三浦知良(1967年2月26日-)とは、日本のサッカー選手である。
JFLのアトレチコ鈴鹿クラブ所属。元サッカー日本代表。
愛称は「カズ(KAZU)」、「キングカズ」。一般メディアでもカズという愛称で呼ばれることが多い。
アトレチコ鈴鹿クラブ #11 | |
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三浦知良 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 静岡県静岡市 |
生年月日 | 1967年2月26日 |
身長 体重 |
177cm 72kg |
選手情報 | |
利き足 | 右足 |
ポジション | FW |
プロ入り | 1986年 |
学歴 | |
所属クラブ | |
サッカー選手テンプレート |
静岡県静岡市出身。1990年代の日本のサッカーを引っ張ったサッカー選手。ポジションはFW。若い頃のポジションはウィング、その後センターフォワードへポジションを移した。
16歳のときに単身ブラジルへ渡りプロとなり、帰国した1990年代以降はスター選手としてJリーグ誕生で空前のブームを起こした日本サッカー界を牽引する存在となり、ラモス瑠偉や武田修宏、北澤豪らと共にヴェルディ川崎の黄金期を築いている。1994年にはアジア人として初めて世界最高峰のリーグと呼ばれたイタリア・セリエAでプレーしている。
サッカー日本代表としても長年エースとして活躍。1992年のダイナズティカップ優勝、AFCアジアカップ優勝に貢献し、日本サッカーの顔となる。しかし、夢でもあったFIFAワールドカップとは縁が無く、1994年大会では後にドーハの悲劇と呼ばれるロスタイムでの失点によって後一歩で出場権を逃し、1998年大会では本大会直前のスイス合宿で落選となる。
2012年にはフットサル日本代表として、フットサルワールドカップに出場。
Jリーグ初年度の1993年には初代のJリーグ最優秀選手賞を受賞。1996年にはJリーグ得点王に輝いている。日本代表としては、通算55得点を記録しており、釜本邦茂に次ぐ歴代2位の記録を持っている。1993年には、アジア年間最優秀選手賞を受賞。
50歳を越えてなお現役であり、54歳にして日本のトップリーグであるJ1リーグに出場し、Jリーグの最年長出場記録を樹立。2017年のJ2リーグでは50歳14日でのゴールを決めており、公式戦における世界最高齢でのゴール記録を樹立している。
プロとしてサッカーへ取り組むストイックな姿勢を評価するコーチが多い。また後輩やファンへの面倒見の良さでも知られ、後に海外のトップリーグで活躍する選手たちにも影響を与えている。ピッチ外でもスター選手として振る舞うことを意識しており、映画「ゴッドファーザー」の影響を受けたファッション面も注目を集めている。
1歳年上の兄の三浦泰年も元サッカー選手であり、元日本代表。読売クラブ、ヴェルディ川崎や代表で一緒にプレーしたこともある。また、2022年に移籍した鈴鹿ポイントゲッターズの監督を務めている。
夫人はタレント・モデルの三浦りさ子(旧姓 設楽りさ子)。長男は俳優の三浦獠太、次男は格闘家の三浦孝太。
背番号「11」が代名詞となっており、練習用のビブスでも11番をつけるほどの強い愛着とこだわりを持っている。ゴールパフォーマンスであるブラジルのサンバをオリジナルにアレンジした「カズダンス」は有名で、後に真似をした選手もいるほど。サッカー関連のゲームにおいても、カズダンスが反映されている。
サッカーを日本においてメジャースポーツに押し上げた火付け役であり、功労者でもある。
57歳となった現在も現役のプロサッカー選手としてプレーしている。
親戚も含めてサッカー好きで、サッカーに関わる仕事をしているという家庭環境で生まれたこともあり、兄の泰年と共に2歳の頃からサッカーボールを蹴り始めている。
小学校に入学してからは父方の叔父が監督を務めていた城内FCに入り、サッカー漬けの毎日を過ごしていた。小学4年生のときに父親が2度目の逮捕をされたことがきっかけで両親が離婚。以降は母親の姓である「三浦」を名乗るようになる。この頃から将来はプロのサッカー選手になることを夢見ていたものの、当時の日本にはプロのサッカーリーグが存在せず、父親や叔父の影響もあってブラジルでプロになることが目標となっていった。
