![]() |
この記事は第453回の今週のオススメ記事に選ばれました! よりニコニコできるような記事に編集していきましょう。 |
サラエボ事件とは、オーストリア=ハンガリー帝国の第一皇位継承者フランツ=フェルディナント大公夫妻が、帝国領サラエボ(現・ボスニア・ヘルツェゴビナの首都)で暗殺された事件である。
※この記事は、オーストリア側(フェルディナント大公側)からの視点を中心にしています。それ故に、人によっては不快感を感じます。ご了承ください。
後に第一次世界大戦の発端となった、と言われている事件である。
この記事では事件の犠牲者であるフランツ=フェルディナント大公と、妻ゾフィー・ホテクの過去、そしてオーストリアの歴史を含めて説明したい。
そして物語をいくつかの章に分ける。
事件の概要を知りたい方は四番目~六番目のみの観賞を推奨する。
1.ハプスブルク家の歴史 - 彼らが生まれる以前のハプスブルク君主国の成り立ち。
2.二人の誕生 - フェルディナント大公とゾフィーの出生・経歴。
3.皇位継承者 - フェルディナントが皇位継承者となった以後、ゾフィーと結婚し、日々を過ごすまで。
4.プリンツィプ動く - 暗殺犯の一人、ガヴリロ・プリンツィプの経歴と行動。
5.そしてサラエボへ - 黒手組による暗殺計画と事件前日の様子。
6.運命の日(1914年6月28日) - 暗殺当日の出来事。そして事件直後。
7.Strömung von Österreich(東国の歩み) - 第一次世界大戦中、およびその後のオーストリアの運命。
なお、以下で記述されている登場人物の言葉のほとんどはフィクションです。
まず手始めに、ハプスブルク家が君主を務めるハプスブルク君主国と呼ばれる国についての歴史を紹介したい。
欧州王家屈指の名門といわれたハプスブルク家。
発端は今のドイツ・オーストリアに存在した神聖ローマ帝国の皇帝として、1273年に初めてスイスの小領主であるルドルフ・フォン・ハプスブルク伯爵が、ルドルフ1世として即位したことに始まる。
ルドルフ1世の即位当時、すでに帝位にあったホーエンシュタウフェン家は断絶。
帝国内は混迷を期し、大空位時代と呼ばれる、各領主が帝位の獲得を巡って権力闘争を行う戦国時代を迎えていた。
その中で教皇や他の諸侯らが弱小勢力であったハプスブルク家に目をつけ、後押しした。
だがルドルフはとても優秀で賢しき人材であった。よって諸侯らの傀儡になることはなかった。
また、帝位獲得を狙う最大の宿敵、ボヘミア王オタカル2世を敗死させた。
こうしてルドルフ1世はオタカル2世の所有していたオーストリアの領地を獲得。
ハプスブルク家の本拠地をオーストリアを含めたドイツ地方(ドイツ語圏、いわゆるドイツ民族の居住地)に置き、神聖ローマ帝国の皇帝として堂々と君臨。ハプスブルク家の基盤を作り上げた。
こうして、1438年以降、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国の世襲君主家となり、ナポレオン1世率いるフランスに敗北し神聖ローマ帝国が解体した後も、オーストリア帝国の皇帝として君臨し続け、最終的にその統治は7世紀もの長期間に及んだ。
だが安定した、と見えたものには必ず綻びが生じる。
19世紀に起きた産業革命に乗り遅れ、また政略結婚など中世と変わらぬ政策を採る、このオーストリア帝国は「遅れた封建国家」と呼ばれた。
また1848年にはオーストリア帝国内で少数民族らによる革命が発生。(1848年革命)
オーストリア帝国領のハンガリーや北イタリアのロンバルディアが共和制国家として独立を宣言した。
この独立宣言は、新帝となったフランツ=ヨーゼフ1世皇帝により鎮圧された。しかしこの後、イタリア統一戦争でサルディーニャ王国に敗北したオーストリア帝国は、ロンバルディアを完全にサルディーニャ王国に割譲することとなった。
この後、サルディーニャ王国はイタリア半島の全領域を征服し、イタリア王国となる。
また中欧のドイツ地方(ドイツ語を話す民族が主流の地域の総称)の主導権をめぐってプロイセン王国と抗争を行い、1866年に普墺戦争が起きる。しかし最終的にオーストリア帝国はプロイセン王国に敗北した。
この後、プロイセン王国はドイツ全般の主導権を握り、他のドイツ人諸侯を纏め上げ、プロイセン国王がドイツ皇帝を兼任することでドイツ帝国が誕生した。
オーストリア帝国は幾多の戦争に敗北し、北イタリアやドイツ地域の領有権・主導権を奪われてしまった。
また1848年以降、帝国内で12の少数民族が自治権を要求する中、支配階級であるドイツ系オーストリア人(ドイツ人)たちは、妥協案を探していた。
最終的にはドイツ系に次ぎ、同じく国内で2番目に多い、マジャール人(ハンガリー系)と友好関係を築くことにした。
国家を大きく、オーストリア帝冠領(ツィスライタニエン、ドイツ人主導)と、ハンガリー王冠領(トランスライタニエン、マジャル人主導)の2つに分け、同じ君主を擁く同君連合として、ハンガリー系国民に対して軍事・外交・財政を除く、大幅な自治権を与えた。こうして1867年にオーストリア皇帝兼ハンガリー国王が存在する、連邦制・同君連合のオーストリア=ハンガリー帝国が誕生した。
この後、ハンガリー政府は王国内における確固たる安定のため、ハンガリー王国に取り込まれた最大の非マジャル系民族である南スラブ系のクロアチア人と手を組み、ナゴドバ法というクロアチア人の自治・参政権を大幅に認める法令を出した。ハンガリー王冠領内にクロアチア・スラヴォニア王国というクロアチア人にある程度の自治権が認められた自治領が設置された。
ハプスブルク家は国内のマジャル人、クロアチア人に対して大幅な自治権を与え、内政の窮地を一時的に脱したと思われた。しかし未だに旧体制から抜け出せない危機的状況にあることには変わりはなかった。
このような時代の中、フランツ=フェルディナント皇子は生まれた。
1863年12月18日。日本が明治時代を迎える5年前。
オーストリア帝国南東部の都市、グラーツにて、皇帝フランツ=ヨーゼフ1世の次弟カール=ルートヴィヒ大公と妻マリア=アンヌンツィアータとの間に長男が生まれた。この日生まれた彼こそが、この歴史物語の一番の要たる人物、フランツ=フェルディナントであった。
この当時、即位15年目を迎えた伯父フランツ=ヨーゼフ帝には、皇后エリーザベトとの間に5年前に生まれた皇太子ルドルフがいた。
実母マリア=アンヌンツィアータは、イタリア統一によるサルディーニア王国の侵略で滅亡した両シチリア王国の王女であった。
本来、この時点でフランツ=フェルディナントはオーストリア帝位とは程遠く無縁であると考えられていた。
1868年3月1日。
フランツ=フェルディナントの誕生から5年後。
隣国、ドイツ帝国シュトゥットガルトにて、ある一人の女児が生まれた。
彼女が後に大公と運命を共にする女性、ゾフィー・ホテクである。
父はホテク伯爵家当主、ボフスラフ・ホテク伯爵。母は伯爵夫人のヴィルヘルミナ。
ホテク家はチェコ人の血統を持つ帝国領ベーメン(現・チェコ領ボヘミア)の伯爵家であった。なおこの当時、伯爵のような爵位を持った貴族はごまんと存在した。ホテク家の経済状況は逼迫しており、どちらかというとホテク伯爵家は没落貴族に近かった。
そのため、ゾフィーも外交官である父から教えられた学問を生かし、成人後はハプスブルク家の傍系であるハプスブルク=トスカナ家の帝国陸軍の軍人、フリードリヒ大公の妻イザベラの女官(家庭教師)をして生活を支えていた。最終的に、彼女はハプスブルク=トスカナ家の筆頭女官にまでのし上がった。
フランツ=フェルディナントは9歳の時、実母が結核にかかり死別する。
そして継母としてブラガンサ家(ポルトガル王家)からマリア=テレサ王女が迎えられた。
彼にとって継母は8歳しか年が離れていなかったため、どちらかといえば母というよりも姉に近かった。
