ウェスパシアヌス / インペラトル・カエサル・ウェスパシアヌス・アウグストゥス(9年~79年)とは、ローマ皇帝でフラウィウス朝の初代皇帝である。
貴族ではなく中流階級の出身で、属州や軍隊で経験を積んだ新しいタイプの皇帝である。ガルバ、オト、ウィテリウスが乱立したネロ死後の混乱を抑え、フラウィウス朝を打ち立てた。
ファラクリナエでティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌスとして生まれ、父方の祖母に育てられる。ティベリウスのもとでトラキア軍司令官などを務め、カリグラ帝の代には法務官にも就任した。さらにブリタニア征服戦争では第2軍団「アウグスタ」を率い、勇名をはせた。51年には執政官に任じられ、さらにはアフリカの属州総督の地位にもあったのである。
また39年にフラウィア・リベラリスの娘・ドミティラと結婚したが、彼女はローマ市民ではなく、以前はトリポリタニアで騎士階級ローマ人の愛人だった。とはいえ彼女との間にはドミティラ、ティトゥス、ドミティアヌスの三子を設けている。
ネロの時代にはネロの友人であり、一度不興を買ったものの、反乱鎮圧に必要とされユダヤの属州総督に任じられ軍団3個を与えられる。そしてこの状況でネロの死が訪れたのであった。
ウェスパシアヌスはこの時、まだ反乱鎮圧を続けている最中であった。そこで反乱鎮圧を息子のティトゥスに任せ、自身は穀物の供給を断つためにエジプトに移動する。この状態でウィテリウスに講和を強いるためであった。当時シリア属州総督ムキアヌスが帝位を狙いローマに向かっていた最中であったが、ドナウ川方面軍がウェスパシアヌスを皇帝と宣言し、独力でローマ制圧を成し遂げる。
さらにローマにまだいた息子ドミティアヌスが、ムキアヌスとともに混乱するローマの統治を始める。主導権はムキアヌスが握り、ウィテリウスの息子アシアティクスらが処刑されたが、帝国北部の秩序は次第に回復されていった。
そして70年、エルサレムの陥落を見届けると、ウェスパシアヌスはティトゥスと共にローマに凱旋。ブリタニアの侵攻やコンマゲネ王国の併合などはあったが、久しぶりに平和な時代になったのであった。
ウェスパシアヌスはローマに入城したものの、パラティヌス丘の宮殿ではなく、サルスティウスが築いた庭園「ホルティ・サルスティアニ」に好んで居住した。さらにユリウス・クラウディウス朝の皇帝が苦労した後継者問題は、ティトゥスとドミティアヌスの二子にカエサルの称号を与え、難なくクリアする。
さらにネロ以来の財政の枯渇はいまだ解決していなかった。そのためウェスパシアヌスは尿にまで税金をかけたと言われるほど、財政回復に努め、強欲との評判が定着してしまった。しかし機知に富み公平で冗談を好んだ人柄は、ローマ市民の評判を高めていった。
そしてウェスパシアヌスは69歳という高齢になり、湯治中に亡くなった。最期の言葉は「皇帝は立って死ぬべきだ」だったという。没後神格化されるなど、久しぶりに平和の中で死んだ、そんな皇帝であった。
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最終更新:2025/04/15(火) 08:00
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