高校はサッカーの名門校である静岡学園高校へ進学。しかし、テクニックは高かったものの体が小さかったことから評価は低く、1学年の修了を待たずに中退し、ブラジルでプロのサッカー選手を目指すことを決断する。高校サッカーの名将として知られる井田勝通監督からも「99%不可能だからやめておけ」と反対されたが、わずか8カ月で中退。15歳にして後が無い人生の賭けに出る。
1982年に単身ブラジルに渡り、CAジュベントスのU-17チームに加入。しかし、そこで待っていたのは想像以上の洗礼だった。寮の環境は清潔なものではなく、寮生から所持品を盗まれたこともあった。最初は言葉も分からず、練習でも弱小国から来た小さな少年にパスが回ってくることが無かった。孤独と周囲の偏見に苦しみながら、できることは死にもの狂いで練習に喰らいつくことだけだった。夢を諦めて日本へ帰国することも検討したが、リオの公園で貧しい少年たちがサッカーをする姿を見て翻意している。
1984年の秋ごろにキンゼ・デ・ジャウーのU-20チームへ移籍。当時のクラブの会長からプロになるために必死に練習に打ち込む姿を見たことでカズのことを気に入り、息子のように可愛がっていた。また、この頃にはポルトガル語が話せるようになり、ブラジルでの生活に馴染み始めたことで左ウイングの選手として頭角を現すようになる。1985年8月にはキンゼ・デ・ジャウーの一員として日本に凱旋し、SBSカップに出場。中山雅史や武田修宏のいた静岡県高校選抜と対戦している。11月には、ブラジルの若手の登竜門とも言うべきタッサ・サンパウロに出場。ここでの活躍が後のプロ契約に繋がっていく。
1986年2月24日、19歳の誕生日を迎える二日前に名門であるサントスFCとプロ契約を交わす。4月19日、サンパウロ州選手権のジュベントス戦でスタメンに抜擢され公式戦にデビューするが、緊張のあまりミスを連発する酷い出来で、チームメイトのドゥンガから叱責されている。5月には短期の特別契約をSEパルメイラスと交わし、キリンカップ出場のため日本へ帰国。日本代表と奥寺康彦が所属していたヴェルダー・ブレーメンと対戦。ブレーメン戦では1アシストを記録している。
ブラジルへ帰国後、サントスに復帰したもののブラジル代表選手が多く所属するチームで満足な出場機会は得られず、公式戦の出場は2試合のみだった。そこで他チームでの武者修行を決意し、1986年10月に南部パラナ州のSEマツバラへレンタル移籍。翌年2月には正式契約を交わすと、レギュラーを獲得。ウイングとしてドリブル突破を仕掛け、代名詞となった跨ぎフェイントと切り返しから決定機を作るスタイルから「日本のガリンシャ」と呼ばれるようになる。南部三州リーグ優勝に貢献し、パラナ州選手権でもゴールこそ無かったが縦に仕掛けてのクロスでアシストを量産した。
1987年10月、ブラジル北東部のCRBへ移籍し、日本人としては初めてブラジル全国選手権に出場。ここでも得意のドリブル突破によってチームの主軸となり、チーム随一の人気者となる。1988年2月には、ユース時代に所属していたキンゼ・デ・ジャウーへ移籍。3月19日の全国選手権第5節SCコリンチャンス戦では、右からのクロスをヘディングで合わせたリーグ戦での初ゴールを含む1ゴール1アシストの活躍によって強豪相手のジャイアント・キリングの立役者となる。この試合はブラジル全土にテレビ中継されており、カズの名前はブラジル中に知れわたり、ブラジルのサッカー専門誌は左ウイングの年間3位に選出。このシーズンの活躍によって、ジャウー市から名誉市民賞を贈られている。
1989年2月には、南部パラナ州のコリチーバSCへ移籍。サントス、パルメイラス以外のこれまでの所属チームと比べて規模の大きいクラブだったが、ここでも中心選手となりパラナ州選手権優勝に貢献。この年の7月には、ブラジルへ遠征してきた日本代表との試合にも出場している。この頃は好調を維持しており、水面下では当時イタリアのセリエAに所属していたコモへの移籍話が浮上するほどだった。
1990年2月、古巣であるサントスFCと再び契約を交わす。プロになったばかりの4年前とは違ってレギュラーの地位を確保。そして、4月29日の宿敵パルメイラスとのダービーマッチでは1ゴール1アシストの活躍で勝利に貢献。この試合のMVPに選ばれ、翌週のブラジル最大のスポーツ雑誌「プラカール」の表紙となる。この年の7月に日本への帰国が決まると、ラストゲームではキャプテンマークを巻いて出場した。
