カール・マルクス(Karl Marx、1818〜1883)とは、ドイツ出身の思想家、経済学者である。
生誕 | |
死没 | |
研究分野 | |
影響を受けた人物 |
エンゲルス(友達)、ヘーゲル(哲学者)、フォイエルバッハ(哲学者)、スピノザ(哲学者)、アダム・スミス(経済学者)、リカード(経済学者)、シェイクスピア(劇作家)、プルードン(社会主義者)、フーリエ(社会主義者)、オーウェン(社会主義者)、その他多数 |
影響を与えた人物 |
レーニン(独裁者)、スターリン(独裁者)、毛沢東(独裁者)、その他、極めて多数。一時期、世界の半分を支配した思想である。 |
20世紀に最も影響を与えた思想家の一人。科学的社会主義、共産主義の祖とされている。
一般的には革命的、革新的人物と思われているが実際は古今東西の文献を研究し批判した上での統合(まとめ)的研究が主であった。
マルクスから影響を受けた人物は非常に多岐に渡り、世界中の歴史を大きく動かした。その影響力は現在でもなお大きい。当然日本も例外ではない。
詳しいことはWikipediaへ→カール・マルクスへ……と言いたい所だけど、人物面はともかく理論面では初心者がWikipediaを見ても恐らくほとんど分からないと思う。なので、マルクスについて疑問があったら下の掲示板に書き込んでみよう。きっとアカども優しいお兄さんたちが答えてくれるだろう。
マルクスの理論はよく「間違いだらけ」と批判される。しかしこれはある意味当然のことだ。マルクスが研究したのは彼の生きた19世紀の社会であって、それを21世紀の社会に当てはめても無理があるに決まっている[1]。ただし、間違いは修正することが出来る。
19世紀にマルクスが生み出したこれらの理論は以降150年の間に世界中の優れた学者達によって研究され、発展させられた。その為、19世紀のマルクスの著作だけ読んでそれを批判するのはナンセンスである。私たちはマルクスの知らなかった20世紀の歴史を知っている。マルクスの正しい理解、あるいは批判の為には21世紀の今現在の研究書を学ぶことが重要である。
階級闘争とは、資本主義においては「資本家(ブルジョワジー)と労働者(プロレタリアート)の闘争」のことである
詳しくはこちら→『階級闘争』
弁証法というと、相対するテーゼ(正)とアンチテーゼ(反)がアウフヘーベン(止揚)してジンテーゼ(合)になるというトリアーデの弁証法が有名であるが、実はこのタイプの弁証法はヘーゲルもマルクスも用いていない。
ヘーゲル弁証法は多義的で簡単に解説するのは難しいが「全て物事はその本質の中に矛盾を孕んでおり、その矛盾によって本質が自らを反省し、より自覚を深化させていくという無限の営み」と言える。ここではとりあえず単純に「対立、矛盾する二つのものAとBが両者を保存しつつ、より高次のCになる螺旋的発展運動」と理解しておこう。
詳しくはこちら→『弁証法』
唯物史観とは「歴史とは経済をきっかけに動いていく」という歴史観である。
詳しくはこちら→『唯物史観』
労働価値説とは「物の価値は労働量によって決まる」という考え方である。
労働価値説は別名「価値論」とも言い「物の価値は何で決まるか?」という単純ながらも現在まで結論の出ない深淵なテーマである。今日の経済学では物の価値は需要と供給によって決まると教えてもらえるが、マルクスはそこからもう一歩踏み込んで思考した。
詳しくはこちら→『労働価値説』
剰余価値というのは「金持ち(ブルジョワ、資本家)が貧乏人(プロレタリアート、労働者)から搾取している労働力(の価値)」の事であり、これはすなわち搾取のメカニズムを説明している点で肝要となる。
詳しくはこちら→『剰余価値』
疎外とは初期マルクスの重要な概念である。一般的な哲学における疎外は、「本来、自分のものであるはずのものが、自分から離れてよそよそしくなる」という現象のことである。この哲学用語はマルクス独自のもとではなく、元々は独哲学者ヘーゲルがよく用いている言葉であった。
ヘーゲル哲学において、「本質から離れたものが一度外に出て、再び戻ってくる」という現象を外化、あるいは対象化といった。しかし戻ってくるはずのものが外に出たまま戻らず、むしろ本質と対立しはじめる。ヘーゲルは、これを特に疎外と呼んだ。
ヘーゲルの疎外論は、その後、独哲学者フォイエルバッハによって唯物論的にアレンジされ、さらにそのフォイエルバッハの著作を読んだマルクスによって継承・発展させられ、彼独自の労働疎外論が誕生した。
代表的な著作(刊行年順)
1841年
1842年
1843年
1844年
1845年
1846年
1847年
1848年
1849年
1850
1852年
1853年
1855年
1856年
1857年
1858年
1859年
1860年
1862年
1863年
1869年
1870年
1871年
1872年
1873年
1874年
1875年
1880年
1881年
1885年
1894年
その他書簡(手紙)とか草稿(メモ)とかが多数[1]。これらはエンゲルスとの共著を多く含んでいる。沢山あってどれを読んでよいか目移りするが、とりあえず資本論は抑えておこう。正直、資本論さえ読んどけばなんとかなるみたいな空気はある。
有名な著作であれば駅前の大型書店に行けば売っているのだが、マイナーなものは専門的すぎてあんまり本屋には売っていない。なので神保町で古書巡りをするか大きな図書館に行ってマルクス・エンゲルス全集(Marx/Engels historisch-krirische Gesamtausgabe、旧MEGAと呼ばれる)か、新マルクス・エンゲルス全集(Zweite Marx-Engels-Gesamtausgabe、新MEGA。またはMarx-Engels-Werke、MEWと呼ばれる)を探してみよう。旧MEGAはリャザーノフというソ連の社会主義者がマルクス思想の普及のために編集したものであるが、後にスターリンと対立して未完成のまま終わったものである。二次大戦後、新MEGAの出版が始まったが、こちらも未だ完成していない。
マルクスは日頃から猛烈に文献を読みあさって常に新しい知識を蓄えていたので書籍によっては言ってることが違っていることがある。しかしこれは思想のブレではなく過去の自分の思考に縛られないマルクスの思想の進歩なのである。
マルクスの著書は深淵な文章で書かれているので、人や解説書によっては解釈が異なってくることがある。以下の説明も必ずしも正しいとは限らない。なので是非とも本編(過度に求めるならマルクスの手によって書かれた無編集の原稿[2])を読み、自分の頭でマルクスの思考を自分なりに解釈をしてほしい。
詩集や、高校(当時のドイツではギムナジウムと言う)時代のテストや論文、父親への手紙など、学生時代のマルクスの文章も残っているが、それらには学術的な内容は含まれていない。余談だがマルクスの詩集の内容が「愛や人生をうたい,妖精や騎士,王女と王子が登場する」というものらしいのだが、マルクスもまさか若い時に書いたポエムが150年後に地球の裏側で読まれているとは思っても見なかったに違いない。
『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』とはマルクスの西洋哲学を総括した哲学論文である。記念すべきマルクスの処女論文。本論文は、マルクスが22歳のときにイエナ大学に提出した学位請求論文、要するに博士論文。
詳しくはこちら→『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』
『ヘーゲル国法論批判』とはマルクスが1844年に新婚旅行先のクロイツナッハで書いたヘーゲルの『法哲学』に関する批判の書である。
詳しくはこちら→『ヘーゲル国法論批判』
ヘーゲル法哲学批判序説とはドイツ哲学者カール・マルクスが若き日に著した人間解放の書である。青年マルクスはヘーゲルの『法哲学』、ひいては当時の観念論的ドイツ哲学の批判を通じて独自の哲学体系を見つけ出していった。
詳しくはこちら→『ヘーゲル法哲学批判序説』
『ユダヤ人問題に寄せて』は、かつてのマルクスの師匠であり、またヘーゲル左派の代表的哲学者であるブルーノ・バウアーのユダヤ人論への批判論文である。
詳しくはこちら→『ユダヤ人問題に寄せて』
経済学・哲学草稿とはマルクスが初めて資本論へと繋がる経済学的な問題意識を明確な形に草稿集である。
詳しくはこちら→『経済学・哲学草稿』
ジャーナリストとしてのマルクスが書いた、極めて時事的な作品。この聖家族とは慈善的社会主義を主張するバウアー兄弟のことを指している。当時パリで流行ったウジューヌ。シューの小説『パリの秘密』を使いながら批判している。
フォイエルバッハのテーゼとは11項目項目に渡ってフォイエルバッハを批判しているマルクスのメモ書きのことである。メモ書きなのですごい短い。
詳しくはこちら→『フォイエルバッハのテーゼ』
『ドイツ・イデオロギー』はカール・マルクスが自らの「歴史観」、「経済観」そして「ヘーゲル左派に対する批判」ををまとめた膨大なメモ集である。
詳しくはこちら→『ドイツ・イデオロギー』
哲学の貧困は、プルードンの著した「貧困の哲学」に対する批判書として書かれたフランス語の本である(マルクスはドイツ人)。これ以前のマルクスは「聖家族」などでプルードンを高く評価していたにも関わらず、この書では当時傑出していた高名な社会主義者であるプルードンを批判したことによってマルクスが新しい時代の社会主義を模索し始めていることが分かる。
本書は二部構成になっており、一部はプルードンの経済学批判になっている……のだが、結局のところマルクスが述べたかったのは「リカードはプルードンより優れた経済学者である」ということだけだった。リカードは当時の経済学会のトップスターであり、経済学が本業ではないプルードンがそれより劣るのはある意味当然である。
共産党宣言(共産主義者宣言)とはマルクスとエンゲルスが「社会主義とは何か?」をヨーロッパに広める為に著した「共産主義的信条表明」である。本著はあらゆる言語に翻訳され世界中の読者に読まれることとなる。
ここ→(共産党宣言)でただで読める。短いので多少本を読むのに慣れていれば2時間くらいで読めるはずだ。この機会にご一読。
詳しくはこちら→『共産党宣言』
賃労働と資本はマルクスが経済活動と政治活動の関係性を世間に普及するために書かれたマルクス経済学の入門書である。
『賃労働と資本』は元々は1847年にブリュッセルのドイツ労働者協会でマルクスが行った講演であるのだが、彼は1848年の革命失敗後、革命運動と経済活動の不可分の結びつきを重要視し、『新ライン新聞』に1849年に5号に渡って二年前の講演を纏めた『賃労働と資本』を掲載した。
本書が書かれた1849年はマルクス自身が経済学を完成させていないので、理論的な完成度では後に出版される『経済学批判』や『資本論』に比べると見劣りはするものの、逆にいえば簡易な文章でマルクス経済学の概要を掴めるので、『賃金、価格および利潤』と共にマルクス最初の一冊としてオススメされる本である。
当時のフランス皇帝ナポレオン三世をマルクスがジャーナリストとして風刺的に描いたマルクス政治学の名著である。
詳しくはこちら→『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』
資本論とはマルクスの哲学、政治学、経済学の集大成であり、歴史的大著である。
フランスの内乱とは、マルクス率いる共産主義を標榜する団体『インターナショナル』が1970年勃発した普仏戦争とそれに続くフランス臨時政府とパリコミューンの内乱に関して出した三つの宣言である。その三番目の宣言が『フランスの内乱』にあたる。本作と『フランスにおける階級闘争』、『ルイボナパルトのブリュメール18日』と合わせてマルクスのフランス三部作と称される。マルクスの政治学が凝縮されている重要な作品である。
詳しくはこちら→『フランスの内乱』
私は語った。そして私の魂を救った
ゴータ綱領批難はマルクスの生きている間では最後の重要著作であり、よって最も熟したマルクスの思想が覗けるという点で短いながらも数ある著作の中でも重要度が高いとされる。ただし本書はタイトルの通りゴータ綱領なるものを批判したものであり、ゴータ綱領と本書の成立過程の歴史的知識がないと正しい理解は難しい(単純に内容も容易ではないが)。
ゴータ綱領批判は1875年にドイツ中部の都市ゴータで開かれた社会主義者大会で、長年争ってきた二つの有力社会主義政党「全ドイツ労働者協会(ラッサール派)」と「社会民主労働者党(アイゼナハ派)」が合併し「ドイツ社会主義労働者党」となるにあたって新聞に発表された綱領(活動指針)に対するマルクスの批判の文章である。マルクスは、間違いだらけのゴータ綱領が自分たちが関わったものであると誤解されるのを恐れたのと、この綱領が真の共産主義の進歩に邪魔になることを考えて厳しくこれを批判した。
「共産主義は、初期は『各人が能力に応じて働き、労働に応じて受け取る(平等の権利)』、やがて『各人が能力に応じて働き、必要に応じて受け取る』社会になる」という二段階発展法が出てきたのも本書。
マルクス主義が生み出された背景には、三つの源泉があるとレーニンは指摘する。すなわち、
の三つである。マルクスを批判する人はマルクス主義をまるで妄想であって宗教に近いと言う。しかしレーニンに言わせればそれは逆で、むしろマルクス思想は西欧学問の最先端を結集させたものなのだ。実際当時の欧州では経済学はイギリスで、社会主義はフランスで、哲学はドイツで最も進んでいた。
マルクスはこの三つを見事に組み合わせることが出来たが、逆に言えば他の社会主義者は組み合わせに失敗していたのである。フランスの社会主義者プルードンやバクーニンは、ドイツ哲学のヘーゲル弁証法を社会主義に応用しようと試みたが、彼らは体系的にドイツ哲学を修学していなかったので不完全なものに終わっている。一方でドイツの社会主義者たちはイギリス経済学やフランス社会主義を輸入した際、それをドイツ哲学の「物事を観念的に考える」という色に染めてしまい、思考遊戯に終始し、世界を変革する動きには繋がらなかった。
イギリス経済学とは、重商主義と、それを批判する古典経済学者スミスやリカードの流れである。労働価値説など、マルクスの経済学はほぼこの二人のものを受け継いでいると言ってよい。マルクスは彼らの経済学を批判的に継承し、発展させてマルクス経済学という独自の学問体系を生み出した。もちろんこの二人だけでなく、人口論を著したマルサスや、功利主義を掲げたベンサムとJ・S・ミルなど広く古典派経済学をマルクスは学んで批判的に研究に取り入れている。
古典派経済学者については詳しくはこちら→『アダム・スミス』、『デイヴィッド・リカード』、『トマス・ロバート・マルサス』、『ベンサム』、『J・S・ミル』
