。牟田口と河辺の関係は、友好的で生真面目なものでさえあった。そしてある時牟田口は感慨深げに「閣下は北京でもここと同じく私の上長でした。支那でぶっぱじめたことをこのビルマで終わらせましょう」といった。しかし牟田口は河辺から警戒の眼を放さなかった。前段の引用は、いわゆる支那事変の口火となった盧溝橋の攻撃命令を牟田口連隊長が専決し、河辺旅団長が追認した事情を示している。その時の関東軍参謀長が東條英機であった。この関係はインパール作戦の時も同様で、牟田口中将は「時の参謀総長東條大将には毎日のように私信を書き送った」と記述されている。しかもこの手紙の相手は東條だけではない。インパール作戦間、牟田口軍司令官は頻々として中央に手紙を出した。あて先は東條首相であり、富永安治陸軍次官であり、あるいはまた陸軍省のやりてといわれている将校たちである。東條に直接訴えるのは、佐官時代の二葉会と一夕会以来牟田口の常とう手段であったようだ。
対英戦において東條英機はどのような戦争指導を行ったのか。まず日本の戦争計画において、イギリスを屈服させることが戦争終結の鍵とされていた。日本はまず東アジアと南西太平洋の敵の根拠地を覆滅して戦略的優位の態勢を確立し、重要資源地域と主要交通線を確保して長期自給自足を構築するとされていた。「永田鉄山」思想の資源自給自足と国家総動員体制による「長期不敗態勢」である。ただし、これだけで戦争終結に持ち込めるわけでないため、戦争計画では中国(重慶政権)を屈服させ、独伊と提携してイギリスを屈服させることによってアメリカに継戦意志を失わせる、という戦争終結のシナリオが描かれていた。だが1942年11月のエルアラメインの戦いの英軍の勝利によって、英国屈服策は不可能と判明した。東條英機の戦争計画はもとの長期不敗態勢の構築にて負けないことを追求するものに戻った。1943年9月下旬に千島列島-小笠原諸島-内南洋-西部ニューギニア-スンダ列島-ビルマを連ねた線で囲まれた地域を「絶対国防圏」とした。勝つことではなく、負けないことがいよいよ強調されたのである。
ここに、ドイツに亡命していたチャンドラ・ボースは、英領インドに自由と独立を与えるインド軍を創設しようと渡航を計画、1943年4月27日にマダガスカル沖で日独潜水艦は会合に成功しボースは伊29に移乗、5月16日東京に到着した。6月ボースはシンガポールに入り、インド国民軍最高指揮官となった。
1942年4月、インドに戦争協力を求めたクリップスとガンジーとの会談が不調に終わった頃、東條は帝国議会で、「ビルマ人のビルマ」に次いで「印度人の印度」が実現さるべきことを呼びかけた。東條はチャンドラ・ボースを積極的に支持し、10月に日本はチャンドラ・ボースの自由インド仮政府を承認した。東條英機のよく知る「不屈の猛将」牟田口廉也中将の唱えるインパール作戦によって、英国屈服による現状打破が再浮上してくる。
昭和十八年十月一日、インパール作戦に反対し続けていた稲田副長は第十九軍司令部付に転出した。この人事は富永陸軍次官が東條に働きかけて行われたのである。牟田口中将が毎日のように東條陸相や人事を握る富永恭次陸軍次官に私信を書いていたことと無関係ではなかった。稲田副長が転出すると、南方総軍にはインパール作戦を抑制する者がいなくなった。稲田の後任はインパール作戦推進派の綾部橘樹少将であった。大本営から南方軍への圧力について、上法快男編「元帥寺内寿一」にインパール作戦に関する記録がある。綾部副長は「私が南方軍参謀副長として赴任する際、杉山参謀総長は私に対し次のような希望を述べられた『戦局各方面ともに行き詰まりの折柄、いずれかの方面において成果を上げ得べき作戦を実行した。その意味で南方軍においてインパール作戦の可能性を検討されたい』と」と弁明している。綾部副長は南方軍にてインパール作戦の決行を進め、南方軍司令官寺内元帥に委細報告の上「作戦決行」の決裁を受けた。その中で「ビルマ方面視察に対する報告は、兵団の作戦計画、研究演習の経過及び状況、方面軍の意向、視察所見討詳細にわたるものであったが、元帥は終始一言も発せらるることなく黙々として聴取せられ、終わりに『大本営の認可をとるように』と発言せられたのみであった。」とある。のちに大本営にてウ号作戦の認可の時、杉山参謀総長は「寺内たっての希望であり、希望通りやらせたらよいではないか」と人情論で押し通した。完璧なマッチポンプである。
東條首相は、全般的な敗勢の中、牟田口軍司令官の主張するインパール作戦に望みを託すようになっていた。東條英機首相は、自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首班から「インドにわれわれの拠点をつくってほしい」と要請されていたのだ。1943年日本はいまだ解放者で、ビルマ人がイギリスの復帰を望んでいると考えることはできなかった。しかし…
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1943年1月のカサブランカ会談でマーシャルとキングは翌年冬にはビルマを奪回するよう英国に即した。「アナキム」という暗号名で呼ばれたこのビルマ作戦こそ、中国の戦いを続けさせ、また太平洋の米軍の圧力を軽減するため絶対必要なものだと説いた。英国は「アナキム」作戦は 1944 年の末でなくては実施できないと主張、1943年5月にチャーチルとルーズベルトがワシントンで会ったときは、「アナキム」作戦は主要な関心事ではなかった。中国に対する空輸の増強に優先権が与えられたのである。
1943年11月下旬、英米の指導者たちは蒋介石をカイロに招き、アジア戦略について協議した。マウントバッテンも招待された。蒋介石には再度ビルマ・ルートを再開するという確約が連合軍によってなされ 、マウントバッテンがルート再開作戦の一環としてベンガル湾への上陸作戦(「バッキャナー」作戦)を行うことを申し出た(これにはチャーチルが驚いた)。ルーズベルトは、東南アジアで上陸作戦を実施するよう英国に圧力をかけ、またチャーチルが検討していた地中海でのさらなる連合軍の作戦にも同意するつもりはなく、連合軍が「オーバーロード」作戦に集中することを希望した。
問題は、再びどのようにして十分な上陸用舟艇を確保するかであった。英米とも、「オーバーロード」作戦と「アンヴィル」作戦(フランス南部への上陸作戦)を 1944 年中頃に実施したいと考えていた。一方、チャーチルは、むしろ引き続きバルカン諸国や地中海東部におけるドイツの弱体化を狙っており、連合国側について参戦するようトルコを説得した。それらのすべての作戦には上陸用舟艇が必要であった。ルーズベルトは、チャーチルが提案した地中海東部での作戦ではなく、「バッキャナー」作戦に上陸用舟艇を使用することを希望した。しかし、チャーチルは、「アンヴィル」作戦にも上陸用舟艇が必要なことを念押しした。ここでもまた、欧州最優先の戦略によって、対日戦のための資源が他に回されたのである。1943年12月カイロにおいて開かれた英米首脳会談において、チャーチルはルーズベルトを説得して「 バッキャナー」作戦を中止させた。
フランクリン・ルーズベルトとウィンストン・チャーチル、蒋介石は、カイロで日本に対する戦略の会議を行い、カイロ宣言を締結した。マウントバッテンはカイロ会談を受けて、チャーチルよりビルマ戦略の指令を受け取った。すなわち①日本軍と接触して抗戦し、その戦力特に空軍力を消耗させ、太平洋方面の兵力をビルマに引き抜かせること、②空輸および北部ビルマの地上道路の設置により中国に戦線を維持させること。の2つであり、地上では限定的な作戦しか行えないことになり、攻勢は不可能となった。
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しかし「アナキム」及び「バッキャナー」は日本軍内で生きていた。連合軍は前年よりさかんにビルマへの反攻作戦をラジオなどを通じて宣伝していた。日本軍のビルマへの兵力転用は、たとえ一部であっても太平洋方面の足を引っ張ることになるからである。日本軍の内部では、44年に連合軍の大攻勢が始まるとの見方が大勢となっていた。
大東亜共同宣言に示されている戦争の理念に、東條が共感を寄せていたことは認めるべきだろう。だが、東南アジア諸地域の指導者との関係に言及するとき、東條がしばしば彼らを「抱き込む」という表現を用いていたことに示されているように、彼の念頭にあったのが「理念」そのものではなく、戦争遂行のために彼らの協力を取り付けるという「政謀略」だったことは疑いない。これに加えて彼は、ビルマが連合軍の反攻のターゲットになるのではないか、とも予想していた。1943年5月、チュニスが陥落し北アフリカでの独伊軍の戦闘が事実上終了すると、連合軍はそこの海空戦力をインド洋方面に振り向ける余力を持つことになり、ビルマ南部のアンダマンやニコバルへの敵軍進出が懸念されるようになった。ビルマは「絶対国防圏」の南西要域であり、敵の反攻があり得るとすれば、その防衛を真剣に考えなければならなかった。ここに、インパール作戦の出発点がある。
そこで浮上してきたのが、連合軍の反撃拠点とみられていたインド東部の要衝「インパール」を機先を制して占領する「ウ号」作戦である。東條英機は、盧溝橋事件当時の関東軍参謀長であり、事件を共に引っ張った牟田口廉也を個人的によく知っており、この猛将牟田口司令官に悪化する戦局の逆転に一縷の望みをかけた。
英公式戦史によれば、日本軍はこの作戦ではかなり正確に英軍の情報をつかんでいたと記述しているが、 結局1944年1月7日、東南アジア戦域軍司令部において決定された作戦は次の通りだった。
1.米支連合軍によるレドからの作戦、
2.ウィンゲート兵団による前項支援のための長距離逓信作戦
3.チンドウィン川に橋頭保を確立して前二項作戦を容易にするための英第四軍団の牽制作戦
4.アラカンにおける上陸作戦を併用しない陸上からだけのアキャブ攻略作戦
この作戦計画ではっきりわかるように、とてもビルマに対する総反攻と呼べるほどの作戦ではない。実質的にはレドからの主作戦とこれを支援するウィンゲート空挺団の作戦に過ぎない。日本軍は敵情判断の誤りから、英印軍が中央正面からビルマ奪回作戦を仕掛けてくると疑いもなく信じ込み、北方の第十八師団を持久させ、牽制作戦を行っている英第4軍団に対し、ビルマ防衛の基本任務を持つわが第十五軍が、制空権もなく補給の見通しも立たぬまま、敵の機先を制するためと称して、あえて我より遠いところに奇襲をかけたのである。これは敵の牽制作戦の罠に陥ったのである。作戦目的は本来、ビルマ防衛のための、敵の反攻の機先を制する攻勢防御であったはずなのに、それが一貫しなかった。作戦を担当する第十五軍司令官牟田口廉也が中将が、ビルマ防衛を超えてインド進攻という途方もない目的を追求したからである。
正式認可の手続きのため、総長指示案が参謀本部から陸軍省に回されたのは1944年1月7日夕刻であった。折柄入浴中であった東條陸相は、説明する軍事課長西浦大佐に浴室から矢継ぎ早に次の五項目を質問した。
①インパール作戦実施中、ベンガル湾のビルマ南部にイギリス軍が上陸した場合、その対応措置が執れるか。②インパール攻略によって、さらに兵力の増加を必要とする結果にはならないか。ま た防衛上不利をきたさないか。 ③劣勢な航空兵力で、地上作戦に支障はないか。 ④補給は作戦に追いつけるか。 ⑤第一五軍の作戦構想は堅実か。
例によって、いずれももっともな、的を射た質問ばかりであった。東條はあらためて統帥部に念を押すよう部下に指示し、その確答を得た上で作戦認可に同意したという。陸相がメモもなく、この作戦の問題点を残らず質問したことは、驚嘆に値する。「カミソリ東條」の異名もかくやと思わせる有能エピソードである。(だが後日重大事項を風呂場の立ち話で決定したと批判されてしまう)
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インパール戦線の第4軍団では、兵の練度と自信を改善するため現地ジャングル訓練と、第17、20および23インド師団による大隊レベルまで日本軍との接触が継続された。インパールの南、ティディム街道ではコーワン少将率いるインド17師団と柳田中将率いる日本軍三十三師団が対峙しており、パレルータム街道ではインド20師団と日本軍十五師団が対峙し、小競り合いが行われていた。
43年10月日本軍三十三師団柳田師団長が、シャン高原カローを出発し、イエウ‐カレワ道上(カレワはチンドウィン川の渡河点に当たる)、テケジンに司令部を進出し、チンドウィン川西岸地区に兵力を集結させた。笹原連隊長率いる歩兵第二百十五連隊主力はインパール作戦準備に関する命令に基づき、インパール南部ティディム街道南部のフォートホワイトなどチン高原上の敵陣地を急襲占領するよう内示された。10月10日第一大隊入江増彦中佐は英軍前哨陣地を占領、敵をケネディ・ピーク方面に敗走せしめた。さらに11月14日死傷者を出しつつも標高2364mのフォートホワイト陣地を占領、周囲の陣地も占領しチン高原攻略作戦は終了した。「ブラックキャット」インド17師団の部隊は 1943年12月反撃、12月14日は火砲二十数問、約二千発の砲撃の後、1000の兵で日本軍に攻撃してきたが、日本軍に陣地前にてなんなく撃破された。このフォートホワイトの攻撃で英軍は山岳地形で機動の余地が制約されていたにもかかわらず、想像力に乏しい正面攻撃を行ったと米軍のオブザーバーから手厳しく批判された。だが第二大隊方面では44年1月17日より猛爆撃が始まり19日ついに陣地を奪取、また地形に有利な他の方面1944年2月のカボウ谷地のキャウクチャウで行われた小規模の戦闘では、正面攻撃を避け、浸透戦術を用いて成果をあげ、日本軍を遮断して退却させた。しかし2月25日のフォートホワイトへの英軍2000の部隊の激しい攻撃も、日本軍により再び撃退された。一個中隊で火砲20問以上を要する一個旅団の攻撃を4か月にわたり防御したわけで、このような山岳地形は日本軍に有利であり、柳田師団長の戦術がさえわたった。この小競り合いによる死傷者は双方数百名にとどまった。
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総司令官としてのマウントバッテンの第一の業績は、1943年12月にカイロで開かれた6者会議において、2つの空軍をピアースの指揮下に統合し、ストラトメーヤを副指揮官にすることについて米陸軍参謀総長のジョージ・マーシャル大将と米陸軍航空長官のヘンリー・アーノルド大将に納得させたことである。スティルウェルとストラトメーヤの強い反対があったが、空軍の統合は12月12日に行われた。統一された空軍は、735 機の戦闘機(英国機 464、米国機 271)、爆撃機、偵察機を有する日本軍の約3倍の保有機数の東部空軍となり、ストラトメーヤが指揮を執ることになった。
突然43年末事態が好転し始め、新たな活気が張り始めた。ひとつはついにスピットファイアの配備が決定したこと、および首相から「ビルマ線の新最高司令部が組織され、マウントバッテン卿が司令官に任命される」とメッセージが、伝えられたことによるものであった。
1943年11月、待望のスピットファイア3個中隊が、チッタゴンに配備された。スピットファイア三個中隊が、港湾の防護のためチッタゴンに配備された時、ダイナを次々と3機撃墜し、英軍司令部はその威力に感動した。43年12月末と44年1月に日英戦闘機部隊の決戦でスピットファイアは大活躍、制空権は連合軍側に移った。
英空軍は、制空権はスピットファイアによって獲得されたとしている。英空軍の損害の八倍の損害を敵日本空軍に与えて、素晴らしい成功が得られたという。英陸軍でもスピットファイアを著しく高く評価した。
スピットファイアによる英空軍の処理、その結果として制空権が獲得された。今制空権なくしては、非武装輸送機による第二次アキャブ、ウィンゲート両作戦の補給も、空輸に依存する第14軍の前進もあり得なかった。
なお参考までに「叢書三航軍」によれば、「ビルマにおける制空権の推移は、1943年末まで日本軍が保持していた。連合軍が日本軍の制空権に対し、最後の挑戦ができる体制になったのは、1943年12月英米航空部隊が統合し、かつ44年早々長距離戦闘機P38、P51を装備するに至ってからである」としている。これは実情に合っているかどうか、大日本帝国陸軍航空隊お得意の「員数戦記」でないかとの疑念がぬぐえない。日本陸軍地上軍の兵士の手記は手厳しい。
中央戦線の第一線の兵士にとっては、43年雨期明けが、制空権転移の時期の一巻である。敵機ばかりで日本機を全然見なくなったからである。
実際にスピットファイアの投入によって地上部隊の目に見えて制空権の変遷が見られたことは疑いない。だがビルマ航空隊もこのままではいなかった。日本軍は二式単戦鐘馗(トージョウ)を投入し、その戦術も改善した。しかし英空軍はさらに高性能機を導入してきた。
制空権の激しい争奪においては、優秀機を即座に配備しなければ後れを取ることになる。スピットファイアMk Vのインドでの戦闘歴は短く、1944年2月にMk VIIIに置き換えられた。スピットファイアVIIIは新型マーリン60系エンジンを搭載し、それに対応して強化された機体を持っていた。Mk Vはビルマで最高の日本軍戦闘機、Ki 44“ Tojo”と同等だったが、Mk VIIIははるかに高速で上昇速度も速く、日本陸軍空軍の「隼」対して大成功を収めた。
スピットファイアMk VIII二個中隊は、第二次南部アラカン作戦に備えて、44年初めに配備された。これはちょうど1944年2月の第二次アキャブ作戦に間に合った。ビルマ航空隊はたちまちアラカン上空から駆逐され、連合軍は包囲された部隊を白昼堂々空中補給し維持することができた。
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ビルマ戦は、常に英国民から「忘れられた戦争」(the war that nobodya knows)であった。その理由はビルマの戦いが英国から遠いだけでなく、ビルマの戦況が把握しにくいのに加えて、新聞の読者がアラカンの地図、部落名や将軍の名前が新しく突然見出しに出て、東部ビルマに関心を持つ人々にある衝撃を与えるかと思うと、今度は突然インパール―知っている人なぞいないーが危機と出る。それも数日後にはビルマで重要なことは何もなくなってしまうからである。
さて、インパール作戦であるが、日本軍は第十五軍司令官の牟田口廉也中将、英軍は第14軍司令官のウィリアム・スリム中将が中心となって戦った争いである。しかし、この二人はお互いに相手を認識していなかった。スリム中将は英国人らしい尊大さで「自分と全く同じ立場の人物」、すなわちビルマ方面軍司令官の河辺中将やその後任の木村大将については直接言及しているが、「日本軍の一ヵ軍は英国の一ヵ軍団に相当する」(マウントバッテン報告の中書き)ので日本軍第十五軍は格が違うとしてか、牟田口中将以下については、「河辺将軍とその部下」として一括して取り扱っている。つまり日本軍で彼と同格のビルマ方面軍の河辺中将を主敵とみなしており、牟田口中将は彼の第14軍傘下の第4軍団のスクーンズや第15軍団のクリスティンソンと同格の雑魚武将として彼の眼中になかった。牟田口中将は英軍については誰が率いているかはまったく気にしていなかった。
しかしこの二人はお互いに対戦相手を貶していた。その要因として、すぐ退却する英兵と死を恐れない日本兵の違いがあった。
「英軍は支那軍より弱い。特に側背に対しての攻撃は、極端に鋭敏で戦意を喪失混乱し退却する。このことはシンガポール作戦でも、その後のタイ、ビルマの各戦域でも体験済みである。イギリス軍は弱い必ず退却する。我が皇軍はいかなる困苦欠乏にも耐えうる。皇軍には天佑神助の奇跡が起こる。」 | _(_ ( ゚ω゚ ) |
「ある時英軍が北岸に待ち受ける川を日本軍が渡ろうとした。完全装備の15人の日本兵が、山から出てきて粛々と川に入った。まったく無意味な死だった。日本兵を理解するには、彼らを人間、いや動物とさえ思ってはいけない。やつらは『アリ』だ!。インドでよく見かける“兵隊アリ”なのだ。」 |
相手を動物どころか昆虫にしてしまったスリムはいかにも低庶民階層出身者らしく下品きわまりないが、勝敗を分けたのは品格ではなかった。補給に対する考え方だったのである。
「敵が潰走する際遺棄する兵器、弾薬、糧秣は膨大なのを常とする。補給について心配することは誤りである。補給は敵に求めよ。敵の装備、携行品、貯蔵物悉くこれわが補給線だ。…元来日本人は草食である、然るに南方の草木は全て…即ち之食料なのである。」 | _(_ ( ゚ω゚ ) |
"I tell you, as officers, that you will not eat, sleep, smoke, sit down, or lie down until your soldiers have had a chance to do these things. If you do not, I will break you in front of your regiments!" |
マウントバッテンは 指揮下の空輸部隊がすでに輸送網を最大限に展開していて余裕がなかったため、スティウェルを無視して、「ヒマラヤ山脈」越え空輸任務の米空輸部隊所属の C-46 コマンド輸送機とダコタ輸送機30機を転用することを参謀本部に通告した。これらの輸送機は、 アラカンへの空輸を実施するために、反対する統合参謀本部を説得して一時借り受けていたものであったが、この時にはすでに戻されてしまっていた。このため、チャーチルの要請を受けた米軍参謀本部は、2月17日に再び輸送機の使用に同意したが、マウントバッテンは15日には輸送機を確保していた。彼のおかげで、スリムは戦闘に集中することができた。
日本軍のインパール侵攻の概要を予見するのは、難しいことではなかった。第4軍団司令官ジョフレー・スクーンズ中将は、日本軍の意図をかなり的確に知っていた。南西方面ではティディムから接近してトルブンでインパール平野に、南東方面ではタムとパレルから攻勢をとり、ディマプール〜インパール間の英軍補給道路を、おそらくコヒマで切断しようとするだろうというものだった。日本軍がインパールを包囲するのは、スリムとスクーンズにとっては好都合なのだ。英軍は外縁にある諸部隊を撤退させて、閉じこもる。日本軍には兵站戦の伸び切るところまで前進するのを許し、日を追って補給問題が悪化するように仕向けるというものだった。もし包囲されたら、第4軍団はアッサムの基地から空中補給を受けることにした。制空権は英軍にあり、日本軍は空中補給などできっこない。またチンドウィン川は航行可能で、鉄道でも水運でも補給物資を運べるが、そこからひとたび山地に入ると、補給は最も深刻な問題となるのだ。
第50インド・パラシュート旅団はサンジャック、ウクルル経由でインパールの北東に配備された。スリムが、日本軍は1個連隊でコヒマを攻撃するだろうぐらいに予想し、コヒマは202兵站地区からの部隊で”守備”させた。だがスリムは日本軍を甘く見ていた。
インド第20師団は大変な努力と徹底的な偵察をしてから、冬の数か月をかけて、タムとカボウ河谷地域の支配を完成している。師団長ダグラス・グレイシー将軍は、何か月もかけて苦労して勝ち取ったこの陣地を、ただインパール平野に集結するだけのために放棄せねばならないとスクーンズから指示されてひどく嘆いた。
インパール作戦 ティディム街道の戦い、三十三師団(弓師団)① シェナム〜パレル、山本支隊とインド20師団 ① 十五師団(祭師団)① サンジャック コヒマの戦い ① 十五師団(祭師団)② ビシェンプールの戦い、三十三師団(弓師団)② |
第17インド師団はインパールの南180キロのトンザンから、さらに南方60キロのティディムまでの間に配備されていた。トンザンの北方、道標174キロのところに、英軍はビルマ侵攻に備えて大きな集積所を作り、資材を集積していた。
三十三師団柳田師団長は3つの梯団を進め、3月7日に行動開始した。スリムやスクーンズは3月15日と計算していたため食い違いが判断を誤らせた。スクーンズの計画では師団はインパール平野に後退して、日本軍の兵站が伸びきったところを戦車と火砲でたたくというものだったが、情報は断片的で対応は遅く行動も遅れたため、柳田師団の見事な速攻に対応できなかったのである。日本軍の右梯団はトンザンの北の道標160キロ地点でインド17師団の北への移動を遮断しようとした。英軍が気づいたときにはすでに北方への道に日本軍が出現していた。窮地に陥った3月13日夜、第四軍団長スクーンズはインド23師団にティディム街道を下って17師団の撤退の援護をさせるようにし、インド17師団長コーワンに反転しインパールへの撤退を命じたが、日本軍はすでに数か所で道路を占拠しており、もはや手遅れになっていた。道標174㎞の集積所の部隊は、笹原の数個大隊を支えきれなかった。しかし日本軍も損害はそれなりに大きく、第九中隊の第一小隊は広瀬小隊長戦死のほか戦傷多く全滅の状態となり、第十中隊は石井少尉以下戦死20名、戦傷21名、機関銃中隊望月重満中隊長以下4名戦死した。
日本軍は3月16日軍需品集積所占領、敵の捕虜多数。軍需素材として自動車1200両、馬匹、弾薬、迫撃砲、糧秣、通信機材、衛生材料等莫大な戦果であった。
「集積所へ突入したがただこんなに、これほど膨大な物資の集積があるのには驚いてしまった。幕舎の数はおよそ数百棟に及び、肉類、乳製品、缶詰類の天幕だけでも20張りくらいあった。パンは製造窯の設備があり、小麦粉、服飾品類の倉庫、被服及び縫製工場、病院、兵器の格納庫が並んでいた。トラック、ジープは目の及ぶ限りというか千台以上を数え、25ガロン入りのガソリン缶の野積みが、幅25m、長さ200、の三段積みで6列もあり…ウイスキーからジン、ラム酒、ビールなどの倉庫に入っているもののあまりの量のおびただしさにただ腕をこまねくばかりであった。この一個師団を半年以上も養えるかと思えるほどの物資をいかに確保すべきか、思案の末、連隊本部と相談の結果、自動車班を編成して各中隊ごとモテるだけのもとを、夜の明けきらぬうちにまとめさせるように指示した。」
1987年東京、赤坂。平和の時代に、かつての仇敵同士(磯部卓夫氏とルイ・アレン教授)が親睦の宴会を開いていた。
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かくもお互いの真の情勢はわからないものなのだ。ともあれ日本軍三十三師団のインド17師団撃滅計画は合理的で、以前から有効であった日本式包囲戦法を踏襲し、もう少しで成功するところまできた。
しかしこのころから万事うまく行かなくなり始めるのである。インド17師団は2年前にビルマで惨敗した時とは変化しており、コーワンの兵たちは空中補給を受けた。アラカンで英軍はマレーや初期のビルマ式の行動、すなわち包囲されれば下がり、遮断された退路を強行突破する方式はもうやめた。代わりにどんな場所でも踏みとどまって戦った。食料も弾薬も空から投下され、もはや道路にこだわる必要がなくなったからである。
インド17師団は北上し集積所に迫り、トンザン付近の日本軍中突進隊の包囲をトイトム付近で突破した。3月21日、インド17師団は、怒涛のように北進し、戦闘爆撃機の支援を得て日本軍第三大隊正面に強圧を加えてきた。日本航空機は反撃せず、後で一機がほんの短時間戦場上空に姿を現しただけで、それきりだった。23日英軍の攻撃は輸送機の夜空中補給を受けつつ、ますます苛烈の度を加え、日本軍の損害は激増した。英軍は迂回して大隊の左側背からも攻撃してきた。第12中隊は33名が戦死し玉砕、大隊長は陣地保持をすることは至難と判断し、進出時の陣地に後退した。大隊の戦力は三分の一に激減していた。さらに3月23日笹原連隊長が頼りとしていた入江中佐が、突如スピットファイアに襲われ戦死したのである。
