ギリシャのペロポネソス半島南部に紀元前10世紀から紀元前2世紀頃まで存在したとされる、ドーリア人によって建設された都市。古代ギリシャ史においてはアテナイ(ギリシャの首都アテネ。本記事では区別のためアテナイと称する)としばしば覇権を争った有力都市国家として知られる。
また、スパルタは他称であり、自らのことはラケダイモーン(Λακεδαίμων)と称した(国章や盾などでもちいられる)。ラケダイモンとスパルタではまるで違うじゃないかと思うかもしれないが、アテナイが存在したアッティカ地方の方言でスパルタと呼んだことからこれが定着したようである。
7歳で親元を離れ、12歳から18歳まで軍事訓練、成人しても60歳までは基本的に兵舎で寝泊まりするという、ポリス(古代ギリシャの都市国家)の中でも一際特異な、リュクルゴスの制をいただくガチガチ軍事国家として知られており、我が国においてもスパルタ教育という用語としてその名がしられている。
ペロポネソス戦争でアテナイとの勝利して一時はギリシャの覇権を得る。しかし、その後はテーベに敗れ、更にアレクサンドロス大王の父親であるフィリッポス2世によるコリントス同盟に加わらず、子のアレクサンドロスの治世の頃に反乱を起こして鎮圧される。その後もギリシャに食指をのばしてきたローマとも戦うも、もはや勢いを失ったスパルタに勝ち目はなかった。その後はコリントスの戦いを契機に属州として組み入れられ、一定の自治権は保障されるも都市国家としてのスパルタの歴史は終わる。
現在は1834年頃にオスマン帝国から独立を果たしたギリシャ王国によって、小村となっていたスパルタの故地に建設された都市が、現在まで続いている。名前はスパルタではなく、現代ギリシャ語にならってスパルティと呼ぶのが正式(慣用でスパルタと呼ぶこともある)。人口は16000人ほどで所属するラコニア県の経済的な中心都市となっている。
紀元前12世紀にギリシャ中部のピンドス山脈から南下してきたドーリア人が、ペロポネソス半島一帯に点々とポリスを形成し、そのうちエウロタス河畔に住み着いたのがスパルタの祖先といわれている。彼らは先住民であるアカイア人を征服し、ヘイロータイ(奴隷)として支配下に置いた。ただし、これには異論もあり、ヘイロータイは先住民ではないという説もある。この頃のスパルタはイメージに反して他のポリスと同様に音楽や絵画を嗜んでいたらしいことが遺跡やその出土品から判明している。
しかし、その当初はほとんど無法であったため、紀元前8世紀までに伝説上の人物・リュクルゴスがインドやエジプトなどを旅する中で考案した様々な法制度が布かれるようになり、スパルタの根本を形作った。ヘイロータイは20万から30万人ほど居たのに対して、スパルティアタイ(スパルタ人)はわずか1万人ほどしか居なかったため、徹底的な軍事教練と、厳格な規律や社会生活を営ませて、スパルタ人を強化することによって彼らを抑え込む必要があったのである。この制度を基にスパルタは軍事国家へと変貌することになったが、それを語る上ではメッセニアとの戦争を欠かすわけにはいかない。
紀元前743年に、スパルタの王が隣国メッセニアによって殺害された事やスパルタ人を大量に殺害したメッセニア人の引き渡しを拒否した事などを発端として、盟友コリントスと共に征服を決定。メッセニア側もアルゴスやアルカディアなどの諸ポリスを味方につけてこれに対抗し、戦争となった(第一次メッセニア戦争)。メッセニア王エウパエスは勇将であり、何度かスパルタを破るも、最終的にはスパルタが長期間にわたってメッセニアを包囲するという持久戦の戦略に転換し、それに耐えきれなくなって打って出たところを殲滅。紀元前723年にスパルタ側が勝利した。
これにより、スパルタはメッセニア征服を果たし、その領域を拡大した上に彼らをヘイロータイの身分に落として国力を強化した。この戦争はスパルタがギリシャの強国へ上り詰める重要な一歩となった。紀元前685年にメッセニアは再び反旗を翻し、今度はペロポネソス半島中を巻き込んだ大戦争となり、一時はスパルタ近郊にまで進出する戦果をおさめるも、スパルタ側が敵方の都市・アルカディアを引き込んだことで逆転。紀元前682年の大掘割の戦いでメッセニアに大勝し、以後はスパルタが優勢になった。その後は14年にわたり、メッセニアはヘイラを拠点としてゲリラ活動を続けて抵抗するも、最終的にはスパルタに再び屈することになった。