マルクスは基本的には後者のアソシエーション派のビジョンを引き継いでいたが、革命時の過渡期の手段として前者の国有化派の考えを取り入れていた。すなわち、働く者自身が自治する事業体を身近な所で作れる社会を理想とするが(アソシエーション派)、部分的にそれを成し遂げようとしても失敗するので一時的に労働者が革命で政権を握り産業を国有化する手法(国営化派)を提案する。このような革命過渡期の政権のことをプロレタリア独裁政権と呼ぶ。
そして革命政権が資本主義経済を協同組合的な経済に作り替えていくにつれて、国家の経営もだんだんと現場の自治や当事者同士の調整に委ねられていく。そうなればやがて国家は政府ともども不要になっていき消え去る。そこに残るのは人間が搾取されることなく生きることのできるアソシエーションのみである。
ドイツは伝統的に観念的思想が発達していた。その中でも特にマルクスに影響を与えたのは、
のヘーゲル思想の潮流である。『疎外論』や『弁証法』など、マルクス思想の哲学的基礎は、この2人の思想を批判的に継承することによって生み出された。
観念論のヘーゲル、唯物論のフォイエルバッハ、そしてマルクスは最初観念論のちに唯物論と続いているのがポイント。流れとしては、ヘーゲルの観念論的思想をフォイエルバッハが唯物論的に継承し、その後マルクスがフォイエルバッハの残していた観念論的部分を消し去り唯物論を徹底することにより、マルクス独自の史的唯物論(唯物論的弁証法)が誕生した。ヘーゲルの観念論をマルクスが唯物論として継承したことを、『逆立ち』と呼ぶ。
疎外論に関してもマルクスはヘーゲルとフォイエルバッハから用語を用いている。ヘーゲル哲学は到底ここで説明できないほど複雑な哲学大系であるが、超簡単に言えば「人間の理性」というものを重視した思想である。ヘーゲル哲学が「観念論」とも呼ばれるのは、このようにヘーゲルが人間の精神や理性。この観念論はマルクスの唯物論とは対極の思想になる。ヘーゲルの哲学において、人類が皆持っている理性が徐々に普遍的になっていく。この普遍的理性は身分や民族、時代すら超えてみんなに当てはまり発展していくもののことだが、その精神的存在である理性が物質として現実に生み出される時に色々と現実界の物質的な制約を受けて、理性通りには実現できなくて矛盾した姿に歪曲される。これをヘーゲルは「疎外」と呼んだ。しかしヘーゲルは同時に、長期的には疎外を克服し理性が貫かれると主張する。
これを真っ向から批判したのがフォイエルバッハである。彼は理性ではなく一人一人の生身の人間、つまり個人の「感性」が本当に大事なものだと主張した。この「感性」というのも私たちが普段使ってる感性とは少し意味が異なる哲学用語であるが、本能、欲求、身体、暮らしの事情のようなニュアンスのものと考えてよい。
更にフォイエルバッハはヘーゲルの用いた「疎外」を全く別の意味で用いた。「理性」というのは、本来はそれぞれの人間の「感性」を満たすための手段に過ぎない。にも関わらず「理性」は生身の人間を離れて一人歩きを始め、それ自体が目的みたいになって、人間の「感性」を殺してしまう。
マルクスの理論ではこの二人の「理性」の箇所が「お金」や「資本主義」、「労働」というもので置き換えられて述べられている[1]。本来人間にとって有益な道具システムであるはずの「お金」や「資本主義」や「労働」が実際に施行してみると、恐慌や失業などのマイナスの要素も生み出してしまう。(ヘーゲル的疎外)
そしてやがてそれらは人間の手を離れ一人歩きを始める。その結果、労働者は搾取され、機械の導入により伝統技や職人文化が破壊されていくのだ。(フォイエルバッハ的疎外)
ヘーゲルついて詳しくはこちら→『精神現象学』、『歴史哲学講義』
フォイエルバッハについて詳しくはこちら→『キリスト教の本質』、『哲学改革のための暫定的提題』、『将来哲学の根本命題』
レーニンが述べたのはこの3カテゴリだけだったので一般的にはマルクス思想の源泉はこの三種類だけとされているが、もちろんマルクスはそれ以外にも多くの思想家、学者や文筆家から影響を受けている。例えば、古代ギリシャ哲学者のアリストテレスとエピクロス。マルクスはアリストテレスの政治学から商品の使用価値と交換価値の発想を取り入れた。エピクロスはマルクスの卒論の研究対象であり、ヘーゲル、フォイエルバッハと共にマルクス哲学の根幹を担っていると主張する研究者(フランシーヌ・マルコヴィッツ)もいる。
更に近世の哲学者スピノザ、ルソー、ヴォルテールなどもマルクスに強い影響を与えている。
ルソーの思想について詳しくはこちら→『社会契約論』、『人間不平等起源論』
他にイギリス経済学ではないが、スミスより更に以前の経済学者のペティやケネーもマルクスに強い影響を与えた。ウィリアム・ペティはスミス以前に算術的経済学の骨子を形成したことから『経済学の始祖』と呼ばれた。ペティの考案した労働価値説はマルクス経済学の背骨になる理論である。
ケネーに関しての詳細は記事を参照して頂くとして、マルクスはケネーの代表作『経済表』からヒントを得て再生産表式を完成させた。再生産表式は後にアメリカの経済学者ワシリー・レオンチェフによって産業連関表となり近代経済学に合流することとなる。産業連関表とは産業ごとの生産・販売額を表にしたものであり、日本でも総務省が毎年発表しているくらい実際的な経済分析である。経済学部生や公務員試験で経済学を学んだ人なら見たことがあるだろう。
更に文筆家のシェイクスピアにゲーテ、ダンテ。マルクスは多くの文学に触れていたがその中でも取り分けシェイクスピアを好み、資本論の中でもシェイクスピアの『夏の夜の夢』や『ハムレット』、『ヴェニスの商人』などの戯曲を多く引用している。
自然科学者では化学者のリービッヒに、進化論のダーウィン。リービッヒは当時最も進んだイギリスの農業を分析し、人口密度の高くなった工業地帯の食料を賄うため生産力を高めた結果、土壌から農業生産物に必要な化学物質が失われ、自然破壊が起きていると指摘。土壌から有益な化学物質が失われることをリービッヒはlift、すなわち盗みと表現した。マルクスはこのリービッヒの分析を、農村から工業地帯への人口の移動。階級間の搾取の分析へと発展させた。
また、生物が環境に適応して進化するという進化論を唱えたダーウィンに対して、マルルクスは自らの唯物弁証法が自然科学の中に実証された(自然の弁証法)と感激してダーウィンに資本論の一巻を献本している。
マルクスは他にもライプニッツとかマキャベリとか本当に色々読んでいたようである。。
活動・生活 | 主要著作 | 歴史 | ||
1818 | 0歳 | プロイセン王国トリーアにて誕生 | ||
1830 | 12歳 | フリードリヒ・ヴィルヘルム・ギムナジウムに入学 | フランス7月革命 | |
1835 | 17歳 | ボン大学法学部入学 | ||
1836 | 18歳 | ベルリン大学法学部に移る | ||
1840 | 22歳 | フリードリヒ・ヴィルヘルム四世即位(独) | ||
1841 | 23歳 | ベルリン大学卒業、イェーナ大学より博士号取得 | 学位論文『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』 | |
1842 | 24歳 | 『ライン新聞』の編集者になる | ||
1843 | 25歳 | イェニーと結婚、パリへ移住 | ヘーゲル国法論批判、ユダヤ人問題について、ヘーゲル法哲学批判序説 | |
1844 | 26歳 | 『独仏年誌』刊行。エンゲルスと意気投合し共同作業開始 | 経済学・哲学草稿 | |
1845 | 27歳 | パリを追放され、ブリュッセルへ | フォイエルバッハのテーゼの執筆、ドイツイデオロギー執筆開始 | |
1847 | 29歳 | ロンドン義人同盟にエンゲルスと共に加盟。後に共産主義者同盟となる | 哲学の貧困 | |
1848 | 30歳 | ベルギーから追放。パリへ。それからケルンへ。ケルンで『新ライン新聞』発行 | 共産党宣言 | 仏で2月革命、独で3月革命 |
1849 | 31歳 | パリに追放された後、ロンドンへ亡命 | 賃労働と資本 | |
1850 | 32歳 | 『新ライン新聞・政治経済評論』を発行 | ||
1851 | 33歳 | 大英博物館に通い詰め、経済学研究に没頭。『ニューヨーク・トリビューン』に寄稿開始 | ルイ・ナポレオンのクーデター、太平天国の乱 | |
1852 | 34歳 | 共産主義者同盟解散 | ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日 | 仏でナポレオン三世による第二帝政 |
1857 | 39歳 | 経済学批判要綱 | 世界恐慌 | |
1859 | 41歳 | 経済学批判 | イタリア統一戦争 | |
1861 | 43歳 | 南北戦争、イタリア王国成立 | ||
1864 | 46歳 | 第一次インターナショナル(国際労働者協会)がロンドンで創設され、宣言と規約を執筆 | ||
1865 | 47歳 | 賃金、価格および利潤 | ||
1866 | 48歳 | ドイツ連邦解体 | ||
1867 | 49歳 | 資本論一巻 | ||
1870 | 52歳 | 普仏戦争勃発、第三共和制成立 | ||
1871 | 53歳 | フランスの内乱 | ドイツ帝国成立、パリ・コミューン樹立 | |
1872 | 54歳 | 第一次インターナショナルハーグ大会に出席。バクーニン派を除名。本部をニューヨークに移す。 | ||
1875 | 57歳 | ゴータ綱領批判を執筆 | 『ドイツ社会主義労働者党』結成 | |
1876 | 58歳 | 第一次インターナショナル解散 | ||
1883 | 3月14日64歳で逝去 | |||
1885 | 資本論二巻を刊行 | |||
1889 | 第二インターナショナル創立 | |||
1894 | 資本論三巻を刊行 | 日清戦争勃発 |
カール・マルクスは1818年5月5日に、ドイツ西部のライン地方(ラインラント)の歴史的都市トリーアで誕生した。トリーア(Trier)はローマ帝国時代以来の都市で、大司教座が置かれており、現在はドイツ連邦共和国のラインラント=プファルツ州に属している場所である。カールが生まれた当時のドイツは、国土がバラバラの状態であり、現在のような統一国家は成立していなかった。彼の出生地トリーアに至っては、彼の生まれる数年前までナポレオンが支配するフランス領であったほどである。
カールの父親ハインリッヒ・マルクス、母親ヘンリエット・マルクスは共にユダヤ人であったが、カールが6歳の時に一家揃ってプロテスタントに改宗する。父親はラビ(ユダヤ人の司祭)の血統を継いでおり、トリーアの上級裁判所で弁護士してとして働いていたので、マルクス家は比較的裕福な生活を送っていた。父親から愛息カールへの手紙は今でも残っていて、そこから見るにカール少年は両親から過保護と言えるほどに愛されていたようであった。
マルクスというと貧しい労働者の味方であり、本人も極貧というイメージがあるが、このように彼の生まれは世襲貴族ではなかったものの、かなり上位の貴族に近かった。しかし改宗ユダヤであるので完全に上位階級であると言う訳でもない。少年期のマルクスは堅苦しく皮肉屋であり、ものごとを小難しくに考える子どもであったのだが、後のイェニー夫人との恋愛では、ユダヤの息子とプロイセンの高官の娘という壁を乗り越えるためにイェニーに愛情たっぷりのポエムを送ったり、相手の親に直談判したりと情熱的な行動もとっている。
12歳の時に少年マルクスはトリーアのギムナジウム(ドイツのエリート養成のための中高一貫校)に入学し5年間在学した。成績は抜群!とまでは行かなかったけれども有能な生徒ではあった。今でも残っている彼の卒業証書によると「彼は良好な才能を有し、古代語、ドイツ語および歴史において非常に良い、数学においては良い、そしてフランス語においてはまぁまぁの成績を示した。(中略)彼の将来が期待できる」と評価されている。
残っているカールの論文の中で一番評価が高かったものは『ヨハネ伝第十五章第一から第十四節によるキリスト信仰者の同盟について。その起源および本質その無条件的必然性およびその結果の叙述』という小難しいタイトルのものであった。その他にも卒業論文である『職業選択論』で高い評価を得ているが、先生からは、やや表現が大袈裟で派手すぎるというダメ出しも食らっている。ちなみにこの頃の日本は徳川十二代将軍家慶の時代であり、まだ黒船すら来ていない。
その後マルクス少年は1835年10月、ボン大学に法学研究のために進学するが、当時のボン大学には政府の介入が始まっており、マルクスはより自由な学風を求めてベルリン大学へ転学した。同時に姉の友人であるイェニーと婚約をする。在学中のマルクスは法学の各教科に加えて、文学、論理学、地理学、神学の勉強に励み、更に当時のベルリン大学で流行っていた青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派とも。当時流行っていたヘーゲルを批判的に発展させた一派)から大きな影響を受けた。1838年には父の死という悲劇に会うが、それでもめげず1841年にイェーナ大学に学位請求論文を提出してマルクスは哲学博士となった。当時の大学は現在の日本のように誰でも入れる訳ではなく、マルクスは知的エリートだったと言える。
大学を卒業後、マルクスはボン大学の講師への就職を希望し、当時ヘーゲル左派として『共観福音書の歴史的批判』という書籍を著し脚光を浴びていた旧友のブルーノ・バウアー教授の下へ向かった。マルクスは彼と共に神学を研究し、さらに『無神学新聞』という新聞を刊行して実績を得ようとした。活動の一環としてマルクスとバウアーは『ヘーゲルに対する最後の審判の切り札』というパンフレットを検閲の緩いライプツィヒで出版する。このパンフレットは一見キリスト正当派を擁護するもののように見えるが、その実はキリスト教を批判する無神論者のヘーゲルを批判するものであった。
しかし、以前から当局に睨まれていたバウアーはこの論文の出版により、いよいよもって不興を買ってしまい、出版数ヶ月後にして、このパンフレットはプロイセン警察から販売を禁止されて、バウアーは教授を大学をクビになってしまった。これによってバウアーのコネによって大学教授の地位を得ようとしていたマルクスの目論みは、その見込みがほとんどなくなってしまったので、やがて彼は教授になる夢を諦めた。
その後マルクスは重い借金を背負ったが、兵役を不合格になったため、当時彼が興味を覚えていたジャーナリズムを職業とするべく、ベルリン大学時代にマルクスが参加していた『博士クラブ』というサークルの仲間だったルーテンベルクを主筆に、マルクスと同様にラインラントのユダヤ人であったモーゼス・ヘスを助手にして、青年ヘーゲル派の政治的主張を訴える『ライン新聞』を創刊した。編集者のほとんどは23歳のマルクスより年上であったが、彼らのほとんどはマルクスの偏屈な性格に辟易しながらもその才能を高く評価していた。