入江大隊長は現在の戦況にかんがみ、昼間攻撃はいたずらに損害多く成功の公算少なしと判断、山砲中隊の到着を待ち、山砲によって敵陣地を破壊した後、白兵突撃によって戦勢を一挙に挽回しようと決心した。大隊長はようやく到着した二階堂山砲中隊長を含め、各中隊長に敵陣地をさして夜襲命令を下達した後、敵情偵察中、突然襲ってきた敵スピットファイア六機編隊の地上掃射を受け、20㍉機関砲弾が胸部を貫通し、壮絶な戦死を遂げた。笹原連隊長は入江大隊長の戦死が、戦況の困難さと将兵の指揮に大いに影響すると判断し、夜襲の中止を命じた。
24日敵は陣地に猛砲撃を加えた。25日敵の猛攻に損害多く、ついにインパール道を開放した。集積所は25日英軍が日本軍から奪回した。日本軍が慌てて退去した証拠として、ベッドが作られていなかったこと、ジンの瓶が散乱していたこと、そしてインド人の捕虜二人の裸でつるされた遺体が発見された。銃剣術の訓練に使われたもので、これはインド兵たちを激高させた。インド17師団は北方の日本軍に砲兵総力による攻撃を実施、第3グルカ連隊第1大隊が山頂陣地に突撃した。日本軍の大隊の半数が殺されていた。
二百二百十五連隊笹原連隊長は入江の死に打撃を受けた。連隊は北方にインド23師団、南方から強力なインド17師団に挟まれ、全滅の危機に瀕し、25日午後第三大隊長による「玉砕覚悟」電報を受けるに及び、笹原連隊長は熟考の据え、師団に対し戦況を報告するとともに「連隊は暗号所を償却する準備を完了、全員玉砕覚悟で任務に邁進す」と打電した。笹原連隊長から玉砕覚悟の電報を受領した柳田師団長は、左突進隊が全滅の危機に陥っていると判断し、直ちに同隊に対し退路を開放して、シンゲル以西に撤退するよう命令した。笹原連隊はついに攻囲を解いて、3月26日インド17師団は川を渡り終わって北方のインパールに逃れ、川の橋を爆破した。26日未明から27早朝まで、敵は車輪、砲車等を重ねて陸続としてインパール方向に後退していった。その砲身を山上から望みながら、満身創痍の連隊はいかんともする力はなく、ただこれを見送ったのである。
柳田師団長はまた自ら電文を作成して意見を牟田口軍司令官に具申した。
柳田師団長「インパール平地への突進を中止し、現在占領しある地域を確保して防御態勢を強化すべき」。
暗に作戦中止をほのめかす柳田電であったが、師団長は最初からインパール作戦は、無謀と考えていた。
「師団長自ら退路を解放させて、好機を逸したうえ意見電までよこすとは、このような戦意の無い師団長ではいくさはできぬ。やる気がないのか、軍法会議だ!」 |
牟田口中将は、顔面紅潮させて痛罵した。牟田口廉也司令官は怒り狂って藤原岩市参謀に柳田に急速前進させるように圧力をかけた。柳田師団長は英軍が潰走したのではなく、余力を持って撤退したことを鑑み、十五軍の牟田口司令官に
柳田師団長「一挙にインパールに進撃するなど問題だ。敵は明らかに準備ができている。十分な弾薬と食料の補給、並びに適切な偵察をせずにやみくもに前進するのは狂気の沙汰である」
と応酬した。戦後英第14軍司令官スリムの回想録でわかったことだが、第4軍団はインパール平地へ自主的に後退し戦力を結集して、決戦を挑むという計画であった。
当時の日本軍には戦略的撤退という懐の深い発想はなく、インド第17師団の撤退を敗退による退却、すなわち日本軍の勝利と考えたのは当然である。直面する師団はともかく、遠くメイミョウにある軍ではことにそうである。敵が退却しているのになぜ急追しないかということになる。しかし第一線の将兵にとっては、今度の場合、敵に多大な損害を与えた感じもなければ、勝ったという勝利感もない。もちろん戦略的撤退などとは知る由もない。戦死、入江中佐以下将校22、下士官245、負傷者は少なく見積もってこの倍の五百数十名、合計800名に上る。笹原連隊は三個中隊を欠いていて推定兵員は約2500名、第一線大隊兵員は計1650名、したがって全体に対しては32%、第一線兵力に対しては50%の損害に当たる。戦術学で習ったところによれば、損害甚大であり、これが敵に与えた損害なら殲滅に当たる。特に将校の損害が多かったことが戦力に影響した。「攻撃機」スピットファイアの乱舞する戦場は、ビルマ戦初期とは全く様変わりしていたのである。
この損害を三十三師団のビルマ侵攻作戦の損害と比較してみよう。侵攻作戦3か月での戦死、将校12、下士官158計170名、中隊長の戦士1名の損害で、ビルマの首都ラングーンをはじめ中北部ビルマを制圧した。シンゲルではわずか1週間の戦闘で、実質1.6倍以上の損害を出したのである。なおインパール作戦で共通しているのは、緒戦における甚大な損害の発生であって、二百十五連隊のほか、第十五師団ではカメン及びカングラトンビで、それぞれ一瞬の間に中隊長3名を含む計146名の戦死者を、第三十一師団では第五十八連隊がサンジャックで中隊長2名の戦死を含む約500の死傷者を出している。近代的新戦法に対する旧戦法敗北の証左である。第一線にはまだ第二次アキャブ作戦の戦訓は伝わっていないにしても、この損害によって素早く現状を把握し軍司令官に具申した柳田師団長等の意見を真剣に検討して対策を立て実行すべきであった。
英軍は日本軍の戦法を真剣に研究し新戦法を採用して種々の改善を図った。第一に日本軍の夜襲による白兵突撃を封ずるため、優勢な火力を準備するほか、照明弾による白昼化、ピアノ線鉄条網の活用、自動小銃を採用する等、第二に所謂ハチの巣陣地の構築、戦車戦法の改善等、第三に制空権の確保による補給、地上軍攻撃のほか日本軍の補給の妨害等、第四位に優勢なる火力を伴う歩戦砲飛の協同立体戦法を実施したことである。これらはすでにシンゼイワで経験済みのはずであった。そしてまたシンゲルで痛い思いをしたのである。包囲についても制空権を持ち、敵の補給路をここで遮断しない限り、ほとんど無価値であり、かえって兵力分散と補給困難によって不利となる。
英第4軍団をインパール平地に後退させ、日本軍の兵站戦が伸びきった時期と場所で自主的に決戦を求めるという英印軍の第二の罠にもまんまと引っかかってしまったのである。英印軍にとってもこれはかなりの冒険であった。日本軍の目標がインパールからアッサム州にあるとは判断しているものの、予定の日時に来ないこともあるし、途中でやめて引き返すことだってありうる。過早に撤退すれば、その意図を見破られることもある。せっかく進撃した土地をみすみす日本軍に手渡すことにもなりかねない。要するに釣りの要領で、テクニックとタイミングが重要である。あまり早く引いては、魚は食いつかないが、遅すぎては食われてしまう。英印軍がこんな手の込んだ、懐の深い戦略をとっているとは「日本軍は、この英軍の計画を知るすべもなく、第15軍の各師団は、一路インパールへと突進することになった」(陸戦史集)。これはシンゲルでも、サンジャックでも同様であった。上手いこと魚が喰いついたのである。一時は餌をとられそうになったが、それにしても牟田口中将だから食いついたのであるが、柳田中将の意見が容れられていれば英印軍の戦略は失敗に終わるところだった。
第一大隊は28日、シンゲルを出発し、インパール街道沿いに北進。第十二中隊長代理上平中尉以下の遺体は、英印軍により毛布に包まれ丁重に埋葬してあり、戦友一同を感激させた。
三十三師団は戦死400、負傷800の大きな損害を受けており将兵は疲れ切っていた。だが実はインド17師団も1200(うち戦死400といわれる)と奇しくも日本軍と同数の大損害を被っていた。英軍は全線にわたって反応が鈍かった。しかし4月4日にはやっと避難所に逃げ込み、補給は航空機から投下され、負傷者は後送された。士気は高かった。傷口をなめながら、次期作戦の準備をしていた。この山岳地形は日本軍に有利だったが、この後日本軍はインパール盆地におびき寄せられ、今後の戦いは損害が極めて非対称なものに陥っていく。
ビルマ方面軍はインパール作戦に必要な軍需品の前送に努力した。弾薬は重点方面約半会戦分、非重点方面約4分の1会戦分(一会戦分は一門当たり連隊砲1000発、野山砲1500発、野重1000発)を、糧秣燃料は約3か月分を前送し、弾薬、糧秣の残りをラングーンに、燃料をラングーン及びエナンジョンに保有した。全保有量は一会戦分に過ぎないし、昭和19年後半以降は海上補給ができなくなったので、これで方面軍は細々とした泰緬鉄道の輸送量を別として自活していかなければならなかったのである。無視できないのは敵機の爆撃による損失であって、カレワで30%、インドウで80%、ウントウで50%等、莫大な量が焼失した。
敵がほとんど確実に制空権を握ったのは、昭和18年の雨期明けごろとみられるが、連合軍は、わが飛行第五師団のインパールへの攻撃がほとんどなくなった19年2月から3月にかけて、制空権を獲得したと手堅く考えていた。英戦術空軍は雨天を冒して、絶えず第一線に近く推進された飛行場より飛来し、わが補給、後方連絡線を妨害した。
昼も近いと思われる頃、キーンという金属音がしたと思うと、敵機が森の梢を鳴らして飛び去った。続いて一機また一機と、都合四機のスピットファイアが頭上に出現し、編隊を解いた。これに発見されたら完了である。攻撃目標でもとらえたのだろうと思った次の瞬間、機銃掃射の音がけたたましく響いた。…スピットファイアは、機銃照射と爆撃を交互に反復し、一兵といえども容赦はしなかった。…ビルマ入りをして任地に向かう際、兵站宿舎で銃数日を過ごしたことがあり、そこでたまたま敵の戦闘機の来襲を受けたが、我々は小銃や軽機を手にして戸外に飛び出し、盾木の遮蔽物を盾にして敢然と立ち向かったものである。これを目撃した師団のヤマキ参謀が「工兵連隊の攻撃精神こそ軍人の亀艦」と激賞したことがあったが、これなど中国戦線の経験では、敵機と遭遇しなかったため、その恐ろしさなど全然知らない蛮勇で、蟷螂之斧というべきだった。飛行機がどれほど威力があり、恐ろしいものであるかということを、間もなくいやというほど思い知らされたのだった。
作戦開始前から「街道荒らし」はあったが、地の利を得て好転、困難な地形を克服して大活躍した。我々は全く困らされ、憎らしい敵であったが、今となってはこの英第221飛行部隊の活躍は、戦略空輸団の活躍とともに称賛に値する。彼らは困難を冒して雨天でも飛び続けたのだった。連合軍は日本空軍の何らの妨害を受けることなく、後方補給、攻撃、防御等ができた。この格差は言葉で言い表せないほど大きかったのである。昭和18年11月から6か月間に、英空軍は延べ8万機を出動させたのに対し、日本側は延べ2700機以上を出撃させたに過ぎなかった。滞空時間を考慮に入れれば、百対ゼロの実態であった。
インパール作戦 ティディム街道の戦い、三十三師団(弓師団)① シェナム〜パレル、山本支隊とインド20師団 ① 十五師団(祭師団)① サンジャック コヒマの戦い ① 十五師団(祭師団)② ビシェンプールの戦い、三十三師団(弓師団)② |
三十三師団の最右翼の縦隊は、山本支隊といわれ、ダグラス・グレイシー少将の第20インド師団とタム〜パレル間で対峙した。このタム・モーレ〜パレル経由の道は、チンドウィン川からインパールに至る自動車通行可能な最短距離であった。国境の向こう側タムからパレルまでわずか40㎞、パレルからインパールまで40㎞しかない。この道はビルマ侵攻のためにグレイシー師団が拡張していた。途中のタムから国境をまたいで5㎞のモーレにはビルマ侵攻に備え、2個師団分の物資が集積されていた。3月15日日本軍の攻撃が始まり、インド20師団は後退しながら反撃した。20師団はインパール平野のパレルに撤退するのではなく、街道沿いに後退し途中の標高1500mのシェナム鞍部で日本軍を迎撃するものだった。この地域はいくつもの丘陵の集合体で、そこからはパレルを望見できる。
スクーンズからの撤退命令が届き、グレイシーは無念にも、3月31日モーレに集積した物資を処分し撤退した。その後モーレを占領した日本軍は山地に入り、丘陵群に待ち受ける英軍とたたかった。ここでは日本軍の戦車も投入されたが、英軍の対戦車砲やハリケーン爆撃機により打ち破られた。2か月間、日本軍は丘陵群を突破しようとし、そのいくつかの奪取に成功したり失敗したりした。英印軍も奪回したり失ったり。日本軍はデッドロックを打開しようと、北へ向かう道に沿って丘陵群を迂回しようとした。ジャングルの小径でパレルへ達しようとしたのである。4月末、インド国民軍を伴ってパレル飛行場にコマンドー式の攻撃を仕掛けた。
インパール作戦 ティディム街道の戦い、三十三師団(弓師団)① シェナム〜パレル、山本支隊とインド20師団 ① 十五師団(祭師団)① サンジャック コヒマの戦い ① 十五師団(祭師団)② ビシェンプールの戦い、三十三師団(弓師団)② |
山内師団長率いる十五師団は兵力が実質6個大隊と砲十八門とひどく劣勢だった。祭兵団のビルマ進出が遅れた理由として、イタリー戦線が崩壊し、日本に対する友好国の態度も著しく悪化し、タイ国もにわかに反日的となった。南方軍は治安維持のため、逐次到着する祭兵団の兵力を一時バンコクに拘置した。タイ国に残置された部隊は、歩兵第六十七連隊長柳沢寛次大佐指揮の第一大隊、第二大隊、それに野砲第二十一連隊、歩兵第五十一連隊第二大隊がタイ国駐屯警備司令官中村明人中将の指揮下に置かれた。タイを通過するとき、南方軍が十五師団を工兵労働に派遣し、北部タイのチェンマイとビルマのトングー間の道路建設に数か月を費やした。もちろんこれは有用な道路となったが、この部隊は到着が遅れて流用され師団の一個大隊は第二次ウィンゲート遠征隊の征伐のため駆り出された。3月15日作戦開始時は歩兵第六十七連隊や砲兵第二十一連隊及び師団輜重隊の大部分はまだタイにいる。中国で使っていた大砲は、山砲に切り替えられた。分解して部隊が搬送できるようにするためである。しかし対戦車砲はほとんど含まれていなかった。通常は9個大隊の所が6個大隊の不十分な兵力で攻勢に移った。この惨状にもかかわらず山内兵団は間もなくスクーンズの第四軍団に深刻な脅威を与え始めたのである。
第六十七連隊第三大隊の本多大尉指揮の二個中隊は右挺身隊となって3月24日ウクルルを通過、28日にはカンポピ(教会があるため日本軍はミッションと呼んだ)で鉄橋を爆破しインパール〜コヒマ道を切断した。この時この道路に到着すると1時間に120-30台のジープとトラックが、インパールに向かっていくのを観察した。その交通量の示す英軍の補給力に悄然とした。ここはインパールの37キロ北である。第十五師団の主力、尾本第五十一連隊と松村第六十連隊は北東からインパールに進出、3月末までに山内軍団は主要道路を遮断し、第四軍団司令部所在の「キープ(本丸)」をみおろす高地に遷移した。
インパール作戦 ティディム街道の戦い、三十三師団(弓師団)① シェナム〜パレル、山本支隊とインド20師団 ① 十五師団(祭師団)① サンジャック コヒマの戦い ① 十五師団(祭師団)② ビシェンプールの戦い、三十三師団(弓師団)② |
インパール平野から北東に出て、フミネやチンドウィン川に向かう山中の道路上にウクルルがあり、日本軍は東からインパール及びコヒマに進出するのに道路を絞扼する要衝ウクルルを奪取する必要があった。ウクルルの南13㎞にサンジャック集落があった。ウクルルを防御していたインド23師団49旅団をインド17師団のコーワンの救うため捻出したスクーンズは、その穴埋めのために兵力3000の第50インド空挺旅団を送った。旅団長は36歳のM.ホープ・トムソン准将。空挺旅団は3月14日到着しウクルルとサンジャックに陣どった。
3月18日より日本軍の攻撃が始まり、ウクルルで三十一師団第二大隊は英軍を敗走させた。その進撃に脅威を覚えたトムソン准将は3月20日ウクルルから撤退しサンジャックに部隊を後退させて集結させた。しかしトムソンの選択はあまり良いものでなかった。サンジャックの陣地に1850人と多くの騾馬を集結させたが、そこは掘るとわずか90㎝で岩盤にぶち当たる洞窟陣地が作れない敵の砲撃に弱い土地で、また水不足にも悩まされた。迫撃砲の直撃弾を受け、9m先の旅団本部に血と肉を振りまいた。砲兵陣地への日本軍の砲撃で二人の砲兵隊長が戦死した。日本軍の攻撃が終わるころには戦死傷者はすでに300人にも上っていた。
皇軍内でも名将の誉れの高い宮崎繁三郎少将は常々、部下の積極的な意見をなるべく生かすようにするのが統帥の要訣であり、結果については自ら責任を持つべきものと考えておられたという。してみると、少将はこの際の部下(長家大尉)の積極性を生かそうとしたこととー両人とも対英軍戦闘の経験はほとんどないー、機を失せず攻撃すれば攻略可能と考えて、攻撃を許可したのであろう。おそらくその精鋭をもってすれば、鎧袖一触、短時日で敵を撃破し、後顧の憂いを断ち、あわよくば喉から手が出るほど欲しい食料、兵器、弾薬等を、手に入れることができると、考えてたとしても不思議ではない。しかし状況は志と違って進展せず、容易ならざる事態となった。
3月22日長家大尉の率いる第三十一師団歩兵五十八連隊の第二十一大隊がウクルルからサンジャックに向かってきた。宮崎少将の命令による22日夜の中猛進隊の夜襲は失敗した。コヒマに直行せず進路を変えたのは、宮崎繁三郎のせいである。サンジャックは宮崎の作戦地域でなく、十五師団の作戦地域だった。第十五師団六十連隊第三大隊は翌23日にサンジャックに到着していたが、連隊長の松村は宮崎が方向を違えて、北からサンジャックを攻撃していたので驚いた。直ちに福島大隊長に連隊砲と野砲の支援を命じ、同時に内堀大隊に南から攻撃させた。第三十一師団歩兵五十八連隊第二十一大隊長の長家は砲兵の到着を待たずにサンジャックを攻撃したが、英軍の銃火に押し戻された。この日、今までと違う光景が出現した。輸送機がぶんぶんと音を立て、色とりどりの落下傘が空からふわりふわりと降りてきたのである。数百の落下傘が天に踊り、日本軍の手にも多数落ちた。日本軍の兵士はこれをチャーチル給与と称し、大はしゃぎでそれをいただいた。
昼頃のことである。私の機関銃の銃身にいきなりふわりと白いものが落ちてきた。敵人にのみ目を奪われていた私は、低空で飛来した敵輸送機ダグラスには全く気が付かなかったが、色とりどりのパラシュートが、渓をはさんだ西側の山腹斜面を悠々と落下しているではないか。彼我の第一線があまりにも接近しているため、その半数以上がわが方に落下して、兵たちは思わぬチャーチル給与の恩恵に浴して大喜びであった。さっそく陣内に引きずり込んで中身を確かめたことはもちろんで、茶色の麻袋の中には一斗缶が四戸、その一つずつにパン、ミルク、チョコレート、たばこ、缶詰、バター、それにブランデーまでぎっしりと入っていたのには驚き、かつ喜んだ。同じ兵という立場で命の奪い合いをしていながら、なんという違いであろう。それに引き換え自分たち日本兵の糧食は、三、四百年前の戦国時代の兵糧よろしく、岩塩に焼き米で、激しい塀の空腹を満たすには決して十分な量とは言えない。それでも誰一人として不服を口にするものはなかった。チョコレート、そしてバター…土低く這う硝煙の下、兵たちはそれをむさぼり、自分の全細胞が歓喜にわななくような感激のひと時を、その口中に味わった。
サンジャックはなかなか落ちなかった。3月24日宮崎は島ノ江少佐の第三大隊を追加し攻撃に参加させた。しかし同隊も英軍陣地の前で停滞した。日本軍も損害が大きかったが、英軍もへとへとだった。特に水不足が激しく、水を求めて乱闘が起きた。3月25日サンジャックの東から砲撃が届き始めた。それは宮崎の部隊ではなく、第十五師団第六十連隊配属の第二十一野砲連隊の山砲二門であり、東条中尉が指揮をしていた。松村は福島大隊長に攻撃の支援を命じたが、福島は長家のように闘牛みたいな猛進はせず、ゆっくりと用心深く前進し。丘の上にサンジャックが見える地点に到着し、東条の山砲がトムソンの塹壕を打ち砕くのを見守った。サンジャック東方約1500メートルの大地を占領した福島大隊配属の東条中尉が指揮する41式山砲二門は、ハチの巣陣地の敵銃眼破壊射撃を開始し、その一つ一つを的確につぶしていった。しかし26日丘から谷を越えサンジャックの陣地にようやく近づくと、英軍の猛射撃にくぎ付けにされた。松村連隊長は攻撃を24時間延期するように福島に命じる一方、第五十八連隊長福永大佐と連携すべきと決心した。27日未明に攻撃を開始した場合、サンジャックの丘の反対側にいる三十一師団と同士討ちとなる可能性があったためである。
彼は浅井中尉に連絡を取るように命令し、浅井はサンジャック北方高地に向かった。そこで宮崎歩兵団長に福島少佐の攻撃計画を伝えたが、宮崎に野戦電話の向こう側から怒号されて肝を冷やした。
宮崎繁三郎少将「どうしたというのだ!、武士の情けを知らんのか!。福永大佐は軍旗をサンジャックに持って行った。貴様は武士の情けとはどのようなことか知らないのか!。かえって松村大佐にそう言え。サンジャックをとったなら、松村にはほしいだけの戦利品をとらせてやる。もし午前六時までに取れないときは、第五十八連隊全滅の後引き継いで好きなようにやれ、武士の情け、武士の情け!」
宮崎の見解では、第五十八連隊が戦闘の矛先に立っているのだから、攻撃の全栄誉を第五十八連隊に持たせようとしたのである。宮崎の猛襲にたじろいだが、それでも浅井は五十八連隊のほかの将校から攻撃の詳細を確認し、朝四時に自分の連隊に戻った。松村連隊長も奇異に感じたが、計画通りに攻撃の実施を決め、午前四時半に行動を起こした。しかしサンジャックは空っぽだった。英軍は死者と瀕死の重症者を除いて、撤退していた。北(宮崎)、東(松村)、南(内堀)から包囲され攻め立てられ(内堀大隊は攻撃はしかけなかったが、退却するインド兵100名ほどを捕虜とした。結局、処置に困ってすべて射殺してしまった。)、疲れで倒れる寸前のホープ・トムソンは、小支隊を連れて旅団司令部を去り、インパールにつくと直ちに神経衰弱で入院を許された。戦後、宮崎は”松村の判断の誤り”と十五師団を厳しく非難した。しかし損得は単純ではなかった。
宮崎は知らなかったが、日本軍のコヒマ〜インパール道に対する企図をスクーンズは知ったのだ。攻撃第一波で第五十空挺旅団の周辺陣地から突撃してきた若い歩兵将校の一人が持っていた書類カバンに書き込みのある地図と計画書が入っていた。ホープ・トムソン司令部にはいくらか日本語を解するビルマ人がいて、この書類に重要性を判別するのに充分であった。危機を冒してもこれをスクーンズに届ける価値ありと決心したトムソンは、地図を複写し、一部を諜報部員に、もう一部を旅団の情報部員に渡し、全行程中につかまる危険を冒し、サンジャックから夜間の道を通って軍司令部に届けられた。この書類で明らかにスリムとスクーンズが牟田口のコヒマ計画を間違って推察していることが判明した。日本軍が丘陵を横切って、カンポピ(教会があるため日本軍はミッションと呼んだ)とカングラトンビでコヒマ〜インパール道を遮断させるために第十五師団を送ったことは、彼らの予見していたとおりである。しかし彼らはコヒマに進出するのは、一個連隊と想像していた。実際はそうではなく、第三十一師団全部だったのである。戦闘の初期の段階に、これはかけがえのない重要な情報源となった。
そして英軍は壊滅したとはいえ、日本軍は第五十八連隊第二、第三大隊の小中隊長の半数以上を失うほどの死傷者を出した。そして宮崎の厳密なタイムテーブルを一週間も狂わせたのである。この一週間は英軍にとって実に貴重だった。その間にかき集めた守備隊をコヒマに送りこめたからである。
英第14軍司令官スリムは、第50パラシュート旅団の功績を高く評価することにより、言外に日本軍の進出の遅れを指摘している。ルイ・アレン教授は遅れとともに幹部の損害により、壐後の攻撃力は半減したと述べている。ハリー・シーマンは明確にサンジャックの攻撃を誤りとしている。まずその損害の大きさであり、次いで戦術的に歩五十八はサンジャックに来るべきでなかったとしている。また宮崎将軍については、上司の命令から離れていると非難している。宮崎部隊はその戦歴経験から、英軍戦力を軽く見て、短期間に処理できると考えて攻撃したが、志と異なって英軍は手ごわくてこずった。その後は部隊の面目もあってつい深入りして傷を深くしたというのが、真相ではなかったろうか。
英公刊戦史「対日戦」は、「サンジャック周辺の第50パラシュート旅団の断固たる戦闘により、3月19日から26日に至る間、日本軍第十五師団主力及び第三十一師団の左縦隊の前進を阻止し、日本軍のインパール道遮断を遅らせたばかりでなく、第14軍の予備隊がインパールとコヒマの両方面で、展開するための貴重な時間の余裕を与えた」としてパラシュート旅団の健闘を称賛するとともに、第三十一師団の左縦隊の突進の遅れを歓迎の念をもって記しているように思われる。しかし当時の英統帥部は、第50パラシュート旅団長ホープ・サムソン准将の指揮に問題ありとして、英国に戻し少佐に降格し、その後の功績により連隊長にまで任命したが、再び准将に戻すことはなかった。しかし第14軍司令官スリム中将は、第50パラシュート旅団の功績を特に高く評価していた。すなわち1944年8月31日、インパール戦後、スリムは第50パラシュート旅団の役割を認め、
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スリム「第50パラシュート旅団は、優勢な敵の矢面に立ち、インパールの主兵に、堅固な守りのための貴重な時間を与えた。私は第50パラシュート旅団の将兵に感謝する」 |
と称賛の言葉を述べた。そして第4軍団司令官スクーンズを戦後更迭して、メサヴィーを昇格任命した。スクーンズと他の一人の軍団司令官は、スリムとともにナイト爵を授けられたが、スクーンズを除く他のふたりはのち昇進して中央の要職に着くことになる。このようにしてスリムはこの問題につき、無言の意思表示をしたといわれる。
第50パラシュート旅団に関する悪い噂は、サンジャックの戦闘の後に始まった。サンジャックでの激闘の後、第50パラ旅団はその任務遂行に失敗全滅し、生存者はいないと思われていた。人々は悲しみ、旅団を泥沼に放り込んだ者を憎んだ。しかしのちになって、旅団の評判がよくなると、その反動が起こった。例えばパラ旅団の生存者に対し「第50旅団にはまだ戦闘できるものがいる」と非難した。どうもこれは軍団司令部によって流された非難と思われた。なぜなら、その後インパールでは、第4軍司令官スクーンズ中将は、インド第23師団のこの戦闘に参加した三個の部隊、マハラッタ連隊と2つの砲兵隊を訪れ、この戦闘で果たした役割を称賛した。しかし第50パラシュート旅団には、彼の司令部の中に生存者がいるにもかかわらず、同様な賛辞を与えなかった。
インドの病院での噂では、旅団は戦闘をためらい失敗したこと、および敵前逃亡したと非難されていた。その噂はすぐにインド中に広まった。デリーでは噂は最高司令部の中にも広がった。この戦闘の真実を示す日本軍関係の戦闘記録はまだなかった。第4軍団でもこの噂に反論するものもなく、その五か月間に噂は確固としたものとなった。さらに悪いことには、戦史などでもそれが強調されていた。1944年の6月になって、この事件に関する日本軍から鹵獲した報告が披見され実情が分かった時、悪い噂は短期間には静まらないにしても、長い目で見ればいずれ収まるだろうと思われた。当然1944年2月から8月にいたる軍団報告を書いたのはスクーンズである。公刊戦史である英国のビルマ戦史、およびインドパキスタン戦史はスクーンズ報告に基づいて書かれている。また軍団司令官の報告は、どこの国の軍隊にもあるように上司たる軍司令官と、ロンドンの参謀本部に目が向けられていた。だから表面上は完全に事実であり、どの記録に対しても矛盾はない。しかもスクーンズは虚構の作戦命令まで作り上げていたといわれる。
ホープ・サムソン准将は第50パラシュート旅団を、この戦いを通して指揮していた。彼は3月26日の夕刻撤退の最後の命令を出し、第152大隊の二人の負傷した将校とともにサンジャックを出発した。ある夜彼は暗闇の中、丘の懐で足を踏み外し転倒した。重い脳震盪とみられた。サムソンの同行者が彼を運ぼうとするとそれを阻止し、インパールに急げと命令した。幸いにより大きなグループが来てインパールに運ばれ、ただちにインドの病院に飛行機で送られた。まったく偶然に、サムソンと同行した二人の負傷した将校の一人はマドラスの病院で准将と同じ病棟に入った。准将はすぐ元気になった。彼は当然旅団の損害が多かったことを悲しみ、失意の状態にあった。しかし頭脳は明晰であった。2週間ほどそこにいて、デリーから准将か少将の高級参謀が、サムソンを訪ね来た。その2,3日後サムソンは退院した。サムソンは英本国に送還され、そこでまだ現役できるにもかかわらず、わけのわからない理由で降格された。インパールに帰ったパラシュート旅団は、旅団長は陥落の際の精神障害で送還されたと伝えられた。しばらくの間はこれが信ぜられていたが、少し経つと皆はおかしいと思うようになり、やがて第50パラシュート旅団が、第4軍団の作戦の錯誤と怠慢の、スケープゴートにされたと悟るようになった。