そしてマリア=テレサは義理の息子であるフェルディナント大公たちにも実母の様に優しく接し、フェルディナント大公の手紙からも慈悲深き母上と記されている。
良家の出らしく、おっとりしているように見えて、息子たちに問題が起こると、一緒に悩み、協力してくれる母であった。彼女は後にフェルディナント大公の結婚に大いに賛同し、助力を与えるのだが、そのことは後に記そう。
またフェルディナント大公は、傍系ながらも王家の血筋を引く者として多くの学問に打ち込んだ。
ラテン語、フランス語をはじめとした語学、政治学、社交界に出るためのマナーなど覚えることはたくさんあった。
彼の性格の最大の特徴は何といっても勤勉さであり、また一度決めたことは徹底的に貫き通すという、神経質かつ融通の利かない部分があったと、歴史家たちは語っている。
ちなみに彼の長弟オットー皇子がそれとまったく正反対の遊び人(愛称は麗しのオットー)であったことは参考程度に述べておく。
そして成人後、フェルディナントは皇族の義務・儀礼の一環として帝国陸軍の軍役に属し、訓練を受けていた。
1889年1月30日。(フランツ=フェルディナント 25歳)
その日に起きた事件は、彼の運命を一変させた。
皇太子ルドルフは母の愛を受け、成長したフランツ=フェルディナントとは対照的に、幼少期から不遇の人生を送ってきた。彼の祖母・ゾフィー・フォン・バイエルン(ゾフィー皇太后もしくはゾフィー大公妃。先述のゾフィー・ホテクとは別人。)は、母エリーザベト皇后からルドルフを引き離し、自分の意思の下、家庭教師により、軍隊の如く徹底したスパルタ教育を強いた。これに対して、父フランツ=ヨーゼフ帝は母の言うことには逆らえなかった。
このような日々が続いたため、結果ルドルフは疑心暗鬼と恐怖心が強く、相当に内気で、かつ暴力的な性格になってしまった。
後に母エリーザベト皇后の働きかけで、7歳の時に祖母のスパルタ教育からは解放された。
しかし、エリーザベトと義母であるゾフィー・フォン・バイエルンの関係は徹底的に険悪ものとなりった。母・エリーザベトは教育などをすべて家庭教師などへ押し付け、公務と育児を放棄し、帝都ウィーンを忌避し、旅行にふける毎日を過ごしていた。
また母が付けた家庭教師が、保守的な王室儀礼を貫く祖母とは全く正反対の自由主義者であったことから、保守的なハプスブルク帝国を求め続ける父帝とは悉く対立した。
成人後、ルドルフ皇太子はベルギー王女シュテファニーと結婚し、一女を授かるも、性格の不一致などから夫婦関係は冷めていた。
そして1889年1月30日。
オーストリア北東部の都市マイヤーリンクの狩猟館において、ヴェッツェラ男爵家の娘マリー(マリー・フォン・ヴェッツラ)と、ルドルフ皇太子が血まみれで絶命しているのが発見された。彼らの死因は銃によるものであった。
このことは妻との婚姻関係や、市井の多くの愛人関係との狭間に悩んだ挙句、皇太子がマリー・フォン・ヴェッツェラと無理心中をしたのではないか?との噂を呼んだ。しかし、この事件の真相は、1世紀以上が経った現在でも明らかになっていない。
ただ、この事件でルドルフ皇太子が亡くなったことは紛れも無い事実である。
一人息子の急逝という知らせを聞いた時、父帝フランツ=ヨーゼフ1世は言葉を失った。
次の後継者は誰になろうか…
フランツ=ヨーゼフ1世には3人の弟がいた。
このうち、長弟のマキシミリアンは時のフランス皇帝ナポレオン3世の要請によりメキシコ皇帝マキシミリアーノ1世となっていたが、1867年に共和主義者たちに捕らえられて銃殺されてしまった。
次に皇位継承候補として名が挙がったのが、次弟カール=ルートヴィヒ大公である。しかし、彼は特に偉業を成し遂げたわけでもなく民意から離れており、彼自身も皇帝になる気は無かった。
三弟ルートヴィヒ=ヴィクトルは同性愛者であり、スキャンダルを起こしたため、長兄自らの手でウィーンから追放された。
そこで残った候補が次弟カール=ルートヴィヒの長男フランツ=フェルディナント大公である。
こうして彼は思いがけず、次期皇位後継者に認定されたのである。
こうしてフランツ=フェルディナント大公は次期皇帝に認定されたが、長らく軍役を課せられていたため、教養が足りないと思われていた。そこで次期皇帝として帝王学を身に付けるために、1892年(29歳)から数年間、世界旅行をすることになった。
この世界旅行で立ち寄った国や地域はイギリス、ドイツ、ロシア、清国、英国領エジプトなど、実に数カ国・数地域に及んだ。
翌1893年には日本にも立ち寄っており、香港から長崎港に上陸し、京都、大阪から名古屋、横浜、東京、日光にまで立ち寄り、明治天皇と会談したり、日本陸軍の様子を視察した。その他、観光地巡りや都市の様子を視察した後に、横浜港からアメリカに向かった。
彼が一番驚いたのは隣国ドイツの様子であった。ドイツ帝国はプロイセン王国の主導のもとに諸侯国がまとめ上げられ、約20年前(1871年)に統一を果たしたばかりの新しい国だったが、鉄血政策や急激な工業化によって目覚ましい発展を遂げていた。
そし大公は皇帝ヴィルヘルム2世と会談し、ドイツとオーストリアの軍事同盟の強化や様々なことについて語り合った。
ヴィルヘルム2世とは狩りを共にして、とても親密な間柄となった。
こうして世界各国の視察の旅が終わり、フェルディナント大公はオーストリア=ハンガリー帝国、そしてハプスブルク家の旧体制からの脱却を目指し、奮闘することとなった。
フェルディナント大公が帰国したとき、彼の年齢は既に30代であり、老帝や重臣達からも結婚相手のことを考えるように進言されていた。彼らはあくまで、「殿下はどこかの国の王女と結婚するだろう」としか思っていなかった。
実はこの頃、フェルディナント大公はしばしば陸軍最高司令官フリードリヒ皇子(称号はテシェン公)の邸宅を訪問していた。そこでフリードリヒ皇子は、「皇太子殿下は我が娘の誰かに興味があるのだな」と考えた。
この当時、王侯貴族の間では腕時計の裏に好きな女性の肖像画を入れるのが流行していた。
フェルディナント大公はある日、フリードリヒ大公の家でテニスをプレイしていた。そのプレイ中にフェルディナント大公が腕時計を外している間、フリードリヒ大公は後ろめたさを感じながらも腕時計の裏を覗き込んだ。
そこに描かれていたのは彼の娘ではなく、妻イザベラ・ド・クロイの筆頭女官、ゾフィー・ホテクその人であった。
この意外な事実に、フリードリヒ大公は目を疑った。
女官に欺かれた、と怒り狂ったイザベラは、ゾフィーを邸宅から追放。
更にこのことをウィーンの貴族たちに暴露した。そしてこのことは噂話として流布し、瞬く間に広まった。
ゾフィー・ホテクの出自については前述した。
皇帝への拝謁も叶わぬ地方の没落貴族の出自である彼女が何故、皇太子と出会うことができたのだろうか。
彼は、各国の視察から帰国した後に、歩兵連隊の中尉の軍務に就くため、プラーク(チェコ語名:プラハ)に駐在していた。
そして1898年、プラハ総督府で開催された舞踏会に出席した。
そこに出席していたのがイザベル大公妃とその娘マリア=クリスティーナであるが、偶然にも付き添い役として20歳のゾフィーも出席していた。
ゾフィーにとって男性を引き寄せる魅力というものは、他の貴族令嬢に比べれば欠如していたかもしれないが、後にフェルディナントが彼女に話したとおり、知性に満ちた美しい目が特徴的な女性であったと言われる。
彼はその彼女に次第に魅入っていた。一目惚れであった。
「あの娘は?」
「はい、殿下。あの者は…テシェン公妃イザベラ様の侍女かと…」
「そうか。」
そしてイザベラ大公妃らがいない間に、自ら話しかけた。ゾフィーは次期皇位継承者が自分に話しかけてきたことに驚いた。しかし彼が堅実で教養に溢れた人間だと知り、馬が合ったのか会話が弾んだ。
それから後、フェルディナントはお忍びでゾフィーと話しかける機会があった。
そして幾度にも亘り会うたびに、彼女もフェルディナントに惹かれていった。