『ライン新聞』は1842年1月1日に第一報が出版された。しかしこの時、マルクスは母親との金銭トラブルや婚約者イェニーの父親フォン・ウェストファーレン男爵の逝去などで、トリーアに引き止められていたので第一号には参加できなかった。5月の初めになってようやくマルクスは落ち着いて原稿を書き始め、すぐに編集部で一番熱心な執筆者となった。その原稿のほとんどはプロイセン政府に対する遠慮のない攻撃であった。
その頃の時事問題について書かれたマルクスの原稿は今となっては読む意味の薄いものになっているが、当時としては検閲にビクビクした軟弱なジャーナリズムに慣れきっていた読者たちに新鮮な印象を与えたのである。マルクスの名声は高まり、ライン新聞はドイツの全土で最も有力な反政府的新聞となった。1842年10月にはマルクスの功績が認められてルーテンベルクに代わってライン新聞の編集長に就任することとなる。
6ヶ月に渡るマルクスのジャーナリズムの仕事は彼から大学時代にあれほどのめり込んだ哲学への興味を失わせることとなった。さらにマルクスはこの時期に、後に一生の友人となるエンゲルスとの初対面を果たしている。
マルクスはジャーナリストとして全方面にケンカを売って売って売りまくった。プロイセン検閲当局にケンカを売り、親玉のプロイセン政府にケンカを売った。マルクスは政府の出版法を批判し、婚姻法を批判し、また、州所有の林で貧しい農民が枯れ木を集める事を禁止した法律を批判した。マルクスは公権力でなく自分の知人にもケンカを売りまくった。まず被害者になったのはマルクスの前にライン新聞の編集長をしていたルーテンベルクである。彼はマルクスの友人であったのに、マルクスの記事にこき下ろされてしまった。マルクスはそれに飽き足らず、かつて自分の師であったブルーノ・バウアーをインチキ野郎!と批判したのである。
誰かを批判することばっかりやっていたマルクス、当然色々な人から嫌われてしまう。そしてとうとう1843年1月にプロイセンからライン新聞を発禁にされてしまった。新聞の主筆を追放(記念すべきマルクスの初追放!)されたマルクスは、自分に相応しい仕事はないかと新しい活躍の舞台を探し始める。候補に上がっていたのは当時急進派として名をあげていた著述家アーノルド・ルーゲが編集を勤める『学問および芸術のためのドイツ年誌』という長ったらしい名前の新聞であったが、この新聞はライン新聞が発禁になる3ヶ月前に既に発禁になっていた。
しかし、この『ドイツ年誌』をフランスで復活させようという運動があったので、マルクスはそれに乗ることに決めた。これにより定収入を得る目星がついたマルクスは、学生時代に婚約していたイェニー(4歳年上)との結婚を決心する。
彼は、父が亡くなってからイェニーが移り住んでいたクロイツナッハ(現バート・クロイツナッハ)へと赴き、1843年の6月12日イェニー、本名『ヨハンナ・ベルタ・ユーリア・イェニー・フォン・ウェストファーレン』と結婚した。彼がイェニーに求婚をしてから7年目の出来事であった。マルクスは11月の末までクロイツナッハに留まり、政治・社会に関する書物を読みあさって読書ノート(通称『クロイツナッハ・ノート』)を作った。その中にはモンテスキューの『法の精神』、ルソーの『社会契約論』、マキャベリの『君主論』などの研究が含まれていた。
1843年11月の終わりにマルクス夫妻はパリへと移住する。永遠の亡命者マルクスの始まりであった。
渡仏したマルクスはアーノルド・ルーゲに加え、助太刀として若くして成功した詩人ゲオルク・ヘルヴェークと、無名だが志のあるモイレルを迎えいれた。しかし発起人であるルーゲはこの『独仏年誌』の刊行に際して、余りに無計画であった。彼らはこの新聞を国際的なものにしたかったため、彼らドイツ人だけでなく当時著名だったフランス人に原稿の執筆を頼み込んだのだが、それらは全て断られてしまった。
彼らには確かに実績があり、ある程度有名ではあったもののそれは全てドイツに限るものであり、フランスでの彼らは何者でもなかったのである。結局『独仏年誌』の第一号は1844年に発行されたが、執筆者のほとんどはドイツ人ばかりになったしまった。
マルクスは創刊号に有名な『ユダヤ人問題によせて』と『ヘーゲル法哲学序説批判』を掲載したけれども、執筆者の中で詩人であるハイネとヘルヴェークを除き、ドイツを超えて国際的に人気のある人物はいなかった。『独仏年誌』はわずか1号で廃刊となってしまう。
この失敗は期待が大きかっただけに本人達には非常に残念なものに映ったのである。元々鬱の気があったルーゲは気を病み、楽観的でけんかっ早いマルクスと溝を深めてしまった。マルクスは第三者への手紙の中でルーゲのことを『山師(詐欺師の意)』だとか『老いぼれロバ』だとかバカにしたことが原因でルーゲと完全に決別する。以後、お互い30年以上ロンドンに在住したにも関わらず二度と会うことはなかった。
その後、マルクスは、プルードン、バクーニンを初めとしたフランス人やロシア人の知識人と交流を深めたりしつつパリ発行の雑誌に寄稿をして収入を得始めた。マルクスの記事はパリの『進歩的文化人』には好意的に迎えられたが、時の政府や伝統的文化人には白い目で見られ、結局プロイセン首相の弟であった地理学者のアレキサンダー・フォン・フンボルトがフランス内閣に働きかけ再びパリを追放される(2年ぶり2度目)。マルクス家はエンゲルスの援助を受けてベルギーへお引っ越し。
マルクスがブリュッセルに来てから6ヶ月が経つころ、彼はパリにいた時のような労働者に対する無頓着な態度を捨てて、いよいよ共産主義へと傾倒していくこととなる。
そのきっかけは1845年にエンゲルスと共にロンドンに6週間の旅行をしたことであった。エンゲルスはロンドンで彼と親交のあった『労働者教育同盟』のメンバーをマルクスに紹介することになったのだが、マルクスはこれにいたく好感を持ったのである。ベルギーに戻ってきたマルクスはすぐにこれを真似て『ドイツ労働者教育協会』を設立した。彼の主な協力者にはプロイセンの元将校ヨーゼフ・ヴァイデマイアー、後にマルクスが資本論を捧げたシュレージエン出身の学校教師ヴィルヘルム・ヴォルフ、そしてマルクスの義弟エドガー・フォン・ウェストファーレンであった。
マルクスが再び政治活動を始めたということはまた誰かにケンカを売るということに他ならない。今回のターゲットになったのはドイツ人社会主義者ヴィルヘルム・ヴァイトリングであった。彼は熱意ある社会主義者であったが、この熱意が、情熱よりも理性を重視するマルクスには到底受け入れるものではなかったのだ。ヴァイトリングは感情論で共産主義を語る、いわゆる空想社会主義者であった。マルクスはヴァイトリングに堪え難い嫌悪を吐露し、ありとあらゆる共産主義運動から全ての空想社会主義者を追放することを目指した。
更にマルクスはブリュッセルを共産主義の国際的喧伝運動の中心に据えるべく1846年の夏に『共産主義通信委員会』なるものを設け、諸国の共産主義者の協力機構を打ち立てた。マルクスはこの機構を広めるためにエンゲルスをパリへと派遣する。エンゲルスのパリでの任務はマルクスの指導の下にある国際組織を設立することであったが、数年前マルクスがパリで失敗したように今回もその仕事は中々上手くいかなかった。マルクスの知名度は相変わらずパリではゼロに等しく、エンゲルスはフランスの有力な社会主義者であるカベーやルイ=ブランを尋ねて協力を仰いだが体よく断られてしまっていた。
パリでのエンゲルスの活動が滞る一方で、ロンドンでは幾分かマルクスの目論みに適う素養があった。ロンドンには既に『ドイツ労働者教育同盟[1]』という組織が活発に活動していたし、何よりイギリスには労働者達が政治的改革を目指すチャーチスト運動が広がっていたからである。1845年には『ドイツ労働者教育同盟』とチャーチストが中心となって、「万人は兄弟である」をモットーにした『友愛的民主主義者』という組織が結成されていた。
1847年に機は熟し、ロンドンに各組織の代表者が集まり、国際的な『共産主義者連盟』を結成することが決まった。しかしマルクスは金がなくてロンドンに行けなかったため欠席を余儀なくされる。ブリュッセルからはヴィルヘルム・ヴォルフが、パリからはエンゲルスが出席していた。その次の会議にはマルクスも一念発起して金を絞り出し、海を渡って参加をきめる。
その会議の参加者は名だたる社会主義者が参加していたのだが、高等教育を受けていたのはマルクスとエンゲルスのみであり他は全て無学な労働者であったので、組織はこの二人が主導で運営されることになる。そこでマルクスとエンゲルスは『共産主義者連盟』を代表し「共産主義とは何か?」を示すパンフレットを執筆することに決める。これがかの有名な『共産党宣言』である。共産党宣言は後にマルクスがブリュッセルに帰ってきてから完成され、ロンドンに送られた。
しかし共産党宣言が印刷され発売される直前にヨーロッパで大事件がおきた。それが世に言う2月革命である。1848年2月24日に労働者と資本家の対立が最高潮に高まったパリで革命が発生し、フランス王ルイ・フィリップがイギリスに亡命したのである。
この革命は後にヨーロッパ全土に広がっていくのであるが、マルクスの渇望していたこの労働者による革命は逆に『共産主義連盟』に大きな負担となってのしかかった。混乱によって9月にブリュッセルで開催されることになっていた第一回の『国民民主主義大会』は中止になり、共産党宣言も実際起こってしまった革命の前では味気を失ってしまったのである。
さらに革命の火が自国に及ぶことを恐れたベルギー政府は自国にある怪しい組織の弾圧を始めたのである。ヴィルヘルム・ヴォルフは警官に逮捕され拷問を受け、マルクスもその直後に国外追放を命じられた。お金のなかったマルクスはそれでもベルギーでウダウダやっていたので一家揃って逮捕され、もう一晩たりともブリュッセルにいてはならないと最終告知を受ける。こうしてマルクスはベルギーを追放され(三年ぶり三回目)パリへと亡命するのであった。
ベルギーを追放されたマルクスだが、捨てる神あれば拾う神ありでパリからの追放命令が取り消されていたので今度はパリへと向かった。パリに到着したマルクスとその仲間たちは早速活動を再開する。『ドイツ民主主義委員会』という組織を結成し、合議の結果ヘルヴェークを会長が選出された。マルクスは重要なポストに自分がつけなかったことに激怒し、ヘルヴェークをこきおろした上で『共産主義者連盟』の活動にのめり込んでいった。この時、マルクスはヘルヴェークの熱烈な支持者である元新聞記者のボルンシュテットを嫌がらせのために連盟から追放している。ヘルヴェーク自身は連盟には参加していなかったので難を逃れることができた。
一方フランスで発生した革命はドイツにも飛び火し、三月革命を発生させていた。そこでマルクスは革命に乗じて共産主義を宣伝するためにドイツのケルンへと移動して、革命が王制を倒してくれることを期待した自由主義的ブルジョワジーたちの援助を得て1848年6月1日に『新ライン新聞』を創刊しその主筆となった。しかし株主がブルジョワであることはマルクスの新聞経営を難儀なものにした。彼らスポンサーは絶対王政を嫌っていたが、それ以上に共産主義を嫌っていたからである。そして、そのブルジョワたちは革命の火が下火になるにつれて、絶対主義の次に出てきたプロレタリアートによる共産主義という怪物を警戒し始めていく。
このころマルクスは30回目の誕生日を迎えており、政治的活動の絶頂の時期を楽しんでいた。革命は彼の予想通りに動き、近いうちに全ヨーロッパを自らの意思の下に支配できると考えていた。そこでマルクスはブルジョワ達と手を切り、プロレタリアートの支持によってのみ活動を続けることを試みた。しかし当時の労働者といえばほとんどが共産主義のことをまるで分かっていない者ばかりで、一部共産主義を知る人も空想社会主義者たちによって歪められていた。更に、田舎に行ったことのなかったマルクスの理論の中には、人口のけして少なからずを占めていた農民の介在する場所がなかった。マルクスにとって農民は洞窟で暮らす土人と一緒であり、マルクスは、目覚めていない(科学的共産主義について分かっていない)労働者や農民、さらに自治をちらつかされてオーストリア・ハンガリー帝国に協力するに至った帝国周辺の異民族労働者についてはこれを「ルンペンプロレタリアート(人間のクズ)」や「半革命」として辛辣に罵倒している。
『新ライン新聞』はそれから三ヶ月以上平穏に続いていたが、やはりと言うべきか夏の末には官憲との衝突が起こった。1848年9月17日に巨大な野外デモがケルンに近いライン川岸で開催され、そこにエンゲルスを初めとした『新ライン新聞』のメンバーが参加していたため新聞は発行停止をくらい、デモの参加者たちはこれ以上ドイツに留まっていることは危険と判断し国外逃亡を図った。エンゲルスもスイスに亡命する。
マルクスはデモに参加していないので追放を免れたが、三週間にわたる新聞の発行停止はマルクスにとって痛手であったが、その頃にはマルクスは編集部の更なる独裁者と成り果てていた。暴君マルクスは欧州の革命の失敗を薄々感じ初めていたが、自らの自信が失われることは一切なかったのである。
調子に乗ったマルクスは、仲間二人と共に『ラインラント地方民主委員会』の名において税金の支払いの拒否と民兵(ミリシア)の集結を呼びかけた。当然プロイセン当局はこれに怒り、『新ライン新聞』ではなく、マルクスとその二人の仲間を治安妨害の罪で告訴した。しかし裁判は1849年に開かれたが、マルクスは得意の弁舌を用いて陪審員を論破してしまい、三人揃って無罪の判決を獲得する。これにより『新ライン新聞』の名は世に知れ渡ることとなったが、当局から睨まれたマルクスは、結局革命が完全に終結した後にプロイセン国籍の剥奪とプロイセンからの追放を命じられる。(1年ぶり4度目)
プロイセンを亡命しパリへと戻ったマルクスは偽名を使って警官の目を逃れていたが、7月になって結局取っ捕まる。警察はブルターニュ地方のモルビアンというド田舎に行くならフランスに留まっていていいよとマルクスに通告した。マルクスは物価の安いスイスでエンゲルスと一緒になることを思いつくも、最終的に彼は革命的精神は乏しいものの個人的自由が比較的保証されていて、何より彼の研究に必要不可欠な大英博物館のあるロンドンに移住することを決定する。マルクスは1849年の8月か9月にロンドンへと移動し(数ヶ月ぶり5度目の追放)、数週間後家族もやってきた。この後、マルクスは生涯の残り半分、30年以上をロンドンで過ごすことになる。
1849年の秋にロンドンにやってきたマルクス一家はキャンバーウェルの名士の集う郊外で、家具付きの家を借りてそこに住み始めた。マルクスにはその頃、三人の子どもがいた。母親と同じ名前のイェニー5歳、ラウラ4歳、そしてエトガー2歳である。それに加え、ロンドン到着後にはもう一人の息子ギードーが生まれていた。妻イェニーと四人の子、そしてメイドを含めた6人がマルクスの家族であった。マルクスはイギリスでは政治的な友人はいたのだけれど、普通の友達は相も変わらずゼロであった。楽観的なマルクスはロンドンでの生活は揚々としたものであると考えていたが、その一方で生活手段や収入を得る方法は全く考えていなかったので、後年ロンドンでの一家の極貧は凄まじいものになるのであった。