1990年7月、次なる目標である日本代表としてワールドカップに出場するという目標を達成するためにJリーグ発足が着実に進む日本への帰国を決意。日本サッカーリーグ(JSL)の読売クラブへ移籍する。10月28日のNNK戦でリーグ戦デビューを果たすと、PKでの初ゴールと3アシストという華々しい活躍で周囲の期待に応える。読売が伝統的にブラジル式のスタイルを踏襲していることもあってフィットするようになり、1990-1991シーズンのリーグ優勝に貢献し、リーグのベストイレブンにも選ばれる。Jリーグ発足が正式に決まったため、最後となった1991-1992シーズンのJSLではリーグの最優秀選手賞に選ばれる活躍を見せ、チームを連覇に導いている。
Jリーグ前年度であり、チーム名がヴェルディ川崎に変わった1992年のJリーグヤマザキナビスコカップからキャプテンに就任し、大会では予選リーグからゴールを量産。準決勝の鹿島アントラーズ戦、決勝の清水エスパルス戦では連続して決勝ゴールを決め、10試合10得点という荒稼ぎで優勝に貢献し、大会のMVPと得点王を受賞。この年の日本年間最優秀選手賞も受賞し、開幕間近となり盛り上がりを見せるJリーグの顔として期待が集まる。
Jリーグがスタートとなった1993年、カズの他にもラモス瑠偉、武田修宏、北澤豪といったスターが集まったV川崎だったが、欧州路線を進めるチームとスター選手の間で内紛が勃発。加えて日本代表の試合による過密日程の影響で自身も5月26日の第5節鹿島アントラーズ戦でようやくJリーグ初ゴールが生まれるなど苦しみ、1stステージは期待外れの内容となる。しかし、ビスマルクの加入でストライカーとしての役割に集中するようになった2ndステージでは6試合連続ゴールを決めるなど、爆発。12月7日の浦和レッズ戦ではJリーグでは初めてハットトリックを記録。これまでのチャンスメーカー型からストライカーへとプレースタイルを変え始めたのもこの時期だった。2ndステージ18試合で15ゴールという大活躍でステージ優勝を勝ち取る。年間王者を決めるチャンピオンシップの鹿島戦でも2試合連続でゴールを決め、V川崎を初代のJリーグ王者へと導く。この功績が評価され、初代のJリーグ年間最優秀選手賞を受賞。また、この年は前年に続いて日本年間最優秀選手賞とアジア年間最優秀選手賞にも選ばれる。12月には世界選抜の一員としてACミランとのチャリティーマッチに出場し、ウーゴ・サンチェスのゴールをアシストしている。
1994年の1stステージは前年の2ndステージを上回るハイペースでゴールを量産し、22試合で16得点を記録。夏になると、当時世界最高峰のリーグだったイタリア・セリエAへの移籍話が浮上。クラブの親会社である読売新聞の渡辺恒雄社長はチームの顔を手放すつもりはなく猛反対するが、必死の説得によって1年間の期限付きという条件で移籍が認められる。
1994年夏、イタリア・セリエAのジェノアCFCへの期限付き移籍が決まり、アジア人初のセリエAプレイヤーとなる。しかし、この移籍劇はジェノア側がジャパンマネーによる商業的な価値を期待したものであり、ユニフォームの胸ロゴに日本企業(KENWOOD)が起用されたこともあり、入団会見では「スポンサーを得るために獲得したと言われているが、どう思うか?」などと辛辣な質問も浴びせられた。
プレシーズンでのアピールが成功したこともあり、1994-95セリエA開幕戦でスタメンを獲得。当時世界最強軍団と呼ばれたACミランとの対戦に日本中が期待したが、前半途中にフランコ・バレージと激突した際に鼻骨骨折と眼窩系神経を損傷するアクシデントに見舞われ、1カ月の戦線離脱を余儀なくされる。復帰後の第12節サンプドリアとのジェノヴァ・ダービーにスタメンで出場すると、右足アウトサイドでのゴールを決め、セリエA初ゴールを記録。しかし、不振のチームは三度の監督交代に見舞われ、代表戦出場のためにチームを離脱したこともあってその後はスタメンを外れることも多くなり、結局イタリアでの挑戦はダービーでの1ゴールのみに終わり、ジェノアはセリエBに降格。
地元メディアからは「壊れた木馬」と揶揄されるなど、不本意な結果となったが、このカズの挑戦は日本人選手に海外挑戦という新たな目標を見出すこととなり、後の日本人選手の海外での活躍の礎となった。
水面下で交渉していたトリノへの移籍話も囁かれたが、渡辺社長との約束を優先し、1995年夏にヴェルディ川崎へ復帰。復帰初戦となったベルマーレ平塚戦でいきなり2ゴールを決めると、9月には2試合でハットトリックを決めるなどイタリアでの鬱憤を晴らすかのようにゴールを量産。イタリアから帰国後は肉体改造に励み、重量感のある本格派のストライカーへと変貌していた。2ndステージのみの出場だったにも関わらず23ゴールを記録し、Jリーグベストイレブンにも選出される。