だがゾフィーには、内に秘めた恋を終わらせたり、あるいはこのことを恥じて女官を辞める気持ちも、故郷のベーメンに帰るという気も無かった。
彼女は「身分など関係なく、愛する人とずっと共にいたい」、という信念を貫き通す覚悟を持っていた。つまり情熱的な女性であった。そしてこれは、ゾフィーの本心からの願いでもあったのだ。この夫婦にはどちらにも「己が信念を貫く」という一面があった。
なお、フェルディナントは彼女に出会った時から大のチェコ好きとなった。これが後に彼が親スラブ派(ただし反ロシア)に傾倒する理由になった。
そして次第に、フランツ=フェルディナントとゾフィーの仲は公然のものとなり始めた。
そのため、フェルディナント大公は正式に婚約を発表した。
そしてフェルディナントはフランツ=ヨーゼフ1世に、ゾフィーとの結婚を許してほしいと申し出るが、これに皇帝は唖然とし、そして強く反対した。
「自分のしたことがわかっておるのか?フェルディナントよ。
やがて皇帝となる大公が、下級貴族の娘…それもゲルマンの血を引かぬチェコ女と結婚しようとしているのか!」
当時のオーストリア=ハンガリー帝国内においてホテク家のような下級貴族は数百とおり、しかもホテク家は困窮のあまり長女を女官に出すような低い家柄であった。
またハプスブルク家では家訓により、
(皇太子の)結婚相手はカトリックの国の君主家から妻を迎えねばならない。
と定められていた。
このことはオーストリア国内の一大スキャンダルとして報道され、隣国のドイツやロシアにまで流布した。
「考え直せ、フェルディナント。今からでも遅くない。婚約を破棄するのだ。」
「陛下。この20世紀において、王族と結婚せねばならないという慣習は時代遅れです。
彼女は知性も溢れ、教養もあります。皇太子妃として何ら不足はありません。
結婚に必要なのは利益でも、体面でもないことは陛下もお分かりのはずです。私はゾフィーと結婚します。」
老帝は声を荒げて言った。
「ならば王冠か恋か、どちらか選ぶが良い。」
この問いに、フェルディナント大公は毅然と答えた。
「王冠も恋も、どちらもいただきたい!」
老帝とハプスブルク家の大公たちは、2人の結婚には反対していた。
しかし、次第に国民からの同情の声もあり、またフランツ=ヨーゼフ帝に対し、当時同盟国であったドイツの皇帝ヴィルヘルム2世や、当時のローマ教皇レオ13世までが結婚を認めるように手紙を送った。
また継母マリア=テレサはこの結婚に大いに賛同し、働きかけた。当時、彼女は既に未亡人であった。
皇帝や娘に「プラハの修道院へ旅行に出てみたいのです」と言ってプラハの修道院へ巡礼の旅行に出ていた彼女はイザベラから解雇され、プラハのホテク邸で謹慎していたゾフィーを連れ出し、自身の居城であるウィーンのシェーンブルク城の館に連れて行った。
そしてマリア=テレサは、息子の愛するゾフィー・ホテクにこう言った。
「これから私も陛下に対して手紙を書き、2人の結婚を許してくださるよう、嘆願しようと思うのです。
息子が好きな人と結婚できるように母として、できる限りのことをしようと考えています。」
この勇敢な発言に、ゾフィーは感銘を受けた。
シェーンブルク城はフランツ=ヨーゼフ帝を含めた、ハプスブルク=ロートリンゲン一門の居城である。
これは皇帝に対して行った、大胆な行動であった。
老帝にとってはハプスブルク家の伝統・家柄をぶち壊す問題児に見えたかもしれない。
だが既に70代に達していた老帝が、仮にフェルディナントを義絶すれば、帝位の継承者は傍系、あるいは更なる問題児しか残らないことになる。これが最大の弱みであった。
最終的に各国君主のフェルディナントに対する同情もあり、2人の結婚を了承するに至った。
ある条件をつけて。
1900年(フェルディナント大公:37歳、ゾフィー:32歳)。
皇帝の承認の下、フェルディナント大公はゾフィーとの結婚を果たした。
1900年6月28日。
フェルディナント大公は、皇帝の出した妥協案として、ある誓約書に署名した。
主な内容を以下に述べる。
フランツ=フェルディナント大公とゾフィー・ホテクとの間に生まれた子、
及びその子孫は、他の大公と同等の特権、栄誉、紋章などを所持しない。加えて、請求することも許されない。
格式を守る老帝と、変革を求める皇太子が粘りに粘り、お互いが譲歩しあった末の結論であった。
しかし、ゾフィーはこれに対し怒りをあらわにすることも無く、冷静であった。
「承認されたが、権利の無い結婚であること」をフェルディナントが悔しい気持ちで言うと、「時代遅れの堅苦しい行事や宴に出なくても済む」と答えた。もちろん、彼女にとっても屈辱に感じていたが、強がりであった。
こうして2人は結婚することができ、7年がかりの恋は成就した。
結婚式は皇族による中傷を避けるため、彼女の故郷ベーメンで行われた。
現在もチェコ共和国ボヘミア地方に残るライヒシュタット城の礼拝堂である。
その結婚式では、継母マリア=テレサと継母の娘以外に、ハプスブルク家の者の姿は、無かった。
老帝はその日、ベーメンに電報を送り、オーストリア北部にある都市の名をとって
ホーエンベルク公妃ゾフィー(Sophie von Hohenberg ゾフィー・フォン・ホーエンベルク)と名乗らせることにさせた。
しかしハプスブルク家でのゾフィーの冷遇は変わらず、王室の行事に出席すると必ず末座に座らされたりなど、一度たりとも優先的に扱われることはなく、王室・貴族の面々からは「チェコの蛮人の娘」「下賎な身分」「皇太子を幻惑した」「場違いの女」などと陰口を叩かれた。
もちろん皇太子であったフェルディナントも「見る目がない」「オーストリアの恥」などと散々な言われようであり、2人は生涯を通してハプスブルク家に嫌われ続けた。
結婚後しばらくはウィーンの喧騒を嫌い、遠く離れたプラハのコノピシュト城でハネムーンを過ごした。しばらく後にヴァッハウ渓谷の地に自らの居城であるアルトシュテッテン城を築き、そこに居住した。
フェルディナントは短気で癇癪持ちな性格であり、侍従が円滑に行動しなかったりすると激しく叱責した。
そんな時、妻ゾフィーが常に身につけていた、夫のフェルディナントから貰ったブローチを触る時が、フェルディナントに「フランツ、落ち着いて」という合図であった。
フェルディナント大公夫妻は二男一女に恵まれた。
誓約書に基づき、彼らはホーエンベルク公、ホーエンベルク公女と名乗った。
子供にも恵まれ、侍女に頼ることなく自らの手で子育てや食事の用意をし、幸せな日々を送っていた。
狩猟好き、根っからの真面目であったと言われるフェルディナントであった。
私生活においては皇族という身分にありながら倹約一家であったといわれ、フェルディナントが食卓でデザートが一皿分多いのを見つけ用意した侍従を叱責し、ゾフィーは夫の古着を古着商人相手に高く売りつけようと直談判した、という噂まで流れた。真偽のほどは定かではない。
だが相変わらず王室の行事には出席することも憚られる状態は続き、また出席を許されても王侯貴族たちから繰り返し中傷を受け続けた。
しかし、フェルディナント大公は自身が皇帝となった場合は誓約書を守る気はなかったかもしれない。
「私が皇帝になったら、全てを変える」
という信念を持って、日々自分たちに投げかけられる辛苦を耐えていた。
しかし老帝はなかなかの長寿であった。また老帝は自らの目が黒い限り、断固として、フェルディナントへの譲位も、ゾフィーに大公妃としての権利・栄典を付与することもしない考えであった。
フランツ・ヨーゼフ1世自身は、自分自身の性格を鑑みて、生前は「私は欧州最後の旧時代的な君主」と主張していた。近代的な君主というよりも、旧習を尊重する人格の持主であった。
そしてフェルディナントはこのような屈辱的な日々を繰り返すたびに、常に「妻に対して皇太子妃にふさわしき舞台を用意しよう」と考えていた。
ガヴリロ・プリンツィプ(愛称はガブレ)は1894年7月25日、現在のボスニア北部のオビリャイ村に住んでいたプリンツィプ家の四男として生まれた。父・ペタルは郵便局員であった。
