レイテ沖海戦とは、太平洋戦争後期の昭和19年(1944年)10月、フィリピン諸島をめぐって繰り広げられた日本海軍とアメリカ海軍の海戦である。日本海軍(連合艦隊)の水上艦が組織立って出撃した最後の海戦となった。
なお日本側の当時の呼称は「フィリピン沖海戦」である(他にも「比島沖海戦」「菲島沖海戦」などある。本ページでも前掲されているニコニコ動画での当時のニュース映像でもタイトルは「比島沖海戦」としている)。当時の公式文書や諸記録にもこの名で記載されているし、戦後でも陸海軍が解隊されてしまい編纂出来なかった公刊戦史を防衛研修所戦史室、現在の「防衛省防衛研究所戦史室」が編纂し、1966年から1980年にかけて出版された「戦史叢書」でも、この海戦は「フィリピン沖海戦」としている。
この戦いで海軍はフィリピン周辺の広大な海域で行動しており、作戦目的は敵機動部隊殲滅と敵上陸部隊の殲滅の2つで、基地航空隊による機動部隊への攻撃も重要な要素であった。そのため海域を特定せずにフィリピン周辺全般で戦っていた事を意味する「フィリピン沖海戦」としている。なのでレイテ湾の敵を攻撃する事だけに、海軍がこの作戦に総力を挙げていた訳ではない事がこの命名にも伺うことが出来る。
昭和19年6月19日のマリアナ沖海戦において、日本海軍は中部太平洋・マリアナ諸島へ進出してきたアメリカ海軍を攻撃するも、約400機の空母艦載機と空母「大鳳」「翔鶴」「飛鷹」を失う大損害を被り、ミッドウェー海戦とガダルカナル島攻防戦での消耗から立ち直ったばかりの空母機動部隊が事実上壊滅。サイパン島・グアム島などのマリアナ諸島も玉砕して米軍の手に落ち、戦局打開のための防衛ラインと位置づけていた「絶対国防圏」は崩壊してしまう。
マリアナ失陥により、日本本土への米軍の空襲・上陸が現実味を帯びてきた。この責任を負う形で東條英機内閣は総辞職。近衛文麿・岡田啓介ら重臣(総理大臣経験者)の協議により、小磯国昭内閣が成立する。小磯内閣はあくまで戦争継続内閣であり、米軍の撃破は不可能であるにしても何らかの打撃を与えることで、少しでも有利な形での講和をしようと目論んでいた。
政変直後の7月26日、日本陸海軍は新たな防衛・反攻作戦を策定。「捷号作戦」(しょうごうさくせん)と命名される。「捷」は「勝」とほぼ同じ意味の漢字である。
捷号作戦は日本列島とフィリピン諸島のラインを4つの区分に分け、フィリピンを「捷一号」、九州南部・南西諸島・台湾を「捷二号」、本州・四国・九州北部・小笠原諸島を「捷三号」、北海道・千島列島方面を「捷四号」とした。このうち実際に米軍が攻めてきたのはフィリピンだったので、「捷一号作戦」が発動されることとなる。
マリアナ沖海戦の後、日本海軍の艦艇は、空母部隊は本土へ帰ったものの、戦艦・重巡などの部隊は本土から、シンガポール沖のリンガ泊地に移動していた。これは米潜水艦の通商破壊作戦によって本土の燃料備蓄が逼迫しつつあり、本土での訓練や艦隊出撃が困難になっていたためである。マリアナ沖海戦でも、参加した海軍のほとんどの艦艇は本土からではなくリンガ泊地から出動している。
マリアナ沖海戦で多数の航空機と三空母を喪失、多くの搭乗員を失った事で、機動部隊の戦力は無いに等しいものとなっていた。そのため捷号作戦では比較的錬成の容易な基地航空隊を戦力の中核として編成を優先的に行った。編成は当初の計画よりも遅延してはいたが、米軍侵攻の可能性が高いフィリピン方面を中心に急速に実施され、同方面を担当する第一航空艦隊は9月8日の時点で500機近くまで揃える事に成功している。