1996年は、シーズン途中にクラブと対立したラモスが退団するなどチームに激震が走り、ナビスコカップでは優勝したものの、Jリーグでは7位に低迷。常勝軍団に陰りが見える中でも1人好調を維持し、27試合で23得点という記録を残して初のJリーグ得点王のタイトルを獲得。第76回天皇杯ではチームの優勝に貢献し、これで日本国内のメジャータイトル全てを獲得したことになる。
30歳となった1997年は、怪我が相次いだこともあって調子を大きく落とし、移籍してきた前園真聖と共にチームが初の二桁順位に終わる程低迷した原因となる。この頃から始まった不調の原因は、肉体改造で体が重くなった分、本来の俊敏さが失われ、身体のバランスが悪くなったからだという指摘もある。
1998年はコンディションは戻ることがなく、前年のワールドカップ最終予選で怪我を抱えたままプレーした影響もあってキレが失われ、前年の4得点に続き、この年も28試合5得点という凡庸な成績に終わる。さらに、この年の年末に親会社だった読売新聞が事業から撤退したことでクラブは大規模な経営縮小を余儀なくされ、高年俸のベテラン選手達のリストラが敢行される中でカズもその対象となる。
チームを追われる格好となったカズは再び海外挑戦へと動き、1999年1月にクロアチア プルヴァ・リーガの強豪クロアチア・ザグレブへ2年契約で移籍。デビュー戦ではアシストを記録したもののPKを失敗。次第に出場機会も減ってしまい、5月23日のオシエク戦では退場となる。結局ゴールが生まれることはなく、シーズン終了後には戦力外通告が出され、わずか半年で退団となる。
さらに海外でのプレーを模索されていたが、1999年7月に元日本代表監督である加茂周から熱心な誘いを受けたこともあり京都パープルサンガへ移籍する。復帰初戦のヴィッセル神戸戦で2ゴールを決めるなど期待に応え、2ndステージでの9位フィニッシュに貢献する。ちなみにこのシーズンはJリーグにおいて唯一11番以外の背番号(36)を付けたシーズンとなった。
2000年はキャプテンマークを巻き、遠藤保仁や松井大輔、朴智星といった若手が多く加わったチームの先頭に立って奮闘。33歳となったが一時期の不調から完全に復調し、5月13日の神戸戦ではJリーグ通算100ゴールの大台に立つ。しかし、自身の好調ぶりと反比例する形でチームは大きく低迷。1stステージは最下位に終わり、自身を京都に誘った加茂が解任となる。2ndステージも経験を活かしてチームを牽引し、ゴールを量産。11月23日には古巣のV川崎を相手にハットトリックを達成。この年は得点ランキング3位の17ゴールという成績を残しキング復活を印象付けたが、チームは最後まで浮上できずにJ2降格。そして、シーズン終了後、自身にとっては2度目となるゼロ円提示を出されてしまう。
2001年、J1リーグのヴィッセル神戸へと移籍。V川崎時代に監督だった川勝良一が監督を務めていたこともあって信頼を受け、加入直後からキャプテンを任され、前年を最後に現役を引退した永島昭浩に変わるチームリーダーとなる。第2節のFC東京戦で移籍後初ゴールを決めると、新スタジアムである神戸ウイングスタジアムのこけら落としとなった横浜F・マリノス戦では巧みなトラップで相手をかわしてのゴールを決め、3万人の観客の前で千両役者ぶりを発揮。2シーズン連続での二桁得点となる11ゴールを記録し、建材ぶりをアピールする。
2002年は、代表でもコンビを組んだ城彰二が加入し、久々に2トップを組むことに。1stステージ第3節のガンバ大阪戦でシーズン初ゴールを決め、久々となるカズダンスも披露。しかし、35歳となったことで流石に肉体的な衰えも見え始め、フル出場が減ってしまう。2ndステージでは臀部の負傷によって長期欠場を余儀なくされ、シーズン3ゴールに終わる。
2003年になると、オゼアスと播戸竜二の2トップがファーストチョイスとなったことでバックアッパーが立ち位置となる。チームは残留争いに巻き込まれる苦しいシーズンとなったが、オゼアスが出場停止となった2ndステージ終盤の鹿島戦でスタメンのチャンスが巡ってくると、素早いターンからの先制ゴールを決める。その後もチームを牽引し、J1残留に貢献する。
チームのオーナーに楽天グループの三木谷浩史が就任した2004年も控えに回ることが多くなるが、1stステージ第11節のガンバ大阪戦でシーズン初ゴールを決め、これでJ1の舞台で11年連続でゴールを決めた唯一の選手となる。2ndステージにはパトリック・エムボマと平瀬智行が加入したことでポジション争いが激化。この年もチームは低迷し残留争いに巻き込まれるが、スタメンの座を掴んだシーズン終盤に3試合連続でのゴールを決め、またしてもJ1残留に貢献する。