ボスニアの住民は大きく分けてセルビア人、ボシュニャク人、クロアチア人に分かれており、それぞれセルビア正教、イスラム教、カトリックを信仰していた。だがそれも宗教的な違いであり、言語は大差もなく、同じスラブ系の血統であった。彼はこのうち、セルビア正教を信仰するセルビア人(セルビア系ボスニア人)であった。
彼の子孫(オビリャイ村在住)は日本の歴史番組(NHK放送「その時歴史が動いた」)でのインタビューで、
「プリンツィプは正義感が強く、「強きが弱きを守る」という気概を持った少年であった。
そのため、学校では教師やいじめっ子の生徒との衝突・喧嘩もしばしば起きていた」、と語っている。
1908年、学生時代に、反オーストリア・ボスニア独立を掲げたセルビア人愛国者政党「青年ボスニア」に参加。この時、プリンツィプは若干14歳であった。
1908年10月6日、オーストリア帝国はボスニア・ヘルツェゴビナを併合した。
もともと30年前まで、ボスニア・ヘルツェゴビナはオスマン帝国領であった。
しかし、この地の住民である南スラブ人(セルビア人、クロアチア人、南スラブ系イスラム教徒)がトルコ本国に対して反乱を起したのを機に、オスマン帝国属領であるセルビア公国とモンテネグロ公国がオスマン帝国からの独立自治権を得るためにこれを支援し、オスマン帝国に宣戦布告した。
しかし南スラブ両国はオスマン帝国の圧倒的な武力の前に苦戦を強いられた。
ロシア帝国はこの事態に対して、「同じスラブ民族を救う」という名分のもと、ボスニア蜂起から2年後の1877年にオスマン帝国に侵攻を開始した。
しかしロシアの真の目的は「バルカン半島を自国領とする」もしくは「自国領とならずともロシア帝国の権益下にある属国群にする」ことであった。
こうして始まった露土戦争(1877年-1878年。ロシア帝国vsオスマン帝国)であったが、やがてオスマン帝国は劣勢に立たされた。
そして両国間にサン・ステファノ条約が締結。
これによりセルビア公国、モンテネグロ公国は悲願の独立を果たした。
そしてロシアは同じく独立を果たした大ブルガリア公国にオスマン帝国に対する朝貢を続けさせる一方で、ロシア軍5万人を駐屯させた。これにより、真の目的である、「(ブルガリアを属国化して媒介としながら)バルカン半島全体を自国の支配下に組み込む」作戦を立て始めた。
しかしこれに待ったをかけた国があった。大英帝国とオーストリア帝国である。
この2国はロシアがこれ以上南下政策を続けるならば、戦力を行使すると脅した。
この主張に欧州各国が便乗し、ロシアのバルカン支配に反発した。
これに対して、ロシア国内での世論は「断固拒否せよ!」という意見が強かった。
だが、ロシアには苦い経験があった。ロシアが南下政策のために、オスマン帝国領を狙って侵攻したクリミア戦争(1854年-1856年)である。
このクリミア戦争において、当時後進国であったロシアは、産業革命を迎えて発展した四ヶ国連合(大英帝国、オスマン帝国、フランス帝国、サルディーニャ王国)に敗退し、国力の無さを露呈させられ、屈辱を味わった。
それから20年以上経った今、ロシアが再びこれらの国と戦火を交えることになれば、返り討ちに遭うであろうことは目に見えていた。そこで苦渋の決断として、同年ベルリン条約が結ばれた。
これにより、ロシアはバルカン半島進出を阻止された。主な内容は以下のとおりである。
この条約によってロシアは多大な犠牲を払ってまで獲得したバルカン半島の利権を失う羽目になり、結果、反英・反墺感情が高まっていった。そしてボスニア・ヘルツェゴビナにおいても、反墺感情はとどまることが無かった。
しかしオーストリアはこの地を強制併合した。
これによって同じ南スラブ系であるセルビア王国のボスニア進出と国内の民族独立の気運を徹底的に押さえ込むのが狙いであった。実はオスマン帝国が、独立気運の高いこんな土地は無用、と事前に併合を同意していた。
また、この1908年という年は、トルコで皇帝(スルタン)の専制政治放棄を目指した青年トルコ人革命が繰り広げられていた頃であり、両国にとって都合が良かった。
しかしボスニアの大多数を占めるスラブ系住民は、オーストリアではなく、セルビア王国(独立から数年後に公国から王国に国号を変更)など同じ南スラブ系の国(ただし非ロシア)に併合されることを望み、オーストリアの支配に反発していた。
一説によれば、フェルディナントは将来、ハンガリーとの二重帝政に加え、新たに帝国内の南スラブ人(クロアチア人・スロベニア人)を参加させて、3つの政府による三重帝国へと再編する気であったらしい。
しかしこの案はセルビア人による南スラブ統合運動を挫くもの(いかに自治権を持ったとはいえ、独立国にあらず、かつオーストリアやハプスブルク家の影響が強いもの)であったため、このことはセルビア王国でも危惧されていた。この後、二度に渡るバルカン戦争に勝利したセルビア王国は広大な領土を獲得していた時期であった。
まさに念願だった南スラブを統一するチャンスであったのである。
セルビアの背後にはロシアが、オーストリアの背後にはドイツが控えていた。
バルカン半島は、もし政変や戦争が起きれば、複数の国同士が争い合う状況は避けられないという、政治的にとても危険な地帯であり、このことから、バルカン半島はヨーロッパの火薬庫と言われた。
セルビア王国を始め、セルビア人はこのボスニア併合に大きな怒りを覚えた。
そしてセルビア王国の首都ベオグラードにて、陸軍将校らが中心となって秘密結社「黒手組」を結成。
セルビア語では「ツルナ・ルカ」、日本語では「黒い手(英:Black Hand)」とも称されるこの組織は、ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア併合など、「欧州の全セルビア人居住区をセルビア王国へ併合すること」を第一目標とするテロ組織であった。
そして秘密結社の結成から3年以上を経た1912年、ある青年が黒手組の本拠地を訪ねてくる。その男こそ、青年ボスニアに所属していたガヴリロ・プリンツィプその人である。この当時は若干18歳であった。
「君の事はタンコシッチ少佐から話は聞いてる。我ら黒手組に頼みがあると伺っているが何の用かね。」
「ええ、オーストリア皇太子フランツ=フェルディナントを暗殺しようと計画しています。あなた方に手を貸してほしい。」
この発言にその場の者たちは一瞬動揺したが、プリンツィプは話を続けた。
「ボスニアはオスマン帝国の支配下にあったとはいえ、セルビア人・クロアチア人・イスラム教徒が共同して統治していた国だ。
だが、オーストリアは我々から議会も軍隊も取り上げた挙句、
併合して少数ドイツ人によるスラブ民族への弾圧と支配を行っている。これは我が祖国に対する暴虐だ。
我が命を賭してでもオーストリアにその報いを受けさせてやる。その手伝いをあなた方にしてほしい。」
この頃、「青年ボスニア」は「黒手組」と接触し、ボスニア・ヘルツェゴビナには、同じ南スラブ人による政府の統治が必要であると考え、その方法を模索していた。
そしてプリンツィプは「黒手組」幹部との関わりを持ち、黒手組No.2のヴォヤ・タンコシッチ陸軍少佐と出会った。
この青年の申し立てに、「黒手組」は時期を見計らって協力することを約束した。
そして2年後、運命の日が訪れるのである。
1914年6月。
オーストリアは未だ安定の域に達していないバルカン半島状勢の緊迫化に対する一策として、ボスニアでオーストリア陸軍の軍事演習を行い、その後にサラエボ(現ボスニア・ヘルツェゴビナの首都)にて軍事パレードを実施、セルビア王国やボスニアの住民たちにオーストリア帝国陸軍の強大さを誇示することを計画した。
そして、このパレードにフェルディナント大公とゾフィー大公妃が参加することになった。
その報告をするため、夫妻はウィーンにいるフランツ=ヨーゼフ帝の下へ挨拶しに行った。
