ディオクレティアヌス / インペラトル・カエサル・ガイウス・アウレリウス・ウァレリクス・ディオクレティアヌス・ピウス・フェリクス・インウィクトゥス・アウグストゥス(245?~312?)とは、ローマ皇帝である。
軍人皇帝時代を終わらせ、伝統をあきらめ実利の伴ったテトラルキアと専制君主制を進めたローマ帝国中興の祖。皇帝をシステマチックにさせたことを象徴するかのように、最後は下野してその最期も杳として知れない。
245年頃にダルマティアのサロナ市で生まれた。貧民の出身であり、一兵卒からのし上がったたたき上げである。軍人皇帝時代はイリュニア人、つまり現在のバルカン半島地域の貧民たちが立身出世を目指して軍人に進み、前線で彼らの支持を集めたカリスマが推戴されるのが恒常化していった。
ディオクレティアヌスはカルス帝のペルシア遠征を護衛する司令官であったが、カルスと息子のヌメリアヌスが次々不慮の事故で亡くなり、皇帝不在となった軍団は284年にニコメディアでディオクレティアヌスを擁立したのであった。
一方カルスのもう一人の息子・カリヌスがこれに立ち塞がる。戦いは当初カリヌスが優勢だったが、カリヌスのこれまでの不行跡から裏切り者が出て殺されたことによって、戦いに負けながら戦争にはディオクレティアヌスが勝利したといわれている。かくして、ディオクレティアヌスが皇帝として認められたのだ。
アウグストゥスや五賢帝の時代とはすでに異なり、ローマはペルシア地域とゲルマン民族の侵入の二方面作戦が恒常化してしまっており、国境に軍団を充足化した結果皇帝の直轄軍の量が極めて不足してしまったのだ。結果、軍人皇帝時代には皇帝が自ら軍を指揮できるよう中央起動軍を整備していく。
これをさらに推し進めたのがディオクレティアヌスである。ディオクレティアヌスは帝位についてすぐ、285年にマクシミアヌスを副帝に、286年にマクシミアヌスを西部の正帝にし、293年にコンスタンティウス、ガレリウスという両者の養子をそれぞれ副帝に任じ、帝国を四分割したのである。つまり、それぞれ中央起動軍を持つ皇帝が分割統治することで、軍隊をクレバーに運用できるようにしたのである。
とはいえ、これだけでは各皇帝が好き勝手してしまう。ディオクレティアヌスはこれに対して、そもそも広い帝国に配備するだけの人数が不足していた官僚を大幅に拡充し、騎士身分にそれを担わせた。さらに属州も徹底的に細分化された行政区画に分け、管理をしやすくした。そして帝国の最前線でササン朝とぶつかる責任を持ったのがディオクレティアヌス本人だったのである。
またディオクレティアヌスは「カピティオ=ユガティオ制」と呼ばれる税制改革を行い、帝国全体の税制を統一化した。また、アウグストゥスの頃から圧倒的にインフレしている物価にも制限を加えていったのであった。
ディオクレティアヌスはもはや市民の第一人者などという建前は放棄し、明確に可視化されたオリエントめいた儀式で自身を他から差異化した。一方軍人皇帝時代にそれまでの自警団が暴発していた異教徒迫害が皇帝主導で行われるようになり、エウセビオスによればディオクレティアヌスもキリスト教徒に対する大迫害を行ったとされる。とはいえ、形の上ではローマの神々への信仰を持てば許される抜け道は有ったようだ。
そして、そんな圧倒的な専制君主の最期は意外なものだったのである。305年に彼はガレリウスに譲位したのだ。テトラルキアは維持されようとしたが、やがてコンスタンティヌスによって新たな時代に入る。
一方、ディオクレティアヌスはアスパラトスに隠居した。ディオクレティアヌスの最期はよくわからず、その死因も、死んだ日時すら、明確なものはない。かくして「中興の祖」によって敷かれたレールは、中世へと導きだす。
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最終更新:2025/04/03(木) 15:00
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