これが第50パラシュート旅団長ホープ・サムソンに関するスケープゴート物語の概要である。洋の東西を問わず、戦況の不利な時に、上司によるこのようなスケープゴート事件が発生する。
インパール作戦 ティディム街道の戦い、三十三師団(弓師団)① シェナム〜パレル、山本支隊とインド20師団 ① 十五師団(祭師団)① サンジャック コヒマの戦い ① 十五師団(祭師団)② ビシェンプールの戦い、三十三師団(弓師団)② |
時間は遡り、3月15日作戦開始の日、佐藤幸徳第三十一師団長は司令部の将校たちを集合させた。
諸君。この機会に次のことをはっきり申し上げておく。奇跡は別として、諸君のだれもが、本作戦で生命を落とすかもしれない。敵弾のためだけではない。山の砦で、飢えて死ぬ覚悟をせよ |
後方補給を強く心配した佐藤師団長は、第15軍主任参謀の薄井少佐に対して念を押して約束させたうえで、3月15日予定通りにチンドウィン川を渡河、コヒマ方面に向けて進撃を開始した。
南方が名将宮崎繁三郎が率いる歩兵第五十八連隊でありこちらは整備された道路を侵攻した。中部と北部が第百二十四連隊と第百三十八連隊である。中北部の山岳地帯は険しく、進軍に時間がかかったが、3月28日ジェッサミに到着、ジェッサミとカラソムの英軍前哨陣地は、間もなく日本軍に席巻された。リチャーズは以前出されていた「最後の一兵まで戦え」の指令を取り消したが、ジェッサミには届き生存者は3月31日から4月1日の夜にかけて撤退した。カラソムには撤退命令が届かなかった。ヤング大尉は部下全員をコヒマに送って一人で戦い、戦死した。東方からの百二十四連隊と百三十八連隊はコヒマに進軍した。ちなみにこの歩兵百二十四連隊は「菊」部隊の異名をとり、ガダルカナルの戦いにてさんざんに敗北し、その後インパール作戦にも参加した悲運の部隊である。一方南方からの五十八連隊はサンジャックへの寄り道で1週ほど遅れていたが、道路事情がこちらの方がこちらの方がよく、北中部より1日早くコヒマに迫った。
コヒマは峰々と尾根の波の中に位置し、乗馬道が交差している。その重要性は峠の頂上だということにある。西は3000mに達する険しい山塊がそびえ、北と東への2400m近い山脈が連なっている。この峠がアッサム・マニプールと、ビルマ間の最善のルートなのだ。ディマプール―インパール道路がコヒマを通過しており、コヒマを制する者はこの道路を制したのである。コヒマは福祉のために貢献しナガ部落民に大いに愛されたチャールズ・ポーゼイ副弁務官の平和時の本部で、そのバンガローにはテニスコートがあって、主要道路の屈折点だった。北東に土着のナガ集落が、バンガローの南には補給物資の詰まった倉庫や小屋のある一連の小さな丘が連なっていた。スリムもスクーンズも、コヒマに関しては計算違いをしていた。ここからチンドウィン川の間は、高いジャングルの尾根が果てしなく続くのだ。せいぜい一個連隊を送る程度だろうと判断していた、しかし牟田口中将は見事英軍の裏をかき、一個師団まるごとを送ってきたのである。
スリムは緊急時になされた異例の措置として、第33軍団を新しく創設し、モンタギュー・ストップフォード中将を指揮官につけた。旗下にインド第5師団の一部に続いて第7インド師団をアラカンから空輸し、当時インド各地のジャングル兵舎に分散して訓練していた正規部隊のイギリス第2師団を配属することになった。これはM3リー戦車など含め欧州水準の装備をした恐るべき兵力だった。ディマプールの防備が急速に進む一方で、コヒマは後回しにされた。
リチャーズ大佐が3月29日到着してみると、コヒマは混乱状態にあった。ウエストヨークシャー部隊が第5師団から送り込まれたが、たちまちどこか別のところに送られた。ロイヤル・ウエストケント連隊第4大隊は到着するや否や、ディマプールに送られた。
スリムはストップフォードにディマプール防衛が第一優先だと指示していた。ディマプールには長さ18キロ、幅1.6キロの巨大な集積場があり、これを失うと連合軍のビルマへのどんな攻勢もダメになってしまうだろう。スリムとしては、コヒマは陥落してもディマプールが守れれば良しとしていた。しかしディマプールに守備隊を引き抜かれたコヒマ守備部隊は、自分たちは見捨てられたのだと考えスリムを批判したし、ポーゼイ副弁務官は「軍がナガの住民を日本軍のなすがままに任せようとしているのだ!」と憤慨した。
幸いにも4月5日にロイヤル・ウエストケント大隊は防備が進み比較的楽なディマプールから前線のコヒマに送り返された。
4月3日の夜のうちに、南方から日本軍の前衛(五十八連隊第三大隊十一中隊)が、壮大な260キロの果てしない尾根を踏破し、ナガ集落のはずれに到着した。4月4日朝リチャーズの部下が備えを固めた。その夜歩兵五十八連隊第一大隊が南方マオからやってきて攻撃を始めた。4月6日東方から第百三十八連隊第一大隊がコヒマに入った。日本軍の南と東からコヒマの包囲が始まった。コヒマ突入の報告は、第十五軍や方面軍を喜ばせ、いち早く大本営発表となった。ここにインパール道は遮断され、英第14軍の大部分は空路を除いて、このインパール谷地の中に世界から隔絶されてしまったのである。
予想よりも早くコヒマ突入の報告を受けた牟田口軍司令官は狂喜乱舞、大本営もまた喜びに満たされ、日本国内では久しぶりの明るいニュースが流された。デリーへの進撃の放送が、東京で始まった。大本営はこのコヒマ突入を「コヒマ占領」と大大的に宣伝する。
間もなく、「烈」兵団のコヒマ突入が報じられた。コヒマは、インパール北方に位置する要衝で、地形的にはインパールの喉首、これを第一に陥落させたことは「インパール陥落は、もはや時間の問題」という考えを、だれかれの別なしに固めさせた。
が、事実は旧コヒマ部落の占領にとどまり、部落南西に高地には有力な敵があり、この高地を奪取しない限りコヒマを攻略したとは言えなかった。第十五軍の牟田口司令官もコヒマ占領と誤解したままさっそく第三十三師団に対してコヒマ西方にあるディマプールへ進撃するように命じた。牟田口軍司令官の悲願だったインドへの本格進攻が、いよいよディマプール進撃命令という形で現われたのである。ただしディマプール進軍は作戦命令として「ウ号」作戦に含まれていない。この命令はビルマ方面軍の河辺司令官により取り消された。この時、ディマプールへ進撃したとすれば、進撃に成功していた可能性が後言及されることがあるが、当時サンジャック寄り道で早くも作戦文書が英軍に渡ったことにより、ディマプールの防備はインド5師団や英2師団により既に固められており不可能である。ディマプール進撃の成功の可能性が論じられるのはサンジャック暴走がなかった前提で、その場合でも、史実通りの兵力のコヒマ守備隊がいるわけで、簡単ではない。
ロイヤル・ウエストケント大隊は、日本軍がコヒマ突入したまさに同じ日の4月5日コヒマに入り、守備に就いた。2週間もの地獄の攻城戦が始まった。この英軍が実は強かったのだ。日本軍は一寸刻みに峯を上り、激闘して陣地をひとつづつ奪った。撃退されても必ず再攻撃に出た。日本軍はコヒマを取り囲んでいた。英軍コヒマ守備隊は2500人いたが、うち1000人は非戦闘員であった。対峙する日本軍は英軍の目論見をはるかに上回る第三十一師団二個連隊6000人だった。激烈で容赦ない白兵戦、疲れ果てた兵隊たちは擦り切れて不潔で、その肺は戦場の内外に散らばる死体の有害なにおいから逃れられない。
4月6-7日の夜、日本兵は「牛」と「馬」の丘の間のパン工場に潜み込んだ。窓のないパン工場に潜んだ日本兵の機関銃により攻撃側はくぎ付けにされた。ウェストケント隊の19歳の若者ハーマン兵長はブレン機関銃の支援の下に壕から出て歩き、パン工場に手榴弾を二個投げ込んだ。壁の死角に踊りこんだ機銃手の一人を倒し、機関銃を両肩に担いで帰ってきた。ハーマンの勇気で鼓舞された分隊員は突入した。
総攻撃をかけても頑張っている建物が一つあった。ハーマンが入って10基の炉を数えていたら、銃弾が彼をかすめた。彼は戻って手榴弾ケースを引きずってきた。全部の炉を一つ一つ回り、四秒で破裂する手榴弾を線を引いてから三秒数えて投げ込んでいった。そして負傷した日本兵二人を両わきに抱えて分隊に戻った。パン工場陣地はもう地獄だった。燃える小屋から日本軍にとらえられていたインド兵や日本兵が命からがら逃げだしたが、英軍の後備小隊に狙い撃ちにされた。ウエストケント隊の攻撃が終わった時、日本兵の死体は四十四を数えた。ハーマンは死後ヴィクトリア十字章を授けられた。
だが英軍は空中補給で持ちこたえていた。しかし英軍は動けなかった。空中投下で補給され、飲み水さえそれに頼った。しかも待ちわびたパラシュートが、日本軍陣地に落ちていくのを絶望の目で冒険した。日本軍からすべて見通しだから、残された小火砲も使えない。
日本軍はジャングルを迂回し、コヒマ〜ディマプール道も遮断し、コヒマ包囲網を作り上げた。コヒマ包囲網ができると英軍は負傷兵も避難できず、極度の疲労状態だった。ディマプール駅からわずか五十八キロのズブサで日本軍第百三十八連隊の一部がコヒマに向かう道路を遮断し、補給が滞っていた。
4月9日の深夜、返上靴を地下足袋に履き替えた私(斎藤軍曹)と鈴木兵長はそして警護兵がいないのを確認してから、私たちは静かに軍公路に入った。なんという立派なアスファルト道であることか。道幅は優に十メートルはあろう。これが敵の補給路なのだ。そこにあった橋は鉄橋も鉄橋、それも左右二条にかけられたとてつもなく頑丈なものだった。夜があけ放たれるや、たちまち軍公路で車の音が聞こえだした。私と鈴木兵長の二人は、どの程度の車両が通るか偵察をしようと、道路上を見張った。優に十メートルはあろうかという道幅の軍公路に、敵の車がひしめき合って往来をしているのだ。中でも目立つのは、赤十字のマークを付けた中型車。しきりとディマプールの方向に走り去るのは、コヒマの戦場で傷ついた兵士を後送しているのであろう。(斎藤 政治「烈兵団」インパール戦記)
4月9日より始まった日本軍の猛攻により次々と丘は落とされた。4月13日ガソリン高地(イヌ高地)の東のテニスコートに日本軍の大砲と迫撃砲攻撃が行われたが、ロイヤル・ウエストケント連隊は耐えていた。だが4月15日までに日本軍の浸食と砲撃で守備隊はさらに狭い地域に閉じ込められた。そして17日の深夜の日本軍の猛攻により、ついにテニスコートは陥落、副弁務官舎のある丘も占領され、ガソリン高地が残されるのみとなった。しかしこの三差路を望む最重要の高地は、英軍はついに守り通すことになる。イギリス第2師団のディマプール到着により、コヒマに増援が送られ、4月14日道路の封鎖が解かれた。
4月14日わが陣営地の近く、激しい銃砲性が聞こえたのは、当時歩兵百三十八連隊に配属されたわが工兵隊の成原分隊が、ズブザの敵陣地の攻撃に決死隊として参加し敵味方入り乱れての至近戦闘となり、お互いに手榴弾を投げ合いを演じたものと、のちになってわかった。
日本軍はディマプールからコヒマへの補給を再度遮断するため英軍の補給部隊を急襲し工兵隊は橋の爆破を試みたが、スリムは補給部隊も戦闘訓練しており、英軍に蹴散らされてしまった。
ズブザ橋梁は鉄橋で、携行した爆薬では爆破が不可能なことを説明した。折り返し「工兵隊は即時ズブザ橋梁を爆破すべし」との命令が下達された。橋梁上ではエンジン音がしきりと聞こえる。はてな、と思った次の瞬間、敵の戦車砲が火を噴いた。橋梁爆破を察知し、敵の戦車が先回りしていたのだ。戦況と戦死者、戦傷者の報告をして、中隊長から「大変だったろうな、よく健闘してくれた」といたわりの言葉をかけられ、ほっとしたところを、中隊指揮班の壕の近くで呼び止められた「おい、成原伍長、お前は分隊員を六名も戦死させ、自分が負傷をしたからとはいえ、戦死者の遺体を一つも収容しないでおめおめとかえってこられたもんだな」冷徹極まるK曹長の言葉だった。
コヒマへの地上補給が再開され、4月18日、ついに救援がくる日となった。
イギリス第2師団ダラム軽歩兵第二大隊は18日高地に陣取った。宮崎は攻撃目標として目を向け、夜襲の猛攻を仕掛けてきた。
ロームは突然、喚声と甲高い叫び声を聞いた。ブレン機関銃が周辺で発射しだす。すべてのものが一斉に音を立て始めたみたいだ。日本兵は「万歳!」と叫び、軽機関銃がバリバリ、手榴弾が炸裂する。炎の燃える煙の中を狂気のように突進する人影。一緒の穴に潜り込んでいた軍曹とロームは、這い出して小隊を集合させ中隊本部へ向かった。18メートルほど行ったら、軍曹は呻きながらぐったりした。死んだ。ロームはさらに進んだ。日本兵の一部がダラム軽歩兵の陣地になだれ込み、さらに数が増しているのは明らかだ。無線機はほとんど全滅し、電話線は砲撃で切断された支配族の砲兵将校も死んだ。午前4時ごろには反撃の位置についた。ロームの副官ロックハートは、ロームのそばに伏せているところを自動火器の集中射で殺された。ある歩兵は胃を打たれて苦しみ絶叫したし、ある将校当番兵は両足を砕かれて大声を上げた。ワージー兵長は「ローム殿、私を連れて行ってください、盲目になった」と小隊長に叫び求めた。ロームは彼を引きずり戻したが、ローム自身に弾が当たった。腕がぶらぶら垂れて使い物にならず、感覚を失った。彼は折れた腕をつるした。戦いの合間にロームはストックと休暇について話し合った。五分後にストックは死んでいた。大隊長はA中隊の一個小隊を中隊長ショーン・ケリー大尉の指揮で、失地回復のため送り込むことを決めた。ケリーとその部下は着剣して、日英戦死者の死体の山を越えて匍匐前進した。次の小隊は小隊長は殺され、一個分隊が全部「サル高地」からの日本軍の火力で消滅した。
夜が明けると、広い前方傾斜地にいるダラム軽歩兵は日本軍から丸見えとなり、機関銃の掃射を浴びた。ブレン機関銃の反撃はうまくいかなかった。ロームは日本兵の死体の後ろに頭を下げた。両目が見開き、彼をにらんでいた。A中隊の将校ピーター・ストックトンはグルカ刀を持ち、攻撃の先頭に立って日本軍の塹壕に突入しようとしたが、たちどころに殺され、日本兵が強すぎる証拠となってしまった。担架兵は野外で膝マづいて負傷者を応急手当てし、送り返してはまた出勤してきた。午前8時ごろ、あたりが静かになり、ロームがウォーターハウスに報告すると、休むように言われた。そのあとすぐ野戦病院に担ぎ込まれることになるのだが。
高価な夜だった。英軍第一線三個小隊の十五人の将校のうち残ったのは三人だけ。一夜でA中隊は136人が60人に激減した。戦闘後に一人の英軍将校が見つかった。彼は負傷して捕虜になった。日本兵は木に縛り付けて銃剣で刺殺した。慈悲はコヒマではいたって不足していた。
コヒマ奪還のストップフォード部隊は、数では日本軍を楽にしのいでいた。インド第5師団から第161旅団をもらって先遣したし、北方丘陵から旧ナガ集落に降りてきたのはインド第7師団でアラカンから空輸されてきた。さらに集落東方の丘陵の向こうには、ウィンゲート長距離挺身隊の一部、ベロウンの第23長距離挺身団があって、チンドウィン川へ通ずる補給交通路を妨害している。グローヴァー少将の英第2師団は、コヒマ山稜を襲ってインパール街道を解放する予定である。英軍は険しい尾根を上り、日本軍の背後に浸透して攻撃した。コヒマ北東のナガ集落はさらに北東から、南の丘陵地帯の日本軍は南西の丘からの英軍にも攻撃されることになった。
4月20日、守備隊は救出され、コヒマの籠城は終わった。英軍にとって地獄のような二週間は終わっていた、…が、戦闘はさらに二か月も続いて行われることになるのである。宮崎と歩兵第五十八連隊はコヒマの丘陵の大部分を抑えていて、粘り強く戦い、イギリス第2師団は掩蔽壕を一つ一つ、尾根を一つ一つこじ開けていかねばならなかった。
インパール作戦 ティディム街道の戦い、三十三師団(弓師団)① シェナム〜パレル、山本支隊とインド20師団 ① 十五師団(祭師団)① サンジャック コヒマの戦い ① 十五師団(祭師団)② ビシェンプールの戦い、三十三師団(弓師団)② |
祭師団は英軍のインパール主要道を遮断に成功した。ここで参謀長岡田中将と山内師団長との間で論争が起こった。師団長は東の3833高地(ヌンシグム)に目標を変換しようとしたのである。尾本五十一連隊が3833高地に向かい、松村六十連隊は北西カンポピ方面からセングマイ戦線を肩代わりすることになった。小兵力でもいいから、今総攻撃を変えれば、敵の包囲を破壊できるかもしれない。岡田参謀長は同意しない。英軍は敗走しているわけではない。師団長は同意しない、イギリス軍は弱い、敵は包囲され、脱出しようとしているのだ。山内が牟田口と同じ考えをするとは、岡田は耳を疑った。
4月4日、中西少尉の第十一中隊による日本軍のカメン攻撃は、英軍の反撃により失敗した。午前10時ごろ、丘の周辺に英軍の姿が見えなくなったかと思うと、戦車が出現して戦車砲と機関銃を打ち出した。中西は戦死、部隊は壊滅状態となった。以後、戦車がすべてを変えてしまう。スクーンズはアラカンから精鋭のインド第5師団が到着すると、インド23師団とともに第十五師団と対峙した。
日本軍はインパール北東わずか10キロのヌンシグム丘陵(3833高地)を攻撃、占領した。この丘陵は、軍隊の動作をすべて見下ろせる絶好の位置にあった。ここを占領すれば、英軍のインパール防衛中枢を脅かせる。キープ(本丸)の第4軍司令部は、そこからたった10キロ。燃料弾薬集積所やカンラ飛行場はもっと近い。インパール本道、カンポピ方面からも日本軍が迫ってきた。突撃隊が早くもカングラトンビ集落の兵站所を襲い、第九旅団の救援も間に合わなかった。インパール北西の浄水場も爆破されたが、幸い切り替えの利く予備施設があったので給水は支障なかった。日本軍はイギリス軍のインパール防衛中枢を脅かした。スクーンズは事態を直視した。緊急にこの地帯を確保しなければならない。
ヌンシグムには登頂するのに一時間かかる。4月7日ジャート隊60人による英軍の最初の攻撃は部隊の半分を失って日本軍に跳ね返された。ジャート隊は中隊を派遣、ハリケーン爆撃機を交えて攻撃し、占領したが、4月8日からの日本軍の攻撃、特に10日の75ミリ砲を加えた日本軍の攻撃により11日撤退し、日本軍は丘を維持した。英軍は大兵力による総攻撃を決断、歩兵はエヴァンズ旗下のドグラ第一大隊が受命した。大隊長はE・J・”ラグリ“ウッズ中佐で誇り高いクシャトリアである(日本の戦史家はグルカと混同している)。4月13日ヴィンジャンス急降下爆撃機、ハリケーン爆撃機24機を交えた英軍が総攻撃を加えた。戦車は斜面をローギアで、時速1600mで進む。不可能に思えた急角度の山頂を上り、戦車の出現を予期していなかった日本軍を驚かせた。戦車砲はこちらに砲門を開き、土砂がシャワーのように降り注いだ。あたりを見回すと、少し離れたところに腸を砕かれたり、頭を吹き飛ばされた戦友が転がっていた。戦車隊も砲塔から乗り出して外を観察しなければならないので、とても危険だった。西側斜面ではサンフォード少佐が撃たれ戦死、ハバード伍長も頭を撃ち抜かれた。五十一連隊長の尾本大佐は、敵戦車が3833高地に上ったと聞いても信じなかった。双眼鏡で観察していた、戦車が生きている日本兵を踏み砕く。「やられた、そうなんだ」双眼鏡を置くと、両眼から涙が流れていた。戦車が日本軍の援兵豪軍を粉砕し、ドグラ兵が手榴弾と探検で侵入して日本兵を殺戮した。
激戦となったが、英軍が頂上を占拠した。尾本大隊は3833高地からの撤退許可を求めた。だが岡田参謀長は容認せず、師団長にゆだねた。山内師団長は戦況が絶望的であることを理解し、撤退を許可した。日本軍は北方の丘陵に撤退した。日本軍の大部隊は、これ以上はインパールに近づけなかった。以後も数週間にわたり粘り強くインド第5師団、第20師団、第23師団と激戦を続けることになった。
情報班は4人の捕虜を連れていた。柿陣地でとらえたグルカ兵で、電話線で後ろ手に厳重に縛り上げていた。本部の指揮班では、この4名を殺すことに決めた。雨宮准尉が虐殺されたことへの報復だった。指揮班の山羽総長は本部の二名の初年兵に命じた。「貴様ら、この捕虜を銃剣で刺突してみい」捕虜の銃剣刺突は中国各地でしばしば行われた。山羽曹長はそれをやらせるつもりだったが、初年兵は黙ったまま答えなかった。「貴様ら、おじけづいたか」結局、情報班で始末することになった。捕虜は木の幹に電話線でしばりつけ、銃殺された。
インド第5師団第六梯団(サロモンズ)は、カンラトンビ南方3キロに布陣した。カンラトンビは物資集積所もあったが、セングマイより守りにくいところだったからである。彼らが4月10日街道を切断すると、すぐ山内部隊の歩兵が前哨を襲い始めたので、ほとんどが非戦闘員の平坦守備隊は南方に退避した。ところが出てくるところを味方空軍に誤爆されたので、混乱して蓄積資材の多くを放棄した。日本軍は街道の西側に展開した。山内はまっすぐインパールへ突っ込むよりも、シルチァアール道の切断を計画していたのだ。日本軍は街道東のマバオという高地も占領し、インパールまでわずか3キロのカンラ飛行場に脅威を与えた。だが山内の激減した兵力では到底与えられた任務は果たせない。
英軍はインド23師団(ロバーツ)を送り、カンラトンビからコヒマへ向かう。サロモン梯団は高地から日本軍を撃退する。ロバーツ兵団はこのままヤンガンポクピから迅速にリタンを突破できれば、ウクルルに達するだけでなく、カソムにあると正しく判断していた山内司令部をとらえられるかもしれない。ロバーツ兵団は山越えの難航軍で4月15日カソムに到着したが、山内は北のションベルに出発したというよりか連れていかれた。英軍はションベルに進撃したが、山内はまた彼らをまいてしまった。
そのころ第5インド師団のエヴァンズ第123旅団は、日本軍がカンラトンビ東方のマパオーモルボン間の産量沿いに構築した拠点に包囲網を敷きつつあった。日本軍がここに頑張る限り北へは進めないが、英軍はこの陣地を突破できない。5月中にパンジャブ第14連隊第3大隊が7回も攻撃しているのである。
インパール作戦 ティディム街道の戦い、三十三師団(弓師団)① シェナム〜パレル、山本支隊とインド20師団 ① 十五師団(祭師団)① サンジャック コヒマの戦い ① 十五師団(祭師団)② ビシェンプールの戦い、三十三師団(弓師団)② |
柳田三十三師団長は英軍をトルブンで撃破してから、ビシェンプール経由の道路に沿ってインパールに前進、平野の集落とビシェンプール西方高地の争奪戦が始まった。
24日夜半の攻撃は、15榴20発の援護射撃を申し込んだが、弾薬不足のため10発に減らされ、最終団合図に陣地突入するはずであったが、どうしたことかこの際榴弾が友軍右前に弾着破裂し、多数の死傷者が出たと記録されている。この戦場の制空権は全く敵にあり、常時敵の観測器(日本軍はトンボと呼んだ)は、低空を飛び砲兵の射撃を誘導していた。また敵の観測機に発見されることを恐れて、わが砲兵は昼間射撃が不可能だった。このことと弾薬不足が右の事故につながっているものと思われる。また低空低速で飛行するトンボに我慢できず、射撃を加えようものなら、猛烈な集中砲火爆撃のお返しを受けたものである。さらに弾薬不足も加わってだんだん対空射撃を行わなくなり、もっぱら遮断退避に専念するようになった。
「糧は敵による」と現地物資活用の軍の方針と、中国戦線以来わが軍の補給体制の貧弱なことを知り抜いている連隊は、インパール平地に顔を出すや否や、中馬高級主計、木原主計や高草木中尉らの糧秣収集隊の活躍により、かなりの量のモミを集めることができた。現地住民にとっては迷惑至極であり、農家出身の日本兵にとっては今でも胸が痛む思いがする。そして給与定量(ほぼ6合)は、進撃時の三分の二定量から二分の一に減り、5月には3分の1すなわち一日2合程度になった。副食はよくて塩干魚かジャングル野菜の味噌汁、たいていは粉味噌か塩を振りかけた炊きであった。
4月25日、午前11時ごろ珍しくわが友軍機(戦闘機3、軽爆6機)が、ビシェンプール上空に表れ敵陣地を爆撃した。ほんの数分の攻撃であって、たちまち帰還するというあわただしさであったが、これがインパール作戦間で見たただ一回の友軍機であった。しかもその軽爆二機が敵の高射砲によって、あっけなく目の前で撃墜されてしまったのである。敵機は常時在空し、激しい地上攻撃を執拗に繰り返していた。また輸送機がインパール基地へはもとより、第一線に対し赤、青、白のパラシュートで補給を続けているのと比較すると、わが軍の航空力百対一以下と考えられた。しかもこの時の数機の友軍機の飛来は29日の天長節を期しインパールを総攻撃する最後の詰めの、わがビシェンプール攻撃に協力する出動であった。
4月15日から5月7日まで、日本軍はいたるところで浸透し、英軍は日本軍の陣地に攻撃を仕掛けたが撃退された。しかし日本軍も英軍の陣地を攻略できずインパールへたどり着くことはできなかった。
元英兵「このような至近距離の激しい戦闘の間に、宣伝活動が効果を表すとはどうしても思われないのだが」 |
4月19日以降、森の高地に英印軍の放送戦車があらわれ、岡茂樹という日系のアメリカ人がカルカッタで編集した「軍人新聞」が日本軍陣地にばらまかれ、同時に拡声器で「佐渡おけさ」や「愛染かつら」等歌謡曲を流し、「勇敢な第三十三師団の戦士たちに砲撃がやんだら聞きなさい」と投降を呼び掛けた。またある時は「ただいまから砲撃を開始します。兵隊さんは豪の中、将校は豪の外に残ってください」といってから射撃が始まるという具合だった。
スクーンズはインド第23師団をインド17師団の救援に出したため予備兵力がなくなった。しかしマウントバッテンが輸送機を確保していた。歴戦のインド第5師団も、一部はコヒマにとられたがほとんどが空輸された。交戦地帯から43000人の非戦闘員を退去させ、戦闘中に13000の負傷兵を航空輸送し、同時に食料6300トン、400万リットルのガソリン、郵便1000袋以上、たばこを飛行機で運んだ。戦線は膠着状態になった。
概要 インパール作戦への道 インパール作戦 戦況の変化 インパール作戦(雨期) インパール作戦の結果 |
イギリス公式戦史は、4月19日をインパール戦の転換点としている。日本軍の攻勢は停止し、コヒマ守備隊は救出され、17師団は無事にインパール平野に撤退し終わった。英印軍の補給量は、日本軍から見れば贅沢極まるものに思えたが、彼らにとっては不足がちであり、節約を強いられていた。英印軍はほとんどで現地調達しなかったが、師団一日の補給量は500〜600トンに及んだと推察される。この量で所要量の約75%だったという
歴史上、戦争の展開が開戦前の予想通りであったことはほとんどない。戦場に想定外のことが起きるのは日常時である。しかしウィリアム・スリム司令官は素早い的確な対応により、危機を脱し将たる器を示した。さて今度は牟田口廉也司令官の番である。
メイミョーの町には第十五軍専属の翠明荘、青葉荘と呼ばれた二軒の料亭があった。そこは、数寄屋造りで、畳敷きの質にふすま、格子戸などをしつらえた豪勢な建物である。連日第十五軍が主催する宴席を開催した。毎夜、食卓にはマグロ、カツオの刺身、清酒などが出て食膳をにぎわした。その座敷へ、牟田口軍司令官と久野村参謀長、木下高級参謀、副官、他幕僚たちの抱え女、つまり芸者が厚化粧をして、あでやかな衣装を着こなし「さあ―おひとつ」と愛嬌を振りまいて将官に酒を汲む。幕僚たちは酔うほどに下手なお国自慢の歌が飛び出し、藤原岩市参謀などは十八番の上野駅からと、「九段の母」の歌を歌って日夜酒色にふけり、にぎやかにさわぎ立てたりしていた。重大な時期に、十五軍の乱脈ぶりを効かされて前線の勇士たちは憤慨した。久野村参謀長と下級将校等が、芸者を取り合いし、けんかしたとかいう噂をしばしば耳にして憤りを感じた。
戦況の変化 懸念と看破 英軍の戦略 雨期の航空戦 |
4月末インパール作戦の戦局の進展が容易ならざる兆候を示した時、方面軍の第十五軍への戦力増強は逐次転用であった。