「パレード?ボスニアでやるのか?」
「はい、陛下。演習の翌日にサラエボにて行います。ゾフィーも同行させるつもりです。」
「いかん、直ちにやめろ。」
「何故ですか?閲兵や軍事パレードは王室行事ではありません。何も問題ないはずです。」
老帝は喚起するように言った。
「そういうことではない。オーストリア国内ならまだしもボスニアでは十分な警備ができん。お前が公妃を思いパレードを計画したのは分かるが、これはお前達の生命にかかわる。まずは己が身のことを案じよ。」
「警備には万全を図ります。それに…」
軍事パレードが行われる1914年6月28日。
この日はフェルディナント大公とゾフィーの14回目の結婚記念日であった。
この裏には、今まで14年間、皇太子妃でありながらろくな待遇を与えられなかったことや、ハプスブルク家からの軋轢へ耐えた妻へ、「皇太子の妻」としてパレードに参加させる機会を与えたいという、温情の気持ちがあった。皇太子妃である妻のために、夫が用意した舞台であったのだ。
しかし運の悪いことに、この6月28日は1389年にセルビア王国がオスマン帝国に敗北し、トルコのセルビア人支配を許した、いわゆる「セルビア人の屈辱の日」でもあった。そして、おそらく皇太子はそのことを知らなかった。
フェルディナントの主張に老帝は折れ、条件を呑む代わりに参加を許可した。
1914年6月21日、フェルディナントとゾフィーは鉄道に乗り、サラエボへと出発した。
ボスニア南西部において、2000名の兵士を動員した、帝国陸軍の演習が行われた。
この日はとてもよく晴れた日であった。
訓練内容としては、巧みなまでの戦列を組んだ前進・退却、標的を目掛けての狙撃銃・機関銃の一斉射撃、…
「殿下。これをセルビア人の連中が見たら、怖気づいて逃散する様子が見えること間違いありませんでしょうな。」
「無論、我らが陸軍はセルビア軍に攻め込まれようとも問題はない。
だが決して、訓練を怠るな。我らの敵はセルビアだけではない。ロシアも然りである。」
「御意。」
長いこと王室の一人として、陸軍参謀に携わってきたフェルディナント大公は帝国陸軍の強固さを見て、セルビア王国軍相手に負けることは断じてないと思っていたに違いない。
当日、どんな気持ちでフェルディナント大公が参加したか分からないが、自らの育った祖国オーストリア帝国に対しての愛国心は変わっていなかった。だが、彼が望んでいたのは、ドイツ人が一方的に支配することではなかった。南スラブ人にもいずれ自治権を与えることも考慮していた。
フェルディナント大公は演習の後に、ウィーンにいる老帝に対して「演習は成功し、明日はサラエボに向けて出立します」という主旨の電報を送った。
演習地で泊まったホテルにて、フェルディナント大公夫妻は舞踏会に出席。
これが2人にとって生涯最後のダンスになった。
一方、黒手組メンバーはこの機会を逃すまいと、入念な計画を立てていた。
「サラエボのパレードが始まるのは翌6月28日の午前10時。」
「駅から出た皇太子は、ミリヤッカ川沿いの道を抜けて市庁舎で歓迎を受けた後に、教会に寄り駅に戻る。」
という様々な情報を、裏ルートを含めて入手していた。
そこで、黒手組から手配された暗殺者6名とプリンツィプの計7名が、通り沿いの道と交差点で群衆の中に紛れて待機。皇太子夫妻がやって来たら、事前に用意していた最新式の拳銃4丁と手榴弾7個で至近距離から次々と狙い、暗殺するという作戦であった。
計画の実行後、捕えられた時のために全員に自殺用の青酸カリが渡されていた。
午前10時7分。
フェルディナント大公夫妻を乗せた特別列車はサラエボ駅に到着。
そこから駅前に停車してあったオーストリアからはるばる用意していたオープンカーに乗車。
警護の車を含め、計4台からなる車列が通り過ぎた。
夫妻を乗せた車はサラエボ駅から市庁舎へ向かって出発し、パレードが始まった。途中で7人もの暗殺者が待ち受けてることも知らず、2人は街道で手を振る人々に向けて、笑顔で応えた。
午前10時10分~15分の時間帯
車は暗殺者モハメド・メフメトバシッチの目の前を通り過ぎた。
だが彼は警察官が後ろにいると錯覚し、後ろを振り向いた。その後に改めて拳銃の狙いを定めようとも、目の前に立ちはだかる群集によって遮られた。結局、彼はピストルを撃つことができなかった。
そして午前10時25分。
暗殺者チャブリノビッチの目の前を大公夫妻が通り過ぎた。この時、チャブリノビッチが、フェルディナント夫妻の車めがけて手榴弾を放り投げた。だが間一髪、爆弾は車の後ろに跳ね、後続車の手前で爆発し、夫妻には当たらなかった。
後続車は大破し、乗車していた軍人3名と沿道の群集20人が重軽傷を負った。
辺りは悲鳴と怒号が飛び交った。
「ぎゃああああああああああああああああああ!」
「爆弾を投げたのは、あの男だ!誰か、取り押さえろ!」
チャブリノビッチはとっさに橋から川へと飛び込み、用意されていた青酸化合物を飲み込み、自殺を図った。
警官と警備兵、そして民間人らも橋から飛び降り、チャブリノビッチを取り押さえた。
「おい、こいつ毒薬を持っているぞ!取り上げろ!」
チャブリノビッチは毒物を飲んで気絶したが、致死量に達していなかった。
川から引きずり出され、警官に連行されるまで、チャブリノビッチは民衆から激しい暴行を受けた。
「お2人とも、お怪我はありませんか!?」
「私たちは…無事だ…」
2人の無事を確認すると、車は再び動き始めた。
そしてプリンツィプの目の前を通り過ぎたが、逃げ惑う群集に阻まれて銃を撃つことができなかった。
(チッ…計画は失敗か…)
あとの暗殺者数名はこの場を目撃し、逃げ出して、自宅に帰った。
プリンツィプは意気消沈して計画を諦め、近くの軽食屋に入り込んだ。
サラエボ市庁舎に着いた大公夫妻は市長に会った。
そこでフェルディナント大公は取り乱し、市長に向かって怒号を放った。
「市長!爆弾で歓迎されるとは思ってもみなかったぞ!…何たる無礼な都市だ!」
歓迎の式典は終わり、パレードについて見直されることとなった。しかしフェルディナントは、「帝国の威信にかけても変えるわけにはいかない」と言い放った。妻の仲介で冷静さを取り戻したフェルディナント大公は、改めて臣下の者に尋ねた。
「先ほどの爆発で被害にあった者はどうした?死者は出たのか?」
「病院に収容されたと連絡が入っています。死者はいないようです。
後続車に乗っていた軍人3名と沿道の市民20名が巻き添えを食らって負傷した模様です。」
「そうか…予定を変更だ。彼らの見舞いに行かねば。」
「わかりました。では、川沿いの道を直進して向かいましょう。」
「公妃殿下は万が一のことがありますので、別の車で駅に戻られては如何でしょうか?」
「いえ…私はどこまでも大公の行く所に同行いたします。」
こうして話し合いの結果、午前11時に車は市庁舎から病院に向けて出発することになった。
しかし、ここで手違いがあった。運転手はルート変更のことを一切知らされていなかったのである。
そうとは知らず、フェルディナント大公夫妻を乗せた車は発進した。
この市庁舎から車へ乗り込む前に撮られた記録映像が、今現在までオーストリア国内のデータベースに残っている。これがフェルディナント大公とゾフィー・ホテクの生涯最後の姿となった。
そして十字路に差し掛かったところで、車は教会へと向かう右側にカーブした。
フェルディナント大公夫妻の車に同乗していた警備兵は運転手に言った。
「おい。待て!何故、曲がる?直進といったはずだぞ。」
「はっ?しかし、自分は聞いておりませんが」
「いいから急いで戻れ!」
車は川沿いの十字路の交差点で止まり、方向転換をするためバックをした。
その時、一人の男が軽食屋から出てきて対向車の車に向かって拳銃を構え、車両の間近へと駆け抜けた。
実はプリンツィプが入った軽食屋は、川沿いの十字路の付近であった。椅子に座っていた彼からは、皇太子夫妻を乗せた車が立ち往生してバックしているのが見えた。
(この機を逃すな!)