2005年は開幕3試合連続ゴールを決め最高のシーズンスタートとなったが、次第にチームは低迷するようになり、監督交代が続いたことで自身も出場機会を失うようになる。7月にパベル・ジェハークが監督に就任すると完全にチームから構想外となり、キャプテンの座を三浦淳宏に譲る。7月26日にイングランドのボルトン・ワンダラーズとの親善試合に出場したのを最後に神戸を退団する。
2005年7月下旬に出場機会を求めてJ2リーグの横浜FCへ移籍。8月27日のヴァンフォーレ甲府戦で初ゴールを決めると、途中加入ながらも4ゴールを記録。
11月には、この年設立したばかりのオーストラリアのAリーグに所属するシドニーFCへリーグ戦4試合限定のゲストプレイヤーとして期限付き移籍。首位アデレードとの直接対決で2ゴールを挙げる活躍を見せる。12月に日本で開催されたFIFAクラブ選手権にも出場し、2試合にフル出場している。なお、前身のトヨタカップなども含めて、この大会に出場した初の日本人選手となる。
横浜FCに戻った2006年は選手兼任の監督補佐に就任(登録上は選手扱い)。開幕直後に監督が解任となり、かつてオフトJAPANで2トップを組んでいた高木琢也が後任監督となる。さらに2トップを組むのはフランスW杯予選で組んでいた城という勝手知ったるメンバーに囲まれた環境の中で39試合に出場し6得点を記録。大きな怪我も無く1年間チームを牽引し、クラブ史上初となるJ1昇格に貢献する。
40歳となった2007年は2年ぶりにJ1の舞台に復帰。9月15日のサンフレッチェ広島戦で日本人選手最年長ゴールを記録するなど24試合に出場するが、戦力的に大きく劣るチームは最下位に沈み、10月に早々と1年でのJ2降格が決定。それでもJ1最終節の浦和戦では、左サイドで阿部勇樹を抜き去ってからのクロスというブラジル時代に得意としていた形で決勝ゴールをアシストし、浦和の優勝を阻む。
再びJ2で戦うこととなった2008年は攻撃的MFでの起用が多くなり、チーム事情のためにボランチで起用されることもあった。10月25日の第41節愛媛FC戦でJリーグ通算150得点目となるシーズン初ゴールが生まれたが、この1ゴールのみに終わる。翌年の2009年も第2節のロアッソ熊本戦でPKによるゴールを決めたものの、16位にまで低迷したチームでまたしてもこの1ゴールのみに終わる。
2010年はかつて所属したキンゼ・デ・ジャウーからオファーを受けたが、横浜FCへの残留を決断。神戸時代の2005年以来となるキャプテンに就任。しかし、6月に右脚を負傷したことで出場機会が大幅に減ってしまう。それでも出場した試合では結果を残し、9月26日のJ2第38節カターレ富山戦では久々となるFKによる直接ゴールを決める。シーズン初スタメンとなった12月4日のJ2最終節大分トリニータ戦では、フル出場してゴールまで決め、自身の持つJリーグ最年長ゴール記録を43歳9か月に更新。この年、出場した試合数はわずか10試合だったにもかかわらず、サポーターが選ぶチームの年間最優秀選手に選ばれる。
2011年は30試合に出場したが、リーグ戦無得点だっために、Jリーグ誕生からの連続ゴール記録は18年で止まってしまう。
2011年3月29日の東北太平洋沖地震のチャリティーマッチにおいて日本代表と対戦するJリーグ選抜でJ2で唯一の選手として召集され、後半途中から出場。全世界にこの試合が放送される中、後半37分に田中マルクス闘莉王からのボールに反応し得点を挙げ、ゴール後に得意のカズダンスを披露。結果的に、この年に生まれたゴールは1ゴールのみだったが、震災によって暗い雰囲気に包まれた日本に勇気を与える大きな意味を持つゴールとなり、カズ伝説に新たな1ページが加わった。「カズはやはりカズでした!」。
2011年12月には、横浜FCに所属しながらFリーグ・エスポラーダ北海道にJリーグ選手枠として登録されたことで話題となる。2012年1月15日の北海道対府中戦の1試合限定で公式戦に出場。2月にはFリーグから特別表彰を受賞。