その年の終わりにエンゲルスがスイスから帰ってくると、マルクスは『新ライン新聞評論』というドイツ語で書かれた新聞を創刊した。これはハンブルクで発行されたのだが、寄稿者はほとんどマルクスとエンゲルスだけであった。『新ライン新聞評論』にはエンゲルスは主に革命の歴史、マルクスは革命の哲学の原稿を投稿していたのだが、マルクスがそんな甘い原稿しか書かないはずがなく、当時ロンドンにいたドイツ人亡命者たちを毎度のこと批判しまくってケンカを売りまくった。しかし皮肉なことにこの新聞の購読者はそのロンドンのドイツ人亡命者だけであったのだ。その後『新ライン新聞評論』は資金繰りに行き詰まり、1850年の最初4ヶ月には月に一回出せていたものが次に11月号を出して、それっきり休刊になってしまった。マルクスの手元には既に一銭の金もなく、イェニーが病気の子に乳を与えんと必死になっていたにも関わらず貸家では差し押さえが行われてしまった。
仕方がないのでマルクスはレスター・スクエアのドイツ人ホテルに一週間ばかり身を寄せた後に、ロンドンで一番貧しい外国人亡命者の住むソーホーのディーン街二十八番地の下層室2室に住むことになった。彼らは今後6年間をここで過ごす。
マルクスは食べるものも着るものもほとんどなく、部屋にはいつも借金取りがやってきてドアを叩いていた。それでもマルクスは原稿を買うために虎の子の妻の食器や自分のオーバーを売ったりしていたのである。そんな赤貧生活のさなか、マルクス夫妻に二人の娘、フランチェスカとエレアノールが誕生した。しかし一家の住むソーホーは不衛生極まりない場所であり、食べるものにも事欠くマルクス一家の子ども達は次々に死んでいった。ギードーとフランチェスカは幼いうちに死んだ。1853年にフランチェスカが死んだ時にはマルクスには葬式をするどころか、埋葬をする金すらなかった。1855年にはエトガーが亡くなり、マルクスの子どもは丁度半分になってしまった。
その後マルクスは妻イェニーの実家の遺産が入り込み、やっとこさ貧民街ソーホーを脱出しヘイヴァスト丘のグラフトン高台にある家に家具を買って移り住んだ。しかし相変わらずマルクスの手元に金はなかった。ロンドンでドイツ人亡命者に良い仕事はまわって来るはずもなく、その頃のマルクスの収入源はたった二つしかなかった。アメリカの新聞『ニューヨーク・トリビューン』の不安定な原稿料と、そしてなによりエンゲルスの援助である。私たちは、マルクスがエンゲルスを存分に搾取することによって自らの研究を続けることができたという歴史の皮肉をここに見ることができる。
ちなみにこの頃、1853年に日本ではようやく黒船が来航し開国の萌芽が見えている。
マルクスは革命の火から遠く離れたロンドンでも政治活動を止めることはなかった。マルクスは、そのうちヨーロッパで小ブルジョワ的革命が起きた後プロレタリア革命が起きると考えており(これは永続革命論と呼ばれ、後にトロツキーによって取り上げられた)、周りにその予言を吹聴していた。
1849年にドイツとフランスで活動停止となった『共産主義者連盟』であるが、連盟自体はいまだ健在であった。組織の幹部であったモールは戦争で既に亡くなっていたが、植字工のシャッペルと靴職人のハインリッヒ・バウエルは1849年の冬にロンドンにやってきて、マルクスと合流した。エンゲルスの旧友であるアウグスト・ヴァヒッリ、そしてプロイセンのヴィルヘルム・リープクネヒトとコンラート・シュラムを加えて1850年3月に彼らは再び活動を再開した。彼らは少人数ではあったけれどもいずれヨーロッパでプロレタリア革命は起こるという希望があり、志があった。
しかしマルクスの予想は大はずれする。マルクスが革命が進むと予言したフランスではナポレオン3世の下で反動化、つまり古い政治体制に戻ってしまったのである。マルクスはこのことに激怒し、著作『ブリュメール18日のクーデタ』でナポレオン3世政権を痛烈に批判したが、予言を外したマルクスには冷ややかな目線が注がれてしまった。
特にマルクスと反目したのはヴァリッヒであった。マルクスの独裁的な性格を快く思っていなかったヴァリッヒはシャッペルと共にマルクスに反抗声明を出した。マルクスは一応はそれを多数決で押さえ込んだものの、このままではいけないと考えて『ドイツ共産主義者連盟』の本拠地を自分の独裁に都合のいいドイツのケルンに移動することに決めた。これによりマルクスとヴァリッヒとは完全に決別し、ヴァリッヒは連盟を脱退し新しい組織『国際委員会』を創立した。これによりマルクス率いる旧連盟は著しく力を失うこととなったが、ヴァリッヒの組織もルイ・ブランなど他の非共産主義的組織と合併したりして勢いはしょぼかった。
さらに連盟がケルンに移動したことによってもう一つの問題が発生した。それはドイツではロンドンと違って政治活動に対する規制が強かったことである。マルクスが内部分裂を起こしている一方でプロイセン政府はロンドンのいるドイツ人亡命者達への警戒を一切緩めていなかったのだ。
そのプロイセン政府が最も警戒していたのが、マルクスの『共産主義者連盟』であった。プロイセン政府は連盟の実力を飛び抜けて過大評価していたのである。プロイセン政府に残る報告書によると「共産主義者連盟はヨーロッパの350の社会主義組織を指揮し、全構成員は5万人を超える」と書かれている。当然これは現実から大きく離れたものであった。
プロイセン政府はどうにかして連盟のメンバーを逮捕したかったのだが、一応プロイセンも近代国家であり表現の自由と出版の自由が保証されていたので、中々マルクス一味を拘束することはできなかった。政府はどうにかして連盟が政府転覆の計画や暴力煽動を企画しているという証拠を手に入れたかったが見つからないので最終的に証拠は偽造して連盟のメンバーを逮捕するに至った。このでっち上げられた証拠をもとに連盟のメンバー11名が18ヶ月の監禁の後に1852年10月の末に裁判にかけられることになる。マルクスは裁判での勝利を求めて被告人に有利な証拠を集めようとしたのだけれど、マルクスのいるロンドンから検閲の目をくぐり抜けてプロイセンに証拠の品を送るのは困難であった。
最終的に裁判では雑な偽造の証拠を裁判官に却下させることには成功したのだが11名中7名が他のところで有罪判決をくらい、これによってプロイセンでの『共産主義者連盟』の命運は尽きた。判決後数週間の後に連盟もヴァリッヒの組織も解散。これからマルクスは10年以上国際的革命組織に属することはなかった。
フランスでは反動化、ドイツでは裁判に負け、マルクスのヨーロッパでの共産主義運動は最早イギリスでしか遂行することはできないと思われた。マルクスはイギリスの労働者たちによるチャーチスト運動に期待をかけた。マルクスが頼ったのは彼の旧友のハーニィとアーネスト・ジョーンズであったが、ハーニィはマルクスと仲の悪かった団体とも親密にしていたのでやがて疎遠に、というかお約束のマルクスの罵倒→ケンカ別れになった。もう一方のアーネスト・ジョーンズはイギリス生まれドイツ育ちの傑物であった。ジョーンズは『人民新聞』なる週刊誌を創刊し、1852~1854年の間マルクスはこれに頻繁に原稿を送っていた。
マルクスは『人民新聞』に先んじて1851年から経済的困難のためにアメリカの新聞『ニューヨーク・トリビューン』にも寄稿しており、これはマルクスの唯一の定期的な収入源であった。この『ニューヨーク・トリビューン』という新聞は1841年にホレース・グリーリという理想主義的な印刷業者によって創刊された後に、アメリカでブームだったフランス社会主義者フーリエの影響を受けたものになっていた。1848年時点でトリビューン紙はトマス・マッケルロースとチャールズ・アンダーソン・デーナによって経営されていた。
彼らは1848年の欧州の諸革命に強く興味を抱き、デーナは欧州に視察旅行に出るのだがそこで彼は『新ライン新聞』の編集者として活躍をしていたマルクスと出会う。その会見がきっかけとなって1851年夏にトリビューン紙はマルクスに対して週二回の寄稿を依頼した。マルクスは貧乏から脱出するために喜んでこの申し出に飛びついた。しかしマルクスはこの新聞が自分の政治的指針と別の指針を示していることに気付き、更にマルクスは英語が書けなかったので、エンゲルスに「俺の代わりに原稿書いといて。あ、原稿料は俺の物だからね?」と頼み込んだ。こうして一年目のマルクスの原稿はマルクス名義ではあったものの全てエンゲルスによるものであった。1852年の夏になってマルクスは原稿を自分で書き始めるがドイツ語で書いたものをエンゲルスへ送って英訳してもらうという方式をとっていた。しかしエンゲルスの英語が酷いものであると評判を聞いたので、1853年1月から自分で英語で書くようになった。性格悪すぎである。
マルクスが最初に送った原稿は、当時変化を続けていたイギリスの政治に関するものであった。当時のイギリスではダービー首相とディズレーリ蔵相を中心とした保守党が躍進していた。マルクスはアメリカの読者にイギリスの主要な政党に関する鋭い分析を提供した。マルクスは保守党と、それに対抗する急進派を厳しく批判した。
1853年にはマルクスは当時のヨーロッパで最も注目されていたトピックの一つである東方問題(欧州、トルコ、ロシア外交)に関して興味を持ち始めた。マルクスは当時の東方問題についての知識人デヴィット・アーカートの著述を研究し始めてアーカートを信奉するようになり、民衆から支持を受けていた親ロシア派のイギリス政治家のパーマーストン卿を二人で批判していたが、毎度のことすぐにケンカを始めた。しかしマルクスはアーカートの経済的支援を無視できなかったし、アーカートの方も欧州に関する知識豊富なマルクスは貴重であったので二人の関係はしばらく続いていた。アーカートはその後、イギリス女王の政府の外交政策を研究し批判するための『外交委員会』なる組織し、組織発行新聞の『フリー・プレス』に原稿を書いてくれるようマルクスに依頼したが、原稿料の支払いは不安定であったし、途中ケンカして中断を挟みながら1857年の春に完全に寄稿は止まった。
この頃マルクスが原稿を送っていた新聞には他に、ジョーンズの『人民新聞』とデーナの『ニューヨーク・トリビューン』があったが、その二つの方も継続が怪しくなっていた。『人民新聞』はイギリスと同盟国であったフランスを批判することを止めなかったため、非国民的だと叩かれて売り上げを激減させた。結局『人民新聞』は1858年に急進派の『モーニング・スター』紙に身売りして独立の存在を失った。『ニューヨーク・トリビューン』でもマルクスは多くのトラブルを起こしていた。マルクスは自分の記事が編纂されて紙面に載ることに抗議して、結局1855年以降マルクスの記事は無署名で掲載されるようになった。マルクスは『ニューヨーク・トリビューン』紙に対する不信感を強めながらも経済的理由の為、嫌々原稿を書き続けたが、それも50年代にヨーロッパを襲った大不況によって彼の仕事は激減していた。1855年にはラッサールの紹介で働いていた『新オーデル新聞』も廃刊になった。
それから数年の後にマルクスは再び収入のほとんどをエンゲルスに頼ることとなる。デーナは必死でマルクスに仕事を回していたが、マルクスは編集の「売れるために風刺的な文章」という要求に嫌悪感を抱いていた。それも南北戦争によって読者の関心が欧州からアメリカに移ったことにより1862年の春にマルクスへの原稿の依頼は0になりマルクスのジャーナリストとしての仕事は完全に終わりを迎えた。
1864年に資本論一巻の刊行(1867年)に先立つ形で、マルクスは『国際労働者同盟』、いわゆる『第一次インターナショナル』の創立に参加し、すぐにそこでの指導者となった。
元々マルクスはインターナショナルの発起人ではなく招聘される側であった。インターナショナル誕生のきっかけは1862年のイギリス万国博覧会である。この華々しい場所にかのナポレオン3世の支援により渡英したフランスの労働者200人がやってきて、イギリスの労働者代表とグレート・クイーン街のフリー・メーソン会館で会談したのである。会談は成功に終わり「フランス及びイギリスの労働者の同盟のための万歳三唱」をもって議事は終了した。これが一連の事件の全ての出発点となった。
歴史的に海外の動きもあった。1863年にはアメリカでリンカーンの奴隷解放が宣言されイギリスの労働者団体はこれを喜んで迎え入れた。また同年、ポーランドのロシア分割支配地域で反ロシア叛乱が発生。ポーランド革命政府(臨時国民政府)はポーランドの独立、全国民の平等を宣言し、封建制を打破する政治的、社会革命を推進しようと試みたが、これが帝政ロシアの圧力を受けることは火を見るより明らかであった。そこで、当時イギリスで有力な労働者団体の指導者であった夫人靴工のジェイムズ・オッジャーは集会を開き、イギリス政府はポーランドを支援すべきであると主張した。オッジャーはイギリス政府を動かすためにはフランス労働者の支援が必要であると考えた。イギリス世論をポーランド支持に向けたかったナポレオン三世は再びフランス労働者団体を支援し、英仏労働者団体の会談は再び行われ『国際労働者同盟』の創立が検討された。その後ポーランド叛乱は欧州の同情があったにも関わらずロシアの圧倒的武力によってすぐに鎮圧されてしまったが国際的な労働運動の炎は消えなかった。こうして会談は続き、ついに1864年、様々な団体を巻き込みつつ『第一次インターナショナル』は誕生したのである。
ここに至ってマルクスは一切の運動に関わっていない。マルクスはこの団体が誕生した時に、議事をフランス語に翻訳する係として呼ばれただけである。しかしこの招聘はこの団体の未来を大きく変えることとなった。『国際労働者同盟』の集会にはイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スイスそしてポーランドの六カ国が集まり、労働者の諸問題について語ってはいたものの、共産主義的な要素はほとんどなかった。いつも通りマルクスが会議の参加者をバカにして少し批評をしてみると、労働者たちはまるでマルクスについていけなかった。参加者たちはインテリではあったものの、労働運動についてはまるで素人であったからだ。マルクスは団体の規約を決める仕事を経て、すぐにインターナショナルの指導者的立場へと躍り出た。
しかし、インターナショナルにおいてマルクスが実質的主導権を握ってはいたのだが、組織には三つのマルクスに対抗する派閥があった。