飛び出したプリンツィプは、大公の車の真横の約3メートル手前で止まり、至近距離から拳銃の引き金を引いた。
バンッ、バンッ!
1発目の銃弾はフェルディナント大公の首に命中。
2発目の銃弾はゾフィーの腹部に命中し、ゾフィーはその場にうずくまり、即死した。
この2発の銃弾は、ともに2人の致命傷となった。
フェルディナントは苦しい息の中で、首を押さえながら隣の座席でうずくまっている妻に向かい、懸命に叫んだ。
“Sopherl! Sopherl! Stirb nicht! Bleib' am Leben für unsere Kinder!”
これが現在までに正確に伝えられている、オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者フランツ=フェルディナントの最期の言葉だった。
実際はこの後、同乗の侍従が「大公殿下は、ご無事でしょうか!?」という問いかけをし、それに対して苦痛に顔を歪めつつも「問題ない」と答えたようである。
しかしまもなくフェルディナント大公も妻の後を追うように搬送中に没した。
フランツ=フェルディナント大公は満50歳、ゾフィー・フォン・ホーエンブルクは満46歳の生涯であった。
なお、この時ゾフィーは既に妊娠しており、身重であった。そのため見方によっては、サラエボ事件で奪われた命は2人ではなく、3人であったともいえよう。
プリンツィプはゾフィーの体にオーストリア帝国を担う新たな命が宿っているのを知っているが故、オーストリアの希望を断ち切るため、ゾフィーの腹部をめがけて弾丸を撃ち込んだのだ。
プリンツィプは直後、事前に手渡された毒薬を飲もうとするも警備兵に取り押さえられ、自決できなかった。
なおプリンツィプの使った拳銃は、当時最新型のFNブローニングM1910だった。
「皇位継承者、フランツ=フェルディナント大公殿下がセルビア人に殺された!」
この訃報はすぐ、皇帝フランツ=ヨーゼフ1世の元に飛び込んだ。老帝は内心「これは、伝統を逸した甥御夫婦に対して神様が与えた天罰だ」と思った。
しかし、国家の体面を鑑み、すぐに「犯人たちとその状況について徹底的に調査せよ」と命令を発した。
継母マリア=テレサは、彼らの死を聞くとすぐに孫たちのもとに駆けつけ、子供たちに両親の死を語りかけた。
フェルディナント大公の子供たちは両親の死を受け止めきれず、涙を流した。
長女ゾフィーは13歳、長男マクシミリアンは12歳、次男エルンストは10歳であった。
「ゾフィー、マクシミリアン、エルンスト…どんな時も、どうか忘れないで。あなたたちのことをこれからも、天国にいるお父様、お母様は見守っているのですよ。そしてあなたたちのこれからのことは、この私に任せて。」
「はい、おばあ様。」
両親の死を知らせた後、マリア=テレサはウィーンにいる皇帝にフェルディナントの子供たちへ定期的な遺族年金を出すように要求した。この要求はフランツ=ヨーゼフ1世の死後、新たな皇位に就いたカールに対しても行われており、オーストリアの帝政が終わりを迎えるまでの間、ずっと続けられた。
オーストリア当局は最終的に、暗殺に直接関与したテロリスト7名のうち、メフメトバシッチ以外の6名を逮捕した。
プリンツィプらを厳しく尋問した結果、犯行に参加していた一人イリッチが全てを自白し、凶器はセルビア政府から黒手組に対して提供したものだ、ということが判明。
政府内で議論が繰り広げられた。
「我らオーストリアは断じて、このことを許すことはできん。君主が殺されたとあれば、ハンガリーも我らに追従するはずだ。今こそセルビアを討つべき時だ。」
「だが…セルビアの背後には同じスラブ民族のロシアがいるぞ…」
「ならば、我らには同じゲルマン民族の同盟国ドイツが味方をしてくれるぞ!」
このことに対して、オーストリア政府当局はセルビア政府に対して全10条からなる最後通牒を突きつける。
セルビア政府がこの要求を呑まない場合は、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビア王国に対して宣戦布告するという旨のものである。
ドイツ・オーストリアの学校教育では戦争への一触即発の状態となった、この一連の出来事を
七月危機(Julikrise ユーリクリーゼ)と呼んでいる。
セルビア政府は8項目までは受け入れた。だがこのうち、内政干渉の疑いがある2項目は保留した。
破棄した第5条、および第6条の内容は
「帝国領土保全に反対するセルビア国内の運動の取り締まりに、帝国の政府機関の介入を許可せよ。」
「セルビア国内に潜む、サラエボ事件の共犯者の疑いがある人物を法廷尋問し、帝国政府機関にこの手続きを参加させる。」
というものであった。勿論、これを受け入れれば、オーストリアによる独立国家の主権の侵害を認めることとなる。
だが、これはオーストリア政府が最も望む、「最後通牒の要たるもの」であった。
これに不満を感じたオーストリアは7月25日、セルビアとの国交断絶を宣言。
事件から1ヶ月経った、1914年7月28日。オーストリア帝国は、セルビア王国に対して宣戦布告。
ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国などの中央同盟国と、
大英帝国、フランス、ロシアなどの連合国の総力戦となる、第一次世界大戦が勃発した。
セルビアがオーストリアとの戦争状態に陥ったと知ったロシア帝国は、自らも連合国の一員としてセルビアに味方することを決定。ここから軍事同盟を互いに組んだ欧州数カ国が参戦し、泥沼化していく。
一方、オーストリアと軍事同盟を組んでいたドイツ帝国は、8月1日にロシア帝国、その後にもイギリス・フランスに宣戦布告。以後、最大軍事力を保持するドイツが同盟国の中心的存在となる。
オーストリア=ハンガリー帝国陸軍本部は各部隊に召集を掛け、サラエボ国境付近の決戦の地、ヘルツェゴビナへ軍団を派遣。ここからバルカン半島南部へ南下する作戦を執った。
最初はバルカン戦線の連合国相手に苦戦していたオーストリア軍であったが、2年後の1916年1月にはモンテネグロ王国を占領。モンテネグロ国王・ニコラ1世は亡命した。
ルーマニアが敵側として参戦した後は、同年12月に、ドイツ軍と共同でルーマニアを占領した。
当時の帝国陸軍の民族構成は、25%がドイツ人、23%がマジャル人、42%がスラブ系諸民族であった。もちろん、ドイツ語が共通語と制定されていたが、それぞれの言語もバラバラであったといわれている。
このうちスラブ人一派であるチェコ人連隊がロシア軍に対して投降し、逆にロシア軍の一部隊としてオーストリア軍と戦うという裏切り行為が起きた。だが、このことはオーストリア軍の大多数の大勢には影響しなかった。
それどころか、スラブ民族の部隊(ボスニア人、クロアチア人など)は「オーストリア軍の精鋭部隊」と呼ばれる果敢な働きをした。多民族国家というものはそれだけに、「国家」という統一の意思が強くなければ成立しないものだと思われた。
彼らスラブ人部隊は、それまで自分たちを蛮族扱いしてきたドイツ系オーストリア人を見返すことができた。
オーストリアはドイツ語(現地語)で東の国を表すエスターライヒ(Österreich)と呼ばれる。