基地航空隊の錬成と合わせて空母機動部隊の戦力回復も同時に実施された。残存する空母「瑞鶴」「隼鷹」「瑞鳳」「龍鳳」「千歳」「千代田」のほか、航空戦艦となった「伊勢」「日向」、早期に竣工が見込まれる「雲龍」「天城」「信濃」などを早急に戦力化するとともに、搭載する航空隊の錬成に励んだ。空母部隊の錬成終了は
となっており、遅くとも12月には全編成が完了する予定だったが、予想される米軍の反攻時期である11月には間に合いそうになく、機動部隊は錬成途上で作戦に投入されることが予想された。
であった。
海軍側は当初「1」の空母機動部隊殲滅を目標とした。しかし陸軍側がこれに反対し激論が重ねられた。侵攻する敵軍を迎撃するのに、その主力を攻撃して殲滅しその意図を挫くというのは当時の常識的な考えであり、そのため足りない航空戦力を補充するため陸軍航空隊も指揮下に加えてこれに充てたいと海軍側は考えていた。しかし陸軍から見ると、それまでの海軍の米機動部隊への迎撃は常に大損害を被ったうえで意図を挫く事が出来ず、いざ敵が上陸するとそれを迎え撃つ航空戦力を既に失い何の攻撃もできないという前例が多々あった。なので既に戦力差が開き殲滅の難しい機動部隊を攻撃の中心にするのではなく、上陸する攻略部隊を攻撃するために戦力を温存し、懐に近づいた頃合いでこれを攻撃し、上陸作戦を瓦解させる方が得策だと主張した。
前例を提示された海軍側は自身の主張に固執する訳にもいかなくなり、協議の上攻略部隊攻撃も目標に加えた。そして基地航空隊のうち主力は空母機動部隊攻撃を主目標とし、残りの戦力と指揮下に入る陸軍航空隊、そして水上艦隊が攻略部隊を目標とする。機動部隊は突入する水上部隊の突入を成功させるために敵機動部隊を北方に誘い出し、基地航空隊と共同してこれを殲滅するとされた。
作戦上では空母機動部隊に課せられた任務は囮ではなく、航空戦力の一翼を担うものであった。しかし9月の相次ぐ空襲で第一航空艦隊が大打撃を受け、代わりに進駐した南西諸島方面を担当していた第二航空艦隊も上記の台湾沖航空戦で戦力が半減、機動部隊側は連合艦隊から「当分機動部隊の運用はしない」という口約束を信じて錬成したばかりの航空隊と前衛戦力の第二遊撃部隊を投入し、航空隊は大損害を受けてしまった。そして直後に米軍がレイテに侵攻したことで、日本側は基地航空隊という作戦上戦力の中核だった部隊が大損害を受けたまま、作戦を実施しないといけなくなった。
※映画などでは当初より機動部隊の「囮任務」は既成路線であったかのように描かれるのが多いが、正確にはそうではない。捷号作戦で提示された機動部隊の役割は自身の航空戦力を用いた攻撃戦力の一翼を担うもので、いわば遊撃戦力としての立ち位置である。「囮」というのはあくまでも直前の「台湾沖航空戦」で提供した航空隊が壊滅して、自隊の航空戦力が欠乏した状態で、しかも台湾沖航空戦の直後にレイテ侵攻が開始され当初の内容のまま変更も出来ずに捷一号作戦が発動し、「囮」という側面が大きくなってしまったからであり、当初から決められたものではない。
基地航空隊側では戦力を殆ど喪失した第一航空艦隊が「神風特別攻撃」という特攻作戦を立案。そして連合艦隊も空母機動部隊の任務を本来の「敵を誘致して殲滅」から「完全に囮となって敵を誘い出す」という任務に切り替えざるを得なくなり、機動部隊司令部の猛反発を受けながらも実施を指令した。