①4月30日、第28軍から歩兵1個大隊ほか
②5月5日第三十三軍配属を解いた1個大隊
③5月14日第三十三軍より1個連隊
④アキャブ方面で作戦中の1個大隊復帰
⑤スマトラから1個連隊
ビルマ方面軍参謀、後勝少佐は4月19日前線で何が起こっているか見に行くべきと決心し、道を西に取った。敵航空機の活動が盛んになっていた。鷲が獲物を襲うように道路に食い下がり機関銃火でなぎ倒すのだった。車に戻って走らせ続け、夜半にカレワの東のチンドウィン川渡河点にたどり着いた。川幅は540m、松明の光の下で、小舟が軍需品を運んでいた。川を渡り、インダンギーの指令所に近づくにつれ、道路は悪くなっていった。第一線かららしい負傷者の列が果てしなく続く。インダンギーの第十五軍戦闘指令所では、久野村参謀長からはっきり状況を把握できた。英軍はアラカンから兵力を空輸して戦力を強化し、3個師団相当と多数の戦車を持っていると考えらえる。80-100の飛行機を使って、日に少なくとも100トンの補給を受けているはずと考えられる。これに対し第十五軍へは、日に10-15トンの補給という情けなさである。インパールへ突進するチャンスがあるのは第三十三師団しかないようなので、後参謀はそこを尋ねてみることとした。後少佐は書類を調べ、第十五軍と三つの師団との間の電文をすべて読んだ。それにつれ、ビルマ方面軍の知らない三個師団の苦境が全部わかってきた。4月28日ラングーンから電信が来た「羽田参謀次長がビルマ方面軍の状況視察のため4月30日来着の予定」。後は第三十三師団を見ることはあきらめ、ラングーンに戻ることとした。だが5月2日に後少佐がラングーンに到着した時、秦参謀次長は出発したところだった。後少佐は方面軍参謀に前線の苦境を述べ、遅くとも5月までに完結する必要があることを述べた。後少佐の報告を聞いたビルマ方面軍参謀は東京の大本営に電信を送った。
秦参謀次長は参謀の一人、杉田大佐を残して後少佐の報告を聞くよう手はずを整えてシンガポールに去った。インパールの成功は疑わしいとの確信を抱いて杉田はシンガポールに戻り、秦とともに5月11日に東京に帰任した。秦参謀次長は5月12日参謀本部にて東條英機に、同行した部下から「作戦は不成功と断じて間違いない」と報告してほしいと要請があったにもかかわらず、「インパール作戦が不成功に終わると断言は致しませんが、前途はきわめて困難であります」とかなり婉曲な言葉で東條に報告した。これに対して東條英機参謀総長は
「戦は最後までやってみなければわからぬ。そんな弱気でどうするか。君は未熟、未経験の一参謀の報告に基づいて、そんな結論を出したのだろう。」 |
との強気の態度を示した。憲兵を握る東條は、秦の情報源が杉田を通した後少佐とかいう臆病な若造ものだと明らかに知っていた。
現地の苦境を知った後でも、東條が作戦中止を命じなかった。中止の決定が遅れれば、 それだけ犠牲が増え続け、しかもビルマ防衛自体も危機的状況に瀕することになった。それを陸軍参謀総長の東條は放置してしまった。参謀総長となり、戦略策定に主導的役割を果たし得る立場になっても、東條は弱気を戒める「精神論」を語るのみであった。
この翌日、東條大将は天皇への上奏で現実を覆い隠した。
「現況においては辛うじて常続補給をなし得る情況。剛毅不屈万策を尽くして既定方針の貫徹に努力するを必要と存じます」(上奏文) |
インパール作戦の初期の成功は日本国内でも華々しく伝えられていた。ほかの戦場では、どんどん戦況が悪化していた。東條は、戦争指導の継続と政権維持を、インパール作戦の成功にかけつつあったのである。 東京放送は「インパールの包囲は完璧である。弾薬の欠乏により敵英軍の法制は弱まっている。最後の射撃によりインパールはおのずから陥落するものと思われる。第4軍団の命運は、補給と空軍の減少により決定されるであろう。」と伝えていた。
後参謀はそのあとでさえしばしば作戦中止を提言したが、だれも耳を傾けなかった。第十五軍「インパール作戦が失敗するなどと報告しそうな参謀は第十五軍によこさないでほしい」。
戦況の変化 懸念と看破 英軍の戦略 雨期の航空戦 |
敵のわが陣地に対する攻撃要領は、まず陣地偵察、歩兵の展開と砲兵射撃の援護の下で近接、特に迫撃砲をもって集中射を浴びせ、その射撃のさい集団に付設して突入して来る。敵はわが将兵がわずかでも陣地にいれば、それ以上突進せず、突入を断念し、元の位置に戻る。攻撃準備は慎重で、陣地破壊のための砲撃も弾薬も惜しまず丹念にやる。極めて慎重であり、無理をしない。
マウントバッテンは、就任直後「作戦地域に起こることは何でも十分に自分に知らせてほしいと主張した。彼は自ら戦線を訪問し、その新鮮な見解を示すことにより士気を鼓舞した。……そして彼は極東において前例がないほど軍の協同に成功した。彼はまた与えられた権限を最大限使って、戦場にある指揮官たちが勝利を得るために必要な兵器、資材、特に輸送機を与えられるよう努力した」(英公刊戦史)。その為マウントバッテンは必要があれば、第一線はもとより重慶へもカイロにも飛んだ。特に空輸がこの作戦の成否の分かれ目と考えて、空輸力の確保に当たっては、その権限を越えてまで努力した。それは1944年日本軍のインパール侵攻開始後の英師団の空輸の時のことであった。チャーチル英首相は彼を支持し、次のようにマウントバッテンに打電した(第二次大戦回顧録)。
「勝利のために貴官が必要とする物を一切戦闘から手放してはいけません。私は之について如何なる方面から、反対が起ろうとも受付けませんし、参謀本部と私とは貴官を全面的に支持します。」 |
このようにチャーチルは、戦闘以外に重大な問題はないとし、強力な支持をしたのだった。東南アジア戦域軍内の協同関係も、制度上の問題と本人の性格もあって、米国スティルウェル将軍との関係を除けば良好であった。
「五月半ばまでに、もともと不適当だった補給がうまくゆかず、雨期が到来し、しかも連合軍が全戦線で攻勢移転が強化される状況では、敗北は免れず、戦線を維持することも不可能であることが、はっきりしてきた筈である。増援兵力の来着も、戦線の維持もできる筈はなかった。それでもこの遅ればせの時においても、日本軍が近距離を退却して兵力を集結すれば、惨事を逃れることができた筈だった。」
5月中旬をめどとし、行動を開始すれば惨事は逃れえたであろうとしている。この時が最後のチャンスであった。6月に入ってはもう手遅れである。惨事に陥ることは決定的であり、人間の耐久力を超えて部隊を駆り立てることしかなかったのである。
ガダルカナル撤退の際の山本五十六大将のような指揮官はいなかった。山本大将は、今村大将の「奪還の大命を拝した身として撤退は議論の限りに非ず」としたのに対し、「俺一人が悪者になって主張してやろう」と決意して、率直に意見を大本営に具申したと伝えられている。
軍上層部の現状認識の甘さは、対英軍インド兵感も如実に示されていた。彼らはわが軍に対し、一応、抵抗の姿勢はとるが、マハトマ・ガンジー以来の宿願でもある祖国独立を願わぬインド兵は一人もいないはずで、必ず機を見てわが軍門に振るであろう。そしてチャンドラ・ボース旗下の即独立義勇軍に編入され、勇躍、第一線でその筒先を英手に向けるであろう、と。ところが、彼らは英軍将校の督戦下、日本軍歓迎どころか、火の玉になって抵抗してきた。最後の土壇場に来て初めて手を上げ、中にはひきつった笑いを浮かべて握手を求めるものもいたが、いきり立った戦闘員がその手を払いのけたのは、この際仕方ないことで得あろう。上空を飛び回るのはスピットファイアやダグラスのみで、二か月を超えるこの戦闘期間中、翼の日の丸を仰ぎ見たのは、ただ一度だけだったのだ。兵の損耗をできるだけ少なくして、敵がわの損害をできるだけ大にする…まさに英軍はこの常識に沿って、あらゆる兵器をあらゆる局面に惜しみなく投入し、兵一人の発見にも、スコールのような弾雨の集中を見舞った。直木賞作家藤井重夫は「悲風ビルマ戦線」で書く
「軍司令官は、戦略戦術を職業とする上級軍人として、成功しないことがわかりきっていたはずのインパール作戦に、強引に数万の兵を駆り立て、屍山血河を気づいた責任者として、日本軍三個兵団にとってこの作戦における第一の「敵」だった。第二の敵は雨と泥濘で退路を阻む瘴癘の密林だった。第三の敵が所謂敵英印軍だったのである」
戦況の変化 懸念と看破 英軍の戦略 雨期の航空戦 |
軍首脳が予想できず作戦失敗の最大原因の一つになった「空中補給により包囲された大兵団が戦力を保持しうる」という戦略判断、日露戦争以来日本軍が得意とした包囲攻撃も、空中補給による立体戦法に対しては何らの価値もない。
ビルマにおける制空権は、1943年末のスピットファイア3個中隊の到着により獲得され、その後、近接戦闘地域ではスピットファイアにより、遠距離の敵基地に対してはP51のような長距離戦闘機によって、戦争終結時まで保持された。英地上軍は空軍を高く評価した。
たとえ毎週1日でも日本空軍と立場を変えたなら、日本機は連合空軍を減衰させ、空中補給を制約し、英陸上軍は補給のため必要な道路の啓開を要求し、また密接支援がないため、ジャングル内の前進に伴う兵員の減耗に、耐えきれなかったであろう。
傷ついた日本空軍でも自軍の士気のために、インパールで地上軍を密接支援することと、その上空を飛び日の丸を見せることは、必要なことであった。日本軍は、包囲者であるが「日本の空軍はどこにいるのか?」追いうパンフレットの雨を降らされた。連隊旗手として活躍した磯部卓夫氏がが英戦闘機が乱舞する戦場で考えたことは、週1日でなく、たとえ毎日1時間であっても日本空軍に制空権があれば、前期と同様の結果を齊したであろうということであった。
1944年の初めから45年4月末までに、連合空軍が撃破した日本機の数は、500機に上ったと連合軍は発表している。連合空軍の犠牲は、時期によっては日本軍との戦闘よりも、冷酷な地形、気象条件によるものが大きかった。ビルマの雨期が起す障害は数限りなくあった。熱はタンク内の温度を高め、エンジンの出力を落とすし、風防ガラスをゆがめ、弾薬を自然発火爆発させた。またタイヤの空気圧を変化浅瀬、ガソリンを危険な状態にし、膨張のため鋲次目を緩めた。湿度と雨は金属を遠慮なく腐食させた。旋風は時に飛行機を仰向けにさえした。白アリがモスキートのような木製飛行機を、空中分解させたことがあるといわれる。さらに昆虫類、ネズミ、鳥などは、エンジンカバー内に巣をつくり、その性能を悪くした。
パイロットにとって最もぞっとする危険は、目標を厚く覆う何層もの雲であり、これを通過するかどうかは、リーダーの責任であった。森林におおわれた山系では、少し航法を誤っても往々にして死につながる。地図は信頼できず、時には峰の高さが間違っている。その大部分は未測量だからである。そこでパイロットは自分の知識経験と山の形で飛ぶ。しかし雨期になると、雲や霧が山の形を変えるので、雲を突き抜けて飛ぼうとして山に激突するか、または荒れ狂う雲により空中分解することがある。雨期が始まった直後、五機のハリケーンが空中戦を終わって帰還する途中、チン・ヒルで三万フィートにも上昇する積乱雲に遭遇したが、燃料不足で迂回することはできなかった。うち2機はひどい状態になって通過して帰還したが、他の3機は痕跡すら発見できなかった。またその少し後で、16機のスピットファイアが同様な雲に遭遇して、うち8機が生還したに過ぎなかった。
正確な戦略情報は二つの主な情報源から得られた。すなわち敵の占領地内部で活動する秘密部隊と、敵地の上空で活動する写真偵察部隊である。爆撃機部隊の成功は、写真資料に基づくものが多い。その重要さのゆえに、スピットファイア偵察機が43年11月優先的に配備された。東部空軍の写真偵察隊はワイズ空軍大佐が指揮し、スピットファイアのほか、モスキートやライトニングP38も含まれていた。英空軍はウェリントンから、より高速のB24を使用するに伴い、より正確な昼間爆撃に移行した。新式の英ゾーン爆弾は、投下後落下の方向を無線操縦でき、鉄道線路の破壊に効果があった。しかしこの交通網の破壊状態の維持は、コストが高くついた。ボーファイター中隊は18か月に75人のパイロットを死なせたか行方不明にした。その内最後に日本軍から帰ってきた3人を除く犠牲者は、中隊戦力の二倍に達した。
地上軍が日本軍の包囲の打開に努力している間に、雨期は最盛期が近づき、飛行機相は必然的に変化して言った。戦闘機は乱気流により翼がねじれたりしたが、他方日本戦闘機のダコタ狩りを避けることができた。雨期の最盛期でもインパール全般、北部ビルマ及び南部アラカンには空輸を続けなければならなかった。インパール飛行場を基地とする戦闘機と戦闘爆撃機中隊は、活発に輸送機の護衛に当たるとともに、補給の関係から薄暮には西方インドの基地に帰投し、翌日の日の出とともにインパールに戻った。これはインパールの弾薬、燃料及び食料の節約のための処置である。
日本軍の襲撃の目標は、輸送機か第4軍団に対する攻撃であるが、英空軍の警戒組織を破壊するのは比較的容易であった。チン・ヒルのレーダーは、日本軍によって次々と踏みにじられた。インパールの戦闘機に対する防護は、最も重要な防空警戒線の弧を敵機が飛んでから、正味8分を要する。敵の編隊が谷を低くあるいは分散して侵入すると、その航跡をたどることが難しい。レーダーは英軍支配地区の周辺にあって敵に対して危険であり、しばしば砲弾の下になることもあった。夜間は日本軍の斥候にばれないように、ディーゼルエンジンを止めなければならない。だがこの事前情報により、珍しく20機のオスカーを迎え撃ち、13機を撃墜したことがあるという。
日本軍の小さな戦闘機隊でも、兵員輸送空輸団のみが実施しうる、巨大な第4軍団向け軍需品空輸の微妙なバランスを崩し、失敗させることができる。日本軍ビルマ航空隊には、一日に300機に上る速度の遅い非武装の輸送機は絶好の好餌である。ダコタC47やコマンドC46の飛行経路は、スピットファイアやハリケーンによって、パトロールされた狭い回廊に限られていた。だがインパールに基地を持つ、連合軍の戦闘機の優勢が災難を防止していた。制空権はスピットファイアの活躍で確立されており、その後の連合空軍の攻撃的用法により、日本空軍は逐次減衰し、ついに最高司令官の心配の中で最小のものとなった。日本空軍は最も重要な時でも、比較的安全な600マイル離れた基地から、散発的な貧弱な支援しか与えることができなかった。包囲間における日本機の活動は、連合軍のそれのわずか3%に過ぎなかった。そしてその期間に少なくとも150機の日本機が、英戦闘機または対空砲火によって損害を受けたはずと英側は述べている。
日本軍の爆撃は、インパールを基地とする、第221グループのハリケーンの担当であった。朝から晩まで道路状の自動車を捜索し、水路の小舟、牛車、駄牛、さらに砲兵の兵器を運ぶ象など攻撃することは、空軍にとって愉快な仕事ではなかった。また夜間の自動貨車も狙ったので、日本軍は夜間の路上でのライトの使用を禁止した。ある時ナガ族の村長が、ウクルルの西のジャングルの中に、日本軍の将軍が1000人の兵士と200の騾馬とともにいると、その正確な位置をインパールの司令部に報告に来た。彼の指示にしたがって、ハリケーンは6個の爆弾を落とし、かつ銃撃した。敵の兆候は見当たらなかったが、その後そこで日本兵の多くの遺体が確認されたという。
一方、英空軍はあまり評価をしていないが、日本地上軍が最も恐れたのが、攻撃機として活躍したスピットファイアである。スピットファイアの”街道荒らし”は日本軍の補給戦をズタズタにし、多くの兵士だけでなく、大隊長をはじめ多数の将校を殺傷した。
概要 インパール作戦への道 インパール作戦 戦況の変化 インパール作戦(雨期) インパール作戦の結果 |
第4軍団の全部と英空軍第221グループの大部分が包囲されたと知ったインパール飛行部隊の反応は、さきの南部アラカンにおける同様な状況の下よりも、もっと自信に満ちたものであった。ピアース空軍司令官は、この危機に際して、何よりもまず輸送機の強力な増強を要請した。これに対しマウントバッテン最高司令官は、①日本軍の攻勢は危険ではあるけれども歓迎すべきことであり、②支那へのハンプ輸送に従事するコマンド輸送機の一部を、より緊急の任務に転用を指示し、③さらに現に南部アラカンで戦っているインド第5師団を、インパールに緊急輸送すべきことを指令した。最高司令部の会議では、日本軍は今回のウィンゲート空挺団の大きさには、気づいていないと判断されたので、新聞を通じて報道するならば、日本軍はインパールへの進行を中止するであろうと考えられた。しかしマウントバッテンは、日本軍を撃滅する絶好の機会として、日本軍が攻勢を中止することを望まず、空挺団の規模を報道機関に公表することを禁止した。これらの見解は、インドの安全や北東の米支軍に危惧を抱いている人々に衝撃を与えたが、インパールで決戦しようとしている人々には自信を与えるものであった。インパールの英軍は4個師団となり、日本軍にとっては相手が強大になって難しくなり、連合軍にとってはこの大軍をいかに養うかが大問題となった。15500人の兵士の入場、患者2000人及び30000人の管理部隊等が、口減らしのために域外に後送された。そして給与定量は、標準の65%に減らされたのである。
インパール作戦、雨期 ビシェンプールの戦い、三十三師団(弓師団)③ コヒマの戦い② 抗命 牟田口廉也中将と河辺中将 抗命② 十五師団③ 抗命③ インパール街道打通 十五師団④ シェナム〜パレル、山本支隊② 抗命④ シッタン渡河点、軍司令官逃走 英印軍の追撃 モーレ〜タム、シッタン渡河点、カレワ渡河点 パンタ街道 ティディム街道敗走 |
相手方のスクーンズはインパールの渦中にいたのに対し、牟田口の司令部はまだメイミョーにあった。快適なメイミョーをはなれてマニプールのジャングルの竹小屋に行くのはあまり気が進まなかった。彼の芸者好きは参謀にも波及して各人が好みの芸者をメイミョーの清明荘に持っていたのだ。夕方五時ごろには仕事を離れ、夜は快適な娯楽が提供された。天長節までにインパールをとれと固執していた牟田口は、4月20日ついにインダンギーに戦闘指令所を移した。第三十三師団は牟田口が直接指揮を執り、英軍陣地に突撃を強命し大きな損害を出していた。5月12日牟田口は柳田師団長を解任し、5月22日田中信男少将が第三十三師団長に到着するまで自ら作戦指導を行った。
5月13日、軍司令官は自らモロウに戦闘指令所を推進し、あくまでインパールへの突入を企図し、そのため特にビシェンプールの攻撃を強く要望し、師団に対する強力な戦闘指導を行った。だが5月19日英軍インド第63旅団の一部は、突如コカダン東南、西南の鞍部の高地(三つこぶ高地と呼んだ)を奇襲占領し、急速に陣地を強化し、キマナイにあった師団司令部と第一線連隊とは完全に遮断されてしまった。17日のトルボン隘路口の後方遮断と相まって、二重に遮断されることになり、戦況はにわかに緊迫したのである。 かくして軍司令官牟田口廉也中将の要望するビシェンプール攻撃は、佐久間連隊だけで実施された。軍司令官は戦力の逐次投入を行った。そしてこの戦闘で第一大隊は380名中360名を失い、第二大隊は500名中460名を失ったといわれている。5月19-21日、三つこぶ高地の攻撃は成功せず、第三大隊では138名の戦死者を出した。アッというまの出来事で多大な損害を負ったのであった。サザンプトン大学の国際関係論のG・マッテュー教授は、その陸軍大学受験者用の著書「ビルマの奪回」にて「日本軍指揮官は、予備隊が到着するや否や戦線に投入した。軍隊ピース・ミール(細切れ)用法作戦の誤りを犯した」と指摘している。
この攻撃につき、後任田中師団長はその日記の6月29日に「軍は小生着任直前『ビシェンプール』に各一大隊を突入せしめ、敵の退路遮断を強要せり。当時前師団長は極力その不利を力説したるも、軍は軍の責任において実施すとて、ついに両大隊とも全滅せり。これは前師団長の申し送りの一説なり。軍の責任といふも、全滅せしめ平然なり。迷惑なるわ、二個大隊を失いたる師団なり云々」。
柳田師団長が、師団主力の攻撃を伴わない作間連隊単独の攻撃に反対したが、軍司令官がすでに発令済みである師団長の更迭の事実を本人に知らせなかったことと、さらに師団長がその最後までその明敏な判断を失わず、勇気をもってその所信を主張し続けたことがのちに判明する。
陸戦史集に第三十三師団の5月20日までの死傷発生表が掲げられている。この表は大本営徳永参謀が軍から入手したものとされるが。この数字で理解に苦しむのは、三月中下旬のシンゲル、トンザンの戦闘において笹原、作間の両連隊で戦死傷将校が392名を数えるのに、5月中旬でなお228名となっていることである。軍が把握していた数字がいかにいい加減なものであったかの一つの例である。
5月22日田中信男少将が新師団長として着任した。柳田は引き継ぎの時「状況は完全に敵に有利であり、全滅は時間の問題に過ぎない」と怒りをぶちまけた。彼が訴えたのは、彼がいかなる犠牲も試みずビシェンプールを占拠せよとどれだけ督促され続けたかということだった。田中は柳田の発言を秀才の弱音と受け取り、軽蔑した。田中は6月2日部下に対し訓示を発した。
「今やインパール占領の時である。わが決死の歩兵部隊が敵主力を突破すれば、勝利は期して待つべきである。来るべき戦は天王山であり、大東亜戦争の成否は一にこれにかかっている…」
田中は準備周到に砲兵の徹底的な集中火力支援の下に、攻撃を6月6日と決定し、ようやく三つこぶ高地の敵陣地を占領した。2週間の日時と多くの犠牲者を出して占領できなかったのは、今度のような火砲の組織的支援がなかったためであり、上級機関の戦闘指導に関し遺憾の念を禁じ得ない。
6月5-7日に田中は枢要部である英軍陣地を掃討して、前線の第二百十四及び二百十五の連隊にようやく補給することができた。
田中ははじめは軽蔑した柳田師団長の見解に思いをはせていた。第二百十五連隊の二個大隊はビシェンプールとレッドヒルの戦いで全滅した。第二百十四連隊の第一大隊は1000人になり連隊旗奉焼の準備をしている。柳田は正しかったのではないか。徐々に彼の柳田への同情が強まっていった。
田中日記「将校も兵も、ひどいありさまだ。ひげも髪も伸ばし放題。作戦開始以来100日以上を経過し、その間ほとんど何も食べるものはなく、骨と皮ばかりになっている。内地の人々は、彼らの苦難を想像できまい。…限りなく雨は降り続くが、敵機は活発だ。晴れでもしたら、二十四時間休みなしである。」
だが、田中信男師団長はなお、牟田口司令官の指揮下にあるという事実は偽ることはできなかった。牟田口司令官は新しい攻撃計画を練っていた。全滅しようとしまいと、田中は服従した。
増援として派遣された第五十三師団歩兵第百五十一連隊を使い、ビシェンプールに攻勢をとろうとした。この京都の連隊は三十三師団が攻撃を反復して失敗していたフォレストヒル守備隊を奇襲し陣地を占領した。しかし次の目標プラムヒルを落とせない。田中師団長は、疲れ切った連隊長たちを新しい任務に駆り立てた。笹原二百十五連隊に、ビシェンプール西方丘陵のコーワン部隊の砲兵陣地の攻撃を命じたのだ。日本軍は連日切込み隊を編成し、英軍陣地に差し向けたが、ついに抜けなかった。モンスーンのこの局面で、ヴィクトリア十字二つが、両方ともグルカ兵に授与された。田中が四方からビシェンプールを強襲しようとしても、英軍師団長は自信たっぷりである。コーワンの砲兵、戦車、空からの支援は圧倒的だった。
6月30日田中は師団の戦力を算定したが、損失7000人に戦病死5000人、合計12000人、すなわち師団戦力の70%を失っていた。
インパール作戦、雨期 ビシェンプールの戦い、三十三師団(弓師団)③ コヒマの戦い② 抗命 牟田口廉也中将と河辺中将 抗命② 十五師団③ 抗命③ インパール街道打通 十五師団④ シェナム〜パレル、山本支隊② 抗命④ シッタン渡河点、軍司令官逃走 英印軍の追撃 モーレ〜タム、シッタン渡河点、カレワ渡河点 パンタ街道 ティディム街道敗走 |
英軍の立てこもるガソリン高地(日本軍はイヌ高地と呼んだ)は東方のテニスコートから、南方のサル高地から挟み撃ちに、日本軍第百三十八連隊と第五十八連隊が猛攻撃をかけたがついに落ちなかった。そして英第2師団の到着により、攻守交替となった。そして激戦地と名高いのがテニスコートだった。
ガソリン高地から土地は四つの段丘に分かれて、30メートル下がっていく。一つ一つの高低差は、3-12メートルとさまざまである。一番上の段丘には会員制バドミントンコート、その下がテニスコート、それから副弁務官バンガローで、ここは9メートルの段差がある。次に三差路の6メートル上の庭園、下の段丘で何が起こっているかは、上からは見えない。
集会場の一角にあると思われるテニスコートの場所を確認するために、ドーセットシャー連隊の第二大隊に攻撃させた。彼らは日本軍の攻撃の矢面に立った。ドーセット隊は日本軍を地下壕から追い出すには、戦車の助けがいると判断していた。テニスコートを制圧できる集会場に戦車一両を誘導しようと三回も試みた。本道に面した副弁務庁舎とテニスコートに陣取る日本軍を攻撃するために、4月28日工兵隊がブルドーザーを運転してリー戦車をけん引していった。しかし斜面を下って壊してしまった。テニスコートへの落差は絶望的であった。日本軍はハチの巣陣地を作っていた。地下トンネルと強い皮膜を持ち、英軍の砲弾を受け付けない。5月中旬までに、英軍の3.7インチ榴弾砲38問の一斉射撃3000回、25ポンド砲48門の7000回、中砲1500回の激烈の目標となり、迫撃砲や集中射撃や空軍の連日の爆撃も加わったが、やられた様子は全くなかった。この嵐が過ぎると、日本軍は夜襲の準備を整えていた。戦車が必要だった。
ドーセット隊が宿舎地区の中の様子がわからないのは、自分たちの落ち度でもあるが、濃い木立が日本兵の動きと建物の配置を隠しているためでもあった。するとガソリン高地についたラジプット隊が、あっぱれな心構えで、退避壕を掘るために木を切り倒し始めた。ドーセット隊長の反応は素早かった。
「一日か二日後にB中隊が行く途中、何かが変わったと気づいた。森がぐっとまばらになり、集会場方向の丘が見下ろせる。コルテスが始めて太平洋を眺めた時の興奮と同じくらい感動した。地区弁務官のバンガローが見えたのだ。バンガローだけでなく、建物群の全容が見える。閉ざされた領域をちょっとのぞくべく、我々はあらゆる手段を尽くしてきたが、ラジプット隊のジャングル伐採のおかげで、この数平方キロが見通しがきくようになった。なんと大変な働きなのだ」
再び戦車の出番が来た。戦車を病院丘に上げるための道をブルドーザーで開くため、また工兵がよばれた。背後から戦線突出部に突入しようというのである。5月12日夕方には、濡れて急こう配の土地なのに、工兵は難工事を成し遂げた。5月13日戦車第149連隊B中隊のウォーターハウス軍曹は、集会場の貯蔵所から急傾斜地に向けて、リー戦車をじりじり進めていた。が、ウォーターハウスは道を乗り越えてしまった。「待てよ!」と操縦士が叫んだが遅すぎた。戦車はテニスコートの中に落ちた。
だがなんとたまたま戦車は日本軍陣地を真上から押しつぶして守備隊を生き埋めにしていた。これを機に戦車はのろのろとコートに腰を据え、戦車砲を振り回していた。日本兵は仕方なく小銃をリー戦車に浴びせたが、お返しに75ミリ砲弾が彼らに注がれた。日本兵は武器を捨てて逃げたが、ドーセット隊の銃火に捕捉された。20分にわたり戦車は日本軍機関銃陣地と塹壕を銃射して回り、砲撃が終わるとドーセット隊が突入して、英軍は死者一人を出しただけで官舎を占領した。たった40分の出来事だった。
5月13日午後一時過ぎ、突然「前方に戦車」。濃密な白煙を排して影の塊が浮き上がり、やがて前面のテニスコートを隔てた丘場に、戦車砲がにょきっと突き出し、たちまち巨大な戦車の全貌が現れた。姿は見えぬが随伴歩兵の声も聞こえる。ついに犬の台上に戦車が上った。間もなく後方の警戒兵から、「戦車三台!」の報告。しばらくして二両の戦車は全面のテニスコートに進出し、ぐるぐる回りながら火炎放射を始めた。我が掩蓋が一つ一つと焼かれていく。残っているものに声をかける。十名あまりの応答があった。前方の戦車は相変わらずテニスコートの中をぐるぐる回りながら乱射を繰り返す。やがて再び煙弾射撃が始まった。視界はたちまち遮られた。「いまだ、全員道路下まで下がれ!」ばらばらと駆け抜け、アスファルト道をも飛び越えて谷間に集結したが、だれもが後、ただ放心したようにその場に座り込んでしまった。
