グローバル化、グローバリゼーション(英: globalization, globalisation)とは、資本主義市場経済の拡大とともに国境を含むあらゆる境界がゆらぎ、世界中で政治・経済・社会・文化の相互浸透・相互依存が進行する過程である。グローバライゼーション、世界化とも言う。
グローバリゼーションの進行は、世界中の文化を均質化させるという主張がある。典型的には、グローバリゼーションを「アメリカ文化」の普及と同一視する「文化帝国」論である。アメリカ合衆国の生活様式、消費主義、メディア文化の普及によってそれ以外の国や地域の文化が破壊されるという主張である。
資本主義に着目した場合、グローバリゼーションはそれぞれの社会を動かす「システム」を標準化=フォーマット化していく。ジョージ・リッツァの提唱した「マクドナルド化」の概念は、この標準化のイメージを示している。
グローバリゼーションが世界中を市場原理に基づいた大衆消費社会へと変えていく傾向があるならば、文化は国境を越えて普及していくとともに、その土地の文脈に沿って多様な形で土着化していく。ローランド・ロバートソンはこれを「グローカリゼーション」と呼び、文化のハイブリッド化に着目する。文化は均質化と同時に差異化を繰り返しながら拡散していくのを「グローバル-ローカル・モデル」という。例えば、車は世界中で基本的に同じ機能を果たすが(モータリゼーション)、その形状やニーズは必ずしも同一ではない(アメリカでは普及しているピックアップトラックも日本では普及していないが、逆に日本では普及している軽自動車は必ずしもアメリカでは普及していない。これは国土やインフラ整備が影響している)。また音楽も基本的に同じ五線譜で全世界に普及しているが、奏でられるものは地域によって様々である。こうして世界は多様化しながら標準化していく。
ただし、すべての人がこのプロセスを同じように経験するわけではない。アルジュン・アパデュライが「スケープ(地景)」をめぐる議論で示したように、異なった社会的位置にいる人々にとってグローバリゼーションの経験はそれぞれ異なる。それぞれ特有の社会的集団が、グローバリゼーションを受容し、逆にグローバリゼーションそれ自体に介入していく。
ガッサン・ハージによれば、移動には物理的移動と存在論的移動がある。存在論的移動とは、自分の人生が停滞することなく、より良い方向に進んでいるという感覚のことである。「ここではない、どこかへ行ける」と考えられることは、人生に希望が持てるということである。自発的に移動できるという事は、グローバリゼーションによる急激な世界の変化のなかでも自分の人生を統治する能力を失わないということである。これを「移動するパワー」と言い、このパワーをどれだけ持てるかによって、人々がグローバリゼーションをどのように経験するのかが異なってくる。
移動するパワーに最も恵まれた人々は、グローバリゼーションを自らの利益や幸福を最大化する好機として経験する。リチャード・フロリダが「スーパークリエイティブ・コア」と呼ぶ人々がその典型である。このような人々は専門技術やコーディネーション、コミュニケーション能力に長け、グローバルな規模で標準化されたシステムの中で自らの創造性を活用する機会に恵まれている。こうしたグローバル・エリートにとって国境など意味は大してなく、世界は自分の家の「庭」のようなものでしかない。
あくまでも、移動する無限大のパワーを持つ人間は現実には存在せず、理想形に過ぎない。にも関わらず、世界を「庭」とするような生き方を至高と掲げ、人々に「フラット化」されたグローバル市場への適応を要求する、ネオリベラルなグローバリストは存在する。人々に市場に対してフレキシブルになるように促し、そうなれなかった人々にはその結末を「自己責任」として受け入れるように強いる。
グローバルエリートになれない多数の中流階級、下流階級の人々の大半は、自らの思い通りに出来るほどのパワーを十分には持っていない。そうした人々の経験するグローバリゼーションを、スラヴォイ・ジジェクは「荒野(dezert)」と呼ぶ。荒野にいる人々も移動するが、それは自分の人生が思うに任せないという「流される」経験であることが多い。それゆえに守るべき財産・職場・経歴をわずかでも持つ者は、それらが失われるのではないかという不安=パラノイアを抱えることになる。こうして自らの既得権益を守ろうとする中流階級の保守化傾向が生じる。自分たちの既得権益を脅かしているのがグローバリゼーションそのものに他ならないと教えられたとしても、何の解決にもならない。それは大きな時代の潮流であって抗えない。それゆえ、より身近なところに自らの不安の原因を見つけようとする。その際にしばしば起こるのが、マイノリティの人々を不安の元凶として他者化して排斥する風潮である。下流階級は尚の事、既得権益を奪われるという不安をしばしば現実のものとして経験する。失った経験は、不安を怨念=ルサンチマンに変える。その怨念は社会全体に向けられることもあるが、自分よりも下に位置する人々を排斥する運動隣、マイノリティに対する暴力やレイシズムとして顕在化することもある。
グローバリゼーションにより生じた暴力の犠牲者となったマイノリティや、市場の中で搾取される一方のマジョリティからは、動くパワーが失われる。流され続けてきた人々には停滞が訪れる。そこはグローバリゼーションの荒野の中に生じた吹き溜まりであり、そこをジグムント・バウマンは「廃棄物処理場」と呼ぶ。そこに落ち込んだからといって死んでいるわけではないし、希望を失ったわけではないかもしれない。しかし、抵抗の声は様々な政治や社会構造に阻まれて、「庭」の住人からは遠く小さく聞こえない存在となる。
一方荒野の住人たちは、自分たちの流されていく先に、吹き溜まりがあることを予感する。ゆえに、自分より先に吹き溜まりに落ち込んだ人々を見て見ぬふりをする。両者を隔てるセーフティーネットは穴だらけで、落ち込んだ人々を助けようとして手を差し伸べたら、自分が吹き溜まりに落ち込んでしまうかもしれないからである。
こうして、吹き溜まりに落ち込んだ人々は不可視な存在となる。それは誰からも顧みられない人々、アンダークラスであり、誰にも話を聞いてもらえない人々、サバルタン[1]である。
掲示板
422 ななしのよっしん
2025/03/16(日) 17:39:48 ID: R//PT0qN6Q
>>420
なんならここ数年のゴダゴダはグローバル化が仇になってる気がする。
アメリカや中国やロシアが資源や食料、プラットフォームを握ってることで多くの国がそいつらにタマを握られてしまってやりたい放題しても従わざるを得なくなってる。
423 ななしのよっしん
2025/03/16(日) 17:50:52 ID: nu+RXhsfVa
テレビゲームは多くがグローバル化してるけど、かえって個性がなくなりつまらなくなることがある
424 ななしのよっしん
2025/03/19(水) 17:22:52 ID: 7ADcrgaSn5
>>420
一部のグローバル企業や経営者は第二次トランプ政権以前からトランプと組んでるし、トランプにはグローバル化の「負の成果」としての側面と、グローバル化の“順当な結果”としての側面があるとも言えるぞ
典型例はイーロン・マスクで、他にもOpenAIとPayPalとパランティアの創業者の一人ピーター・ティール
https://
>2020/01/16 「競争は負け犬がするものだ」 短期間トランプ政権の顧問を務めたこともあるシリコンバレーの大企業家の1人、ピーター・ティールはあからさまにこう主張している。現在のアメリカ経済では、ごく少数の企業が莫大な利益を独占し、何年にもわたり支配的な地位を悠々と維持している。
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最終更新:2025/03/24(月) 18:00
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