本土から出撃する機動部隊本隊が囮となってハルゼー艦隊をフィリピン沖から引き離し、第一第二航空艦隊が特攻作戦も含めた航空攻撃をかけてこれを殲滅。空からの攻撃がなくなったその隙に南方から戦艦・重巡を要する第一遊撃部隊がレイテ湾へ突入し、上陸した米軍や輸送船団を艦砲射撃で駆逐する。これが海軍の捷一号作戦の最終内容である。
もう一つの主役である第一遊撃部隊は、マリアナ沖海戦の大敗後の6月24日に内地に帰還したが、燃料の心配もあり、より燃料の豊富なリンガ泊地に移動して錬成に励み次作戦に備えることにし、対空兵装の強化や南方に運ぶ陸軍兵力や物資の搭載を大急ぎで済ませ、休養もままならないまま翌7月8日頃には順次出撃した。リンガ泊地到着後は艦隊決戦に向けて錬成を続けていたが、決定した捷号作戦の説明を受けるため、マニラにて連合艦隊、第一遊撃部隊、南西方面艦隊の各参謀が集まり、連合艦隊からの説明を受けた。
この際提示された第一遊撃部隊の総力を挙げた船団攻撃という作戦内容を参謀長の帰還後の説明会で知らされた部隊の指揮官たちからは当然ながら不満がでた。こういった現場の不満を沈めつつ、艦隊司令部は作戦に向けての準備に入ったが、指揮官の中にはこの決定を不満に思う者もいた。例えば第一戦隊司令官宇垣纏中将は、マニラでの作戦打ち合わせから1か月半以上も経過した9月21日付の自身の日誌の記述に、偶々「大和」に来艦した小柳参謀長と山本祐二先任参謀と話し合いの席を持った際に、自身の考えとして第一遊撃部隊は船団攻撃を目指すのではなく、敵主力部隊との決戦を模索すべきだという意見を述べたという記載をしている。
一方、本来機動部隊の前衛戦力として行動を共にする筈だった第二遊撃部隊は、台湾沖航空戦の残敵掃討を命じられて出撃しており、途中で追撃を中止したが米軍の早急な侵攻の為機動部隊本隊と再合流する事が出来ず、そのまま南西方面艦隊指揮下となる。部隊は奄美諸島で補給を受け、台湾の馬公に向かうが、この部隊の使い道について連合艦隊と南西方面艦隊との間に意見の対立があり、中々決定を見なかった。結局第一遊撃部隊と同じくレイテ湾への突入となるが、その間のゴタゴタで部隊の合流などが不可能になり、結局重巡2、軽巡1、駆逐4の7隻という小規模な戦力で突入する事になってしまった。
※太字の艦名は作戦開始時点の各隊旗艦
戦隊名 | 指揮官名 | 艦名/隊(隊司令)名 | 艦長名 | 所属 | |
第四戦隊 | 栗田健男中将 | 愛宕 | 荒木伝大佐 | 第二艦隊 | |
高雄 | |||||
摩耶 | 大江賢治大佐 | ||||
鳥海 | 田中穣大佐 | ||||
第一戦隊 | 宇垣纏中将 | 大和 | 森下信衛大佐 | ||
武蔵 | 猪口敏平少将 | ||||
長門 | 兄部勇次大佐 | ||||
第五戦隊 | 橋本信太郎中将 | 妙高 | 石原聿大佐 | ||
羽黒 | 杉浦嘉十大佐 | ||||
第二水雷戦隊 | 早川幹夫少将 | 能代 | 梶原季義大佐 | ||
島風 | 上井宏中佐 | ||||
早霜 | 平山敏夫中佐 | ||||
秋霜 | 中尾小太郎中佐 | ||||
第三十一駆逐隊
|
岸波 | 三舩俊郎中佐 | |||
沖波 | 牧野担中佐 | ||||
朝霜 | 杉原輿四郎中佐 | ||||
長波 | 飛田清中佐 | ||||
第三十二駆逐隊
|
浜波 | 本倉正義中佐 | |||