現在のオーストリア共和国旗は、上から赤・白・赤の三色旗になっている。
この由来はハプスブルク家がオーストリアの主導権を握る前、有徳公と呼ばれたオーストリアの君主、レオポルト5世が第3回十字軍に参加したときのことが由来となっている。レオポルトは、戦場においてムスリム兵を片っ端から斬り殺し、その結果、ベルトの部分(白)だけを残して全身が鮮血に染まった。そういった、おぞましい由来がある。
ハプスブルク朝オーストリア帝国の国旗にはハスプブルク家の家の旗を兼ねた、黒・黄の二色旗が使われた。
同時期に国章である、双頭の鷲も制定された。共和制の今現在は、一頭の鷲に置き換えられて存在している。
さて、話を元に戻そう。オーストリアはそれからどうなったのか。
そして今も眠る2人についても。
1916年11月21日、フランツ=ヨーゼフ1世が肺炎のため崩御。86歳。
彼は帝国における68年間の治世の中で「国父」「不死鳥」と呼ばれていたが、半世紀以上にも亘る往年の統治で疲弊した老齢の肉体は、病魔に抗する術を持たなかった。崩御の前日まで、病床の中、最後まで皇帝としての署名をし続けたと言われる。
代わりとしてフランツ=フェルディナント大公の死後、皇位継承者となっていたカール大公が即位。皇帝カール1世となった。カール1世は、フェルディナント大公の長弟オットー大公(麗しのオットー)の長男である。フランツ=ヨーゼフ1世にとっては姪孫(弟の孫)にあたる。
1917年12月にアメリカが連合国の一員としてドイツ・オーストリアに宣戦布告したことで、戦況はガラリと変わった。当時無傷であったアメリカは大軍を派遣してきた。
元々、この戦争についてオーストリアはバルカン半島の局地的戦闘にしようと考えていた。しかし、ドイツは敵対国である英仏を殲滅する良い機会だと考えていた。この両者の思惑の違いは、最終的に、ドイツに振り回される形でオーストリアを深みに嵌める事態となってしまった。
オーストリアには単独講和によって帝国の解体を回避する策が残された。
1918年、戦線が次々と連合国により突破され同盟国の敗戦色が濃厚になると、同年9月に同盟国のオスマン帝国とブルガリアが降伏した。
犯人たちの、その後についても語らねばならない。犯人達はオーストリア国内において裁判を受けるに至る。
なお、当時のオーストリア=ハンガリー帝国には20歳未満の者を死刑にする法律はなかった。
※ここに記してある者は、犯行当時に事件現場にいた7名のみである。
「黒手組」にフェルディナント大公の暗殺を依頼し、かつ皇太子夫妻を銃殺した犯人。
オーストリア国民は当初、彼を死刑にすべきだと思っていたが、当時19歳と若輩であったことから禁固20年の判決を受けた。なお「禁固20年」は、当時のオーストリア帝国における未成年に対する刑罰としては最高刑であった。
なお公判中、死刑を宣告された後述のイリッチが全てを自白した後、犯行に参加した仲間達は「自分たちは未成年だから死刑はない」と軽率な気持ちでいた。プリンツィプはそのことを戒めるため、自らに精神異常や脅迫事項があったことを否定し、「私は自分の刑を軽くするため何かしようとは思わない。」と発言した。テレジェンシュタット刑務所(現在のチェコ共和国テレジーン市に所在)に収容。
第一次世界大戦当時のオーストリア=ハンガリー帝国内の収容所は劣悪であり、収容所において栄養失調・肺結核を発症した。肺結核に関しては、もともとの持病ではないか、そしてこの持病ゆえに人生に悲観し事件に加わったのではないかとも言われている。収容所内での肺結核の病状悪化により、片腕を切断した。片腕喪失および手術中の出血多量・栄養失調による衰弱で、晩年の体重は40kg程度であった。
1918年、刑務所内において肺結核により病死。オーストリア帝国崩壊の半年前だった。
プリンツィプの遺体は「遺骨がスラブ民族主義者によって遺物として使われるかもしれない」と考えた看守により、秘密裏に無縁仏の墓地へ埋葬された。しかし、オーストリア=ハンガリー帝国崩壊後のチェコは独立した。そして当時埋葬を担当していたチェコ人兵士はプリンツィプの埋葬場所を思い出していた。そして、プリンツィプなどの「スラブ民族主義者・セルビア人の英雄」と称された者の遺骨・遺体は、セルビアのサン・マルコ墓地に改葬された。現在もそこにある。
刺客7名のうちの司令塔たる中心人物。唯一、成人していた。
元教師で、新聞社に勤めていた経歴を持つ。「黒手組」の正式なメンバー。
事件後は自宅で身を潜めていたが、9日後に逮捕。
己の保身のためか、全てを自供するも、最終的には絞首刑の判決を受ける。
事件の翌年の1915年2月に、刑務所内で絞首刑執行。
皇太子めがけて爆弾を投げ、軍人民間人合わせて23名の負傷者を出した。
父親はオーストリア警察に潜り込んでいたスパイだった。
中学校卒業後、父親により強制的に学業を辞めさせられ、様々な労働をしながら各地を転々としていたが、ベオグラードに戻り、黒手組のNo.2のタンコシッチ少佐と出会った。
1916年に刑務所内で肺結核により病死。
ゼニツァにて拘束された。収容中、姉に対して「我々(実行犯)の考えとしては、それ(暗殺)によって世界大戦が引き起こったことは本意ではなかった。」という手紙を送った。
オーストリア帝国崩壊後に釈放。釈放後はサラエボの学校教師となった。
またベオグラード大学から教授として採用され、教鞭を振るった。
第二次世界大戦後はチトー政権下のユーゴスラビアにおいて、森林大臣となった。
1990年6月11日に死去。享年93歳。実行犯としては、最後の生き残りだった。
父はセルビア正教会の聖職者であった。中学校時代、教師を殴打し、実刑判決を食らったという前科がある。
サラエボの学校で勉強中にイリッチが彼とチュブリロビッチを皇太子暗殺テロに誘った。ポポビッチとチュブリロビッチはセルビア民族主義者だったのでこれに応じた。
第一次世界大戦後、釈放された。釈放後は、サラエボにある学校の哲学科教師を経て、サラエボ博物館の学芸員となる。学芸員としての専門は民俗学だった。
1964年6月27日、サラエボ事件50周年の前夜に開かれた講演会で演説した。しかし翌日(6月28日)のイベントには一切参加しなかった。その理由として「第一次世界大戦につながることを知っていれば、私はあの暗殺事件には加担しなかった。」と述べた。
演説においては当時の暗殺犯による犯行事実と当時の自らの心境を主に語ったが、セルビア民族主義のためにテロや暗殺を推奨するような発言はなかった。
事件直後、モンテネグロ王国に逃亡。メンバー中、唯一のイスラム教徒である。交戦中にもかかわらず、オーストリアがモンテネグロに対して身柄引渡しを要求。モンテネグロ政府が考慮している最中、ギリシャ王国テッサロニキに逃亡した。
当時駐留していたセルビア軍にいた「黒手組」のボスで、セルビア陸軍第3軍の参謀長ディミトリエビッチ大佐(通称アピス)を頼った。その後、アピスはアレクサンダー国王殺害の犯罪の嫌疑をかけられ、またメフメトバシッチもギリシャにおいて一度投獄され、禁固15年の刑を受けたが、2年後釈放。
第二次世界大戦中の1943年に、親ナチスの極右組織ウスタシャに殺害された。
カール1世は1918年10月16日、「10月宣言」を出した。
これは帝国を各民族による連邦国家に再編するというものであった。