何とか英軍はテニスコートを占領したが、英軍の損害も大きかった。ドーセット隊は18日間と死者75人という代価を払ったことになる。
12日夜、ついに五十八連隊を指揮する宮崎少将は指揮下の各部隊を三差路高地から撤退、南のアラズラ高地に移動させた。この凄絶な修羅場にあって、サルの高地を占領中の百三十八連隊機関銃は常に健在で、英印軍突撃にあくなき猛射を浴びせ続けた。彼らはめまぐるしく銃座の位置を変え、わが加点撲滅を期して撃ち込まれる敵砲弾から、巧みに身を守っていたのだ。
「エンジンに音がするぞ!」そこかしこの壕から悲壮な声が起こる。誰もが火炎放射の威力と、その残忍さを目撃しているからだ。ウシか、それともウマか、じっと耳を澄ます。とその音は紛れもなくこの山、つまりサルへと向かってくる。エンジン音がごうごうと接近する。しかし、どうしたことだろう、あれだけ恐れていた豪火の洗礼もなく、丘場はエンジンの音だけがやけに激しい。恐る恐る頭を上げると、約二十メートルの頂上の空に巨大な戦車が、直径十センチのあまりの喬木にその砲身が引っかかって、どうやら方向転換ができないらしい。この時「通信、今だ!、地雷だ!」「くたばれ!」飛び出したのは八中隊から通信中隊へ配置がえになった小畑金蔵軍曹と、同じく通信へ追及してまもない初年兵の大竹上等兵だった。二人は敵から鹵獲した大型地雷を抱えている。地雷は見事にキャタピラの下に食い込んだ、火炎びんが一斉に宙を飛ぶ、戦車の天蓋部分から敵兵三名が躍り出る。大音響を発して地雷が炸裂する。兵の姿はもうどこにもない。中の砲弾が加熱して一斉に爆発し、炎と鉄塊の奔流を起こすことをだれもが承知しているからだ。予想通り、戦車は大音響とともに自らの砲弾で吹っ飛んだ。この光景は、彼我監視の中で行われたものだが、英側の刊行物としては戦闘状況にかなり詳しいアーサー氏の「コヒマ」にも、このような場面は一切ない。もっとも、わが方の戦記物の類にも、こうした敵方の特筆すべき個人的離れ業については振れていないので、相殺勘定といってしまえばそれまでだが。
他の戦線でも日本軍の強固な陣地に大きな損害を出しつつも英軍が丘を占領していき、副弁務庁舎占領でコヒマ山稜は片付いた。
ある日、日課の敵集中砲火がやむと同時に、長い砲身を突き出した戦車一両が、銃砲火を吹きながらサルの斜面を登っていった。長城に至ってその巨大な鉄塊は、真っ赤な炎を吹き始めた。炎の到着範囲は約五十メートル、断続的に業火が噴射される度のボーっと黒煙が上がる。同一角度に二、三回それを行うと、砲塔が獲物を狙ってぐるりと旋回し、別な地点にどーっとばかり炎の下を突き出すのだ。サルの高地は今一両の戦車の独壇場と化した。あれほど猛射を繰り返し、いかほどすさまじい砲撃にも不死鳥のごとくよみがえり、敵突撃部隊を寄せ付けなかった百三十八連隊の勇士たちが、ジンと称する穴倉のそこにへばりつき、今なすこともなく焼き殺されている。我が方には、このけなげな兵たちを救うに砲もなく、肉攻班もまた近寄れず、文字通り消耗品然と焼き捨てられようとしている。ぐるっぐるっと砲塔を旋回させながら火を噴くこと約五分、丘場をくまなく嘗め尽くしてその戦車はおりていった。その後に来るものは、敵歩兵の同高地占領である。
残るは山稜の北方のナガ集落と南方のアラズラ支脈の二つの日本軍の強固な陣地であった。
5月19日、敵はわが軍の衰退を知り、一挙に覆滅せんものと最初の総攻撃をかけてきた。一分間に平均三十発の砲弾を午前十一時から午後四時まで五時間にわたり、連続的に打ち込んできたのである。空からも十波を超える爆撃がくわえられ、さらに戦車を伴う歩兵部隊側が第一線各人を強襲した。敵は日本軍完全撲滅とみて、銃を方に登山でもするかのような気軽さで、上ってきた。その時が来た、各陣地呼応して猛然と立ち上がり、すでに6,7メートルの至近に迫った敵部隊に、重機関銃、軽機関銃、擲弾筒、手榴弾、小銃弾を嵐のように浴びせかけたのである。が、悲しいことにそれは攻撃の転機になりえるのでは決してなく、一時の敵兵を愁傷の極に陥れはしたものの、体勢を立て直すや、彼らは自動小銃を乱射しながら、わが兵の所在に向かって肉薄してきた。この日に、我々にとって意外なことが敵将グローヴァーを喜ばせたとアーサー氏は言う。この時彼を力づけた唯一のものは自分から降伏してきた一人の日本兵のあったことだ。
英将校「『もう私の耐えられる限界です』と語るこの捕虜によれば、彼は第五十八連隊に所属し、彼の中隊は四十名に減ってしまったとのこと。士官は全員戦死もしくは負傷して動けず、現在下士官が指揮を執っている。何日も米と塩だけで生きてきた。我が方にとっては、まことに結構な話ではあるが、それゆえ短絡に日本軍に破滅が近づいているとは信じがたい。」
ところで、英語で敵と対応ができるといえば、おそらく数少ない連隊内のインテリの一人で、それが誰であるかを推測するのにさしたる手間暇かかろうとは思わないが、今もって戦友間のうわさにも上らないのは、不思議といえば不思議なことである…。
英軍第二師団の砲兵総力72門で一斉に集中砲火を浴びせて、パンジャップ隊は攻撃に移った。リチャード大佐さえ、これだけ集中砲火すれば、生存者はあるまいと思った。しかしインド兵がその一角に踏み込んだとたん、トーチカは不死鳥のごとくよみがえり、機関銃弾はインド兵の上に降り注いだ…こういうことが何回も何回も繰り返されたのである。5月24,5両日には英空軍機が爆撃し、砲兵隊の弾幕が一面に張られ、そこを戦車援護の元パンジャップ隊が出動した。この時の空軍爆撃の凄さは、第一線の英兵さえ、かつて経験したことのない世にも壮絶なものであった。パンジャップ隊が第五線を超えて次の線に進出すると、直ちに日本軍75ミリ砲の激しい抵抗にぶつかった。戦車の砲撃も加わってじりじりと前進した。頂上に達したのはよいが、ここがまた猛火のただなかという状況で、ついにマーメント少佐隊は二十三名の死傷者を出して退却を命ぜられた。それは拡充めまぐるしく銃座の位置を変え、砲撃が始まると、十と十に横穴にこもり、決して敵砲弾の餌食にはなるまいと知恵の限りをつくしたからだ。さて、このころ三差路北東部約1キロに位置するナガ集落5120高地でも、文字通り血みどろの死闘が展開されていた。付近一帯の守備に当たっていたのは第百三十八連隊、第百二十四連隊、それに第五十八連隊第三大隊の一部であったが、二十五日から二十九日にかけてこの攻撃を担当した敵将メサヴィ少将の戦闘指揮について、スウィンソン大尉は次のように書いている
「この二十五日、チャーチ山(5120高地)で手ひどく反撃を受けたが屈せず、第7師団メサヴィ少将は、ここに英空軍の爆撃までかけてきた。しかし、これまた長い日本軍抵抗線の一線すら崩すことはできなかった。英軍らは迫撃砲の砲弾にさらされ、みたびこの山から突き落とされた。」
しかし実は日本軍は補給も絶え、士気も低下していた。
雨空から伝単がまかれる、陣中新聞と称するこの伝単は、日本軍を誹り、敗戦を予告していた。「忠烈勇武なる大日本帝国軍人に次ぐ、君たちは誰のため、何の目的で戦争をしておるのですか」いろいろなポーズでの日本兵の戦死者の写真が乗っており「やがて近く君たちもこのような姿になるでしょう。それより、これだけ戦った君たちは騎士である。この陣中新聞の末尾についている『投降券』に所属部隊、階級、氏名を書いてわが陣地にきたまえ、わが軍は君たちを立派な騎士道を持って迎えることだろう。生命については絶対に心配なく、一日も早く投降することをお待ちしております」というもので、投降券までついていた。このような伝単など、はじめは戦陣訓にある「流言飛語は信念の弱気に生ず、惑うことなかれ、動ずることなかれ、皇軍の実力を確信し、厚く上官を信頼すべし」なる一語に微塵の疑いも抱かなかったものだが、ここに至り、ようやく揺るぎだしてきていた。といってもこの伝単の投降券を行使するということではない。私たちの戦線が敵の伝単通りだとすると、太平洋上の島嶼での玉砕や各会戦での敗北、本州各地への爆撃、これらの事柄が、あるいは事実であるかもしれないと考えられた。しかし、どんな場合にでも、これらの投降優待券の行使は許されない。宣伝に惑わされている証拠であろうか。精神状態は極めて安定を欠き、心の動揺は小さく大きく、ますます複雑化していった。
「班長殿、日本兵が2名死んでいます、もみが散らばっています!」この言葉で、私はだいたい想像がついた。おそらくは食糧に窮した彼らが、ナガ族のモミを略奪してきたのだ。そのあとをつけてきたナガの連中が虚を狙って、槍で突き殺したのだろう。食料がくる、応援がくる、とコヒマ戦線では、どれほどこの一言を聞かされたことだろう。それが全てうそだったのである。
だが英軍も消耗していた。28日夜、情報のどの報告も、日本軍の出血甚だしく、疫病、士気阻喪、半飢餓状態を伝えた。しかし彼らは虎のように戦った。これを攻めようとすれば必ず手ひどい懲罰が下った。英第33軍をもって、これが一体破れるのだろうか。軍団は疲れ果てている。
が、攻撃の手は緩めなかった。そして日本軍の背後に空挺降下し、輸送隊(補給部隊)を攻撃、日本軍の補給はますます滞っていった。
山岳人の集落からもみの挑発を続けていたが、すでに略奪となっていた。ウクルルからカラソムにかけての兵站線沿いの集落は、烈兵団の左突進隊が進撃する際、名将・宮崎茂三郎少将によって計画的な徴発が行われ、すでに大量のモミが持ち去られていた。それが、駐留する輸送隊にとっては徴発を困難にしていた。当初和気あいあいと物々交換した集落も、その後略奪を受けて無人となっていた。
5月16日、異変が起こった。チャイヤンクキ北方の山間に、相当数の敵空挺部隊が降下し、翌17日にはチャイヤンクキ分哨の目の前にある4543高地に進出してきた。敵は山上にテント群を張り、塹壕を掘って陣地構築を開始した。5月18日敵は陣地構築を終え、兵力は200を超えた。5月19日兵站線が襲撃された。通行中の小隊が不意打ちを受け、十数名が戦死した。5月20日、中隊駐留地より8キロ後方の兵站道路で小部隊が攻撃され全滅したとの情報が入った。いずれの場合も、敵は道路沿いで待ち伏せしていて、近距離から自動小銃を乱射したものである。頻繁に通行する小部隊にとっては恐怖の道となってきたが、兵站線は長く、警備兵を分散して配置することは不可能であった。5月27日第一中隊と第三中隊で警部する兵站戦の真ん中に敵が侵入して、待ち伏せ攻撃を行った。物資輸送は危険で続行できなくなった。山岳人が英軍を道案内していたことは明白だった。5月29日、敵性集落のワーホンを急襲しチン族の男5人を捕虜にした。尋問して敵の情報を聞き出すためである。捕虜は後日連隊本部に後送された。敵ゲリラの本拠地である4543高地に総攻撃をかけることが決定された。5月31日払暁に奇襲攻撃をかけることになった。激戦の上、高地の占領はできなかったが、敵に与えた損害は大きかった。6月1日敵は陣地を捨てて退却していた。
兵站線は安全を取り戻した。敵のゲリラ基地をたたき、兵站道路の通行が安全になった途端に、皮肉にも、後方からの物資補給がぱったりと途絶えてしまった。輜重兵第五十五中隊は、ついに軍から一粒の米ももらえなかった。
インパール作戦、雨期 ビシェンプールの戦い、三十三師団(弓師団)③ コヒマの戦い② 抗命 牟田口廉也中将と河辺中将 抗命② 十五師団③ 抗命③ インパール街道打通 十五師団④ シェナム〜パレル、山本支隊② 抗命④ シッタン渡河点、軍司令官逃走 英印軍の追撃 モーレ〜タム、シッタン渡河点、カレワ渡河点 パンタ街道 ティディム街道敗走 |
日本軍の死傷者は膨大なものになった上、補強部隊は皆無、空中支援は皆無、戦車不在、さらに砲兵の弾薬は尽きていた。チンドウィン河岸の倉庫から食料は到着せず、期待できる唯一の救いは死であった。佐藤は作戦前から補給に対して懸念していた。十五軍は3月25日までに250トンを送ると保証したが空手形だった。4月5日までには兵が携行した三週間分の食糧は枯渇し、かろうじて現地徴発で食いつないだ。5月末には砲弾はほとんど打ち尽くした。英軍の長距離挺身旅団がコヒマ東方で補給線を遮断した。5月24日に武田少将が訪ねてきて、第三十三師団への増援のためトラックはすべて使われ、第三十一師団への補給など問題外と聞かされた。佐藤師団長は憤慨し、十五軍との電信は切迫を帯びていった。
師団は今や糧絶え、山砲および歩兵・銃火器・弾薬悉く消耗するに至れるを以て遅くとも6月1日にはコヒマを撤退し補給を受けうる地点まで移動せんとす | |||
貴師団が補給の困難を理由にコヒマを放棄せんとするは了解に苦しむところなり。なお10日間現体制を確保されたし。・・・断じて行えば鬼神も避く |
佐藤師団長5月25日打電に対する牟田口司令官5月31日打電である。佐藤師団長は激怒した。
この重要方面に軍参謀をも派遣し在らざるを以て補給皆無・傷病者続出の実情を把握しおらざるもののごとし。状況に依りては、師団長独断処置する場合あるを承知せられたし |
5月29日、5120高地に対する敵機の爆撃は、いつも二倍してすさまじかった。雲峰少尉からあわただしく電話がかかってきた「山砲の観測所にグルカ兵襲撃。三木中尉、松本少尉、行方不明」。敵はトラクターで、5120高地の西北側の岩山に戦車道をつけたのだ。白石連隊長以下玉砕を決意し、各人の死に場所を掘れと連隊命令が出たとのことであった。夕刻、高地から戻った加藤参謀長は、その様子を師団長に報告した。佐藤師団長より軍へ機密電報が三回打たれた。「5120高地北側より敵戦車侵入。もはやいかんとも致しがたし、速やかなご決断を乞う」翌早朝、第十五軍から返事が来た。「貴師団の苦境察するに余りあり、万一の場合を考慮のようあらば、一週間前に電ありたし。御奮闘を祈る」。これを見た師団長は、電報をわしづかみにした。ぐっと目を開き、どなるように言った。
「即刻、コヒマを撤退する。加藤、命令を起案せい」 |
と、師団長はついに軍命令違反を決心したのだ。この日、五十八連隊の第三大隊の左翼は、グルカ兵に突破された。百二十四連隊の有吉中尉の生き残りは中隊長以下七名となった。5120高地は敵に占領された。白石山砲隊長は覚悟を決めた。5月31日佐藤はナガ集落地区の隊長の白石大佐から別れの電話を受けた。すぐさま師団長に決別の電報を打った。佐藤は直ちに左及び右地区部隊に同日深夜コヒマを捨てて東方へ向かえと指令した。佐藤師団長は、いよいよ撤退の時機到来と考えて、即時、全部隊に対し、撤退準備命令を通報した。佐藤師団長は、歩兵団長宮崎少将に工兵第三十三連隊長鈴木隆中佐ほか歩兵を含む約517名をゆだねて宮崎支隊とし”軍命令のアラズラ、ソヘニマ確保に固執せず”コヒマ=インパール道沿いに持久するように命じてコヒマ戦線を去っていった。
「この2か月死力を尽くして戦い、いまや持久力の限界に達し、刀折れ矢尽きた。涙をのんでコヒマを放棄する。真に断腸の思いに耐えず」 |
六月三日薄暮、ついに撤退命令が来た。私は砲撃に間隙を縫い、アラズラ高地の各分隊を駆け回ってその旨を伝えた。このころになると、ウマ、ウシ、サルの防御線分断個所からインパール街道は敵の制圧するところとなっており、彼らの砲弾は我々の退路が見えるかのように正確な追い打ちをかけてきた。
深夜、第一集結地トヘマについた。とある灌木林に差し掛かった時、一瞬にして、そんな空腹感も疲労感もどこかへ飛んでしまった。素っ裸の傷病兵が、まるで見世物ののように、累々と横たわっているので。生きているのか、死過程のであるのか。一面に立ち込め大衆の中を動くものとて銀蠅の大群ばかり。胸糞が悪くなり、嘔吐を催す以上に私は、この圧倒的な光景の前に立ちすくんでしまった。これが野戦病院に実態なのだ。私は怒りに任せて、ぐいぐいと歩いた。その野戦病院なるものの指揮系統にかかわる上級将校を激しく憎んだ。杜撰な計画により、銃砲団、兵器、糧食すら絶えて久しい今日、満足な医薬品、施設などあろうはずもなかったが、兵卒である私は、ただあまりにも衝撃的な光景にのみ動転し、次いで五体が震え上がるほどの怒りに襲われた。とは言うものの、この程度のことはまだほんの序の口だったのである。
子細に聞いてみると、野戦病院は地獄行き特急列車の待合所で、傷病兵でありながら、一度も治療をしてもらえなかったという。「内藤、生きる希望だけは捨てるんじゃない。必ず救援隊はやってくる。希望を持つんだ!」何が希望だ、何が救援だ…。軍は自力で歩けるもの以外は全部、放棄したのだ。その後、その中からビルマへ着いたものは一人もいない。
インパール作戦、雨期 ビシェンプールの戦い、三十三師団(弓師団)③ コヒマの戦い② 抗命 牟田口廉也中将と河辺中将 抗命② 十五師団③ 抗命③ インパール街道打通 十五師団④ シェナム〜パレル、山本支隊② 抗命④ シッタン渡河点、軍司令官逃走 英印軍の追撃 モーレ〜タム、シッタン渡河点、カレワ渡河点 パンタ街道 ティディム街道敗走 |
このころ、ビルマ方面軍の河辺中将は、コヒマ失陥をあきらめ始めていた。他の方面も芳しくなかった。フーコン戦線においても5月末ミイトキーナの飛行場がとられた。5月21日、河辺はインパール決戦の時期が来た旨の命令を発した。コヒマ戦線から部隊を移動させてでも、インパールはとらなければならない。
河辺は自ら牟田口に会おうと決心し、参謀二人を伴ってインダンギーに向かった。6月5日河辺は牟田口と会った。
河辺「牟田口は元気そうだった。しかし目には涙がいっぱいだった。『我々は今岐路に立っているが、恐れてはいない』と私を迎えてくれた。私は戦況に触れるのを午後に持ち越した。」
今となっては、インパールを取るにはコヒマ戦線の第三十一師団を転用するしかない。このとき十五軍では佐藤三十一師団長が退却し始めたことを知っていた。第十五軍はそれをウクルルで止めて、そこからインパールに向かわせようと企図しているのだ。そうやって佐藤の撤退の事実を隠そうとはかっている。
6月6日両将軍は公式に会談した。牟田口は山内を十五師団長から外したと報告した。仕方ないが、マズイ人事だと河辺は心の中で驚いた。次に牟田口は増援を嘆願した。河辺は最善を尽くそうと約束して会話は終わった。しかし河辺は、牟田口が何かほかに言いたいことがあるが、どうして言っていいかはわからないでいると感じた。牟田口の胸中は知っているが、河辺はそれを確かめようとはしなかった。
元英兵「日本人の生活には『ハラゲイ』と呼ばれるおもしろい現象がある。それは日本人の言葉以外のコミュニケーションをする能力を示す。ちらと見る、顔をこわばらせる、引きつらせる。そのプロセスに言葉に介在させずに、心の重荷を同じように訓練された演技者に伝えられるのである。牟田口が河辺にやろうとしたのはこのハラゲイである。」 |
「河辺さんが来た本当の腹は、インパール作戦を続けるつもりかどうかを探るためだとはわかっていた。『できるだけ早く作戦をあきらめるときだ』という文句がのどまで出かかっていた。でも言葉にはならなかった。・・・私の表情から読み取ってほしかったのである。」 |
河辺は6月6日夕方、牟田口とその幕僚たちを訪ね、「貴官たちを信頼し、安心してラングーンに帰る」と語った。
インパール作戦、雨期 ビシェンプールの戦い、三十三師団(弓師団)③ コヒマの戦い② 抗命 牟田口廉也中将と河辺中将 抗命② 十五師団③ 抗命③ インパール街道打通 十五師団④ シェナム〜パレル、山本支隊② 抗命④ シッタン渡河点、軍司令官逃走 英印軍の追撃 モーレ〜タム、シッタン渡河点、カレワ渡河点 パンタ街道 ティディム街道敗走 |
牟田口は三十一師団に6月2日ウクルルへの転進を命じ、つじつまを合わせようとした。6月9日佐藤師団長は十五軍からさらなる転進命令を受けた。「第三十一師団はウクルル付近に転進し、所要の補給を実施したのち第十五師団の左翼に連携し、インパールに向かう攻撃を準備すべし。攻撃準備完了の時期は6月10日とする」。6月10日までにこんな処置をやり遂げるのは不可能で、佐藤の不信を確かめたに過ぎない。
そんなある夜のこと、雨が降っている中、私たちは大樹の下で焚火を囲んで弾をとっていた。そこへ一団の兵隊が、つかつかと近づいてきて、先頭に立った体格のいい将校が、「おい、俺にもちょっと当たらせてくれよ」と無遠慮に言って、私たちの中に割り込んできた。階級章をそれとなく仰いだ私は、まさに仰天した。べた金に星が二つ、中将だ。兵団長佐藤幸徳閣下なのだ。私は飛び上がらんばかりに驚き「っ敬礼」と立ち上がると「敬礼などいい、そのまま休んでおれ、ちょっと寒いんで、金玉炙りをさせてくれ、ところで、部隊はどこかな」「工兵隊であります!」片岡総長がカチカチになって答えると、「ずいぶんと苦労を掛けたな。ウクルルまで頑張れよ、体を大事にな。烈兵団は戦争には負けなかったんだぞ、大勝利じゃよ」ジャワ製のたばこを口に加え、焚火の小枝で火をつけて一服吸うと、「回して吸えよ」というや、後方の幕僚をかえりみて、「さあ出発だ、くれぐれも体を大事にな」私たちがしゃちほこ張ってする敬礼を背に、兵団長の巨躯は、折からの雨と闇に溶け込んで消えた。
兵団長を罷免されてから、マンダレーに工兵隊を訪れた際「わしはな、十五軍や方面軍のやつには負けはせん。正しいことをやったまでだ。軍法会議でも銃殺刑でもあえて恐れはせんよ、あっははは…正を踏んで恐れずだ。諸君のせっかくの検討を祈るぞ」これが私の閣下への思い出である。
ビルマは雨期に入り、トラックが通れなくなっていた。人力で運んだが、これではウクルルに何とか運べた量は微々たるものだった。6月10日ごろ、輸送隊、黒岩正幸兵長の駐屯する街道に、コヒマからの撤退兵が行軍してきた。
6月10日ごろ、コヒマ方面から多数の兵隊が行軍してきた。烈兵団の撤退兵だという。
「お前ら、コヒマを占領できなかったの」
「そんなこと言うたかて、最前線に行ってみなはれ、小銃一発撃ったら、百発打ってくるがな。大砲勝て、一発ぶちかましたら前発も打ち返して来よるんで。おまけに戦車に戦闘機、まるで勝負にならへん」
「ずいぶん苦戦したんだねえ」
「苦戦なんてもんやあらへん、本間に地獄や」
別の兵長はやつれた顔に自嘲的な笑いを浮かべながら、次のことを語った。敵は山頂に堅固な陣地内にいて、味方はその真下まで取り付くが、それ以上はどうしても進めない。突撃すれば敵の銃火で全滅する。やむなく、山肌にへばりついて敵と対峙していると、敵陣から女の声で日本語の放送が始まった。
「日本軍の兵士の皆さん、お疲れでしょう。只今、こちらではお茶の時間です。熱いコーヒーと、おいしいケーキがたくさんありますわ。コーヒーを召し上がりたい方は、手を上げて気軽においでください、みんな歓迎しますわ」
言葉が途切れると、コーヒーの香りがぷーんと日本軍陣地に漂ってきた。上を見ると、ひしゃくでコーヒーをバラ見ていた。コーヒーにつられて投降する日本兵はいなかったが、思わずのどがゴクンとなった。また、自分たちのみじめさに涙を流しながら、「此畜生、此畜生」と怒鳴り続けていた戦友もいた。烈兵団は4つの梯団に分かれ、次から次へと後退していった。
わずかに希望をつないだのは、カラソムに行きつくことであった。そこには、軍命令で四日分の糧食を集積していあるはずだった。だが烈師団のための糧食は輸送されていなかった。そればかりでない、兵站部隊の糧食さえもなかった。
6月14日ごろ、烈兵団長・佐藤幸徳中将が第三梯団の先頭で、黒岩正幸兵長所属の輸送隊のところに後退して来た。佐藤中将は、体は太っていたが顔中ひげぼうぼうで、さすがに沈痛な表情をしていた。
「松本中尉、部下から傷病兵の担架輸送を頼んだと思うが」 | 輸送隊松本中尉 | 「はい、承りました」 | |
「ご苦労であるが、早急にやってくれ」 | 輸送隊松本中尉 | 「はい、全力を尽くしますが閣下…」 | |
「どうした、遠慮なく言ってみよ」 | 輸送隊松本中尉 | 「閣下、中隊の兵は長い間一日一合食のかゆで命をつないでおります。」 | |
「……一日一合食であるか……」 | 輸送隊松本中尉 | 「御命令に沿って早急に運ぶ体力が、兵にありますか心配であります」 |
佐藤中将は沈黙した。輸送隊が飢餓に瀕していることは初耳で、意外であったらしい。烈兵団は飢えたといっても輸送隊ほど極限状態ではなかった。左突進隊はウクルルからカラソムにかけての集落で、各部隊が勝手に略奪することは厳禁して、部隊経理が計画的に挑発を行い、それを逐次前線に送らせたので、撤退に移るまで米にはさほど困らなかったという。中突進隊の鳥飼連隊主力は、コヒマで敵の食糧倉庫が爆撃で焼失する前に、大量の食糧を持ち出していた。ただもっとも険しい山岳部を進んだ右突進隊と兵団司令部などは、徴発で賄ったが、バケケズミミ方面に敵の第二十三挺身旅団が潜入してきたため、米の徴発区域が狭まって食糧難に陥った。それでも一人2-3合/日は食べていたようである。後方部隊である輸送隊まで補給がなく、飢えと戦っていることを知った佐藤中将は唇をきっと結び、空の一点を見据えた。
「松本中尉、わしはお国のために戦って傷つき、病気になった物を見捨てていけないんだ。困難なことはよくわかるが、万難を排して運んでやってくれんか」 |
戦利品のたばこと日本軍のたばこの入った人包みを松本中隊長に送り、黙々としてウクルルへの道を下って行った。
師団では意外な事態に驚いたが、すぐ手分けして、近隣の部落に徴発に行った。しかしそこはすでに徴発してしまっていて、何も残っていなかった。力ない行軍が始まった。カラソムの患者集合所付近の道路には、多くの死体が置き捨てられていた。
6月21日輸送隊中隊も撤退を始めた。カラソムにも敵が迫り、4543高地も修復されて敵が300に達した。患者輸送は困難を極めたが行われた。患者輸送任務を遂行できた2つの理由があった。1つは烈の第四梯団の撤退が遅れ、英軍をけん制することになったと思われる。最後尾は6月20日ごろ通過していった。二つ目は英印軍の慎重性である。敵が日本軍のように猪突猛進であったなら、残兵がいるいないにかかわらず攻撃され。患者もろとも全滅したことであろう。だが…
インパール作戦、雨期 ビシェンプールの戦い、三十三師団(弓師団)③ コヒマの戦い② 抗命 牟田口廉也中将と河辺中将 抗命② 十五師団③ 抗命③ インパール街道打通 十五師団④ シェナム〜パレル、山本支隊② 抗命④ シッタン渡河点、軍司令官逃走 英印軍の追撃 モーレ〜タム、シッタン渡河点、カレワ渡河点 パンタ街道 ティディム街道敗走 |
カンラトンビの松村六十連隊の堅固な日本軍の陣地に対しては、英軍6月初めに戦車を斜面を工兵隊に引き上げてもらって、ようやく守備兵を敗走させた。ウクルル―インパール間の高地に守備する日本軍も、英軍の戦車部隊の攻撃にさらされ、日本軍は追い散らされていた。
第十五師団山内中将は、始めこそかなり大事にされたが、今では部下と変わらぬ食事をとっていた。山内中将はウ号作戦が始まった時はすでに病人だった。
牟田口司令官は6月初めの三週間、矛盾した命令による混乱の中にもインパールを獲れと山内を豚足し続けた。ある時は山内師団の一部隊が熾烈な英軍の弾幕に後退すると、第十五軍が認可しない限り後退はしてはならぬと命令してきた。だが体は弱っても、脅しには載らなかった。分隊や小隊から連絡が届き、第十五軍が後退命令を出す前に全滅してしまうと言い返した。牟田口は打電してきた。
「戦車を含む英軍の圧力は、第三十三師団に加えられているから、第十五師団正面の圧力は弱いはずだ。」 |
山内は黙殺した。だが6月15日、16日とインパールを攻略せよとの電信が来た。その日遅くには「右突進隊を宮崎支隊の指揮下に置く」と命令が来た。これでは山内兵団は三個大隊になり、師団長とは名ばかりである。6月22日には北方からウクルルに来襲する英軍を阻止するため第三百輸送隊を派遣せよといってきた。これは二個大隊に相当し、山内指揮下の部隊は一個大隊半のみになる。
第十五軍司令官牟田口中将は言っている。皇軍には天佑神助の奇跡が起こると。しかし兵たちでさえ誰もそんなことを信じているものはいない。糧を敵に求めよ、と言われても、これも突入すれば殲滅されてしまう。これではいかに死力を尽くしても絶対不可能な現状であった。