当初最も勢いがあったのはイギリスの労働者組合派閥である。彼らは組織設立の原動力になり、インターナショナルの本部は最初から最期までずっとロンドンにあったし、なにより運営金の多くの部分を彼らが捻出していたからだ。インターナショナルの会議がロンドンで開かれた時、マルクスはイギリス人に彼の経済的唯物論や革命理論をハツラツと演説したが、イギリス人の反応は薄かった。彼らにとって労働者階級の利害と哲学、経済学は無関係のものだったのだ。
1866年にジュネーブで開かれた第一回年次大会ではマルクスはプルードン主義者たちと労働運動と政治運動の関連性について諍いを起こした。ついでマルクスはバクーニン派とも意見を一致させることが出来ず、結局インターナショナルは組織が出来て間もないにも関わらず分裂の兆しが既に見え隠れし始めていた。
オットー・フォン・ビスマルク。
彼は1878年に社会主義者鎮圧法をだしマルクスを苦しめた。
内部分裂の兆候と財政難を抱えながらも第一次インターナショナルは、いくつかの大会を成功に収めていた。1867年には第一回ジュネーブ大会、67年に第二回ローザンヌ、68年と69年にはそれぞれブリュッセルとバーゼルで大会が開催されている。わけても第一回大会は(派閥争いはあったものの)大きな盛り上がりを見せて、そこでインターナショナルの行動指針が決定された。労働運動があるところにインターナショナルの活動があり、マルクスは貧困と健康問題に苦しみながらも資本論の執筆と平行してインターの運動に参加していた。
しかしやはりというべきか、徐々にインター内の内部分裂が激しくなってくる。プルードン派は現在の社会制度を改良していくを目指し(改良主義)、政治闘争やストライキには反対していた。かたやバクーニン派は極左に走り、国家や政治そのものを否定する無政府主義者であった。マルクスとエンゲルスは彼らとは逆に政治闘争やストライキを重視し、革命によって政治権力を労働者の手に収めようとするプロレタリア独裁を主張した。
第4回大会ではマルクス派とバクーニン派がするどく対立する。ついにはそれまで病欠していたマルクスが初めて参加した72年の第5回ハーグ大会でマルクスはバクーニン派の除名を可決してしまった。更にマルクスはインターナショナルの総務委員会をニューヨークに移すことを決議した。こうしてマルクスの初めての大会参加はインターの分裂と移転を決める大会となってしまった。
マルクスがこうした判断をした背景にはパリ・コミューンの敗北があった。1871年に普仏戦争がプロイセンの勝利で終わると、パリに世界で初めて労働者が政治権力を握ったパリ・コミューンが成立した。マルクスはコミューンを高く評価し、3つの声明をだしてこれを援助した。それは今日では『フランスの内乱』というタイトルで彼の主要著作の一つとなっている。
しかしパリ・コミューンは内乱の果てに僅かな期間で崩壊してしまった。パリ・コミューンがある間はインターナショナルもこれを支援するために一致団結する必要があった。それがコミューンの瓦解によってインター内の意見対立が一気に吹き出すことになってしまったのだ。1876年、アメリカのフィラデルフィアで第一次インターナショナルは正式に解散してしまう。インターナショナルが失敗に終わるとマルクスは気落ちして、彼の体は一気に老衰に向かってしまった。エンゲルスはマンチェスターの工場を売り払い、ロンドンに移住までしてマルクスを援助した。
だがマルクスが落ち込んでいる間も世界の動きは止まることを知らない。鉄血宰相ビスマルクの指導の下で普仏戦争で勝利したプロイセンはドイツ統一へと導いた。これにより英仏から遅れていたドイツでも資本主義が発展し、同時に労働運動も躍進していく。その右派を担ったのがラッサールの「ドイツ労働総同盟」であり、左派にはマルクス派のリープクネヒトやベーベルらの「ドイツ社会民主労働党(アイゼナハ派)」があった。右派と左派は1875年にゴータの大会で合併し、名を「ドイツ社会主義労働党」と改めた。この時に公表されたゴータ綱領をマルクスは気に入らず、これを鋭く批判する。この批判書『ゴータ綱領批判』はマルクスの最期の主要著作となった。
あっちに行け、出て行け!臨終の言葉なんてものは十分に言い足りなかった馬鹿者達のためにあるんだ!(マルクス最後の言葉、家政婦が「臨終の言葉を言ってください」と頼んだことに対して)
1870年代になるとマルクスは肝臓を病み始める。これはストレスが原因とされているが詳細は分からない。温泉治療などを繰り返すようになり、これによりマルクスは一時的に健康を回復するが、今度は妻イェニーが肝臓癌にかかり、長い闘病生活の果てに1881年に没す。マルクスはこの長年の貧困生活を共に過ごした夫人の葬儀にドクターストップによって参列できなかったので墓前で弔辞を読んだのはエンゲルスであった。そして妻の死後、カールに追い打ちをかけるように彼の最愛の長女ジェニーまで夭折してしまう。
妻の死後マルクスはほとんど廃人のようになり、衰弱していく。彼の体には既にありとあらゆる病魔が取り付いていた。そして1883年3月14日、肘掛け椅子に座ったままで天国?への旅路につく。享年65歳であった。彼の墓はイギリス、ロンドンのハイゲイト墓地にあり、現在でも彼の墓前に花を添える人は絶えないという。ちなみに墓地の観光は有料。立派な銅像が墓標に立てられておりかなり目立っている。ちなみにこの墓標は結構デカい。
さらに余談ではあるが、彼の死から三ヶ月後6月5日に次世代の経済学の巨人、ジョン・メイナード・ケインズが誕生している。
ドイツが生んだ偉大なニート。世界に最も影響を与えたニートとも。
成人しても定職につかず親の遺産を食い潰しながら生活し、それが尽きた後は資本家の友人にたかり続けるというニートの鑑。後に記者の職を得たり、著書が売れたりもしたが、収入に見合わないアッパーミドルの生活を続けたために常に家計は火の車。親からは「資本の研究ばっかしてないで資本を稼いでこい」と言われる始末。
そのくせ、たまに講演を引き受けたりしても見栄を張って報酬を求めなったとか。結局のところ、足らない分は労働者から搾取して財を成した友人に出し続けてもらうということに。友人にお金をたかる文句もひどいもので、「たとえば子供たちを退学させ、まったくのプロレタリアート的住宅に移り、メイドに暇をやり、じゃがいもで暮らすようなことは、育ち盛りの娘たちにとってほとんどふわさしいことではないだろう」などと、自分の娘たちをだしにした挙句、労働者の生活を馬鹿にしたような事まで書く外道である。そこまでたかられても支援を続ける友人の寛大さには真に恐れ入るが、その友人も、身内の葬儀を伝えた手紙の返信で金を無心された時にはさすがにぶちきれたとか何とか。もし、労働者の天国と地獄があるのなら、間違いなく地獄送りであったろう。
マルクスがこのようにニートだったことから、たまに「マルクスの考えた共産主義社会は、働かなくても大丈夫なニートの天国」と誤解している人もいるが、当然そんなことはない。
こんな金銭感覚破綻者がどうにか生活を続けられたのはしっかりもののメイドさんのおかげ。マルクス夫人イェニーさんの父親は枢密顧問官という高級官僚であり上流貴族に属していためイェニーさんは一人でマルクスに嫁いだ訳ではなく、子供の頃から一緒に行動してきた自分の姉妹同然の専属メイドさんを伴っていた。それがヘレーネ・デムート、愛称レンシェンさんである。
このレンシェンさんというメイドさんは給料も貰えないことも多いのにマルクス家に数十年務め、マルクスの死後エンゲルスの下で暮らし、死後はマルクス家の墓に埋葬されるほどなのに、女癖の悪いマルクスときたら、レンシェンさんに手を出して妊娠させてしまい、さらには生まれた子供の処遇もやはり友人に丸投げした(友人の子として里子に出した)というどうしようもないダメ人間っぷり。
だけど、伝統的なマルクス研究者の間では、これはマルクス批判者による根も葉もない誹謗中傷だとしてしていることが多い。レンシェンさんの息子フレデリックが「自分の父親はマルクスである」と書いた手紙とマルクスの娘、エリノアがフレデリックを腹違いの兄と記した手紙が現存しているが、手紙そのものの信憑性も疑わしいという意見もある。果たして真相はどうなのか?
ちなみにマルクスと正妻のイェニーさんの間には7人の子供が生まれたがほとんどは栄養失調で亡くなってしまい、生き残ったのは3人の娘だけだった。
マルクスは極端な悪筆でも知られ、その文章は本人かエンゲルスしか読めなかったとの事で、エンゲルスは著書の刊行などにあたって必死で彼の文章を読み解こうとしたために目を悪くしたというくらいである。
マルクスの死後、全世界の社会主義者の望みは、マルクスの書斎に残されている、まだ世に出ていない膨大な草稿が出版されることであった。しかしマルクスの書いた文字を読み解けるのはこの世でエンゲルスだけであったので、極めて大量の編集作業はエンゲルスに一任されることになってしまった。しかもエンゲルスも容易にマルクスの書体を読み解ける訳ではなく、エンゲルスはマルクスの書体を『象形文字的書体』と読んで必死に読み解かなければならなかった。その作業がエンゲルスの寿命を縮めたのかは分からないが、エンゲルスは資本論三巻の出版から8ヶ月後にこの世を去る。エンゲルスは、自分の死後、自分が纏めきれなかった草稿を出版させるために、生前、弟子のカウツキーにマルクス書体の解読法を伝授していた。
マルクスの悪筆の真骨頂は「nie・nur論争」である。「nie・nur論争」とはマルクスの手書きの草稿であんまりに字が下手すぎて「nie」と書いてあるか「nur」と書いてあるか分からない場所があるのだが、ドイツ語では「nie」は「決して〜ではない」という意味であって、「nur」は「〜でしかあり得ない」という意味になる。つまり受け取り方によって文章の意味が真逆になってしまうのだ。マルクスは果たして「nie」と書いたのか「nur」と書いたのか。それを知るのは天国のマルクスだけなんだろう。
他にもロンドン時代に鉄道局の書記になろうとしたが字が下手なことを理由に断られたりしている。
30年にわたって大英図書館に通い詰め、研究および著述活動に専念した生粋の学者であり、主義主張はともかく、その学識の高さは多くの人の認めるところだった。ただし、その性格は自信家で傲慢不遜、異論や妥協を認めない頑固さに非常に高い攻撃性を持っており、非常に付き合いにくい人物と目されていた。
マルクスはけっして弱きを助け強きをくじく正義の味方などではなく、自分の能力と才能を発揮することにしか興味がなかった。マルクスは自分の理論に一切に過ちがないと信じていた。自らの理論を批判する者はみなバカかクズだと考え、矛盾を論破せずにおくことは知的配信を推進することだと周りに漏らしていた。マルクスの辛らつな舌鋒は、資本家のみならず他の社会主義の活動家(空想的社会主義者)にも向けられ、むしろ一度彼に賛同しつつもその後離反した者に対して最も彼の敵意は向けられた。
そのマルクスの姿勢こそが(日本の新左翼にも見られたような)粛清や分派乱立の元となっているともされる。この性格は生まれつきであり、大学在学中は父親が息子カールの余りに高すぎるプライドをどうにかするために何通も手紙を書いているがほとんど効果はなかった。
一方で自分の支持者に対しては大人物として振る舞い、そのため労働者にはよく慕われていたという。現在、一般に考えられているマルクスは後者のイメージによるところが大きいのだが、学者や革命家に比べて労働者の数の方が遥かに多いことを考えれば、自然ななりゆきであったと言えるだろう。
シェイクスピアを愛読するなどの芸術的感性もあり、芸術に関する論文も発表している。
ロンドン在住、長女ジェニーは当時流行っていたアンケート遊びに夢中になっていた。父のカールをはじめ、さまざまな人の回答を聞いて『告白帳』なるノートにまとめていたらしい。
質問 | マルクスの回答 |
愛すべき徳とは? | 男なら力。女なら弱さ |
あなたの長所は? | 頑固に努力すること |
あなたが幸福だと感じること | 闘争すること |
あなたが不幸だと感じること | 屈服すること |
あなたが最も後悔している悪しき行い | 簡単にだまされること |
あなたが最も嫌悪する行為 | おべっかをつかうこと |
あなたが拒否するもの | マーティン・タッパー[1] |
何をしてるのが好きか | 本を漁っているとき |
好きな詩人 | シェイクスピア、アイスキュロス[2]、ゲーテ |
好きな散文作家 | ディドロ[3] |
あなたの英雄 | スパルタクス[4]、ケプラー[5] |
あなたのヒロイン | グレートフェン[6] |
好きな花 | 月桂樹 |
好きな色 | 赤 |
好きな名前 | ラウラ、ジェニー[7] |
好きな食べ物 | 魚 |
好きな格言 | 人間的なことで嫌いなものはない |
モットー | 全てを疑ってかかれ |
マルクスの妻イェニー・マルクス(1814~1881)。マルクスを生涯に渡って支えた伴侶である。
詳しくはこちら→『イェニー・マルクス』
マルクスを語るにおいてエンゲルス(1820〜1895)を外すことはあり得ない。
マルクスにとってエンゲルスとは、親友であり、同僚であり、パトロン(経済支援者)であり、戦友であり、そして何よりマルクスの一番の理解者であった。マルクスにとってのエンゲルスは、サトシにおけるピカチュウ、ハッピーセットにおけるしょぼいおもちゃのように切っても切れない存在である。
詳しくはこちら→『フリードリヒ・エンゲルス』
大学時代のマルクスは、人付き合いが苦手で、暇さえあれば婚約者のイェニーに「我が心の甘美なるイェニー」とかいう民謡集や自分で書いた愛の詩を送っているような文学少年であった。このため、パリ時代のマルクスは「愛の詩人」として当時既に名声を博していたハインリッヒ・ハイネ(1797〜1856)と親交を交わすようになった。
ハイネも元ユダヤ人でありキリスト教に改宗した境遇であった。パリ時代のハイネは詩を作ると21も年下のマルクスとその妻イェニーに感想を聞いたという。マルクスの名言「宗教はアヘンである」という節も実はハイネの詩集の言葉であったそうな。
ハイネは1848年に病に伏し、1856年に病没。マルクスの書く文章は哲学書や経済学書にしては全体的に文学的、宗教的な修飾が非常に多い。このような感情的な装飾過多はマルクスが若い頃、詩に興じてしたことが原因なのかもしれない。
ヴィルヘルム・ヴァイトリング(1808~1871)はドイツ人革命家である。19世紀前半ドイツの手工業労働者の運動を指揮し、後にニューヨークで移民労働者の社会設立に尽力した。
詳しくはこちら→『ヴィルヘルム・ヴァイトリング』
ウィリアム・リープクネヒト(1826~1900)はドイツの政治家、共産主義者。ロンドンでマルクスとエンゲルスと仲良くなり、後にドイツ社会民主党を設立する。
リープクネヒトは1850年にロンドンに亡命してきて、オールド・コンプトン街に住み着いた。リープクネヒトはマルクスの家に毎日遊びにきて、時には酒場で秘密結社相手に大立ち回りをしていた。