2012年以降は、毎年ゴールを決めるかどうかが注目の対象となり、ゴールする度にJリーグの最年長記録を更新する状態となり、そのたびに全国ニュースで大きく取り上げられるようになるが、そのことで「客寄せパンダ」と揶揄されるようにもなる。2014年は年間2試合のみの出場に終わり、いよいよ現役引退かと思われたが、2015年3月9日のJ2開幕戦ザスパクサツ群馬戦で9年ぶりに開幕スタメンを張ると、4月5日のジュビロ磐田戦でヘディングシュートを決める。48歳ながらシーズン3得点を記録し、さらに契約を延長した事実は海外でも報道されるようになり、イタリアのガゼッタ・デッレ・スポルト紙からは「時代を超越した存在」と称賛される。2016年8月7日のセレッソ大阪戦では、2点ビハインドの状況で途中出場するとゴールを決め、チームの逆転勝利に貢献する。
2017年、50歳の誕生日を迎えた2月26日のシーズン開幕戦(松本山雅戦)にスタメン出場し、史上初の50代Jリーガーとなった。3月12日のザスパクサツ群馬戦では50歳15日でゴールを挙げ、Jリーグ最年長ゴール記録を更新し、更にはイングランドのスタンリー・マシューズの50歳5日を上回りギネス世界記録に認定された。以降は出場機会を減らしたため、カズのJリーグでの得点はこのゴールが最後となっている。
2018年は出場試合9試合で出場時間は59分、2019年はチームが昇格争いに絡んでいたこともあって3試合出場、出場時間109分でゴールはおろかシュートを1本も打てず、流石にプロ選手として続けることの意義を疑問視する声が増えるようになる。2019年11月24日、J2最終節愛媛FC戦の終了残り3分で途中出場し、横浜FCの13年ぶりのJ1昇格決定の瞬間をピッチ上で過ごす。
2020年は14年ぶりにJ1へ帰って来たことが話題となり、開幕前のキックオフカンファレンスでは神戸のアンドレス・イニエスタとの2ショットが実現。9月23日、J1第18節の川崎フロンターレ戦にスタメンで出場。2012年当時コンサドーレ札幌に在籍していた中山雅史が持つJ1最年長出場記録45歳2ヶ月1日を53歳6ヶ月28日に大幅に塗り替えた。注目された14年ぶりのJ1での出場は4試合、出場時間68分のみとなった。
引き続き現役続行となった2021年は、3月10日J1第3節浦和戦でアディショナルタイムに途中出場。J1最年長出場記録を54歳12日へ伸ばす。しかし、その後はベンチにすら入れない日々が続き、最終的に年間の出場時間1分のみとなる。チームがJ2降格となったこともあり、シーズン後は去就が注目され、移籍話がメディアによって大きく報道される。
2022年1月11日、兄の三浦泰年が監督兼GMを務めるJFLの鈴鹿ポイントゲッターズに期限付きで移籍。新天地でのデビュー戦となった3月13日のJFL開幕戦ラインメール青森戦ではホーム史上最多となる4,820人の観客動員を記録。後半20分まで出場している。5月15日のHonda FC戦で右太ももを負傷し欠場が続いたが、9月4日のヴィアティン三重戦で3か月ぶりにピッチに復帰する。10月9日のクリアソン新宿戦では、11年ぶりに国立競技場のピッチに立ち、この試合で1万6218人というJFL史上最多となる観客動員を記録。10月30日のJFL第27節FCティアモ枚方戦ではPKによる移籍後初ゴールを決める。55歳でのゴールは永井秀樹の持っていたJFL最年長ゴールを塗り替え、自身にとって4年ぶりの公式戦でのゴールとなった。11月12日の第29節FC大阪戦ではダイビングヘッドでシーズン2ゴール目を決める。
2023年1月16日、移籍期間満了により退団する。
2023年2月1日現地時間11時11分にリーガ・ポルトガル2(ポルトガル2部)のUDオリヴェイレンセに期限付き移籍することが発表され、55歳にして再び海外でプレーすることになる。
4月22日、第29節デ・ビセウ戦の試合終了間際に途中出場し、56歳にして5か国目となる海外での新天地デビューを果たす。同時にポルトガルでプロとしてプレーした最高齢選手となる。
2023年6月22日にオリヴェイレンセへの期限付き移籍を延長することが発表される。5月28日のリーグ最終戦のレイションイスSC戦に4-2の場面で、後半18分から出場。キャプテンマークを巻いてプレーし、MOMを受賞。だが、ゴールに絡んでいないカズの受賞に相手チームの監督からは「ここはサーカスになってしまう」と批判される。
2年目となった2023-24シーズンはベンチ入りする機会は多かったものの、チームが残留争いをしていたこともあって1年を通して5試合のみの出場となり、プレー時間はわずか37分間のみとなった。シーズン終了後、クラブとの契約は終了となり、そのまま退団することが決定。
2024年6月25日、半年間の期限付きでJFLのアトレチコ鈴鹿クラブに復帰することが発表される。リーグ戦12試合に出場(うちスタメン1試合)し、出場するたびにJFL最年長出場記録を更新したものの、ゴールを決めることができず、低迷するチームであまり見せ場を作れなかった。11月11日には、来シーズンも鈴鹿で現役を続行することが発表される。