烈兵団は、祭兵団方面に行っても餓死者を出している状況なので、とても補給整備はできないといって、インパール北方コヒマ付近から撤退し、祭兵団のそばをぼろぼろの服に、軍靴の底のはがれたのを木の皮の繊維などで縛り、フラフラになって後退していく。岡田参謀長は、考えた。烈がコヒマを放棄すればコヒマ〜インパール道は完全に開放され、北方の強力な英軍と南方のインパールの英印軍が大挙して追撃侵入してくるのが予想される。そうなれば右翼突進隊、松村連隊は正面と右側背から攻撃を受け、全滅を避けられないであろう。まず本多挺身隊と松村連隊を救わなくてはならぬ、本田、松村両部隊に司令部の線までの後退を命じ、祭兵団正面および烈兵団に追撃してくる敵の攻撃阻止に備えさせた。そんなとき、もう一つ重大な出来事があった。それは軍より、第十五師団長山内正文中将を更迭してきたのである。6月23日、6月10日付で師団長を解任された命令を、薄井参謀が持ってきたのだった。結核の発熱を押して病床から戦闘指導をしていた山内は、この異動を争う気力はなかった。
6月半ばすぎだったか、師団長更迭の発令到着前に、すでに新師団長柴田宇一中将が着任した。師団長更迭命令は6月1日だったそうである。新師団長柴田中将は中支戦線で勇猛果敢で名声を博したといわれるが、その戦術は、がむしゃらで知られていた人で、牟田口軍司令官は、こういう人物を出せば、必ず実行するだろうと考えたのであろうか。弓、祭、烈の各兵団長はそれぞれ特色のある、軍部でも定評のある師団長であったのに、牟田口軍司令官はインパール占領ができないのは、それらの師団長の責任であると決めつけているのである。新任の柴田師団長は、着任早々「祭も各兵団も臆病者ばかりだ。これからインパールに突入する」、自分の兵団の悪口を言い、まず現状を知ろうとしない。
インパール作戦、雨期 ビシェンプールの戦い、三十三師団(弓師団)③ コヒマの戦い② 抗命 牟田口廉也中将と河辺中将 抗命② 十五師団③ 抗命③ インパール街道打通 十五師団④ シェナム〜パレル、山本支隊② 抗命④ シッタン渡河点、軍司令官逃走 英印軍の追撃 モーレ〜タム、シッタン渡河点、カレワ渡河点 パンタ街道 ティディム街道敗走 |
十五軍から、次のウクルルで糧食弾薬を必ず補給する、と連絡があった。ウクルルはインパール作戦のための大きな兵站基地である。そこはまた、祭十五師団の戦闘指令所に近い要地だった。だが退却先のウクルルにも弾薬・食糧が全くなかった。剛毅な佐藤師団長も、全身に寒気に似たものを走るのを感じた。烈の先頭はウクルルにあっても、第四梯団のしんがり軍となっている百三十八連隊は、ようやくカラソムから動き始めたばかり。師団全体が恐ろしい危険にさらされているばかりではない、全軍がまさに覆滅の寸前にあるのだ。十五軍は重ねてサンジャックへ集結しインパールへの進撃を命令し続けた。佐藤師団長は無視した、そしてさらに、独断で6月20日ウクルルを出発、サンジャックに背を向け更に後方の「フミネ」まで後退を始めた。牟田口は参謀を佐藤のもとに派遣した。
6月20日前後のことである。部隊はウクルルからかなり遠ざかっていた。そんなある日、私たちの近くに見慣れない一隊が停止すると、手際よく数枚の天幕をつなぎ合わせ、喬木を利用してあっという間に幕舎を設営してしまった。
「師団司令部だ。くそったれが、なんだってこんなところへ設営しやがるんだ」
「まったくついてねえよなあ、こんなところで」。
ワイワイ、がやがやとやっている時、いきなり
「お前たち、どこの兵隊か」
見れば軍衣こそ官服だが、襟章も軍刀も刀吊すら帯びず、地下足袋に巻足絆。無精ひげの大男がぬっと背後に立っている
「五十八の第二機関銃です」
位負けとでも言うのだろうか、私たち兵はいつの間にか反射的に直立し、不動の姿勢をとっていた。
「なに、五十八だと、そうか」「わしは師団長だ、少し待っていろ」。
設営されたばかりの天幕に入ってしまった。と、ほどなく両手一杯にに十本入りのたばこを持ってきた
「興亜だ。みんなにやりたいが、そちこちの天幕にも分けにゃならんのでな。全員にわたらなかったら、回し飲みにしてくれ」
と師団長は自らその一本ずつを私ども兵隊すべてに渡してくれた。
「お前たち、はだしか」
「はい」
「とにかく、今は撤退なのだ。命だけはそまつにするなよ・・・・」
と多くは語らなかった。が、その時である
「閣下、すぐに天幕へお入りください。軍司令部から使いが参っております」
「ほう、軍司令部からきおったか。いや構わん、待たせておけ。わしには今、どうしても手の離せん大事な仕事があるんでな」。
再び手に残った興亜を分け与えるべく、付近に点々ともうけられた兵隊の天幕へと向かったのである。閣下の言うどうしても手の離せない大事な仕事とは、私たちに行ったのと同様のねぎらいを、付近の兵一人一人にかけて回ることだったのだ。
「なんちゅうこった、閣下が地下足袋はいてやがる」
「泣かせるでねえか」
「ちきしょうめ、親父さん、あんたのためならおら今でも死ねるで!」
6月21日参謀の久野村少将、薄井少佐はウクルル南東10キロの道端で第三十一師団司令部一行と出会った。佐藤は怒鳴った。「出発前、あれだけ硬い約束をしておきながら、一発の弾も一粒の米も送らなかったのは何事か」。薄井はサンジャックの補給業務を視察すべき命令を受けているのに一度も行っていない。薄井も久野村もこの方面の前線に来たのも初めてである。
「カラソムには補給の準備なし、ウクルルにも皆無。なぜだ!、師団への貴様の約束はどうなったのか。さあ薄井、言うことあるか」 | 久野村 | 「参謀に過失があれば、どうか直接私に言っていただきます。これから閣下と私だけで懇談お願いします。」 | |
「ウクルルから北には、糧食は何もない。原住民は全く離反して、夜になると、わが歩哨を襲ってくる。遺棄死体は裸にされている。いったいこれはどうするつもりだ。これから補給はどうなるんだ」 | 久野村参謀長 | 「インパール攻撃の師団長が、その意思がなければだめですな。宮崎支隊はうまく撤退できますか。支隊の後から、英軍が追撃してきませんか」 | |
「英軍の追撃ばかり心配しているのは、同も英軍を恐れすぎていな。これは牟田口が怖気づいているのだろう。」 | 久野村参謀長 | 「お話によると、ウクルルに補給物資は皆無だが、第十五師団が持っていったと思われる。薄井参謀が申し上げたように、フミネには集積があるから、師団はそれによって戦力を回復し、北方に態勢を立て直していただきたい」 | |
「北に向きを変えるのは異存ないが、それよりまず食うことだ。確実に食えるところまで移動する決心に変わりない。」 | 久野村 | 「閣下、閣下は命令を実行されますか」 |
「実行しないとは言っていない、だがまず食うことだ。軍命令の実行はそれからだ」 |
フミネには米はあったが、わずか2日分の16トンだった。その南にも食料の在庫は皆無だった。久野村は在庫の不適切なことを知りながら、そのような地点にどうやって佐藤が兵を終結させられると思っていたのか。第十五軍の責任感の恐るべき欠如であり、無謀さだった。
「ああ、チキショウ!、こんなところで野垂れ死にしたかあねえ…」私の中に、再び名状しがたい怒りが込み上げてきた。見れば、彼の破れた群袴の腰のあたりの数匹の蛆が張っている。中隊随一の好男子をこんな姿にしやがったのは誰だ。グルカか英兵か、それとも彼らの質量とも優れた兵器か…。いずれも否と答えざるを得ない。「てめえら、何様のつもりだ。この軍隊を極楽とでも思ってきやがったのか!」などと初年兵を捕まえては息巻いていた阿部だったが…。
一日ごとに死体が増えていく、死体は一日で完全に蠅の餌食となる、一人ぽつんと孤独な死体もあったが、たいていは五人、六人、十人と集団で死んでいることが多い。真ん中あたりはすでに白骨化しており、端になるにつれて死体は新しい。時にはまだ死に切れぬ者もいた。
佐藤に6月25日に届いた命令は、ミンタに各部隊を集結しパレルを攻撃せよと伝えた。しかし食料がなかった。7月7日牟田口は前の命令を取り消し、歩兵三個大隊と砲兵一個大隊をミョチョットに派遣して、山本少将の指揮下に入れるよう求めてきた。佐藤は第百三十八連隊の二個大隊、第百二十四連隊第二大隊と山砲隊をミョチョットに送った。しかし部隊はそこについても、山本少将がいくら要求しようと、一切行動に移らなかった。7月9日佐藤は7月7日付で師団長を解任するという軍命令を受け取った。
「本野戦病院は、敵接近のため解散することになった。よって、重症患者で歩行できないものは自決せよ。自力で歩けるものは、ウクルル郊外四キロの地点まで行け。そこまでいけば、患者輸送の自動車が来て、フミネ野戦病院に連れていく」
このウクルル野戦病院の入院患者に対する措置について輜重兵黒岩氏が聞いたことは真実と思われたが、証拠がなかった。また、輜重兵第五十五中隊は四名入院させており、輸送隊兵が入院患者の存在を目撃していることなど疑問点があった。戦後、防衛庁戦史室の書物にて、独立輜重兵第五十五中隊の行動記録の中に、次のように記されていたという。
「7月1日夜、ウクルルの野戦病院に、千名近くの患者受領に行ったら、病院側から、患者は全部処理したからもうよい、と言われた…」
この記録により、6月30日に最後の処理が行われたことが明白になった。病院はその前数日にわたって処理を続行してきたものであろう。処理したとは、歩けないものは殺したということである。一部の歩けるものは独歩患者として病院から退去させ、大半を占める歩けない患者は、自決を強要し、患者自らか、病院側によって命が絶たれたのである。その中には、輜重兵第五十五中隊が命をすり減らして運んだ烈兵団の四百名近い傷病兵が含まれ、輜重兵第五十五中隊から入院させた患者も含まれている。
野戦病院の処理は十五軍(牟田口廉也司令官)からの命令による物だろう。軍幹部はこれを非道行為とは考えず、敵意の捕虜にならず、軍人として潔く最期を遂げさす思想であった。とんでもない事である。兵士から見れば人間の生命の尊厳を無視した残虐行為であり、殺人である。インパール作戦の退却路は、日本軍が掌握していた。敵に阻まれてもいないのに、傷病兵を後送できなかったのは、軍幹部の無能力のせいである。その責任はとらず、もはや戦力にならない傷病兵は殺すという非道な処置をとるのが、皇軍と自称した日本陸軍の非近代性、野蛮性であり、人間としての日本人の欠点でもあった。この大量殺人行為は、ウクルル野戦病院だけでなく、フミネその他の野戦病院でも退却前に同じことが行われた。
インパール作戦、雨期 ビシェンプールの戦い、三十三師団(弓師団)③ コヒマの戦い② 抗命 牟田口廉也中将と河辺中将 抗命② 十五師団③ 抗命③ インパール街道打通 十五師団④ シェナム〜パレル、山本支隊② 抗命④ シッタン渡河点、軍司令官逃走 英印軍の追撃 モーレ〜タム、シッタン渡河点、カレワ渡河点 パンタ街道 ティディム街道敗走 |
6月2日、コヒマでは英軍はいつもと変わりない激しさで5120高地とアラズラ高地を砲撃した。飛行機が来て、爆撃もした。そこはもう日本軍の撤退した後であった。それを望見した日本兵は手をたたいて喜んだ。英軍の追撃は師団本体が反撃し、進撃を止めた。英軍から師団本体が全く離脱したのは、6月12日ごろだった。
宮崎繁三郎少将は佐藤師団長から600名ほどの工兵隊を与えられ、インパール街道沿いに遅滞戦術を行うこととなった。橋梁を爆破し、襲撃した。宮崎に与えられた兵は強兵が多く、全滅を期してでも、三週間は英軍の進撃を食い止めるつもりだった。なるほど英軍は当初進撃を止めたが、支隊の奮闘というよりは英軍の慎重主義がそうさしめたといえた。当然いつまでも英軍を止められるわけではなく、6月18日に宮崎支隊の西田将大尉が6月18日夜ミッション(カンポピ)の十五師団松村大佐に申告した時、すでに60キロ先のカロンとそのすぐ北のマラムまで圧迫されていた。
松村は連隊の竹野内中尉を宮崎の司令部に派遣、カロンの司令部で宮崎はせいぜいカロンで6月22日まで抵抗し、その後ミッションに下がるといった。松村は宮崎を待たなかった。各隊にミッション方向の道路に撤退するよう伝えた。宮崎部隊の百二十四連隊の石堂大隊は英軍の猛攻にマラムの谷でバラバラに散らばって逃げ込んでしまった。マラムで最後の殿となったのは第五十八連隊の西田中尉の中隊だった。6月20日昼、敵の突進に対し肉薄攻撃を加えたが英軍は全く止まらず、マラムの山中に逃げた西田隊の将兵は、インパール街道を英軍の戦車・自動車が幾十幾百と並んで絶え間なく通過するさまを茫然として見送るしかなかった。コヒマ―インパール街道はついにマラムで突破された。6月20日のことである。
カロンを突破したイギリス第2師団の戦車は早くも6月20日、松村連隊に砲撃を加え始めた。松村部隊は北と南から英軍に挟撃されたのである。北の英軍がミッションにまで達した6月22日午前十時半、南方の第四軍団の監視所から歩兵を乗せたリー戦車部隊が見えた。第4軍団の戦車は南方から街道を突破し、午前十時半、第2師団の先頭戦車と握手した。松村部隊は山中に退避したが、戦車の轟音が聞こえてきたため、傷病兵は運ぶ途中で道路に放置して軍医や衛生兵は逃げてしまった。山頂から監視していた第六十連隊本部の井上猛夫軍医は、サイドカーが南から走ってきて戦車の前で止まるのを見た。戦車から将校が下りてきて、サイドカーの運転者と側車の主と握手したのを見た。「負けた」と井上は思った。
第一野戦病院の傷病兵を、街道越しに丘陵に収容するよう命じられていた日本兵は、多くの場合、患者を丘の中腹に放置した。街道の北と南から接近する戦車の轟音を聞いたからである。「連れて行ってくれ」と、負傷兵は去り行く担架兵に哀願した。栃平主計曹長は、病院の傷病兵が一列に並べて放置されているのを、中腹から望見した。本道の端には、担架に乗せられたままの患者を並べてあった。全部で120名くらいいた。英国兵が患者を調べていた。その中から幾人かを本道上のジープに運んで乗せていた。
じっと見ていると、ひとりのインド兵が容器を手に負傷兵に近寄り、インド兵は患者に水のようなものを盛んにかけ始めた。敵さんが患者に川の水をかけてくれているのかと栃平は思った。だが、くわえたばこのインド兵が前かがみに動いた瞬間、一連の火勢が患者の列に走った。かけていたのはガソリンだったのだ。悲鳴、怒号、うめき声が混じる何とも言えぬ叫びが沸き上がった。文字通りの阿鼻叫喚、地獄の様相であった。体をくねらせ顔をひきつらせた人々を嘗め回す巨大な炎。炎はさらに燃え盛り、生身を焼く異様な黒煙が炎とともに激しい勢いで立ち上っていった。
クレーン車が入り、たちまち架橋していった。南方へトラックの通過も激しくなっていた。コヒマ・インパール道は連合軍により解放された。日本軍のインパール作戦はこの時完全に崩壊した。
コヒマの、死者を追悼する記念碑には、胸を突かれる文字が刻まれている。
When you go home, tell them of us and say, For your tomorrow, we gave our today
しかし誰の明日のために、彼らの命が捧げられたというのか。放っておいても崩壊寸前にあった大英帝国のためにか。そのイギリスが軍事力をもってこの豊かな領土を保持するにはあまりにも脆弱で、そのうえ保持すること自体に疑問が多すぎることを知っての上だろうか。
元英兵「だからと言って、ここで死んだことが無意味だったとするのは、早まった論だ。日本軍野心家の将軍、牟田口廉也の野望が実現していたとしたら、どうなっていただろう。彼はインドをイギリスからもぎ取り、イギリスの戦線離脱を想定していた。日本は勝ち誇ったドイツ軍と、コーカサスとペルシャの線で手を結び、合衆国は連合国から孤立させられ、単独講和を余儀なくされたかもしれない。世界は権威主義的で軍国主義的な暗黒時代に覆われていたかもしれない。あのような形で連合軍が勝ったからこそ、今日の現実があるのだ。」 |
コヒマ、インパールの戦いは英軍の勝利に終わった。牟田口司令官の野望は崩れ去った。
インパール作戦、雨期 ビシェンプールの戦い、三十三師団(弓師団)③ コヒマの戦い② 抗命 牟田口廉也中将と河辺中将 抗命② 十五師団③ 抗命③ インパール街道打通 十五師団④ シェナム〜パレル、山本支隊② 抗命④ シッタン渡河点、軍司令官逃走 英印軍の追撃 モーレ〜タム、シッタン渡河点、カレワ渡河点 パンタ街道 ティディム街道敗走 |
牟田口司令官が6月、第十五、第三十一師団を使ってウクルルからインパールへ進撃しようとした局面で、第十五師団の兵士は苦しんでいた。モドブン高地の松村六十連隊は、インパールから持ってきた英軍の高射砲の砲撃にさらされ、この奇妙な大砲に対抗する手立てもなかった。空にはもう撃墜すべき日本機がいないから用済みにになったのだろう。この時、日本軍は戦車に「チビ弾」と呼ばれる毒ガスを使用したといわれる。
上原上等兵が突然体を起こし、壕を飛び出して戦車に突進したのだ。「俺があの戦車をやっつける。任しておけ」。右手に大きなガラス玉のようなものをつかんでいた。上原はその球を投げつけた。弾は戦車の前部で砕け、戦車は蒸気のような白い煙で包まれ、それを内部に吸い込んだ。数秒後、砲塔の蓋が持ち上げられ、乗員が斜面に転がり出た。煙を逃れようと転げまわっている。上原は砲塔によじ登り、手榴弾を投げ込んだ。内部から強烈な火柱が立ち、巨大な鉄塊は急にゴーっと音を立てて燃え出した。爆薬に点火したのである。
これはWW2で毒ガスを使用したまれな例であった。これはドイツの発明であり、潜水艦によりドイツの発明の図面が日本側に渡され作られたもので、日本とドイツの有用な軍事協力の一例であった。厚いガラス球でできており、その芯に液化した青酸ガスが入っていた。戦車の鋼板にぶつかってガラスが敗れると、液体が空気中で気化して白煙の蒸気を作り、これが乗員室に導かれて乗員を窒息させたのである。「チビ弾」がもっとたくさんあれば、日本軍歩兵の恐るべき対戦車武器になったかもしれない。だが結局は最後の苦し紛れの一撃に過ぎない。多くの日本兵は次の独立山砲隊の運命のように、英軍の攻撃の前に粉砕を余儀なくされていた。
先任将校はみな戦死したので、中隊長代理の島達夫見習士官が指揮を執った。彼は一か月も筍とパセリとトカゲだけで生きてきたので、もう体力がほとんどなかった。…連続投下の爆弾が砲を包んだ。島の体は空中に投げ上げられ、後頭部が何か硬いものにぶつかった。彼が気が付いたときは、すべて終わっていた。中隊は全滅し、生き残ったのは五人だけだった。…彼は砲兵隊本部に報告すべきだと知っていたが、今や英軍の戦車、トラック、ジープの列が南に向かっている。彼と部下は、道なきジャングルに入っていった。…部下の一人、花田上等兵は腹部に重傷を負っていた。翌日の夜明けに死んだ。背中に負傷した土井一等兵は、歩きながら死んだ。…シボンまで行けば、日本軍の陣地があるはずだ。だから、さらに歩いた。
今や危険は、英軍だけではない、至近弾で腹を裂かれた死体のそばに背嚢が散らばっているが、中身はからだ。木の間に隠れるドロボウ兵の仕業だ。彼らの獲物は、死体だけとは限らない。「ついにここまで来たか」と、島は思った。「ただ生きているために、味方まで殺すのか」。そのうち自分たちも死体の背嚢をあさり始めた。しかし無駄だった。どれにも食物のひとかけらも残っていなかった。…重い足取りで歩いていった。また死体の数が増え始めた。アッサムの湿度の高い空気とモンスーンの雨水がきれいに死体を掃除し、すでに骸骨となっているものが多かった。
…意識が失われていく。どっと横になった。…遠くで戦車の轟音が聞こえた。……深い眠りに落ちた。………目が覚めたら、島は英軍の捕虜収容所にいた。(地獄街道の戦より)
マラムの線で、英印軍の機動部隊に突破された宮崎支隊は、7月2日(マラム南西10キロ)のチンスン部落の谷間に敵大部隊の縦隊を発見した。宮崎少将はマラムの屈辱を挽回しようと、わずか400名足らずの兵力をもって、三日未明。敵大群の真っただ中へ「ヒヨドリ越えの逆落とし」戦法をもって玉砕覚悟の突撃を決意した。少将は、前衛中隊の直後を前進する意思を全員につけているところへ、第十五師団から派遣された曹長と2,3名の下士官、兵の伝令が宮崎支隊の行方を探し求めてきたのである。
「宮崎支隊はウクルルに後退して、松村連隊を指揮せよ」という軍命令を受けたのち、宮崎支隊長がルンション北方に下がってきて、第十五師団司令部に表れた。岡田参謀長が、宮崎少将にパレル攻撃のことを伝えると、宮崎少将は、第十五師団司令部を去り、マオク、フミネを経てカバウ谷地に入り、チンドウィン河岸のトンヘからタウンダットに向かった。途中で泥濘膝を没する参道の両側には、餓死寸前の兵士と、瀕死の重病人そして死体が列をなしていた。
7月10日、第十五軍より、インパール作戦中止の命令が届いた。牟田口軍司令官は7月1日、方面軍より出されたインパール作戦中止命令を10日間も握りつぶしていたのである。この間に左翼の孤軍奮闘を続け、死守を命じられていた尾本連隊は壊滅的大打撃を受けるに至った。
7月4日になり、英印軍はサンジャック=インパール本道上に出没し始め、5日、ついにサンジャック、5516高地の中間にあたるラム付近は、敵に占領された。
インパール作戦、雨期 ビシェンプールの戦い、三十三師団(弓師団)③ コヒマの戦い② 抗命 牟田口廉也中将と河辺中将 抗命② 十五師団③ 抗命③ インパール街道打通 十五師団④ シェナム〜パレル、山本支隊② 抗命④ シッタン渡河点、軍司令官逃走 英印軍の追撃 モーレ〜タム、シッタン渡河点、カレワ渡河点 パンタ街道 ティディム街道敗走 |
シェナム〜パレル道は全天候補給できる道路があり、日本軍はここの攻撃に戦車部隊を投入したが、窮屈な隘路で前進が停滞したころで、英軍の集中砲火にさらされた。先頭は一瞬にして破壊され、戦車隊は撤退した。戦車十四連隊上田信男大佐はこれ以上戦車を敵の餌食にしたくなかった。翌朝、上田は支隊司令部に召還された。山本支隊長は激怒していて、「貴様は臆病者だ」と上田に怒号した。戦車隊は戦車の使い方を知らないバカの支配下にあることは明らかであった。上田は支隊長みずから前線に行ってみるべきだろうと提案した。これは言い過ぎだった。上田は罷免された。山本はこれに劣らず、歩兵指揮官に対しても、シェナム〜パレルの丘陵の争奪戦において、当たり散らした。
インド20師団グレイシー少将は全面が40㌔と広すぎるので、全域を保持するよりいくつかの強化円筒地域を作り、道路は解放しようとしたのである。日本軍は大きな犠牲を払いつつも丘を占領し、英軍は撤退しつつ砲撃と機関銃を浴びせ続けた。敵味方はしばしば五メートルという近さで、死者は腐ったまま横たわっていた。丘の斜面を覆っていた樹木も、今や砕けた切り株であった。
モンスーンが始まると、高度1200mの所は数週間続けて雲の中に沈み、視界は90メートルに減り、太陽は見えなかった。土砂降りが続き壕は壊れ、退避壕は足首まで泥に使った。日本軍伊藤部隊は前島中隊が全滅した山頂を反復攻撃しついに確保した。グレイシーは事態を放置することにした。山頂一つの争奪に、もうこれ以上の兵は失えない。日本軍は別の高地に手を出し始めていた。しかし次の山の攻撃は失敗し、手痛い損失を被った。山本はもう一度やることを主張した「一個中隊を貴様の副官に与え、川道を取らせよ、それから全部を連れて伊藤山に行け」「自分は二つの攻撃を命ぜられているが、昨日は失敗し、今死傷者を収容しているところです。きちんと攻撃準備ができ、敵陣の偵察をするまで待ってもらいたい」「それは何だ、臆病ものめが、俺の命令が聞こえなかったのか、これは陛下の命令だぞ」。
パレルへの道路に沿って、取りつ取られつの丘陵争奪戦が行われた間に、吉岡大隊と武村大隊は山越えに北に向かい、飛行場に近づいていた。パレル飛行場の機能を停止させるために行われた4月末の攻撃は失敗した。
キアニのインド国民軍はインパールが今にも陥落するという日本軍の楽観説を真に受けた。手榴弾や機関銃をカレワの渡河点に残して、毛布、小銃のみで戦闘に出てきた。飛行場の襲撃は、ブリタム・シン少佐指揮の300人の攻撃隊が担当した。わずか1日分の食料をもって、4月28日パレル郊外に64キロの山道を歩いてきた。兵士たちは着剣して闇に紛れて突撃した。守る側は同じくインド人で、意表を突かれて手を挙げた。「同士よ、俺たちを殺すな」とインド国民軍の兵士の呼びかけ、「何か欲しいものがあるか」と聞いた。ナガの槍を持ったラル・シンは「その角に隠れている英人将校二人の血が欲しい」と叫んだ。ラル・シンは英人を襲撃したが、インド部隊がこれに反攻してラル・シンに発砲しハチの巣にした。ブリタム・シン少佐は哨戒所のインド兵が投降寸前だと信じていたのであるが、兵士とともに壊走した。
翌日反撃に出た英軍により、旅団は一日で250人を失った。食料一日分とは無鉄砲だった。
そのうち、五月も半を過ぎて、雨に明け暮れるうっとうしい日が続いた。瘴癘の地で病魔を克服できず、無念の思いで戦没する兵士は後を絶たなかった。五月末まで、武村、吉岡部隊所属の傷病患者の死亡者は189名以上を数えていた。恐ろしいことには、他部隊患者を含めて、1600名あまりがモーレ収容所で戦没したのである。河辺司令官は、山本支隊長以下を激励したのち、夜インダンギーへ帰途についた。その途中、道路わきのモーレ病院を素通りしたことが、露天に駁され呻吟する患者たちの耳に入った。「河辺司令官は、血も涙もない人間だ」と、患者から非難された。
歩兵二百十三連隊、温井親光大佐が6月12日病院から戻ってきたとき、山本支隊長は最後のパレル攻撃を決意した。温井は6月16日ランゴールにあり、5日後に出発したが、開闢地で英軍爆撃機隊に逢い、特に工兵隊が手痛い損害を被った。温井も被爆した。6月26日英軍砲兵隊は温井をこの地に見つけ、夜間10分間隔で規則正しく集中砲撃を行った。日本軍の砲撃も最大射程でパレル飛行場をたたいたが、航空機の離発着は継続し、阻止できなかった。井上隊は7月2日パレル飛行場に潜入攻撃を行い、13機の戦闘機と偵察機に火を放ち、見事攻撃は成果を収めた。山本少将の最後のチャンスである。第三十一師団から配属した部隊を前線に進出させるよう命じた。その部隊はなかなか動かない。補給は底をつき、村人たちは略奪を恨んでいる。兵隊たちは残った米に草と粉味噌を混ぜて一日250gでしのがなければならなかった。
7月13日山本は十五軍からシェナム〜テンパウル地区からカボウ谷に撤退しモーレイク、アザジョーへ向かうよう指示された。彼は7月23日温井に撤退を擁護するように命じた。山砲一門が英軍の前進を阻止した。英軍はその方の所在を突き止められず、とにかくもできないでまごついた。なんということはない、この見えない大砲は飛騨弘中尉が、歩兵に撤退の余裕を与えるため、よく前線に踏みとどまっていたものだ。最後の一発を打ち終わると、彼は砲を解体し痕跡を消した。
山本の司令部は7月24日チャモルを出たが、英軍は深追いをしなかったので、第十五、三十一師団の落伍兵とインド国民軍の敗残兵を収容することができた。このころ糧食は一日48グラムに低下し、モーレにはもう徴発の余地がなかった。他の将軍たちと同じく、山本も牟田口にはもううんざりしていた。第十五軍司令部から藤原参謀が撤退誘導にやってきたとき、山本は歯に衣を着せなかった「これまで軍命令に従ってきたが、今日からは自分の判断で行動する」。藤原はモーレを7月31日まで確保せよとの指示を伝えたのだが、山本は落伍兵がいないのを見て1日早く移動をはじめ、チンドウィン河畔のシッタンまで8月2日についた。彼はヤザギョーに司令部を置いて英軍の進撃を阻止し、第三十三師団の後退を援護しよと命ぜられた。この命令を無視し、温井部隊から歩兵一個中隊を派遣して来襲するイギリス軍への形だけの抵抗のしるしとした。初期の山本のシェナム鞍部の戦いでの伊藤少佐や上田大佐へのふるまいは、理不尽な要求であってもそれに従おうとしない部下への峻烈な態度を示すものだった。今や自分がたっぷりそれをやってのけている。
インパール作戦、雨期 ビシェンプールの戦い、三十三師団(弓師団)③ コヒマの戦い② 抗命 牟田口廉也中将と河辺中将 抗命② 十五師団③ 抗命③ インパール街道打通 十五師団④ シェナム〜パレル、山本支隊② 抗命④ シッタン渡河点、軍司令官逃走 英印軍の追撃 モーレ〜タム、シッタン渡河点、カレワ渡河点 パンタ街道 ティディム街道敗走 |