フェルディナント・ラッサール(1825〜1864)はドイツにおいてマルクス、エンゲルスに並んで高い評価を得ていた社会主義者。マルクスと出会った当初はマルクス、エンゲルスと意気投合し、「経済学批判」の出版の手助けや共産主義者同盟のメンバーとして活躍。マルクスに資金援助も行っていた。しかし徐々にマルクスはラッサールを疎み始め関係性は悪化していった。その理由はラッサールがマルクスの思想をまるで自分が考えたかのように、その上歪めて世に出し始めたからである。マルクスは間違った社会主義が人間に広まることを非常に恐れ、これを批判する書簡を多数書いた。
1859年のある日、ラッサールは「ジッキンゲン[1]」というタイトルの戯曲を出版した。ラッサールはこの戯曲をマルクスとエンゲルスに送り感想を求めたのだが、この二人は相当にうざかったらしく婉曲的に嫌みをふんだんに盛り込んだ批評を返した。ラッサールはこれを不満に思い膨大な反論をマルクスとエンゲルスに再び送るが、二人は「暇があったら返事するとだけ返し」これをガン無視する。これがジッキンゲン論争と呼ばれるものであるが、ここにおいてマルクスとエンゲルスの芸術に関する考え方が見て取れる点で重要視される。
1864年ラッサールは恋人を巡って他の男と決闘を行い、負けて死んだ。
ミハエル・バクーニン(1814~1876)はロシアの思想家、哲学者、無政府主義者、革命家である。
バクーニンはドイツから警察に追われ、スイスを経て1844年の7日に『ヘーゲルと革命』の御旗を掲げながらパリに襲来し、マルクスと初邂逅を果たす。
ピエール・ジョゼフ・プルードン(1809~1865)はフランスの社会主義者、無政府主義者。
プルードンは独学の労働者で、長年印刷屋として働いていた異端の思想家である。彼は実践よりも理論を重視する社会主義者であり、ドイツ語の出来ないフランス人であるにも関わらず熱心にヘーゲルを勉強していた。バクーニンともよしみがあり、彼からドイツ哲学について学んでいたこともあった。しかし所詮は又聞きであり、マルクスからはヘーゲル哲学を間違って社会主義に応用しているとして批判された。
マルクスは出会った当初はプルードンを賞賛し、プルードンの著作である『財産とは何か?』を近代経済学におけるフランス革命のシェイイエスの『第三身分とは何か?』に匹敵するほどであると評価した。
しかしやはりというべきか、マルクスのプルードンへの賛美は長続きしなかった。やがてプルードンとマルクスは決別し、プルードンの『貧困の哲学』を皮肉ってマルクスは『哲学の貧困』と題した論文を後に出版している。
プルードンは多くの弟子を惹きつけ、彼の死後プルードン派はマルクスと対立した。特に共産主義運動における経済と政治の分離の問題において両派は議論を重ねた。
マルクス経済学とはアダムスミスとリカードの経済学をもとにマルクスが発展させ「資本論」において集大成を持たせたマルクスを始祖とする経済学の学問体系である。その特徴はスミスやリカードの労働価値説を理論的基礎として、剰余価値理論を踏まえて資本主義を分析している点にある。
詳しくはこちら→『マルクス経済学』
マルクス主義は世界を席巻した思想であり、20世紀にわたって強い影響力を持った。そのため、マルクスから影響を受けた思想家も極めて多い。彼らがマルクスを通じて研究した対象は、哲学、政治学、経済学の他に歴史学やジェンダー論、国際関係論と多岐にわたり、レーニン主義、西欧マルクス主義など多種多様に流派が存在している。
日本はマルクス研究が盛んな国の一つである。例えば宇野弘蔵、伊藤誠、廣松渉の3名の名前が挙げられよう。宇野弘蔵は今でこそ余り知られていないが、マルクス学を政治的イデオロギーから引き離し学問として確立した業績によってマルクス経済学の世界では有名人である。しかし、逆にあくまで社会主義を目指す正当派マルクス学者と宇野派は理論対立を起こした。その議論は90年代(つい最近)になってようやく収束し、宇野の弟子、伊藤誠(もちろん宇野派)はその象徴として、宇野在命中は考えられなかった正当派との共同研究に取り組むなどしている。あと9条の会にも入ってたり。ニコニコではshooldaysの主人公と名前が同じなので風評被害を受けている。廣松渉は純粋哲学としてマルクスを研究した学者。物象化理論を研究し、マルクス研究の主要トピックに押し上げた。更に、それまでは定番とされていたドイツイデオロギーのアドラツキー版を改め、新しい編集を行ったことでも有名(→ドイツ・イデオロギーの編集問題を参照)。
また不破哲三、的場昭弘、上野千鶴子も著作の数、メディアへの露出の多さから知名度は高いと言える。不破哲三は日本共産党の大幹部。140以上の著作を出版しており日本の伝統的マルクス主義者の中では抜群の知名度を持ち信奉者も多い。的場昭弘は新マルクス・エンゲルス全集の編纂に関わる神奈川大学の教授。著書多数。マルクスゆかりの地を片っ端から巡るなど、マルクスの人物面のマニアである。上野千鶴子はマルクス主義的フェミニズムの先鋭。みんな大好きアグネス・チャンが職場に子どもを連れて来た時に「職場に子どもを連れて来て良いかどうか」論争で有名になった。有名なフェミニストの田嶋陽子はリベラルフェミニストなので上野とは別の流派である。
詳しくはこちら→『マルクス主義フェミニズム』
ニコニコで一番有名なマルクス主義者は恐らく外山恒一だろう。現在はファシストに転向して反体制右翼になっている。主にMAD素材やネタとして。最近は色んな所で政治活動や路上音楽活動をしているようなので近所に来たら会いに行ってみてはいかがだろうか? 佐藤優は元外務省所属の外交官。官僚時代は『外務省のラスプーチン』と呼ばれるほどの手腕を持っていたが、鈴木宗男に絡んで逮捕されてしまい、釈放後はマルクス主義とキリスト教をバックボーンにしたコメンテーターとして活躍している。マルクスの経済理論を用いた視点からの経済分析は高い評価を得ており、ビジネス雑誌などでよくコラムを書いているので、そういうのを読む人の間では知名度は高い。若手マルクス学者としては、斎藤幸平は『人新世の「資本論」』において晩期マルクスのエコロジー思想と気候変動問題の関連を論じ、2021年の新書大賞を受賞している。
ソ連のマルクス主義者といえばまずは説明不要のウラジーミル・レーニンとヨシフ・スターリンの二人だ。説明不要なので説明は簡単に。とりあえずマルクスの研究をレーニンが深めたマルクス=レーニン主義は「正当派」と呼ばれ全世界のマルクス主義では圧倒的権威を持っていたことは押さえておこう。スターリンはソ連支配の正当性を証明するためにマルクスの理論のいくつかを意図的に改竄して世界に広めた。
またクロポトキン、カレツキ、プレハーノフの3名も外せない。クロポトキンは当時権威を持っていたマルクス共産主義と批判し、相互扶助を中心としたプルードン、バクーニンと並ぶ近代アナーキズム(無政府主義)の大家。カレツキはマルクス経済学派の立場としてあの有効需要の理論を発見。しかも、なんとカレツキはケインズよりも早く発見していた。しかしケインズのほうが有名 になってしまったためカレツキは一般理論を読んだとき三日寝込んだらしい。詳しくは該当記事へ。プレハーノフはロシア・マルクス主義の父と呼ばれる存在。 ヨーロッパでは最初のマルクス主義の解説者となった。
ドイツのマルクス主義者を紹介する前に、西欧マルクス主義という主にドイツ、フランス、イギリスとイタリア等で発展した西欧独自のマルクス主義を紹介したい。
第二次世界大戦後の米ソ冷戦体制の中で、いわゆる西側諸国ではマルクス主義をどのように評価するということが喫緊の課題であった。当時から既にソ連の全体主義や人権軽視は西欧の知識人の間では知られていたが、その一方で彼らは他のどんな哲学思想よりもマルクス主義に魅せられたというジレンマがあった。そこで彼らはソ連型のマルクス・レーニン主義とは異なる西欧独自のマルクス主義を模索しはじる。それが西欧マルクス主義のスタートであった。
このような思想の源流はロシア革命にまで遡ることが出来る。ロシアで共産革命が発生したことにより、マルクス主義は未来の革命を目指すだけの思想から、実現された現実の革命の欠点を指摘し、その欠点を批判的に載り得る思想へと脱皮し始めたのである。
レーニン・ソ連は唯物論的マルクス主義を科学として標榜し、歴史は法則通りに進むと考えていた。しかし一方でソ連は人間軽視の歴史を生み出していた。ソ連のいきすぎた客観主義の反動として、西欧マルクス主義は法則に縛られない人間の主体性を中心に置いた所が特徴の一つである。
ドイツにおけるマルクス主義の展開は一筋縄ではいかないほど複雑であるが、とりあえず名前をあげるとすればフランクフルト学派である。
詳しくはこちら→『フランクフルト学派』
フランクフルト学派第一世代ではフリードリヒ・ポロック、フランツ・レオポルト・ノイマン、オットー・キルヒハイマー、レオ・レェーベンタールなどが経済、政治、法、文学など多方面に渡って才能を発揮した。
他にも有名なのは、『自由からの逃走』を書いたエリヒ・フロム。中国社会論で名を馳せたカール・ウィットフォーゲル。さらにフランクフルト学派の代名詞となった「批判理論」を提唱したマックス・ホルクハイマーと、彼と共同で『啓蒙の弁証法』を著した、テオドール・W・アドルノを紹介しておかなければならない。
ホルクハイマーが提唱した批判理論とはマルクスが著作『経済学批判』での資本主義社会と、当時支配的であった近代経済学への批判を受け継いで、時代への危機意識の高めた社会批判的な理論の総称ことである。彼らはマルクスが批判した経済だけでなく、文化、心理、国家、家族などを包括的に理論に取り入れた。この理論にはドイツのマルクス学者であるジェルジ・ルカーチ(この人はフランクフルト学派でない)の影響が幾分か見られる。
詳しくはこちら→『伝統理論と批判理論』
マルクス主義的芸術評論家テオドール・W・アドルノは社会における芸術の特殊性に注目し、哲学と芸術を結びつけた社会批判を展開した。ホルクハイマーとアドルノは2人で西洋マルクス主義の代表的な論文となる『啓蒙の弁証法』を書き上げ近代文明を批判する。
詳しくはこちら→『啓蒙の弁証法』
他の有名どころでは、ルカーチは英哲学者マックス・ウェーバーの理論を取り入れつつ疎外論を研究したマルクス・ヘーゲル学者の先駆者である。代表作は物象化を世に広めた『歴史と階級意識』。ルカーチはプロレタリアートに人間解放の期待をよせていた一方で、後発のフランクフルト学派は時代の違いもあって権威に盲従しがちな労働者には救いを求めなかった。
他にもフランクフルト学派(第一世代)のヴァルター・ベンヤミンはユダヤ神秘的歴史、救済概念をマルクスの史的唯物論の立場から記した。代表作は『複製技術時代の芸術作品』。マルクス主義的神学者エルンスト・ブロッホはフランクフルト学派ではないがルカーチと親交を持ちユートピア思想を世に広めた。代表作は『ユートピアの精神』。マルクーゼ(第一世代)はマルクスの著作『経済学・哲学草稿』を、独哲学者ハイデガーの著作『存在と時間』の影響を受けつつ解釈した。フランクフルト学派(第二世代)のユルゲン・ハーバーマスは第一世代に強い影響を与えた独哲学者ニーチェに反抗し、反ニーチェの立場からマルクスの労働概念を用いて『コミュニケーション理論』を主張した。
フランスにおいてもマルクスの影響は大きい。例えば『マルクスとフロイトからの漂流』を書いたジャン=フランソワ・リオタール、『マルクスの偉大さ』を刊行予定したジル・ドゥルーズなどにマルクスの影響が見られる。
フランスにおけるマルクスの普及は比較的遅かった。その理由の一つとしてフランスでは共和主義の歴史からフランス独自の社会主義を求める傾向が強く、特にアナキズム(無政府主義)を背景にした労働組合主義(サンディカリズム)影響が大きく、社会主義政党の結成が遅かったことがある。さらにフランス共産党が1920年以後「クレムリンの長女(クレムリンとはソ連の政治の中心地、東側のホワイトハウスと言われる)」と呼ばれるほどソ連に接近していて、これに反感を持った学者が多かったことも理由の一つである。そのためフランスのマルクス主義研究が花開くのは第二次大戦後となる。
戦前のマルクス主義で有名なのはルフェーブル派を形成したアンリ・ルフェーブル。そして、戦後フランスのマルクス主義の第一人者と言えば、まずはサルトルである。
詳しくはこちら→『ジャン=ポール・サルトル』、『弁証法的理性批判』
実存主義者であったサルトルの目指したのはソ連の非人間的マルクス主義からの脱却である。それはサルトルだけでなく、サルトル以前から続く西欧マルクス主義全体の潮流である、疎外論を中心とした人間的マルクス主義であった。このヒューマニズムマルキシズムは世界中の運動家の間で流行することになるが、1960年代に入り、このサルトルの実存主義を論敵としたレヴィ=ストロースと、マルクスのヒューマニズムを批判したアルチュセールを代表とする構造主義の登場によってまたマルクス主義の歴史は動いていく。
詳しくはこちら→『構造主義』
構造主義の思想自体は1950年代後半には生まれていたが、構造主義が本格的に盛り上がるのは1962年のレヴィ=ストロースの登場を待つことになる。クロード・レヴィ=ストロースは20世紀最高の文化人類学者である。彼は初め哲学を学び、後に文化人類学へと興味を移したという経歴を持つ。彼の功績の一つにそれまで経験的にしか分からなかった近親相姦禁止の理由を理論化したというものがある。代表作は未開社会を研究した『野生の思考』、『親族の基本構造』、『構造人類学』。
レヴィ=ストロースの著した『野生の思考』は、その中でサルトルを手厳しく批判したのである。サルトルの歴史観は『人間の自由と主体性が弁証法的に社会を発展させていく』というものであった。一方でレヴィ=ストロースは未開社会の研究を基に『人間にはいかんともし難い、歴史の中でも変わらない構造』を見いだした。ここにサルトルの実存主義と、レヴィ=ストロースの構造主義の、思想史に残る大論争が巻き起こったのである。結果的に、世界の潮流におけるサルトルの実存主義は勢いを落とすことになる。
レヴィ=ストロース自身の専門は文化人類学だが、その思想の根底には地質学、マルクス主義、精神分析という一見関係のなさそうな3分野が潜在していた。その共通点は表面には見えない深層に物事を決定する鍵があるという所にある。地質学は、地表から見ることの出来ない土地の深層を読む学問であるし、マルクス主義は社会の表層には見えない社会の物質的基盤を読む学問である。精神分析は深層心理という無意識を学問する。レヴィ=ストロースは『個人の意志ではどうにもならない深層の決定が人間を動かしている』ということを強調する。
そして、構造主義とマルクス主義といえば欠かすことの出来ないのはルイ・アルチュセールである。アルチュセールはストロースと違い生粋のマルクス主義者であった。
詳しくはこちら→『ルイ・アルチュセール』、『構造主義的マルクス主義』