しかし同盟国が劣勢に立たされた今、オーストリア=ハンガリー帝国内ではドイツ人を見限り、各民族の独立への気運が強まっていた。強大な軍事力を失った帝国は、もはや大規模な独立運動を止めることはできなかった。
10月28日、チェコスロヴァキア共和国が独立を宣言。
10月29日、クロアチア人議会が帝国からの独立を宣言。
10月31日、ハンガリーが独立を宣言。国王不在のままハンガリー王国が建国。
長年の盟邦ハンガリーが独立宣言をした影響は果てしなく大きかった。
11月3日。
オーストリアは連合国に休戦協定を受諾することを伝えた。
これによって対オーストリア軍への戦闘活動は停止した。
11月9日には国内の革命運動(ドイツ革命)を抑え切れなかった
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位を宣言。オランダに亡命し、共和制が成立した。
この頃、ウィーン市内においては「皇帝を逮捕せよ」との声も高まり、多くのオーストリア市民が帝政の廃止を望んだようである。もはや「帝国」はそこに存在しなかった。
11月11日。
自らの責任を取り、カール1世は退位をすることを決意。
自らの住むシェーンブルン宮殿において、退位に署名した。
こうして、ここに7世紀以上にもわたるハプスブルク家の支配は終わり、多くの領土を失ったオーストリアは共和制の道を進むこととなった。
実は、カールはオーストリア帝位を捨てたが、ハンガリー王として君臨し続けようと考えていた。だがこの目論見はハンガリー市民の反対に遭い、頓挫した。
それから4年後、カールは亡命生活を行っていたポルトガル領マディラ島で、肺炎により病死した。
ユーゴスラビア連邦成立後、皇太子夫妻が殺された現場のラテン橋はしばらくプリンツィプ橋に名を改められた。
ユーゴスラビア独立後のボスニア・ヘルツェゴビナにおいてはセルビア人とムスリム、クロアチア人の間で民族浄化という殺戮行為が行われた。プリンツィプは建国の英雄の地位を追われた。
かつて存在した大公を待ち受けた場所にあった足型のプレートも今はない。橋の名前も今はまた、ラテン橋に戻された。
民族浄化による大量虐殺が起きた多民族国家ボスニア・ヘルツェゴビナにおいて、セルビア人民族主義者であったプリンツィプを記念した橋の名前が嫌悪されたためだ。
ラテン橋にはボスニア語、セルビア語、英語で書かれた記念碑がある。筆者の都合上、英語と日本語のみ載せる。
その後のオーストリアの運命は周知のことだと思うが、簡単に振り返りたい。
オーストリア=ハンガリー帝国の解体した後はハンガリー、チェコスロバキアが独立し、また領土の一部をポーランド、ルーマニア、ソ連、イタリア、ユーゴスラビアに割譲することになった。
オーストリア共和国の領土は全盛期の1/4程度になった。
そしてその直後の世界恐慌によって経済は急激に悪化。インフレーションを招いた。
そして隣国ドイツで起きたナチズムの流れがオーストリアにも訪れ、1938年にはドイツ国(ナチス・ドイツ)がオーストリア全土を併合(アンシュルス)。オーストリアは独立国ではなくなり、エスターライヒという名称も消え、ドイツ国オストマルク州となった。
大ドイツ主義には当初、多くのオーストリア国民は賛成していたといわれている。しかしその後の徹底的な言論弾圧や、ベルリン中心のドイツ本国に対する絶対服従の経済統制、オーストリア人を下等国民扱いするナチスに対しては多くのオーストリア市民が嫌悪感を抱いた。
なお、フェルディナントの子供たちであるホーエンベルク三姉弟は独墺合併(アンシュルス)に反対したため、第二次世界大戦中は投獄されていた。彼らは敗戦後に釈放された。
1944年、幼少期に経済的に支えてくれていた祖母マリア=テレサが89歳で亡くなった。
第二次世界大戦後にオーストリアはイギリス、アメリカ、フランス、ソ連の4国による4地域の分割統治になった。
終戦直後の暫定政府が成立し、国民選挙によりオーストリア議会が復活した。
だが冷戦の影響で、再独立は遅れた。
1955年5月15日、オーストリアは連合国4カ国と独立への条約を締結。
同年7月27日、オーストリアはアンシュルス以来17年ぶりに独立を勝ち得た。
この日のウィーンは歓喜に満ち溢れ、涙を流した国民も多かった。
それから37年後の1992年11月、欧州連合が成立。
今では西欧から中欧地域の大部分にかけて国境検問が無くなり、多くの国家ならびに国民・民族が自治権を持ち、問題はあるものの暴力という手段よりも話し合いが重視される道を進み始めた。
欧州連合の成立はフェルディナント大公が長年、思い描いていた多民族国家オーストリア帝国の終着点かもしれない。
2014年6月28日──サラエボ事件勃発から100年目を迎えた。
ロンドンでは女王エリザベス2世が廃兵院を訪れ、彼らの国のための労をねぎらうとともに、第一次世界大戦と第二次世界大戦をはじめとする戦死したイギリスの将兵を追悼した。
前日、セルビア共和国ではプリンツィプの銅像が建てられた。 建てられた目的としては、プリンツィプを「セルビア民族主義の英雄」としてではなく「バルカン半島の独立主義者」として讃えるためというのが口実である。 実際には「セルビア人至上主義ではないか」という意見もある。
なおボスニア・ヘルツェゴビナ国立博物館に銘板が刻まれているが、この銘板をめぐって問題が生じた。
この銘板には「1992年9月25日から9月26日にかけて、当図書館がセルビア人犯罪者の放火によって焼き払われた」と記載された。
これにセルビア共和国トミスラヴ・ニコリッチ大統領は激怒し、 「セルビア人がファシスト同然の扱いを受けている都市に訪問することなどできない。こんな場所で平和を築けるか。」と述べ、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府からの式典出席の願いを断った。
ハプスブルク家の霊廟はウィーンにあるカプシィナー教会であった。
だが、ゾフィーが大公妃としての権利を放棄した以上、ここに葬られることはなかった。
そこでフェルディナント大公は自らの居住したアルトシュテッテン城に「夫婦ともに眠りたい」と、事前に遺言していた。
結婚してからしばらく移り住んだアルトシュテッテン城。
この城で3人の子供が生まれ、この城で娘と息子たちに囲まれ幸せな日々を過ごし、サラエボのあの日から数日後に再びこの城に帰り、この城で継母と子供たちが棺に花束を添え、この城で今も眠る。
ハプスブルク家から嫌悪されていた彼らにとって、見知らぬ歴代の皇帝や係わりのない親族と眠るよりは、ここに夫婦がともに葬られることこそが、心地の良いものだったかもしれない。
妻が請け賜ったホーエンベルク姓を名乗る彼らの子孫が今も墓の守り人として暮らすこの城に、事件から100年を経た今も2人の墓石は寄り添い、この世の行く末をただ静かに見守り、安らかに眠っている。
掲示板
提供: **
提供: GUEST
提供: 狩猫
提供: 房丸檜扇
提供: denden
急上昇ワード改
最終更新:2025/03/13(木) 23:00
最終更新:2025/03/13(木) 23:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。