この第二次メッセニア戦争は、ヘイロータイによる反乱を本格的にリスクとしてスパルタとして認識させる契機となった。数的不利を覆すためスパルタはスパルティアタイ(市民)たちの生産活動を禁止し、国民皆兵へと完全に舵を切ることになる。
それから紀元前6世紀までにスパルタは順調にポリスや、勢力の制圧を進めてペロポネソス半島全土において覇権を確立。アテネと並ぶ押しも押されもせぬ大勢力に成長した。とはいっても一般にイメージするような施政権を完全に奪うのではなく、スパルタを盟主としつつもポリスはポリスとして存続させるかわりに攻守同盟を結ぶという形式をとった。これをペロポネソス同盟といい、仇敵のアルゴスを除き同半島のほぼすべてのポリスがこれに加わった。同じ頃にはコリントス地峡を挟んでアッティカ地方のアテナイがクレイステネスの改革で民主政を完成させ、勢力を強め、スパルタに並ぶほどの勢力となっていた。
紀元前5世紀に入ると、ギリシャの東方に所在する大帝国・アケメネス朝ペルシャがギリシャに食指を伸ばそうと侵攻を開始した。いわゆるペルシア戦争である。圧倒的な強者の前にスパルタとアテネは一旦諍いをやめて一致団結してアケメネス朝と戦うことになった。
紀元前480年にはスパルタ王レオニダスが1300人の兵士(300人の重装兵と1000人の軽装兵。また、スパルタ単独で戦ったわけではなくマンティネイアやコリントスなどの諸ポリスの連合軍が周辺地域含めて戦闘している)と共にテルモピレー(テルモピュライ)でアケメネス朝と戦い、極めて勇敢に戦うも衆寡敵せず、敗北を喫する。しかし、それで時間を稼いでいる間にテミストクレス率いるアテナイの海軍がペルシャを破り、当地に親征していたペルシャ王クセルクセス2世は、一部の兵を残しつつも撤退を決意することになる。
ペルシア戦争は今後も続くが、翌年のプラタイアの戦いではパウサニアス率いるスパルタ軍が7倍ともされるマルドニオス率いるアケメネス朝の残存兵を撃滅し、アケメネス朝にギリシャ侵攻を諦めさせる最大の要因となった(但し、パウサニアスはペルシャとの内通が疑われ、餓死に追い込まれる)。
ペルシア戦争では団結したアテナイとスパルタであったが、アテナイがこの戦争を受けてデロス同盟を結成すると関係は次第に冷却していった。紀元前454年に同盟の金庫をデロス島からアテナイに移すと、警戒感から関係悪化は決定的となり、諍いは酷くなる一方であった。アテナイはストラテゴス(将軍)・ペリクレスの下で民主制を完成させて、同盟を背景に最盛期を迎えるも、スパルタとの関係は改善せず、紀元前431年にはついにスパルタ王アルキダモスがアテナイへの侵攻を決断。ペロポネソス戦争が開始された。
戦争は隣国のアケメネス朝の差金が入ったり、和平と戦争を繰り返しながらも27年間続き、紀元前404年にアテナイが全面降伏する形でスパルタの勝利で終わった。しかし、この勝利はかつての宿敵・アケメネス朝の支援が背景にあり、同盟まで結ばれていた事からペルシア戦争時代ではあれほどの独立性を誇っていたポリスが衰退するのは自明であった。また、アテネの覇権を奪ったことでスパルタにはその海上貿易から得る富が一気に流入した為、平等であったスパルタ社会に貧富の差が生ずる事になり、祖法であったリュクルゴスの制には大きな亀裂が入ることになった。
この後、コリントス戦争を経てスパルタはギリシャの覇権を確立させるも、紀元前371年にエパメイノンダス率いるテーベを盟主とするボイオティア同盟軍にレウクトラの戦いで敗北。これ以後、スパルタは衰退の歴史をたどることになる。なお、この戦いでエパメイノンダスは長くスパルタの支配下にあったメッセニアを解放した為、その意味合いでも衰退に拍車をかけることになった。
西暦 | 出来事 |