アルチュセールはマルクス研究だけでなく哲学、政治学、人類学、社会学、経済学など広域に渡って影響を及ぼしフォロワーによるアルチュセール派を形成した。アルチュセールに薫陶を受けたのがミッシェル・フーコーである。フーコーの学生時代マルクス主義は絶対であり(教条主義)、そこから外れる社会運動は倦厭される傾向にあった。しかしフランス五月革命の結果伝統的マルクス主義と一致しない運動が生まれたことによってマルクスを再読し現代にもう一度蘇らせる必要が生まれた。フーコーはアルチュセールのスターリニズム批判やポルシェヴィズム批判をヒントにしてマルクスを研究していた。
1980年代以降マルクスブームも去ってきて、論壇でも影響力がなくなってきた頃に出てきたのが同じくアルチュセールの弟子エティンヌ・バリバールである。バリバールはかつて師匠のアルチュセールと共に、名著『資本論を読む』を著した哲学者である。彼は生産力、生産関係、生産様式、再生産、イデオロギー等といったマルクスの基本概念を洗い直したが、上手くいかず共産党から離党する(ちなみにアルチュセールとフーコーもガチガチの共産党員)。そしてその後の著作『マルクスの哲学』の中でマルクス主義哲学がもはやあり得ない哲学であることを認めつつ、マルクスにとって必要なのは出発的に立ち返ることではなく、自らの歴史を学び、それを通じて自己改革することだと述べている。
最近ではデリダが著作『マルクスの亡霊たち』でマルクス哲学は社会主義国家の解体と自由主義(資本主義)による新世界の秩序の下で「新たなインターナショナル」が生まれていると述べた。
イタリアでマルクス主義が広まったのは19世紀末から20世紀にかけての転換期であった。当初バクーニン派のアナキズム運動が主導権を握っていた労働運動に対して、社会主義派の運動が次第に力を持ち始める。19世紀末に誕生したイタリア社会党の運動に対してラブリオーラやクローチェ(共に共産党の結成には参加しなかった)の手によるマルクス主義の紹介はイタリアの社会運動にさまざまな影響を与えることとなった。
クローチェの金言「全ての歴史は近代史である」という言葉は歴史を学ぶ人にとって覚えておいて損はない。現在の社会問題の原因は全て近代史の中にある。そしてその近代史の原因はそれ以前の歴史の中にあり、その歴史も更にその昔の歴史の出来事が原因となっている。そう考えれば全ての歴史は近代史と密接に関わっているということだ。
イタリアの社会運動に関するエピソードで興味深いものは第一次世界大戦の勃発に際して西ヨーロッパにおける第二次インターナショナル系の社会民主主義運動の中で唯一反戦を貫いたにが、このイタリア社会党だったということである。
イタリアにおけるマルクス主義はファシズムの体験をあいまって独特な発展を生み出した。中でもイタリア共産党の誕生に携わり、書記長としてムッソリーニと対決したアントニオ・グラムシの存在は大きな意味を持っている。
詳しくはこちら→『アントニオ・グラムシ』
グラムシとともにイタリアのマルクス主義にとって重要な人物をあげるとすれば、それはトリアッティになる。トリアッティは「科学的」マルクス主義よりも社会変革の過程において「実践」重視の「現実的」マルクス主義者であった。トリアッティのこうした傾向はイタリア共産主義の動向を左右牛、ベルリンの壁崩壊後の共産党解党→左翼民主党形成へと受け継がれる。
最近だとアントニオ・ネグリがマイケル・ハートとの共著作『<帝国>』が世界的にベストセラーになり注目を集めた。今世界で一番左翼に読まれている本と言っても過言ではないとされる。
マルクスと同じく19世紀のイギリスに生きたモダンデザインの父ウィリアム・モリスも実はマルクス主義者である。
詳しくはこちら→『ウィリアム・モリス』
時代は飛ぶが、次にイギリスのマルクス主義者はニューレフト(新左翼)運動から紹介していきたい。イギリスのニューレフト運動は特定の組織を中心としていたわけではないが『ユニバーシティズ・アンド・レフト・ビュー』誌と『ニュー・リーズナー』誌が合併して1960年に創刊された『ニューレフト・ビュー』誌は中心の一つと位置づけることができる。60年代から70年代のニューレフト運動が最も影響力の時代の主な寄稿者はレイモンド・ウィリアムズ、エドワード・パルマー・トムソン、ラルフ・ミリバンド、スチュアート・ホール、チャールズ・テイラー、エリック・ホブズボーム、ペリー・アンダーソンなどがいる。
フランスやイタリアなどの国々と異なり、イギリスでは共産党が大きな政治権力を握ることはなく、大学の知識人を中心として労働組合が運営されていた。しかし50年代になってスターリン批判やハンガリーの共産主義からの離反事件を経て、ソ連型共産主義に対する幻滅が広がると、伝統的マルクス主義への疑問視が生まれていった。その後51年以降のチャーチルやイーデンなどのイギリス政権下で左翼全体が政治に対する倦怠感や敗北感が出てきた。60年代70年代にニューレフトが活躍したのはこのような背景があった。若者を中心とした文化運動、学生運動、そしてとりわけ幅広い組織が連帯した反核平和運動がニューレフト、新しい左翼としてそれまでのマルクス運動の枠を超えて誕生したのである。
ニューレフト運動の特徴の一つとして挙げられるのは、それまでの伝統的マルクス主義が持っていた経済決定論に対する批判である。この批判は同時にそれまで経済の二番手の位置におかれていた「文化」に再び関心のスポットが当てられることになる。レイモンド・ウィリアムズの『長い革命』、リチャード・ホガートの『読み書き能力の効用』、エドワード・パルマー・トムソンの『イギリス労働者階級の成立』といった著作はニューレフトの文化主義を示す代表作である。
彼らが問題にしたのはイギリスの労働者階級という独特の階級編成である。この場合のイギリスの労働者階級は伝統的マルクス主義が言う労働者階級とはいくぶんか異なった意味で用いられている。後者が資本や所有といった「経済」的関係性によって決定されるのに対して、前者はイギリスの労働者階級が歴史の中で生まれた「文化」と位置づけたのである。特にトムソンの著作は労働者階級というカテゴリを、単に生産関係(経済的関係)で受動的に決定されるものではなく、自らの存在を積極的に規定し能動的に組織化するものと見なしていた。
これらの経済決定論への批判は70年代以降欧州大陸の構造主義的マルクス主義との対決を不可避にした。最大の敵はフランスの一流マルクス主義者ルイ・アルチュセールである。1976~1979年にかけてイギリスの文化主義とフランスの構造主義は『ヒステリー・ワークショップ』誌の中で激しい議論を戦わせている。イギリスのニューレフトはアルチュセールの決定論的、反人間主義に対して反発し、特にトムソンはこの論争の中心にあり、79年には『理論の貧困』という本を著し、アルチュセール主義を徹底的に批判した。
しかしその後ニューレフト運動の影響力は70年代の終わりとともに終焉した。80年代に入ると左派が持っていた男性中心主義やイングランド中心主義に対する批判がフェミニズムや、イギリスで興った文化研究の潮流(カルチュラルスタディーズ)から発生し新左翼運動は落ちついてしまったのである。カルチュラルスタディーズの流れ以外にも例えばエルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフは85年に発表された『ポスト・マルクス主義と政治:根源的民主主義のために』において、それまでの新しい社会運動の成果を踏まえつつ、伝統的マルクス主義の経済決定主論を否定して、節合(articulation)という概念を中心にして新しい政治モデルを提案した。『ポストマルクス主義』といわれる最近の動向も21世紀の重要なマルクス主義の一派である。
90年代は世界的なカルチュラルスタディーズの広がりの中で、それまで学会で目立っていたフランスの構造主義の影に隠れていたイギリスのマルクス主義が再評価される時代であった。それじゃ上述のウィリアムズやトムソン、ホールなどの再読が進んだこともあるが、もう一つイギリス左派に再びスポットがあたった理由としてフランスマルクス社会主義がどこか冷笑的で悲観的であったのに対して、イギリスのマルクス主義は一貫して独特の楽観主義を保っていたことがある。
最近日本ではデイビッド・ハーヴェイの著作もよく見る。デイビッド・ハーヴェイは地政学の分野では論文引用数世界一を誇り、現役のマルクス系学者では世界で一番人気があるとされる学者の一人。彼の授業をネット配信したところ世界中で大反響があり2005年のマルクスブームの立役者になった。ハーヴェイは資本の地理的不均衡に注目し、それなくして社会変革は失敗すると主張した。
非西欧世界のマルクス主義の初期は、西欧への接近を目指す動きと、独自の理論を模索する動きが入り交じった状態にあった。20世紀の初め、非西欧国のほとんどが植民地として帝国主義諸国の非支配下にあり、彼らの位置づけは西欧での革命をサポートするサブ的、従属的な活動にあった。その後マルクス主義の中心は、1919年の第一次世界大戦の講和条約ヴェルサイユ条約を経て、西欧から革命ソ連に移り、非西欧国は共産党国際支部としてソ連の共産主義インターナショナル、通称コミンテルンに従属することを強制される。しかし非西欧諸国のマルクス主義者は既にそれらの圧力を批判し始めていた。例えば、1919年に『東方問題に関する決議』の草案を書いたタタール人の革命家ミールサイド・スルタンガリエフ。更に1920年1月に『黄炎培演講広州市政』の論文を著した中国の李大釗。彼は陳独秀と共に中国共産党の設立を担い、毛沢東の師となった。また1920年にコミンテルン第二回大会でノ『民族・植民地問題に関する補足テーゼ』を発表したインド人革命家マナベーンドラ・ナート・ローイなどの名が挙げられる。
彼らは非西欧諸国を軽視する世界の潮流に対して「西欧の資本家が非西欧の労働者は搾取することによって西欧の労働者を潤し、革命の到来を遅らせている。非西欧諸国の労働者は世界的な意味でのプロレタリアートになっている。よって西欧の支配を打ち破ることが西欧の労働者を追いつめ世界革命の原動力となるのである」という主張をした。彼らは西欧と非西欧の間に強いられた支配-従属関係を断ち切る力に世界革命の可能性を見いだしていたのである。もちろん彼らの当面の目標は脱植民地である。
しかし彼らのマルクス理論はしょせん西欧マルクス理論の掌の上である。『階級』や『生産諸力』や『生産様式』といったカテゴリーを非西欧にもそのまま適当できるのか。西欧の支配を受けていた国々が西欧と同じ道筋を辿ることができるのか。西欧とは異なる歴史発展の可能性の模索。こうした試みを進めた思想家としては1920年代のペルー人マルクス主義者、ホセ・カルロス・マリアテギの名前を挙げることが出来る。
マリアテギはスペインの植民地支配を生き延びた先住民族の生産主義的共同体を基盤に、西欧とは異なる社会主義への道、つまり非資本主義的な発展を構想した。人口の大部分を占めながら欧州からの植民地主義と、欧州人の入植者を先祖に持つ人々による人種主義によって国民からつねに排除されてきた貧しい先住姻族たちをマリアテギは主体ととらえたのである。彼は西欧的資本主義=近代化という常識を打ち破り、『異なる近代』を追求したのである。
だが、こうして芽吹いた非西欧のマルクス主義は1930年のはじめまでにモスクワを唯一の中心とするソ連の『革命政治』によって、批難され追放され圧殺された。それでなくとも無視されるか骨抜きにされるかという敗北を喫するのである。
非西欧マルクス主義が再び興るのは二次大戦後である。二次大戦後の非西欧マルクス主義においても、最も重要な課題は西欧主義から離れた『異なる近代』の可能性、自立と自律への道筋である。
1960年代初頭、アルジェリア独立革命の過程で斃れたマルチニック島出身の思想家フランツ・ファノンはその著作、『地に呪われたる者』で、植民地と被植民地、すなわり支配と被支配の関係を克服することで新たに生み出される『民族文化』を重視し、そのもとでの発展の可能性を唱えた。
ちょっと前に映画になって日本でも知名度の高いゲバラもファノンと同じくその流れに乗る一人である。フェデル・カストロと共に1959年にキューバ革命を成功させ、南米ボリビアで1967年ゲリラ兵士として討ち死にした、アルゼンチン生まれの革命家エルネスト・チェ・ゲバラ。彼は、まず生産力を向上させ資本主義化を推進してから社会主義へ向かうべきだとする西欧を尺度とする『段階論』を激しく批判し、『社会主義の下での新しい人間』の可能性を主張した。
更にもう一人の有名人毛沢東も同じ式に西欧近代へのアンチテーゼを実践に移した。それは資本主義市場経済を徹底して排除し、都市と農村、頭脳労働と肉体労働、工業と農業の間の差別を撤廃することを目指しながら、西欧科学主義=『洋法』にのみ依存する態度を批判して中国人民の土着の技術=『土法』を基礎に置くなどの政策に表れている。毛沢東思想は、中国古来の思想文化とマルクス主義の融合により独自のものとなり毛(マオ)主義、毛沢東主義と呼ばれる。
こうした非西欧での異なる近代に向けた試みは、中国に限らずその実行過程に起こった民衆抑圧や、結果としての失敗や挫折によって、現在では厳しい批判にさらされている。スターリンと並ぶ、共産主義の悪しき面の第一人者がカンボジアのポル・ポト。彼は自らが支配していた『民主カンプチア(カンボジア)』において、西欧資本主義社会システムが必然的に生み出す国際的な不平等からの自由を求めて、彼らは真剣に『理論的分析』をすすめ、『鎖国』を行い、民衆を強制的に『集団農業化』することによって『原始共産制』国家を目指した。結果は人類の歴史でも特筆すべき悲惨な結末に終わった。常規を逸した大虐殺と大飢餓によりカンボジアの人口は激減することになる。
こうした残酷な歴史を背景に、現在非西欧マルクス主義は聞く人にアレルギー反応が出るレベルに全否定されている。しかし、西欧からの脱却を目指した彼らが、なぜ無惨な失敗や挫折を繰り返したのか、という問いは変わらず残っている。21世紀になり現在マルクスは『神』ではなくなった。しかし、だからこそ新たなマルクス主義が世界各地で生まれているのである。
マルクスがロンドンで創立を宣言したインターナショナル(第一次インターナショナル)はバクーニンら無政府主義者たちとの抗争が激しくなり10年ほどの活動の後に解散。しかしそれから第二次、第三次のインターナショナル(コミンテルン)が誕生し、ついにロシアのおいてソビエト主導でマルクスの念願であった社会主義革命を達成した。そしてその後ソビエトがめざしたのは世界労働者革命である。
しかし実際のその目的は社会革命を成し遂げること自体よりも国内の不満を解消し社会主義のモチベーションを高めることにあった。というのも、ロシアでは革命のその過程において皇帝暗殺を始めとして、各地で虐殺や略奪などの社会的混乱を招いていた。そのため、国民を精神的に団結させるために社会主義の輸出はソビエトにとって急務だったのである。そこでコミンテルンが指導し各地にその国の共産党を設立。その一つとして1922年に日本にできたのが日本共産党であった。右の画像はクレムリンと呼ばれる共産党の本拠地であり、冷戦時代はホワイトハウスと対照されるものであった。