ブラジルから帰国して2か月後の1990年9月に初めて日本代表に選出される。中国の北京で開催された第11回アジア競技大会に出場し、9月26日のバングラデシュ戦でスタメンに起用され代表デビューを飾ると、この試合で1アシストを含む3ゴール全てに絡む活躍を見せる。1991年7月1日に開催されたキリンカップサッカー91では、7月1日のトッテナム・ホットスパー戦で2ゴールを決め、日本の大会初優勝に貢献。名実共に代表のエースとなった試合でもあった。
1992年にオランダ人のハンス・オフトが日本代表監督に就任。欧州式のスタイルを推し進めるオフトに対し、当初は同じくブラジルスタイルで育ったラモス瑠偉と共に反発する。しかし、8月に北京で開催された第2回ダイナスティカップで優勝すると、これまでとは見違えるチームとなった日本代表を目の当たりにしオフトに従うようになる。10月に広島で開催されたAFCアジアカップ1992でも、攻撃の中心として活躍。グループリーグ最終戦のイラン戦で試合終了間際に劇的な決勝ゴールを決めると、試合後「魂込めました。足に」という名言を残す。決勝のサウジアラビア戦では、左サイドからのクロスで高木琢也の決勝ゴールをアシストし、日本にとって初の国際舞台でのビッグタイトルをもたらす。ちなみにこの年に優勝した2つの大会の両方で最優秀選手賞を受賞している。
1993年には、1994 FIFAワールドカップ アジア予選がスタート。Jリーグ開幕直前に開催された1次予選ではバングラデシュ戦で初のハットトリックとなる4ゴールを決めるなど、通算9ゴールを決める大活躍を見せる。エースとして圧倒的な強さでの最終予選進出に貢献した。
1993年10月にカタール・ドーハでの集中開催となった運命のアジア最終予選に挑む。Jリーグ開幕によって日本国内では空前のサッカーブームが巻き起こり、悲願のワールドカップ初優勝へ国民の大きな期待を背負うこととなった。しかし、最初の2試合は相手の徹底したマークに苦しんで不発に終わり、1分1敗と崖っぷちに立たされる。だが、第3戦の北朝鮮戦で2ゴールを決めると、第4戦では長らく勝てなかった宿敵韓国を相手に値千金の決勝ゴールを決める。重圧からか試合後のインタビューでは涙を流していた。そして、勝てばワールドカップ出場権獲得となるイラク戦で、前半に3試合連続となる先制ゴールを決める。2-1でリードしたままワールドカップ出場は目前となっていたが、試合終了間際のロスタイムに自らの守備を振り切られてクロスを上げられ、痛恨の同点ゴールを許してしまう。これによってほぼ手中にしていた本大会出場をあと一歩のところで逃すことになる。ドーハの悲劇と呼ばれるこの結末は、後のサッカー人生を大きく左右する出来事となる。
パウロ・ロベルト・ファルカンが新監督となった1994年、ドーハのメンバーが大幅にいなくなった新しい代表でもエースとしての地位を担う。しかし、10月に広島で開催された第12回アジア競技大会では、セリエA開幕戦で負った負傷から復帰したばかりのため本来の実力が出せず、準々決勝での敗退を受けてファルカンはわずか半年で解任となる。1995年に監督に就任した加茂周がチームに「ゾーンプレス」を植え付けようとする中でもエースとしてコンスタントにゴールを決める。1995年6月6日には初めてブラジル代表と対戦するが、力の差を見せつけられ完敗している。
1997年には、1998 FIFAワールドカップ アジア予選がスタート。数少なくなったドーハの悲劇を経験したメンバーとして高いモチベーションで挑んだカズは、1次予選のマカオ戦で1試合6得点を記録し、釜本邦茂に並ぶ日本代表1試合最多得点記録を樹立。1次予選6試合で10得点を決める荒稼ぎを見せる。
ホーム&アウェイでの集中開催となったアジア最終予選では、9月7日のウズベキスタン戦で4ゴールを決めてチームは大勝する。最高のスタートを切ったかに見えたが、9月28日のホームでの韓国戦で尾てい骨を負傷。試合に出場し続けたものの動きに精彩を欠き、以降の試合はノーゴールが続く。チームも韓国戦の逆転負けを皮切りに勝てない試合が続き、加茂監督が解任となって後任にコーチの岡田武史が就任する事態にまで陥る。自力での予選突破が消滅したホームのUAE戦後は、暴徒と化した一部のサポーターから罵声を浴びせられ、激昂する姿が報じられる。11月16日にマレーシアのジョホールバルで開催されたイランとの第3代表決定戦では、岡田からの指示を無視してFKを蹴り、後半18分に交代を告げられる。その後チームは延長戦までもつれ込んだ死闘を制し、初のワールドカップ出場権を獲得。後にジョホールバルの歓喜と呼ばれた試合は、カズの不動のエースとしての地位が揺らいだ試合でもあった。