BC12世紀頃 | ドーリア人によるペロポネソス半島への南下で、ポリスが形成。エウロタス河畔にスパルタが成立する |
BC8世紀頃 | 伝説上の人物・リュクルゴスにより、厳格な制度が布かれる。スパルタの根本を形成 |
BC743年 | 隣国、メッセニアに侵攻。20年にわたって戦争を続け、征服に成功。強国への路を歩みはじめる(第一次メッセニア戦争) |
BC685年 | メッセニアが反旗を翻し、再び戦争を開始。17年かかってスパルタ側が勝利するも、その懸念から国民皆兵への本格的転換をはかるきっかけになった(第二次メッセニア戦争) |
BC5世紀末 | スパルタがペロポネソス半島での勢力を確立し、同半島内でペロポネソス同盟を結成する |
BC492年 | アケメネス朝ペルシアとの戦争がはじまる(ペルシア戦争) |
BC480年 | テルモピレーの戦いで、スパルタ王レオニダス率いる軍勢がアケメネス朝と衝突。勇戦の末、全滅するが、伝説として語り継がれることになる(This is Sparta!!!) |
BC479年 | プラタイアの戦いで、アテナイと共にマルドニオス率いるペルシアの残存兵を掃討。7倍ともされるアケメネス朝を破った為、スパルタ軍の精強ぶりがここでより確実なものとなった。 |
BC431年 | アテナイとの不和が頂点に達し、同ポリスへの侵攻を決断。ペロポネソス戦争が始まる。 |
BC405年 | アケメネス朝の支援を受けた海軍が、アナトリア半島北部、ケルソネソス半島に流れる川、アイゴスポタモイにおいて、アテナイの海軍を殲滅。この決定的な勝利で、翌年にアテナイは降伏してペロポネソス戦争は終結。スパルタに覇権が移る。 |
BC395年 | テーベ・アテナイ・コリントスがスパルタと戦争を開始(コリントス戦争) |
BC387年 | アケメネス朝の仲介により和平が成立。3ポリスは独立を守るも、スパルタの覇権は崩れず、アケメネス朝は小アジア(アナトリア半島)の領有を確保した。 |
BC371年 | レウクトラの戦いで、エパメイノンダス率いるテーベなどのボイオティア同盟軍に敗北。覇権を喪失。この後、労働力の源であったメッセニアを喪失した上、スパルタの力の根拠でもあったペロポネソス同盟も解体される。 |
BC331年 | アギス3世がギリシャにおいてほぼ支配権を確立していたマケドニアに反抗するも、メガロポリスの戦いで大敗。鎮圧される。 |
BC222年 | クレオメネス3世が、アレクサンドロスの帝国の後継国家、アンティゴノス朝及びペロポネソス半島のアカイア同盟に反旗を翻すも、セッラシアの戦いで敗北。支配下におかれる。 |
BC195年 | (独立)スパルタ最後の王・ナビスがペロポネソス半島にまで食指をのばしてきた共和制ローマと戦争を開始。一時はアルゴスを支配下にいれるも、逆にスパルタを包囲され、敗北。 |
BC192年 | BC194年に再びローマに反旗を翻したナビスは、ローマにまたも劣勢となり、アエトリア同盟から派遣された援軍の指揮官に暗殺される。スパルタは窮地に陥るも独立は死守した。 |
BC146年 | ギリシャでまだ独立都市同盟として勢力をもっていたアカイア同盟が、コリントスの戦いで共和政ローマに敗北。これを契機にギリシャはローマの属州下に入り、スパルタも独立を喪失する。 |
歴史の項でも度々出てきているようにスパルタには王が存在し、それはアギス家とエウリュポン家という2家の世襲でおこなれていた。しかし、その権限は戦時の兵の指揮権などごく限られたものであった。
実際の政治は30歳以上の全市民参加の民会と、民会から60歳以上の選出者28人と2人の王で構成される長老会で執り行われており、長老会は民会の決定に対する拒否権を有していたため、実質これが最高意思決定機関とみなされている。
概要でも記した通り、スパルタの社会は徹底的な軍事を基礎においた社会であった。国民(この場合は市民か)皆兵な点は別に古代ギリシャのポリスでは珍しくないし、アテナイであってもそれは変わらなかったが、特異なところは戦の時だけ召集されるというのではなく、常備軍であったという点である。