佐藤三十一師団長は解任された。後任の師団長には、皇軍の中でも名将と名高い宮崎繁三郎が着任した。宮崎繁三郎はビルマ人に対しても親切に接したことや、部隊に軍規を徹底して守らせ、彼の部隊は厳正な軍規が保たれたことで知られている。その後河田槌太郎中将が後任となった。
「食料の受領に来ました」「食料なんかないよ」「ないだと、ここは兵站だろう」「兵站でもないものはないんだ」
ウクルル兵站は6月10日で業務を停止していたのである。6月29日絶望の一夜が明けた。連隊長から輜重兵第五十五中隊松本中隊長に、命令書に添えて一通の書状が届いていた。開封して読んだ中隊長は深刻な表情に変わり、その夜、出発前に全員集合がかかった。准尉が重く沈んだ声で訓示を始めた
「出発に際し中隊長殿の命令を伝える。我が中隊は、担架輸送の任務以来、多くの兵が疲労混倍の極にある。傷病兵の担架輸送は担架を担ぐ兵が倒れ、また担送患者となって鼠算式に患者が増加し、ついには中隊全滅の恐れがある。よって、本日より担送輸送は一切禁止する」
准尉はここまで言った絶句し、頭を垂れて沈黙した。やがて、思い切ったように顔を上げて言い放った
「今後、自力で歩けなくなったものは、自決せよ」
青天の霹靂とはこのことだろう。信じられない宣告だった。残酷な自決命令であっても、将兵全員が悲運にさらされるのならあきらめがつきやすいが、将校だけは例外と分かって不満がくすぶり始めた。将校だけは依然として担架輸送を続けているのだ。
この辺りは、アラカン山系でも峻険な地域で、標高8000フィート(2432m)前後の山々が峯を連ねていたが、その中を、幅3メートルはある広い道が、山を縫うようにフミネに通じていた。英印軍がビルマ奪還のためにつくった軍用道路で、ウクルル―フミネ間はほとんど完成していたが、舗装はされておらず、雨期に入って方々にがけ崩れが起こり、今はジープがやっと通れる状態であった。
軍隊では、兵隊の命は粗末にする癖に、行方不明者を出すことを極端に嫌った。戦死でもなければ戦病死でもなく、いつまでたっても処理ができないからである。今一つ、戦争中の行方不明者は、敵の捕虜になる恐れがあった。日本軍には、「生きて虜囚の辱めを受けず」という野蛮な伝統があったから、自分の部隊から捕虜が出るのは大変な恥辱として、隊長は極力行方不明者の防止を図ったのである。この日、中隊は、落伍者を防ぐため、後尾収容班が設置された。「歩けなければ自決しろ」と迫られた兵士は、どう対応しただろうか、後日の後備収容班の告白によると、即座に「自決します」と答えた物はまれで、ほとんどの兵は「自決は嫌です」と拒否し、「少し休ませてください」とか、「ここに残してください」という、自決を拒否する兵士には、最後にどんな措置が取られたのか…後備収容班の冷たい銃口が向けられたのである。自決の勧告はさせても、まさか自決を拒否するものは撃ち殺してしまえ、と命じるわけがなかった。だが、自力で歩けなくなったら自決さすことが、連隊長の指示であり、軍の方針である限り、後備収容班が撃ち殺しておいて、「自決しました」と報告すれば、何の処罰もなく片付くことも事実である。この悲劇は我が中隊だけでなく、インパール作戦に参加した前線部隊全軍におこったはずである。しかも、軍規厳正で優秀とされた部隊ほど、落伍者の取り締まりは過酷であっただろう。退却の間、強制的に自決させられ、あるいは戦友に殺された病兵士は、相当な数に上ったと推定される。
解任された佐藤幸徳は7月10日師団司令部を出発した。翌日は案内役の大尉とともに十五軍司令部からの迎えのトラックがきた。大尉は途中軍司令部の内情を佐藤中将に打ち明けた。日頃の怒りを抑えかねた様子である。その話によれば、十五軍の内情は怪異極まるものであった。
牟田口軍司令官がでたらめな命令を出すので、参謀が実行できないことを説明すると「とにかく、命令だけ出しておけ」と命じた。また事情を説明しようとしても、まったく聞こうとしないで、頭から怒鳴りつけた。こうしてでたらめな命令が乱発された。牟田口軍司令官は何かあるとすぐに「抗命罪にしろ」とか「軍法会議にかけろ」と怒鳴った。この怒号は絶え間なかった。十五軍の司令部でも、幕僚などの上級将校は別として、多くは飢えと病気に悩まされていた。その上牟田口軍司令官の急変する感情のまま使われ、叱り飛ばされるので、神経まで疲れていた。早朝、山の尾根のほうから、柏手を打つ音が響き、祝詞を読む声が高らかに聞こえた。なみなみでない大声で三十分以上は続いた。その基地外じみた祝詞の主が牟田口軍司令官であった。
佐藤中将のトラックは、途中で数名の将兵に行き当たった。烈師団の加藤参謀長と、常松軍医部長らであった。師団の実情を報告するため十五軍に行った帰りだった。加藤参謀長は意外なことを報告した「軍司令官閣下は前線視察に行かれて不在であり、各幕僚も多忙で会えないそうです。休息所で急速後、すぐに出発していただきたいとのことです」。また常松軍医部長の報告はさらに佐藤師団長を驚かした。軍司令部で佐藤中将が神経衰弱であるというう診断書を書くことを強要されたのである。
途中の道には豪雨と泥にまみれて、死体が点々と散らばっていた。佐藤中将は随行の兵に命じて、死体を埋葬させた。軍司令部についたのは7月12日の午前二時過ぎであった。
「牟田口は、よほどおれがこわいとみえる」 |
案内の大尉に軍司令部に行かせて、到着を伝え、面会を申し入れさせた。しばらくして、高級参謀の木下英明大佐が出てきた。久野村参謀長は出なかった。佐藤中将は怒鳴りつけた。
「参謀長はどうした」 | 木下大佐 | 「参謀長閣下は御起こしましたが、腰がふらふらして歩けませんから、失礼させて頂きますということであります」 | ||
「良心の呵責に耐えなくて、俺に会えんのだろう」 | 木下大佐 | 「いや、閣下はご病気です、閣下は本当にご病気です」 | ||
「そうか、では軍司令官閣下はどうした」 | 木下大佐 | 「山本支隊に視察に行かれました」 | ||
「居留守を使っているのではないな?」 | 木下大佐 | 「はい、今夜は山本支隊におられます」 | ||
「俺がくるので、視察に出たのだろう」 | 木下大佐 | 「そんなことはありません、しかし佐藤閣下の行動については、御不満のように聞いております。怒っておいでのようです」 |
「このコヒマ攻略の勇将を何と思うか。勇戦奮闘した烈師団が、現在どのような状態になっているか、高級参謀は知っておるのか」 | 木下大佐 | 「はい、承知しております」 | ||
「軍はでたらめな命令ばかりを出し、糧食も弾薬もよこさなかった。その為に烈は戦ができなかった。このことを知っておるか」 | 木下大佐 | 「はい。承知しております」 |
木下高級参謀は不動の姿勢を続けたまま、非常に緊張して答えた。
「いったい、あれだけ騒いで上司を動かして、この作戦を実施しながら、自分の責任で始末ができないとは、なんということか。陛下の軍隊を、自己の無責任から自滅させるに至っては、その罪は重大であるぞ」 |
抗命の罪を問われようとしている佐藤中将は、逆に十五軍の無責任を追求した「速やかに、この事態を収拾しろ」佐藤中将はその方法として五つの項目を挙げた。フナ運にて糧食を補給し、烈および祭師団を撤収せしめることだった。木下高級参謀は即座に確約した。
「よし、佐藤はこれからラングーンに行く途中、それを実行しているかどうかを確かめながら行く。もし実行していなければ、ここに引き返してくるぞ」 |
と強い態度を示した。「はい、必ず実行します。」。
その翌朝の十五軍司令部の異様な状況を、情報班の中井悟四郎中尉は記述している。早朝に牟田口軍司令官は司令部にいた。これは前夜前線視察に行ったというのは嘘で、佐藤師団長を恐れて隠れていたのである。司令部は全員、祝詞の座付近に集合を命ぜられた。そこには十坪ばかりをきれいに地均しし、丸太を美しく削って鳥居を立ててある。副官の話によると、毎早朝彼はここに土下座して、おのが武運を守らせ給えと叫び続けるのだそうだ。しばらく待たされていると、軍司令官が出てきた。そして上げしく、悲痛な声を上げ、時には涙声さえ交えて、訓示を始めたのである。
「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる。毛唐の奴らに日本が負ける物か。絶対に負けやせん。必勝の信念をもってやれ。食物がなくても命のある限りやりぬくんじゃ。神州は不滅であることを忘れちゃいかん………etc」 |
この声涙ともに下る一時間余りの長口舌のため、あちらでも、こちらでも脳貧血を起こして卒倒するのが続出した。それでも彼は一向に惨状の迷言狂訓をやめようとしなかった。神州不滅論も時により結構だが、栄養失調の私たち将校には立っておること自体懸命の努力なのである。司令官や参謀長のような高級将校と違って、この時期は将校といっても大尉以下の下級者には、人間が食うようなものは何一つあたらないのだ。
木下高級参謀は佐藤中将の指示した補給と輸送を実行した。佐藤もようやく満足した。
シッタン渡河点より少し山側に、五十八連隊用として百キロ入り二十袋ほどの米が配給となり、今更何事か、飢えぬうちになぜコヒマへ送らなかったと、無性に腹立たしい。私は早速、チンドウィン川に注ぐいくつかの支流の一つ、そのほとりの竹林に竹小屋を作り、そこ二百キロ入りの麻袋を積み重ね、「五十八の連隊の者は立ち寄られたい」と掲示を出して待つことにした。飢餓状態の兵のことゆえ、たちどころに米だと直感して寄ってくれると思ったが、終日、訪れる者もいない。「米あり」と書き添えてみたが、同じことだった。なぜこの大量の米が前線へ届かなかったのか。コヒマからフミネ付近の飢餓の悲惨を思うと、兵たる私には断じて許しがたいことだった。
「危なくなったので、勝手に退院しました。軍医もいなければ、衛生兵も来ないし、薬も食べ物もない。ここで死ねということです。高野さん、今与人で最後の米をかゆにしているところです。米、少しありませんか」私は今でも野戦病院なるものに、その責の大半があるように思えてならない。いかなる理由があるにせよ、軍医をはじめとする関係者たちが、患者を見捨てて逃げた事情に変わりはない。話によれば、ある野戦病院では、重症患者を軍医が注射で殺したという。
竹藪が切れたところから約三百メートルほどの間が見通しのきく開闢地となっていて、日本兵が”街道荒らし”と呼ぶスピットファイアが、敗走する我々の一命をもにがさじと、鵜の目鷹の目で狙っている場所だったのだ。超低空で敵の戦闘機が音もなく忍び寄り、あっという間に銃撃を加え、二転三転と反復、それを繰り返しさっさと引き上げていく。決まって数名の戦死傷者が出る。
インパール作戦、雨期 ビシェンプールの戦い、三十三師団(弓師団)③ コヒマの戦い② 抗命 牟田口廉也中将と河辺中将 抗命② 十五師団③ 抗命③ インパール街道打通 十五師団④ シェナム〜パレル、山本支隊② 抗命④ シッタン渡河点、軍司令官逃走 英印軍の追撃 モーレ〜タム、シッタン渡河点、カレワ渡河点 パンタ街道 ティディム街道敗走 |
インパール作戦の中止をビルマ方面軍が十五軍に命じたのは7月5日だった。しかし河辺はこの期に及んでなお全面撤退を命ずる才がない。牟田口にパレル占拠の可能性について問い合わせている。牟田口は7月7日にパレル攻撃命令を出した。河辺は7月11日に牟田口にパレル攻撃を取りやめるよう打電した、
軍司令官以下司令部は7月25日シッタン渡河点に到着し、わずか1日滞在しただけで翌日シッタンを出発し、27日未明カレワ対岸シュエジンまで後退した。そしてシッタンには一番若い高橋参謀を連絡所長として残置したに過ぎなかった。河辺中将がこの困難な後退作戦を指導することなく、軍司令官牟田口中将が下行したことに大きな不満を持ったことは当然である。だいたい兵、下士官に比べて、将校は服装が違う。兵は三八式歩兵銃を担い、三十年式銃剣を全弾入れ、公団入れに小銃弾を入れ、弁慶の七つ道具もどきに、円匙、十字鍬、鋸、手斧などをしょい込まなければならない。三八式歩兵銃の重さは約四キロだが、これの本当の重さは銃を担って行動したものでなければわかるまい。長い時間になると、銃が肩に食い込む思いさえする。その点、将校はいたって軽装である。
ピンポンサカンで首に貫通銃創を受けた内山一郎上等兵は、その始末について、次のような手紙を書いて送ってくれた――
シッタンは全くの地獄でした。シッタンは渡河点だったので、そこを目指して戦場を離脱した数万が、身も心もボロボロになってたどり着くのです。そんな中で、六尺棒を持った将官が、一人大声で喚き散らしているんです。「貴様らのこのざまは何だ!、それでも帝国陸軍か!、こういうのを魂の抜け殻というのだ」これが最初に接したわが第三十一師団長河田槌太郎中将の姿で、更迭された佐藤閣下の後任としてチンドウィンから上陸したばかりということでした…。しかし、病気の敗残兵たちは、どんな体制叱咤にも驚かず、誰一人として動こうとはしなかったのです。…それから五日目、上流から船足の速い工兵の鉄船がやってきて、どういうわけか急に速度を落としたのです。中には金ぴかの将官二人と、大佐、中佐、少佐がそれぞれ一名ずつ乗っておりましたが、私は直感的に、それが牟田口軍司令官と久野村参謀長だとわかりました。その中の少佐を、牟田口中将らしい人物が大声で
「貴様のような奴は軍法会議だ。恥を知れ、恥を!」 |
と罵った挙句、我々古兵が年次の低い兵にするように、なくったり小突いたりしているのです。理由はわかりませんが、少佐といえば千名からの部下を持つ大隊長相当でありましょう。そのような将校を群集の面前で殴るとは、何事でしょうか。すぐ傍らの岸には、渡河を待つ五、六百の兵の群れがひしめいているのです。と、その鉄船は、再びスピードを上げると、あっという間に下流の方へと走り去ってしまいました。まるでこのことを、我々や岸辺の兵隊の群れに見せつけるための原則としか思えないのです。―――
そんなことがあったとは知る由もなかったが、その鉄船が下流方向へ向かったその直後のことではなかったかと思われるのだが、シッタンを過ぎ、チンドウィンの右岸を後退中、疲労困憊、ほとんど半病人の私たち…。そこへ、上流方向から闊歩してくる一隊があり、服装もキリリとして、そちこちの敗残兵の中で異彩を放っていた。…
「軍司令官閣下のお通りだ。失礼のないように近くに来られたら、立ち上がって敬礼せい!」
軍司令官とは、もちろん牟田口廉也中将である。…我々消耗品然たる一介の兵隊にとっては、一年次上の上級者すら神のような存在だったから、全軍に生殺与奪の権を握る軍司令官となれば、聞いただけでポーっとなるのが普通だった。…この敬礼は、敗軍の将の心中、その部下がどこまで服従の誠意を示すかどうかの重要な試金石であろう。――突撃また突撃、たった一つの生命が命令一下、唸る重砲弾の嵐に屍の山を築き、業火に焼かれ、飢えと戦い…傷病兵を殺すに等しい野戦病院、兵隊乞食に発狂者、豪雨の中を幽鬼のようにいく蹌踉の一体、また一体、落伍者の哀願、落伍者の射殺、山野にこだまする自爆の轟き、病弊を担架ぐるみ懸崖から谷に突き落とす地獄図絵、膿と銀蠅と蛆と山野にみちわたる腐臭、人間もどきの不気味な徘徊、死にゆく兵隊の顔、顔、顔…。グルカにもパンジャップにも英兵にも、その重砲弾にも戦車にすら、散々に叩きのめされた敵にもかかわらず、不思議と憎しみは燃えなかったが、刻々と接近する、我々の眼にはまぶしいほどの軍曹の一隊、とりわけその中心人物には………。名誉も地位もなげうって、なお、万与の兵を救うべく、師団丸ごと戦線離脱に導いたわが師団長佐藤幸徳中将こそ命の恩人だ。「いいか、奴らが何を言っても絶対に動くな。これが俺たち消耗品の、ささやかな抵抗だ。」…。
……前方で、一人の将校が道端からつとに立ち上がり、陸軍礼法の見本のような挙手の後、
「自分は○○師団の○○少佐であります…、これより閣下のお供をさせていただきます」 | 「お供とは何だ!、貴様は病気を口実に先に下がった。自分の部下をどうしたのか!、病気は何だ!」 | |
「負傷とマラリアと下痢であります」 | 「そんなものは病気じゃない。貴様のような大隊長がいるから負けるんだ。この大バカ者!」 |
持っていた指揮杖のようなもので、少佐の左右の腕をたたき、さらに足を数回蹴飛ばした。敗北の原因と責任は、自ら軍司令官たるものが取るべきである。一野戦の大隊長にそれを転嫁するとは何事であろう。目前に見た軍司令官牟田口廉也は、やっぱり梟将だった。…
軍司令官は副官一人を連れてシュエジンを出発、200km後方のシュエボに向かった。チンドウィン川以東の補給体制を一日も早く整備することが、軍司令官の第一の急務であり、チンドウィン河畔での指導は久野村参謀長以下に一任すればいいと考えたという、久野村参謀長は牟田口軍司令官に対し、ぜひチンドウィン河畔にとどまっていただきたい。後方補給の準備のためなら私が先行しましょうと提言したが、入れられなかった。方面軍司令官は牟田口司令官がさらに遠くシュエボまで後退したことを知り、軍の退却指導の錯乱を嘆いた。
シッタンでは第三十一師団はチンドウィン川の渡河の順番を待ったが、スピットファイアが襲いかかり、死体の山となった。うじに食いつくされ、ハゲタカが空を舞っていた。夜間ならともかく、夜が明ければ、それを待ちかねていたように、敵機が川面をなめるような超低空で飛んだ。これに発見されたら完了である。敵機は、機銃照射と爆撃を交互に反復し、一兵といえども容赦はしなかった。銃弾に倒れたらもちろんだが、これを恐れて水中に飛び込んだ兵隊も、二度と再び川面に浮かんでは来なかった。
インパール作戦、雨期 ビシェンプールの戦い、三十三師団(弓師団)③ コヒマの戦い② 抗命 牟田口廉也中将と河辺中将 抗命② 十五師団③ 抗命③ インパール街道打通 十五師団④ シェナム〜パレル、山本支隊② 抗命④ シッタン渡河点、軍司令官逃走 英印軍の追撃 モーレ〜タム、シッタン渡河点、カレワ渡河点 パンタ街道 ティディム街道敗走 |
英印軍の追撃は空中補給に依存し、予想以上に積極的だった。第33軍団は第2師団、第20インド師団、268旅団及び254戦車旅団を持っていた。第33軍団の右側面は、チンドウィン川西岸を下るまで、ルシャイ旅団と第28東アフリカ師団が守る。第11東アフリカ師団は、第十五軍の残兵を一掃しながらカボウ谷を下っていたが、ストップフォードが彼はチンドウィン渡河を終え次第、空路インドに出て休養する。第5,17,23師団は当分の間戦場を離れるが、あまり長期にわたってではないとされた。英軍の進撃も楽ではなかった。
チフス丘という高地がある。タム街道が素晴らしい田園を過ぎ、平野の東でシェナム鞍部を超えるあたりである。その名は、この地の光景の美しさに騙されてはいけないと教えている。デヴォン連隊の100人が、伐採地に新しく育った竹林を恰好な野営地と思ったが、この丘はツツガムシ病を伝播するチーズダニの住処だった。100人中70人が感染し、15人が死んだ。
日本軍は確かに、壊滅状況でチンドウィンまで撤退していた。しかし第33軍団の統計は、容易ならざる状況を示していた。
「7月から11月までの週平均の兵力8万8500人のうち、インパール以遠で日本軍を追撃できたのはほぼ半数である。死傷者は50300人にのぼり、そのうち作戦中の死者はたった49人であった。病気になった47000の半分以上は、インドへと後方移送しなければならなかった。メパクリンを備えていても、マラリアの症例が2万人を超えている」
とレイモンド・キャラハンは書いている。とはいえ、英印軍は軽度の疾病でも後送されており、日本軍の惨状とは比べ物にならない。日本軍は傷病者を輸送できず、死ぬものが多かった。特にマラリア地帯として知られるモーレ〜タムを擁するカバウ谷地で著しかった。英空軍はこの谷地にDDTを散布し、患者をダコタでインドに運んだ。この方法で4-6月の3か月で、延べ10000名の傷病者を運び、毎日500トンの補給を続けた。結局空輸により12万人の補給を担当し、1個師団を搬入し、5万人の管理部門の兵員等を搬出したことになる。
インパール解囲後、連合軍による雨期の攻勢は、日本軍に休息を与えないことが重要だった。連合空軍の17個の飛行中隊は、全天候型飛行場から、残余の飛行中隊は他の飛行場から、悪天候をついて出撃した。雨期の初めにはヴィンジャンス急降下爆撃機がまだ使用されていたが、やがてサンダーボルトに更改された。日本の飛行部隊は荒天に戦うことはなかったので、スピットファイアは地上攻撃が主となった。ハリケーンは英本国での生産はすでに中止されていたが、この戦線では直接日本兵のたこつぼ、塹壕、掩蓋及び潜伏場所を攻撃した。進撃を進めていくにつれて、英軍の想定以上の打撃を日本軍に与えたことが次第にわかってくる。
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スリム「わが軍の追撃は全雨期を通じて、冷酷なまでに強行されようとしていた。第23師団は日本軍の山本支隊の展開するタム道にて彼らと対峙した。私は事態を好転させるべく二個旅団を増派し、第23師団を支援させた。この戦線における総攻撃は、7月24日と予定されていた。この総攻撃は順調に進捗した。敵は撤退に移ったのである。私はこの日第23師団を訪れた。師団の前進地点までの行程はジープと徒歩によって行われた。道路のほとんどは消え、ひざに達する泥の中を進まなければならなかった。師団の前進する地点には、敗走した日本軍の遺棄物がいたるところに見られた。日本兵の死体もあった。ただこれらの死体は人間の形状をとどめないまま、泥の中に塊状となって埋まっていた。」 |
8月にはチンドウィン川が戦術上の中心となり、南部アラカンから飛び立った第224グループのブリストル・ボーファイターが、日本軍の集結する河港を攻撃、多くの川船を処理した。
インパール作戦、雨期 ビシェンプールの戦い、三十三師団(弓師団)③ コヒマの戦い② 抗命 牟田口廉也中将と河辺中将 抗命② 十五師団③ 抗命③ インパール街道打通 十五師団④ シェナム〜パレル、山本支隊② 抗命④ シッタン渡河点、軍司令官逃走 英印軍の追撃 モーレ〜タム、シッタン渡河点、カレワ渡河点 パンタ街道 ティディム街道敗走 |
7月3日支隊長の指示が遅れて、モーレ患者収容所では総退却の間際まで患者は残置させられていた。軍医は傷口に清酒を振りかけた刹那、メスでグサッと肉を刺した感触が肩の傷口に伝わった。肩の肉を抉り取って、手榴弾の鋭い破片の摘出である。なんて非道なことをするのかと怒ったが、これが戦争というものである。モーレの収容所では、山本支隊が退却するとのうわさが、各所で患者たちの口から洩れていた。潔い自決を進める手榴弾が患者たちに配られた。患者の中には劇薬注射を刺され、無慈悲にも命を絶たれる者もいた。次々と地軸を揺るがす手榴弾がさく裂、鳴動し続けた。拳銃で自決する下級将校、小銃で自決する兵士、毒薬を注射されて殺されたものもいた。
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スリム「日本軍の高等司令部は兵力を浪費しがちで、戦局が進展しても改められなかった。浪費の原因の一つは、十分な部隊の集中を待って優勢な兵力で攻撃する代わりに、到着する増援部隊をそのまま逐次投入する癖があったことである。…兵力の浪費のもう一つの原因は、窮地に立つと負傷者を殺してしまったためである。多くの野戦病院のベッドで日本兵が殺されているのを、英軍は見つけた。…」 |
一方、英印軍は負傷者の収容、治療に全力を挙げたことが、日本兵の手記からもうかがえる。
我々は、一斉に壕底から這い上がって陣地についた。百メートル前方で敵の姿が右に左にうごめいている。まず細井兵長の銃がうなりだした。ダッダッダッダ、同時に右手の大隊砲が傲然と火を噴く。その時、敵の方角から泣きわめく大声が聞こえてきた。どうやら敵は突入をあきらめたらしい。その代わりにがぜん、猛砲撃のお返しが、わが陣一帯を襲う。その中でわが目黒分隊は屈せず、猛射を浴びせ続けた。やがて敵は煙弾を放ち、ために白煙が人前一帯を完全な乳白色に塗りつぶし、ついに視界は目標を失ってしまった。「敵の接近だ!突入に気をつけろ!」見えない敵ほど恐ろしいものはない。だが、白煙が徐々に薄れ、やがて晴れ上がった時、前方で泣きわめき、かつうごめいていた敵兵の群れは、まったく視界から失せていた。煙弾は、彼らの負傷兵を救出するための手段だったのである。私は兵の生命というものに対する両軍の体質の差を、この時まざまざと見せつけられたのである。身は鴻毛の軽きに置き、一矢を以て君国に殉ずることを最高の道徳とたたきこまれてきた私たちは、むしろそのような軍隊を軽蔑することで、心底かすかな頭をもたげようとする羨望の念を、無理にも打ち消していたように思う。彼らは弾の節約というものを知らない。ここぞと思うところに数限りなく、これでもかこれでもかと打ち込んでくるのだ。彼らは人命の損害を極端に嫌う。この度もその例にもれず、煙弾の晴れ上がった後には、戦車はもちろんのこと、遺棄死体の一つだに残ってはいなかった。
敵の接近によって、モーレ、タムからシッタン渡河点までは地獄と化した。この道は、日本軍傷病兵の主退却路になっていたため、全軍の独歩患者と落伍兵であふれていたが、シッタンまで歩けなかった者が、累々と屍をさらしたのである。モーレから国境超えて5キロのタムには兵站があったから、餓死寸前の独歩患者や落伍兵がコメを求めて殺到したが、一粒の米ももらえなかった。歩けなくなった兵士は、敵の爆撃で廃墟になったタム集落の壊れた寺院に大勢集まって、自決する気力も体力もうせ、悪臭の立ち込める中で寝たまま、次々に死んでいったようである。
モーレからシッタン渡河点までは35キロ、タムからは30キロである。ミンタミ山系を超えるから、実際の道のりはもう少しあったとしても、近距離である。ここまでたどり着いた傷病兵すら軍は救えなかった。
野獣化した兵士が、単独で、あるいは徒党を組んで、悪魔の所業をすることも見聞した。米や塩を強奪し、背嚢の中にある金や貴重品があればとる、程度のよい靴を履いている兵士を襲ってははぎとり、食料と交換する。抵抗すると殺した。新しい死体の腰から腿の肉を切り取って、牛馬の肉と偽って売りつけるものまでいた。戦争がさせる所業とはいえ、日本民族は品性高い人種であるなどと自負することは、うぬぼれであることを思い知らされた。ちなみに、相撲や野球選手のような逞しくて大男の兵士は、飢餓の戦場では必ずしも強兵ではなかった。一日一合食のような少ない配給が長く続くと、小柄な兵士より先に参ってしまい、死亡率も高かった。盗みのできないまじめな大男にも受難の戦場であった。神のみ心にかなうと思われる心優しいものより、悪い奴が多く生き残ったのである。
私たち独歩患者47名がモーレを出発したのは7月21日昼ごろであった。やがて一夜が明けると路傍に倒れて死んだ者が増えていた。モーレ=タム間3キロは起伏の無い下り道だった。山道は友軍の死体の残体、白骨が枯れ木のように散乱している。私たちがタム部落に入ったのは7月22日午前6時30分である。人っ子一人見当たらないタム部落は、連日敵機の空襲を受けて廃墟と化していた。私たちは、傾き加減の一軒家にあまつゆをしのげるほどの宿を借りて、その晩、手足を伸ばして仮寝の夢を結んだ。23日早朝、私はふと目が覚めた。気が付くと、いつの間に来たのだろうか、私の傍らに見も知らぬ兵隊が横わたっていた。私はよんでみたが反応を見せず、その兵隊に手をかけて左右に揺り動かしてみると、その兵は死んでいた。私は、さらに廃墟の寺院に足を踏み込んだ、そのとたんにぎょっとした。異様な死臭をかぎつけたからである。石蔵の下は病人でいっぱいである。うわごとや異様な嬌声が充満していた。やがて、夜が明けきって、私は寺院の門柱を見ると、悪病、魔よけの針机がしてあった。大勢の患者が、寺院を取り囲むように座っていた。もうその時が迫っている感じを受ける。寺院の壁にもたれて死にかけている患者に、大きなネズミが真黒くたかって、肉をかみ切り、臓物を食い荒らしていた。タム兵站には食料もなく、廃墟寺には日本兵が折り重なって息絶えていた。
モーレ〜タムは北方からの三十一師団及び十五師団、西方からの山本支隊の敗残兵が合流するところだった。ここからさらにミタンミ山系を超えシッタンの渡河点に行く群あり、またカバウ谷地あるいはチンドウィンの西岸を南下してカレワ渡河点に行く群に分かれた。