日本共産党は非合法組織であったため地下活動を中心として活動していたのだが、治安維持法が設立されてからは拷問を含めた厳しい言論弾圧を受ける。まぁ、日本共産党はソビエトの下位組織であったのだから、戦争の機運の高まる当時では仕方なかったのかもしれない。しかし、日本が太平洋戦争で敗北。アメリカの統治のもと基本的人権を柱とする日本国憲法が公布され、日本共産党にも表現の自由が与えられた。そこで共産党の内部では「今まで通りゲリラ的に活動していこう派」と「合法になったんだから普通に選挙で勝つことを目指そうぜ派」の二つにわかれるが、その後色々あって1955年に後者の「選挙頑張ろうぜ」の路線でいくことになった。
しかし共産党が穏やかな組織になってしまうと困るのは、ゲリラ的活動に熱中していた若者たちである。彼らは日本共産党に絶望し共産主義者同盟という別組織を結成、全日本学生自治会総連合(全学連)の学生の支持を受け勢力を伸ばす。その活動内容は穏健派の共産党とは対照的に過激でエキサイティングなものになっていった。要するに若者にとってはこれ以上ない娯楽だったのである。この全学連の活動がピークになるのは60年代の安保闘争であった。
敗戦国としてアメリカの統治を受けていた日本は1952年に主権を回復し独立国家として認められるようになったのだが、そこには日米安保条約と米軍の進駐が条件としてあった。その結果、期間限定だと思われていた米兵の在留がそのまま存続することになる。今の私たちはすっかり慣れてしまっているけれども、独立国家の内部に外国の軍隊が常駐するなんてのは実はとんでもないことである。しかし条約締結当時、朝鮮戦争(1950~1953)が勃発しており極東は未だ不安定であったので国民もこれを我慢して飲んだのである。だが1960年安保条約が再締結されることが分かると国民はぶち切れ。「朝鮮戦争が終わったのにいつまで米軍はいるんだよ。このままじゃあ一生日本に米軍がいることになってしまう。日本はアメリカの植民地じゃねえぞ!」ということで起こったのが安保闘争である。
当時の大学生は(今もそうかもしれないが)、退屈と体力を持て余しており日々刺激を求めていた。なおかつ当時は団塊の世代で個が群衆の中に埋没する時代であり、特に地方から東京に出てきた学生は寂しさもあり団結し何か一つの大きな目標に向かって活動する社会主義運動は非常に魅力的であったのだ。こうして全国の、とりわけ高学歴の学生の間に社会主義活動が広まり、徐々に組織化もなされていった。活動の中で大学生に死人が出たりもしたが聖なる殉職者の美旗となり、ベトナム反戦運動もあり活動はさらに大きくなっていく。今でこそマルクスを学ぶなんてのは超一部の者だけであるのだけれど、当時はマルクスについて学ぶことがインテリの条件であり、東大や京大を筆頭に優秀な大学生たちはこぞってマルクスを読み漁ったのである。
しかし60年代後半からその社会主義運動も緩やかになってくる。学生もそのうち社会主義運動に飽きてきたのである。もちろん理由はそれだけではなく、運動の中で厳格に命令系統を定めた共産主義的組織が徐々に過激度を増してきて、普通の学生が付いていけなくなったというのもある。例えば一般の学生でも、ゲバ棒もってデモをやったり警官隊と衝突することはできる。しかし、組織的なテロ、例えば裏切り者の拷問やハイジャックなどになってくるとやれる者は少ない。若者たちは段々と運動を捨てごく普通の社会人としてサラリーマンとなっていった。これが日本の共産主義の終焉の第一期と言える。しかしこの当時はまだ彼らの中にも共産主義の精神は残っており、いまだ活動を続ける同胞たちに親近感があった。
だが、70年代に、働きもせずせっせと活動をしていた過激派がどんどんとおかしくなっていくのを見てそれらの精神も失われていく。その決定打となるのがあさま山荘事件である。あさま山荘事件とは連合赤軍がリンチにより仲間12人を虐殺したのちあさま山荘人質をとって立てこもり警官と銃撃戦を繰り広げた昭和の大事件である。資本主義側の敵を殺すのならば、あるいは無理にでも擁護はできたのかもしれない。しかしあさま山荘事件では連合赤軍はほぼ私怨により無抵抗の身内を十数人もリンチして殺しており、イデオロギーに関係なくそれは誰の眼から見ても明らかに人道にもとるものであった。これが第二段階である。
その後、この世の楽園と思われていた北朝鮮やソ連の実際が報道され、実は共産主義国家は自分たちよりも格段に貧しい生活をしていることが判明。国民の中にマルクス共産主義への不審が確実に広まっていく。そうして1991年ソ連の崩壊。その他の社会主義国家の瓦解がはっきりしたことによって、世界の中で一つの時代が終わった。共産主義は完全に終わりを迎えたのである。
共産主義の趨勢が弱まるにつれて各国の資本たちはそれに合わせて労働者の搾取を強化していった。新自由主義が世界を席巻し、マルクスの予言通り金融は暴走し、世界中の文化やコミュニティを破壊してまわった。それまではあんまり労働者をいじめると共産革命を起こされてしまうのである程度資本にも自重があったのだが、ソ連が崩れた結果、労働者の搾取を止める理由はなく資本は好き放題を始めたのだ。ここでのポイントは共産革命を起こした結果、豊かになれるかどうかは全く関係ないところである。共産革命が起きるかもしれない。それだけで資本は労働者を過度に追いつめることができなかったのだ。
リーマンショック、派遣労働者、格差の極大化。敵を失った"正義"は暴走を始めるのは歴史の常である。資本主義の矛盾は日ごと大きくなり世界中に資本主義への懐疑が広まっていく。その中でマルクスと共産主義は現在、再評価されつつある。
「日本は世界で唯一成功した共産主義国である」と言われることがある。これは一部正しい。
戦前の日本は財閥が政治と経済を牛耳っていたのであるが、戦後GHQによって財閥が解体されたことによって日本人が皆平等に貧しくなった。これは結果的にはプロレタリア革命と同じ効果を日本にもたらしたのである。そうして財閥の代わりに日本の再建を図ったのは戦犯を免れた中堅公務員。すなわち官僚たちである。これにより日本国は社会主義と同じシステムで戦後復興を目指すことになったのだ。
官僚たちの目標はインフラの復興により、日本人が戦前と同じ生活水準を取り戻すことであった。先述したとおり当時の日本は物資が困窮しており国の許可がなければなにもできない状態にあったのだが、日本人は酷い生活にも耐える根性があった。それは敗戦による諦観と、また平穏な暮らしがしたいという強い欲求と具体的目標があったことによるものであった。
共産主義の特徴は、個人崇拝、計画経済、一党独裁であるが、戦後の日本はこれらの特徴を全て兼ね備えているのである。個人崇拝は昭和天皇。日本は独裁ではないが自民党の55年体制のもと護衛船団方式という規制の多い計画経済を図った。こうして日本は朝鮮戦争の特需などの幸運もあって経済大国として復興を果たしたのである。
しかしそれらの要素は平成に至って時代遅れになっているにも関わらず、いまだ官僚主導の硬直化した計画経済を進めることによって経済の非効率を生み多大な財政赤字を残してしまったという負の側面も持つ。
上述の通り日本共産党は、ロシア社会主義革命の指導者レーニンによって作られたコミンテルン(共産主義インターナショナル)の日本支部として生まれた。その為、創立初期は党綱領に「レーニンのテーゼは絶対に正しい」や「マルクス・レーニン主義」という文章が入っているなどマルクスの影響力は強かった。
しかし戦後、共産党の政治活動が合法になるときに日本共産党はマルクスの想定した暴力革命を廃棄し、選挙によって政権獲得をめざし他政党と連立政府を設立する。そしてしかる後に共産主義を目指していくという二段階革命論をスタンスを取る。その後もマルクス・レーニン(エンゲルス)主義の影響力は徐々に弱まっていき、綱領にあった「マルクス・レーニン主義」という語句が「科学的社会主義」にされるなどマルクス用語が差し替えられたり、資本論やレーニンの書籍が入った党の独習指定文献(オススメ本)のリストからも時代に合わないとしてが撤廃されるなどされた。赤旗を見てもマルクス、エンゲルス、レーニンという言葉はあんまり見られない。(一応時々マルクス思想のコラムがあったりする)
しかし日本共産党が共産党を標榜する限りマルクスの影響力は不可避であることに加えて、現在の日本共産党で強い力を持つ不破哲三氏や志位和夫氏が大学時代に学生運動でマルクスにどっぷり浸かっているのでしばらくはマルクス主義から完全に脱却することはないだろう。
独習指定文献とは日本共産党が共産党員たるものこれくらいは読めなければということで推薦された文献の一覧である。主にマルクス・エンゲルス・レーニンのものが中心であるが、日本共産党の重要人物である宮本顕治と不破哲三の書籍も入っている。このリストは2004年に常に変動する政治情勢に対応するために、固定的なこのオススメ文献制度は時代に合わないとして廃止された。流石に21世紀にもなって日本で暴力革命はできないと考えたのだ。しかし、昔の日本共産党のマルクス学の教育方針を知るためにここに引用する。ただで読めるものはリンクを貼っておく。
ニコニコ動画では赤いニコニコ動画というジャンルがあり、共産趣味の連中がメジャーではないがらも一定のコミュニティを築いているが、彼らが好むのはレーニン、スターリン、毛沢東、チェゲバラなどの言わば20世紀の共産主義であり、マルクスが活躍した19世紀の社会主義はほとんどネタにされていない。マルクスが登場する動画で目立つのは歴史や経済系の学習系動画が多く、哲学系に至っては全くと言っていいほど存在しない。静画でもマルクスオンリーの絵は一枚も存在しないなど、スターリンやヒトラーのようなネタ要因と比べてニコニコでのマルクスの存在感は薄い。
マルクスは世界を席巻した学問分野であるため関連書籍が非常に多い。古いものから最新の世界情勢に乗っ取ったもの、難易度もアカデミックな哲学書から高校生でも理解できるものまで幅広く取り揃えられている。せっかくなので大きな本屋やAmazonで自分にあったものをじっくり選んで読んでみよう。もちろん原著をじっくり腰を据えて読むのが一番なのは言うまでもない。語学力に自信のある人は英語版や、あるいはドイツ語版で本当の意味での原著にもチャレンジだ。
再三述べている通り、資本論を初めとしたマルクスの著作は読破に骨が折れる。しかしタイトルによってはページ数の少ないものもあり、人によっては比較的楽に読み進めることができるかもしれない。(もちろんそれでも内容を理解するのは大変)ただし相当に自信がある人以外はやっぱり解説書から導入するのがオススメである。
入門書に初心者編があること自体なかなかクレイジーなのだが、それだけマルクスの著作が難しいのだから仕方ない。対象としては、高校生や、本を読むことに慣れていない人を想定している。いずれにせよ世界史の知識があると読む時に楽になるだろう。
どうでもいいが、「資本論(まんがで読破)」は全2500ページ以上ある資本論をマンガで170ページ、新を合わせても400弱に収めているがどういうトリックを使っているのだろうか?
文系の知識に自信があったり普段から読書をよくする人の導入書はこっち。だけどこれらの書籍の中の一部は入門とか書いてあるくせに全く初心者に優しくなかったりするから要注意。大学以上の学術書にありがちな入門書詐欺に気をつけろ!
マルクス経済学は「マルクス経済学」という名前ではなくて「経済原論」や「社会経済学」などの別の名前で書店に置いてある。数理マルクス経済学の書籍は数学の予備知識が必須なのでそこも要注意。
マルクスは経済学だけじゃなくて政治学も豊かな示唆を与えてくれる。現在の日本の政治家の中にも学生時代にはマルクスを読みあさって討論に耽ったり安田講堂を占拠したり、ゲバ棒持って警官隊と激突したり、火炎瓶作ったりしていたのだ。例えば仙谷由人氏や菅直人氏や千葉景子氏などは学生時代熱心なマルクス愛好家だったそうだ。
プロレタリア文学とはプロレタリア(労働者)活動の中で文化面の代表運動である。簡単に言えばプロレタリア(労働者)のための文学であるが、ロシアにおいてプロレタリア文学は革命の推進者となる労働者の姿をリアルかつ肯定的に描いたものとして推奨された。五年くらい前にも蟹工船が日本でブームになったので読んだ人も多いかもしれない。
マルクスと愉快な仲間たちを女体化したエロ小説。普通に性的描写が出てくるので18禁、子供は見てはいけない。作者曰く「言っときますが、ネタですよ」らしいのだが内容はそこまでバカにできるものではなく、それなりに史実に基づいてマルクスの半生が描かれているので堅苦しい文章が苦手な初心者にはそこそこオススメできる。
マルクスの想定していた共産主義と随分違ってる気がしないでもないけど、仕方ないね。
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この記事はオススメ記事に選ばれました! よりニコニコできるような記事に編集していきましょう。 |
掲示板
718 ななしのよっしん
2025/02/24(月) 10:02:08 ID: garX8VXnjs
労働(仕事)に対してことさらに自己実現や生きがいを強調するような論調には
違和感があった(理想論あるいは一部の成功者による生存者バイアスが掛かってると思う)から、
労働は搾取だという主張は痛快というか、凄く納得感があるわ
まあだからと言って暴力で共産主義革命を起こすべきとまでは思わないし、
単に「労働は搾取だ」というだけならマルクス以前の学者も言ってたのかも知れないが
719 ななしのよっしん
2025/02/24(月) 13:08:20 ID: VOuc2igjxZ
実際こういうところは今読んでも納得できるものがある。以下は『資本論』第1巻4章の労働市場の維持の条件のくだり。
この直後に標準的な養成費用の話なんかも出てくるから、少子化とか、あるいは「未経験者を育てる余裕はないけど人材不足は解消したい」みたいな企業の利害なんかも分析対象。
「心身消耗や死亡によって市場から労働力が取り去られれば、最低でも同数の新たな労働力によって絶えず補充されねばならない。従って、労働力生産に必要な生活手段の総計には、補充人員(労働者の子供たち)の生活手段を含むのであって、〔以下略〕」[S. 186]
720 ななしのよっしん
2025/03/12(水) 14:26:12 ID: EKDArYbjXH
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最終更新:2025/03/14(金) 00:00
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