まず出生の段階で虚弱児は洞窟に遺棄され、7歳から共同生活がはじまり、12歳で軍事教練を受け、18歳で民会の全員一致で社会の構成員たる成人として認められるという人生をたどることになる。
成人になると将軍の管理下に置かれ、スパルタの各所にある兵舎で基本的には寝泊まりするようになる。結婚するのは30歳前後で、結婚しても夜には兵舎に戻らねばならず、兵役が免除される60歳までずっとその繰り返しであった。また、定期的に裸になって身体のチェックを受けねばならず、鍛えてあれば褒められ、少しでも脂肪などがついていれば鞭で打たれた。
このようにスパルタは市民全員が軍人といって差し支えないほどの軍国主義国家であった。とはいえ、スパルタは王から一般市民に至るまで質素を貫いており、(あくまでスパルティアタイという市民階級の中でだが)平等という点では特筆に値する。その為、団結や規律も極めて高かった。古代ギリシャにおいてスパルタ軍が最強を誇っていたのも頷けよう。
形式上では王が一番上に立つが、社会生活での説明通り、実際はスパルティアタイというスパルタ人が頂点にたち、市民権を掌握していた。7歳から60歳まで兵役に就くことが義務付けられ戦士階級を構成した。
次にくるのがペリオイコイ(日本語では周辺の人を意味する)という商人・職人階級であり、半自由民としてスパルタ人の日常生活を支えた。隷属民ではないので自由は保障されていたが、参政権を持たない。戦時には兵士として従軍する義務と納税する義務を持つ。ちなみにペルシア戦争のころまではスパルティアタイが多数を占めていてペリオイコイは補助的な役目に過ぎなかったが、ペロポネソス戦争のころには逆転してペリオイコイの兵士の方が多くなっていたという。市民権(参政権)は持たないものの、財産の所有や様々な自由が認められていた為、ある意味一番気楽な身分といえなくはない。
そして最下層にくるのがヘイロータイ(日本語では沼地に住む人又は捕虜にされた人を意味する)という農民階級であり、彼らはスパルタ人に隷属する存在として酷使された。ただし、一般的にイメージされる奴隷とは異なり、彼ら個人個人に主人は存在せず、スパルティアタイという全体に奉仕するというのが実態に近いようである。また、スパルティアタイはあまり蓄財全般をよしとしなかったせいもあり、名目上はクレーロスとしてヘイロータイ名義での私有農地が与えられ、そこの収穫物を上納した。戦時にも動員されたが、戦闘員ではなく輜重(補給)兵や従者として用いられた。もちろんそんな扱いに忍従ばかりするはずがなく、反乱を何度もおこしているが、その度にスパルタの軍勢に鎮圧され、悲惨な末路をたどった。
掲示板
2 ななしのよっしん
2024/01/23(火) 11:42:57 ID: MgOQsU9JtH
スパルタのリュクルゴスの制が幼少期の親からの引き離しと暴力的なトラウマ体験を用いた集団への帰属意識の条件付け、つまり現代の少年兵を生み出すプロセスと酷似してるのは内緒
3 ななしのよっしん
2024/01/23(火) 11:51:04 ID: d1wGhwckhR
ロシア連邦にそっくりよね、ロシア連邦がイケる人なら大満足なんじゃない?
どちらも過剰なマッチョイズムと戦時には異民族を先陣を切らせているしね
4 ななしのよっしん
2024/04/10(水) 21:36:11 ID: 3z+AOjO66S
徒花国家。同種の国家体制は存在せず軍組織に秩序精神を移植する試みは現代まで大小あるけど凡そ将官の個人的思想の範疇にとどまって時代相応な対応になる
特に個人財産に関して国内体制が脆弱すぎて対応に柔軟性が期待できないのは論外すぎる
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最終更新:2024/12/28(土) 00:00
最終更新:2024/12/28(土) 00:00
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