ワールドカップイヤーとなった1998年だったが、不調から脱することができず、代表におけるFWの序列でも城彰二、中山雅史、呂比須ワグナーに次ぐ4番手まで下がっていた。チームの中心も21歳の中田英寿へと移っており、直前の強化マッチでは1試合に出場したのみだった。本大会に臨む25人の代表候補に残り、直前のスイス合宿に参加したが、6月2日に岡田の口から「外れるのはカズ、三浦カズ」の言葉と共に北澤豪、市川大祐と共に本大会の出場メンバーから外れることが明らかにされる。前回に続いてまたしても目前でワールドカップの夢が絶たれ、このニュースは日本中に衝撃が走り、報道はカズ落選一色となった。失意のカズはチームに残らず、北澤と共に帰国。帰国後の会見に金髪で姿を見せると、「日本代表としての誇り、魂みたいなものは向こうに置いてきた」という名言を残している。その後、日本が本大会で3連敗したこともあり、カズ落選に怒る一部のファンが岡田の自宅に嫌がらせをし、岡田の家族に警護が必要になる事態にまで発展した。この決定について後に岡田は「あらゆるシュミレーションをして、出てこなかったのはカズと北澤だった。色々と言われたけど後悔はしていない」と語っている。
その後、しばらくの間は代表から遠ざかるが、監督のフィリップ・トルシエに京都での好調ぶりを評価され2000年1月に1年半ぶりの代表復帰を果たす。2月16日のAFCアジアカップ2000予選のブルネイ戦では、2年半ぶりの代表でのゴールを記録。6月にモロッコで開催されたハッサン2世国王杯のメンバーにも選ばれると、6月6日のジャマイカ戦でゴールを決める。しかし、若手が台頭した代表に定着することはできず、このジャマイカ戦が代表での最後の出場となった。トルシエからは人間性を買われ、代表スタッフとして2002 FIFAワールドカップに帯同するよう要請されるが、選手としての出場にこだわったため断っている。
2012年にはフットサル日本代表に電撃召集され、同年にタイで行われたフットサルワールドカップのメンバーに選出された。本大会では途中出場中心にピッチに立つがゴールはならず。大会直前の壮行試合ではゴールを挙げている。
ブラジルでプロになったばかりの頃は、左ウイングであり、サイドでドリブルで縦に仕掛けて突破してクロスを入れてチャンスを作る典型的なウインガータイプだった。彼のドリブルは強烈なサイドステップを踏むフェイント、シザーズ(またぎフェイント)という独特のスタイルで、ブラジル仕込みの卓越したテクニックと一瞬のスピードで相手を抜き去る。
ブラジルから帰国したばかりの頃は、左からカットインしてシュートに持ち込む形を得意としていたが、強引にシュートに持ち込もうとする傾向があり、さほど得点力は高くなかった。
Jリーグが開幕した1993年のあたりから中央のよりFW的なポジションを取るようになり、ゴールに近い位置取りをするようになったことで決定力が上昇。ウインガーからストライカーへとスタイルが変貌していった。元々ウイングだった特性を活かしてアシストも多く、ヴェルディ川崎の黄金期の時代は今で言うとゴールもチャンスメイクもできる万能型のセカンドトップだった。軽量型ではあったが、この頃がカズの全盛期だと言う声も多い。
イタリアから帰国した後は、肉体改造に取り組んだことでフィジカルコンタクトに強い、重さのある本格的なセンターフォワードタイプへとシフトしており、高さは無かったがポジショニングやDFとの駆け引きで勝負しゴールを狙うタイプとなる。スピードが衰えた晩年は、より読みと駆け引き、ポジショニングを重視している。また、献身的に前線の守備をこなすようになったのも肉体改造後である。
特筆すべきは左右両足で蹴れることであり、コーナーキックやフリーキックを左右使い分けられるスイッチキッカーという世界的にも珍しいプレイヤーである。タレント軍団だった黄金期のヴェルディ川崎でキッカーを担う程、CKとFKの精度も高い。
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最終更新:2025/03/15(土) 07:00
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