木道の南を迂回し山中を歩いた部隊は、やっとモーレに入った。そこは驚くべきことに、道路ばた、木の下、家の下から床下に至るまで、友軍の死体が散乱していた。動いている兵隊はほとんどなく、死臭が辺り一面に立ち込め、鼻を突いた。ここで休憩となるが、腰を下ろす場所がない。付近に血便が散乱し、屍を見ながら立ったまま銃を杖にして休んだ。日本軍将兵たちの痛ましい姿はここだけにとどまらず、逝く先々で動かない兵隊が腐った躯となり、あるいは半ば白骨化していた。タムに入っても、兵隊の死体が同じように続いた。このまま死体を整理するものもなく、朽ち果てるのに任せるかと思うと、感慨無量、悲嘆にくれる。7月30日ごろ、部隊はヤナン渡河点に差し掛かった。我々はミンタミ山系に入り、チンドウィン、ユー川支流に沿って南下し、ミンタミ川を渡河した。
カレワに向かい、チンドウィンの西岸道路を南下した。足元を這う二人の患者がいたので、私は声をかけた。「どうしたんだ」「状況が悪いので殺される。自動車は来ていませんか」夜露に濡れながら、しばらく這って来たのか、その兵隊は体を伏せたまま苦しそうに、泥にまみれた手で顔を覆って泣いていた。いくらなんでもそんなことが、病院で動けないものを殺すなんて、あるわけがないと思った。しかし…モーレ野戦病院のうわさを聞けば、本当かもしれないとぞっとした。それが、ここでも行われているのだろうか。今さらに驚く死体の数、負け戦とはあまりに悲惨だ。ここに倒れている兵隊たちは、パレルから、モーレ、モーク、モーライクから、独自で後退した傷病兵たちだ。歯を食いしばって、生きようと最後の一歩まで歩いた、ここがその終点である。この長い道のりは、靖国の社で華族や戦友に会えると信じて疑わなかった亡き兵隊たちにかっわって、生き残りの戦友たちが名付けた「靖国街道」であったのだ。
カレワの渡河点についたのは夜だった。しばらくして爆音が聞こえてきて急に大きくなった「飛行機!」大声で運転席の屋根をたたき、木下に車を突っ込ませると草むらの中へ駆け込んだ。やはり英軍機だ。兵隊間ではこれを「街道荒らし」と呼んでいた。
そのころインド23師団は、東アフリカ11師団とモーレで交代して、タム部落へ追跡してきた。タム部落は8月4日ついに敵に占領されてしまったのである。
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スリム「我々は抵抗らしい抵抗を受けることなくタムを占領した。そこには解放軍を歓迎する群衆の姿もなかった。そこには、ただ廃墟があるのみだった。」 |
タムを占領した英軍は、あまりの凄惨な風景に、驚いた。スリム中将は述べている。
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スリム「タムで見た凄惨な有様には胸をつぶされる思いがした。市街や家の中には埋葬されていない日本軍の死体が550も数えられた。多くは石の仏像の周りに集まっており、その仏像は、足元に折り重なるようになって死んでいる哀れな犠牲者を慰霊するかのように、慈悲深いまなざしで見降ろしていた。」 |
このような日本軍管理組織の崩壊の証拠が見られたのは、タムだけではなかった。各方面からチンドウィン河畔に達する諸道に沿い、またティディム道上でも敗退する軍隊の運命を思い出させる、このような恐ろしい状況が随所で見られた。この間、一切ならず認められたことは、小さな野戦病院で、すべての患者が見事に頭を打ち貫いて担架の上に横たわっている姿であった。日本軍は捕虜になるより、むしろ自ら命を絶つ方を選んだのであろう(スリムは日本軍の”処置”を知ってたか、スリムの著作の時代は1960年代、日本軍に余りに不名誉なことが書きにくかったのか)。遺棄された小銃や戦車や、泥にめり込んだ車両、散乱している装具、路傍または車の中に腰をおろし、あるいは木によりかかり、または流れに浮いている死体は、雨期の最盛期における退却の恐怖、戦争の残忍さを如実に物語っていた。
8月3日水浸しの低地を渡ってジャングルに差し掛かった時、道端の土手に薬師上等兵とばったり会った 「薬師じゃないか、懐かしいなあ」
返事はなかった。連日、陰険にいびられたのか、自決を強要されたのだろう。
「お前、桜の花びらを持っているだろ、妹さんに見せるのを楽しみにしてたじゃないか。さあ、歩こう、一緒に歩いて妹さんのところに帰ろうよ」
薬師はふらふらと立ち上がった。うれしい、やっと心を開いてくれたのか…そうではなかった。薬師はジャングルの中に入っていく
「密林に入ったら、妹さんに会えなくなるぞ」
「うるさい野蛮な日本兵どもに何がわかるか」
親友に向かって野蛮な日本兵とののしる言葉に、私は立ちすくんだ。薬師はジャングルの奥に進んだ。、やがて手榴弾の破裂音が響いてきた。
後日必死に調査した。毎日、古参兵にいじめられ、しつこく自決を迫られたことも事実であった。彼は、ミンタミ山系で落後しているとき、捜索に来た南衛生軍曹に毒薬を注射されそうになったのである。だが、腕をつかまれた時激しく抵抗し、「注射されなくても歩けます」と叫んで歩きだしたという。薬師は南軍曹の残忍な目を見て、前の日に注射されているのを目撃した落伍兵が、そのまま追及してこなかったことを思い出し、「これは毒薬だ」と気付いたらしい。戦友に、「日本人は鬼だ」と捨て台詞を吐いて、本隊には二度と戻らなかったのである。注射に使用された薬品は、消毒用に使うショウコウである。ショウコウを水で薄めて静脈注射すれば、成分である水銀が、徐々に血液を凝固させ、二十四時間ほどで死亡した。
英印軍は科学的であった。英軍の記録によると、山本支隊を追撃して死の谷カボウに進軍した時は、進撃に先だって飛行機で針路にDDTを散布し、日本兵患者の密集したモーレ、タムや自軍の露営する場所は徹底的に消毒したという。
要衝タムを占領した敵は、シッタン渡河点に迫ろうとしていた。シッタンには13000人の日本兵将兵が渡河を待っていた。迫る敵を食い止めるため、シッタン西方の山中ピンボンサカンに8月10日烈師団残兵が陣地を構築した。
敵の迫撃砲の集中砲撃とはどんな物か。大本営の連中には、およそ見当もつかないことだろう。まず最初に発射音が遠くのほうで、「トントン、トントン、…」とまるで太鼓を連打するような連続音がすると、次に空気を切る唸りが「シュル、シュル、シュル…」と聞こえたかと思うと、あとはドカン、ドカンの連続で、すさまじい土煙に、兵隊たちは肝を冷やした。夜ともなれば、真っ赤な火柱となって、戦場はなお一層壮絶を極めた。ものの十分か、十五分間の集中砲撃で、私たちの周囲を断ち切一本もないまでに吹っ飛ばし、まったく見事な集中砲撃ぶりである。物量にものを言わせるとは、こんな物かと思わせるものがあった。だが、十分間に百発…いや千発の弾丸をも惜しまぬ敵は、それでもなかなか歩兵は出さず、誠に慎重な前進であった。
シッタンの第三野戦病院には、”靖国街道”を耐え抜いてきた兵隊が生ける屍の状態にあり、当時その数は三千とも四千ともいわれていた。指揮系統もなく、ただ各人が点でバラバラ、それぞれに行動して、やっとここまでたどり着いたのだ。野戦病院は名ばかりで、ジャングルの中にそれぞれが天幕を這って雨を避けているものもいる。すでに死亡し、腐敗し、ハエとウジが付きまとっているものもいた。
渡河点もヘロウ、シッタン、オークタンの間に四か所に増設され、工兵隊による必至の渡河作戦が続けられた。途中で敵機の機銃掃射を受け、どれほどの日本兵が川の藻屑と果てたことだろう。スピットファイアは両岸の日本兵たちにも襲い掛かり、両岸は死体の山となった。9月1日の夕方、シッタンの渡河任務を終えた工兵隊中隊が舟艇で出発しようとした時、追撃中の敵が砲撃を開始してきた。シッタン渡河点は9月4日ついに英軍に占領された。
インパール作戦、雨期 ビシェンプールの戦い、三十三師団(弓師団)③ コヒマの戦い② 抗命 牟田口廉也中将と河辺中将 抗命② 十五師団③ 抗命③ インパール街道打通 十五師団④ シェナム〜パレル、山本支隊② 抗命④ シッタン渡河点、軍司令官逃走 英印軍の追撃 モーレ〜タム、シッタン渡河点、カレワ渡河点 パンタ街道 ティディム街道敗走 |
チンドウィン川を渡れば減ると思っていた死体は、どこまで行っても途切れることなく続いた。ここにも軍の残酷さがあった、歩くことのできない二千名の傷病兵を、次々と船に乗せ、対岸に運んだはいいが、対岸には食料も医薬品もなく、トラックで後送する準備もなかった。傷病兵たちは途方に暮れ、そのほとんどは這いずり回って死んでいったという。軍は傷病兵を東岸に移しさえすれば敵の捕虜にならなくて済み、目的は達成されたのである。しんがりとなったのは、ピンボンサカンで英軍の追撃と戦っていた百二十四連隊の中隊、ガダルカナル敗戦から、インパールへと送られた部隊だった。
佐賀県出身の牟田口将軍は、かつて南支時代の私たちの師団長であり、北九州出身の我ら十八師団の将兵は、最悪の戦場でいつも最後までこき使われた。「烈」師団長佐藤幸徳将軍の人気の良さに比べ、牟田口将軍の人気は、郷土部隊の兵隊たちからもボロカスだった。
「木村班長、今度の作戦はガ島と同じくらいひどいと聞いたが…」「なんの何の、ガ島のことを思えば、こんなもんじゃない。ガ島のほうがひどかったよ」私は木村総長の言葉に、心持ち一安心したのだが、その後の戦況は、事実ガ島以上の地獄の戦場になろうとは想像もしなかった。
ああ、なんという惨状! 竹林の中の川渕の砂床には、日本兵の死体が二百?あるいは三百もあろうか? すでに白骨化したもの、あるいは腐乱したもの、まだ生きている傷病兵の全身に、頭髪を白髪と違えるほど蛆がいっぱい沸いているものあり、またある者は、大きなウジ虫が、目といわず鼻孔、口、耳穴、傷口から、出たり入ったりしているではないか。ガダルカナルも悲惨だったが、それ以上に悲惨極まりなき、地獄絵図だった。
広く広がる砂床一面は、腐乱した日本兵の死体だらけだった。なんというむごさだ。せっかく苦労して、あの激流のチンドウィン側を渡河しながら、撤退援助が何一つなされていないために、ここでも前岸地区のシッタンと同じような、いや、前岸地区よりもっとひどい地獄の惨状が繰り広げられていたのだ。インパール作戦の生存者でも、シッタン渡河点をいち早く通過したものや、他の渡河点を通過した人たちには、このシッタンの悲劇はわからないであろう。…かつてガ島を撤退して、ブーゲンビル島の部員に上陸した時は、在島の陸海将兵全員が出勤して、撤退兵の一人一人に、用意した杖を持たせ、ヤシ林の道の沿道の両側には小屋掛けして、砂糖水をサービスしてくれたものだ。…あの時の軍司令官は百武閣下であった。インパールの軍司令官の牟田口将軍はあくまで出来が悪かった。自分自身の部下たちを、たくさん、生殺しにした牟田口将軍は、おそらくはこのシッタンの悲劇を知らなかったのだろう。日本の軍隊は、人間的に、どこか狂ったところがある。それを知っているのは兵隊だけである。日本の軍部の最高幹部たちは、戦争は将校だけで勝てると思って、兵隊なぞは人間のうちに入れていない。
祭兵団の兵長が姿を消し、ひと騒動終わって、我々が元のねぐらに戻ると、中隊長がしんみりといった「伊藤軍曹、どうも機嫌が悪いらしいが、実はな、中隊長は借りをほんのちょっぴり返したまでなんや」ここで言葉を切った中隊長は、沈痛な声で次のように語った「我々がコヒマから撤退をした時のことやが、うちの百二十四がフミネの祭兵団の糧秣集積所に小銃や機関銃をもって押し掛け、糧秣を渡さなんだら銃火をもって元脅し、強硬手段で祭兵団の撤退部隊用と後生大事に温存していた食料を、根こそぎ奪い取ってしまったんや。祭兵団にはまことに申し訳のないことをやっておるんや。そやさかい、食うに困っている祭兵団の兵隊に、飯盒に3,4杯の米をやるのは当然やろ。いうなれば罪滅ぼしというもんやぞ」私は中隊長の言葉をきいてなるほどと思った。百二十四連隊も、不運極まる部隊と言えよう。かつてはガダルカナル島で壊滅的打撃を受け、転進を命ぜられ、残存兵員に補充要因を合わせ、烈兵団に編入された連隊である。
ピンガイン兵站において、インパール作戦の惨状は泥濘、豪雨の中を難航して、ようやく兵站にたどり着いた4人の将校により伝えられた。
「弓のものですが。インパールから、ここまで、どこにも満足に体を横たえる場所はなかったのです。」
「道中にあるはずの糧秣集積所にもありませんか」
「申し訳ない、一人二合の米をもらって、二日歩いたら集積所がある、そこでもらえと聞きましたが、3日歩いても4日歩いてもないのです。言われたところに来て、そこから歩けんものはどうなります!」
4名の将校伝令が下った数日後、連絡要務をもって、カドマに出張した私が帰站した時、前線にあるとばかり思っていた佐藤将軍は、私の宿舎に一泊して、昨夜くだったと聞かされた。将軍の言葉を要約すれば、「インパール作戦に、起死回生の策なし」であった。その数日後、ビルマ方面軍参謀長、中将軍は、「烈」師団長後任として、急遽スマトラからはせつけた河田将軍を伴って、兵站に到着した。7月も終わり、戦機好転を願っての数旬も、瞬く間に過ぎたが、前線の状況は、その期待の逆に人ともに敗色を決定づけて、もう今では、奇跡も、天祐もなかった。
こうして落伍兵の憩いの場であったピンガイン兵站も、8月16日、連合軍の爆撃を受けた。耳を弄する超低空の編隊爆音、黒く並んだ敵機が、すでに機首を下げて真一文字に突っ込んでくる。反復爆撃はどれだけ繰り返されたかわからない。やがて、爆音が低くなり、そして次第に遠ざかるようである。時折、ふいに驚かす爆音があるが、それは時限爆弾であるかもしれない。ようやく安全を確かめて穴を出た。あたりの風景は一変していた。一週間後、ピンガイン兵站閉鎖の命令が伝えられた。
2日前の夕方のこと、日本兵3,40名の独歩患者部隊が通りかかり、民家のあるのを幸いに一泊しようと、炊爨を始めたところ、敵機に発見されて銃撃を受けたらしい。炊煙と日本兵を発見した敵機は、これを見逃すはずがない。ちょうどハゲタカが獲物を狙うように攻撃態勢に入った。一機また一機と、炊煙付近をよろよろと逃げ回る患者たちに猛射を開始した。ふつうスピットファイア四機編隊の敵機は、交互に執拗な襲撃を反復し、銃弾を打ち尽くすと、胴体下の爆弾一個を投下して基地に帰投するのが彼らの攻撃パターンである、当日もそうだったに違いない。日本兵が姿を見せたことによって、この部落は甚大な被害を受ける結果を招いたのだ。日本兵の死亡者は8名を数え、ビルマ人にも三名の犠牲者が出たという。老爺は目をしばたかせながら当時の恐怖を語り、「英軍の飛行機は大変恐ろしい」を繰り返した。
とにかく、コヒマからチンドウィン河畔のトンへに至るまでの靖国街道には慣れ切ったはずの日本兵も、これでもかこれでもかとばかり続くパンタ街道の惨状には、呆然とするばかりであった。パンタ街道を行軍中の5日間に見た死骸や、瀕死の兵隊の数は、6.700名にも及んだが、路傍ではなく、人目につかない叢やら、ジャングルに果てた数を合わせたら、大変な数字になったのではあるまいか。パンタ街道の惨状は、直ちに連隊長に報告され、さらに軍の上層部にも報告されただろう。だが、これに対して何の救護策もとられないままに終わったのは、誠に残念と言わなければならない。
キューンと金属音がして、敵機が低空で飛んできた。キューンと二機目が河岸のヤシの梢を鳴らした。すさまじい銃撃音を立てて射撃を開始してきた。工兵隊斎藤軍曹と高田は大慌てで遮蔽物を求めて走った。二機の敵機は、以前旋回を続け、交互に急降下の銃撃を反復する。例の「ドカン」という小型爆弾の炸裂で終わり、敵機は引き上げていった。昼も近いと思われる頃、キーンという金属音がしたと思うと、都合四機のスピットファイアが頭上に出現し、舞い降り、舞い上がる敵機は攻撃の手を緩めず、たちまち部落からは黒煙がもうもうと立ち上り、毒蛇の下のようにちょろちょろと赤いものが見え始めたと思うと、それが紅蓮の炎となってどっと噴出した。以前敵機は、執拗に攻撃を反復している。やがて夕刻近く、先に爆撃を受けた部落のほうから、5,6名の兵隊が我々のいる森近くの道路を通他ので被害の様子を聞くと、6,7名の死亡者と、十数名の負傷者が出たらしいとのことである。
ワヨンゴンは敵から遠く離れていた。落伍しても敵の捕虜になる恐れはなく、目的地ピンレブまでは近いから、歩けるようになって本隊を追及できる可能性も大であった。だが輸送隊においては、落伍兵の「処置」が続けられ、ある日は二人が処理された、ここまで来て殺されるとは、哀れな二人である。歩けなくなった時、将校は担架で輸送され、下士官と古参兵は付き添い兵付きで落後が認められたのに、下級兵士だけは、なぜ自決を強要され、射殺されたのか。インド奥地の前線から始まった白骨街道は、延々500キロ、ジビュー山系を超えるまで続いた。9月3日第三中隊はピンレブに到着した。
インパール作戦の参加兵力と損害については、防衛庁戦史室編纂の「インパール作戦」によると、当初は8万5600名で、作戦途中に増強した人員を加算して9万名であるとし、そのうちチンドウィン川を渡った者約6万名、戦死者2万余名、戦傷病死者4万余り、計62000が定説になっている。輜重兵第三中隊はこの日ピンレブにたどり着いたのは61名に過ぎなかったが、落伍していて後日追求してきた将兵と、各地野戦病院に収容されていたものがあって、最終的には、生存者133名、死亡者は314名となった。将校に死者はなく、准尉2名、下士官4名の死亡に対し、兵士は全死亡者の89.5%を占める281名が死亡した。昭和17年入隊の兵が作戦参加者143名中107名が死亡、18年入隊は30人中27人、19年入隊は156人中147人が死亡した。
シッタンは9月4日、敵に占領されたが、英軍がチンドウィン川を渡ったのは12月になった。
インパール作戦、雨期 ビシェンプールの戦い、三十三師団(弓師団)③ コヒマの戦い② 抗命 牟田口廉也中将と河辺中将 抗命② 十五師団③ 抗命③ インパール街道打通 十五師団④ シェナム〜パレル、山本支隊② 抗命④ シッタン渡河点、軍司令官逃走 英印軍の追撃 モーレ〜タム、シッタン渡河点、カレワ渡河点 パンタ街道 ティディム街道敗走 |
三十三師団田中は他の二人の師団長がチンドウィン川に向けて徒歩で後退している時期にもとどまって戦い抜いた。それは絶望的な戦いだったが、ルイ・アレン教授は作間隊の切込みについてのスリムの評価に賛成だという。
_(_ ( ゚ω゚ ) |
スリム「日本第三十三師団ほど損耗し、たたかれ、疲れ切った軍隊がかくも猛烈な攻撃を刊行するなど、ほとんど例がない……望みなき目的を追求するのは、軍人の英知に反するとはいえ、ここに示された日本兵の最高の勇気と不屈の精神は疑問の余地はない。いかなる軍隊も彼らに匹敵し得ない。」 |
三十三師団長は7月8日後方機動の命令を受領し処置した。敵のわが後衛陣地に対する本格的攻撃は、7月19日から開始されたがその都度撃退し、26日後衛の任務を達成して連隊は命令により転進した。この戦闘で林少尉以下23名の戦死者を出した。後衛の陣地保持は戦車、銃砲の撤退速度によってきめられた。これは師団長が退却による師団の崩壊を恐れて、兵器を中心として任務を遂行することにより、士気の高揚と軍規の維持を図ったからである。ただその励行があまりに厳格で行き過ぎていたため弊害も多かった。まず第一線は持久の限度を超え、たびたび包囲に陥り損害も増大した。第二に第一線に不足していた食糧難にさらに拍車をかけることになった。第三に敵の追撃から離脱できず、戦線の立て直しの余裕なく、大局的にはずるずるとイラワジ開戦の敗退にまで引き込まれてしまった。退却の原則は「速やかに敵と離脱し所望の体制を占めんとする」にある
英軍は第3カラビニア戦車連隊C大隊が先鋒となった。ティディム道は木の多い丘陵をブルドーザーで切り開き、戦車が道路外に出られる所はまれだった。日本軍の陣地が強力と分かった時は、ハリケーン戦闘爆撃機が支援した。支援のハリケーンは12機が常だった。爆撃・攻撃の瞬間に日本の後衛は消えていた。英軍は数マイル進んではこの仕事を繰り返した。天候は極めて悪く、うち続く雨は大地を沼地と化した。
9月12日マニプール川の渡河が笹原連隊の援護下に完了した。食料全く欠乏し、もう限界だと誰もが考えた時にトンザンにたどり着き糧秣にありついた。トンザン付近の撤退戦闘。敵の追撃は意外に早かった。泥濘の道には網状鉄板を敷き、橋梁が破壊されたところでは輸送機により土嚢を投下補修して戦車を渡河させて追撃してきた。9月15日火砲10門以上を有する約3000の敵はトンザンに砲撃を開始し、別の一隊はパイツを迂回してわが陣地の右側背に進出し、17日迫撃砲を有する敵はトンザン・ティディム道の要点を占領し、わが連隊は完全に敵の包囲するところとなった。19日夜連隊本部は集中的な砲撃を受け、笹原連隊長は戦死した。
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スリム「第三十三師団は7月の第3週までなお頑強な抵抗を見せていたが、やがて彼らもインパール平地における日本軍最後の陣地から退却に移っていった。この方面の日本軍に対する追撃は、まず日本軍の陣地を発見するや、空からの爆撃と砲撃が標的をとらえ、戦車に支援された正面攻撃に加えて、迂回包囲の攻撃も併用された。このティディム街道における日本軍の退却は、他の戦線よりも整然と行われていた。三十三師団の後衛は、わが軍に圧迫されながらも、頑強に抵抗し続け、街道に沿った山稜から山稜へと後退しながらも、彼らは勇敢に戦うことはやめなかった。この間、我々がインパール南方85里道標に達するまでの進撃速度は、一日平均2里であった。彼らは大きな損害を受けたにもかかわらず、ビルマにおける最強の師団としての名声に恥じない行動を見せたのだった。」 |
連隊は駄馬道を潜行し敵の包囲を脱出し10月初め162マイルのティディムの佐久間連隊陣地内に転進を終わった。この時の笹原連隊固有の兵力は約100、小銃47に過ぎなかった。連隊はケネディピーク、バイタルコーナーを約1か月間確保すべき師団命令により、初めて豊富な弾薬と糧秣の補給を受けた。カボウ谷地の敵情窮迫のため、命により11月3日夜半、トラックにより転進した。連隊は11月15日までに残存した重砲、戦車の全部、自動車456両を、19日までに計604両の自動車をカレワにおいてチンドウィン川以東に渡河させることに成功した。
カボウ谷地を北方のタムから追撃する英軍東アフリカ11師団の目標は、日本軍主力の撤退地点であるチンドウィン川西岸のカレワである。ここに至る道は日本軍の防御によって、20マイル進むのに12日かかった。しかし12月2日ついに英軍はカレワに突入した。カレワは陸路ビルマからインドへ往復する交通上の要点である。2年数か月前、スリムの率いるビルマ軍団の敗残兵が、対岸に多くの戦車、火砲その他装備を遺棄して潰走した。この時軍団長スリムはいったんカレワにわたったが、渡河がはかどらず対岸は混乱していた。スリムは再び対岸に戻り、コーワンインド17師団長に指示を与え激励した。それは42年5月10日のことであった。牟田口司令官は渡河点はわずか一日滞在したのみでシュエボに後退した。この二人の将軍の一番の違いは、敗走時の行動であった。
概要 インパール作戦への道 インパール作戦 戦況の変化 インパール作戦(雨期) インパール作戦の結果 |
英印軍の1943年11月―1944年7月の損害(死傷者)はコヒマ・インパールより前の戦闘でインド17師団インド20師団他920人、コヒマで4064人、インパール12603人、計17587人。うち戦死者、病死者合わせて5000人前後と考えられる。一方日本軍はインパール作戦第十五軍三個師団、軍直轄、配属所部隊を含む。参加人員約86538人、これは5月の数字で、この後逐次部隊が増強されたため、参加者は9万人を超えるのは確実で、10万人前後ともいわれている。そしてこの作戦による損害は戦死20502名、戦傷病死者41978名、計72480名と死者は英印軍の10倍以上にもなるのである。日本軍はインパールで、明治に大日本帝国陸軍始まって以来、その歴史上最悪の敗北を喫したのである。(半年後にはレイテ島という更なる敗北が迫っていたが)
インパール作戦では、参加した日本全軍が多数の行方不明者を出しており、そのほとんどは死亡したと認定されたが、敵の捕虜になった者もあった。英軍の記録にも、次のように記述されている。
「過去二年間の東南アジアの戦闘で、ほとんど一人の捕虜も出さなかった精強な日本軍が、わが軍の追撃におり、一週間に百名の捕虜を出したこともあるほど、日本軍の士気の低下が察せられた」
しかし、敵の捕虜とならず、最後まで敵にはかない抵抗をして殺された、あるいは日本軍に自決を強要されたり「処置」され死亡した落伍者のほうが、はるかに多かったことも推察される。
「インパール作戦―その体験と研究」の筆者の磯部卓夫氏は日本軍高級司令官の統帥は、世界に冠たるものだと思っていた。しかし磯部氏の従軍したビルマでは、必ずしもそうとは言えない場合が多かった。英公刊戦史「対日戦」のこれに関する記述を見てみよう。
「戦場の常として、彼我両軍の指揮官が予想しない事態に遭遇する。こんな場合には統帥の妙を発揮しなければならない。決断と頑固さを区別し、また融通性と優柔不断を区別できる司令官こそ勝利を得ることができる。3月初めに第4軍団の前進を放棄して、インパール平野に後退させた素早い決断は、融通性を発揮したよい例であった。これに反して、日本軍は例によって最終の希望する結末まで細かく計画し、ほとんど融通性は示さなかった。各級指揮官は文字通りその計画を実行しようとし、予想外の状況に対応できず、好機を活用することもしなかった。」
磯部氏の調査した時代は、敵将が牟田口中将をどう見ていたかについての記録はあまり見つからなかったようである。ただ当面の敵第十四軍司令官のスリムは日本軍第十五軍は格が違うとしてか、牟田口中将以下については、「河辺将軍とその部下」として一括して取り扱っていることによる。さてそのスリムは「日本陸軍の強みは上層部にはなく、その個々の兵士にある」とし、「最初の計画にこだわり、応用の才がなく、過失を率直に認める精神的勇気が欠如」していると批判し、また「河辺将軍とその部下とは、大胆さと不屈さと同時に補給を軽視」したとし、たいして評価していない。さらにスリムは「“The Japanese higher command had played into our hand”日本軍の高級司令部は我々をわざと勝たせた」と皮肉っているほどである。また「ウィンゲート空挺団」の著者で、その参謀長であったデリク・タラク少将はその著書の中で「牟田口中将の作戦指導については、イギリス側から全く評価されていない。」と記している。ただし「デリーへの進軍」の著者、英第四軍団参謀A・バーカー中佐は、牟田口中将を「偉大な陸軍中将」として高く評価している。
これにはお互いの内部の実情があまりよくわかっていないことも関係している。ビルマ戦に参加したルイ・アレンは戦後に名門ダーラム大学のフランス文学教授となり、ビルマ戦について日本に8回も訪れた。ルイ・アレン教授は日本語の文献、高木俊郎の「インパール」シリーズ全巻は当然、日本軍の公刊戦史や多数の兵士の手記に至るまでを徹底的に調べ、日英双方の資料をふんだんに用いたビルマ戦の決定版ともいえる「Burma: The Longest War 1941-1945」を1984年に発売した。これはたちまちベストセラーとなり、英国においてビルマ戦の認識を軍の正史に至るまで書き換えるほどだった。この本の発売以後、英国で河辺将軍を主敵とする見方はなくなり、また牟田口将軍を評価する声は消え失せ、インペリアルウォーミュージアムのインパール戦の項目でも「牟田口将軍の野望を見事打ち砕いた英軍」と「正しく」書き換えられてしまったのである。
その後のビルマの戦いの詳細については→『ビルマの戦い(太平洋戦争)』。
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最終更新:2025/04/25(金) 09:00
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