藤波 | 松崎辰治中佐 |
戦隊名 | 指揮官名 | 艦名/隊(隊司令)名 | 艦長名 | 所属 | |
第三戦隊 | 鈴木義尾中将 | 金剛 | 島崎利雄大佐 | 第二艦隊 | |
榛名 | 重永主計大佐 | ||||
第七戦隊 | 白石萬隆中将 | 熊野 | 人見錚一郎大佐 | ||
鈴谷 | 寺岡正雄大佐 | ||||
利根 | 黛治夫大佐 | ||||
筑摩 | 則満宰次大佐 | ||||
第十戦隊 | 木村進少将 | 矢矧 | 吉村真武大佐 | 第三艦隊 | |
浦風 | 横田保輝少佐 | ||||
磯風 | 前田實穂中佐 | ||||
雪風 | 寺内正道中佐 | ||||
浜風 | 前川萬衛中佐 | ||||
第三隊※1
(臨時編成)
|
清霜 | 梶本顗中佐 | |||
野分 | 守屋節司中佐 |
戦隊名 | 指揮官名 | 艦名 | 艦長名 | 所属 | |
第二戦隊 | 西村祥治中将 | 山城 | 篠田勝清少将 | 第二艦隊 | |
扶桑 | 阪匡身少将 | ||||
第四駆逐隊※1
|
髙橋亀四郎大佐 | 満潮 | 田中和夫少佐 |
第三艦隊 |
|
山雲 | 小野四郎中佐 | ||||
朝雲 | 柴山一雄中佐 | ||||
部隊附属 | 最上 | 藤間良大佐 |
第二艦隊 |
||
時雨 | 西野繁中佐 |
※1…第四駆逐隊は(満潮、朝雲、山雲、野分)の編成だが、長距離を航行する予定の本隊に、航続距離の長い陽炎型、夕雲型を配備し、その他の駆逐艦は短距離を進む第三部隊に配属する方針により野分は同隊を離れ第十戦隊に残留した。同様に第二水雷戦隊附属となっていた駆逐艦時雨も第三部隊へ転属となっている。只第四駆逐隊の第三部隊への転属により第十戦隊の戦力が乏しくなったので、第二水雷戦隊第二駆逐隊より清霜を抜いて、野分と共に臨時に隊を組ませている。
戦隊名 | 指揮官名 | 艦名/隊(隊司令)名 | 艦長名 | 所属 | |
第三航空戦隊 | 貝塚武男大佐 |
第
三
艦
隊
|
|||
杉浦矩郎大佐 | |||||
岸良幸大佐 | |||||
(零戦8、爆戦4、97艦攻5)
|
城英一郎大佐 | ||||
第四航空戦隊
※艦載機なし
|
松田千秋少将 | 日向 | 野村留吉大佐 | ||
伊勢 | 中瀬泝大佐 | ||||
巡洋艦戦隊 | 多摩艦長兼務 | 多摩 | 山本岩多大佐 |
連
合
艦
隊
|
|
五十鈴 | 松田源吾大佐 | ||||
第三十一戦隊
(第一駆逐連隊)
|
大淀 |
牟田口格郎 大佐 |
|||
桐 | 川畑誠中佐 | ||||
桑 | 山下正倫中佐 | ||||
槇 | 石塚栄中佐 | ||||
杉 | 菊池敏隆少佐 | ||||
第二駆逐連隊 | 初月 | 橋本金松中佐 | |||
若月 | 鈴木保厚中佐 | ||||
秋月 | 緒方友兄中佐 | ||||
第四十一駆逐隊
|
霜月 | 畑野健二少佐 |
(註) 第一航空戦隊(古村啓蔵少将:雲龍・天城)は結局戦力が整わず不参加。第四航空戦隊には「隼鷹」と「龍鳳」も所属しているが、航空戦力が揃わず不参加。六十一駆の「涼月」は10月16日、四十一駆所属の「冬月」は10月12日という海戦直前にそれぞれ機雷により損傷したため不参加。
戦隊 | 指揮官名 | 艦名/隊(隊司令)名 | 艦長名 | 所属 | |
第二十一戦隊 | 志摩清英中将 | 那智 | 鹿岡円平大佐 | 第五艦隊 | |
足柄 | 三浦速雄大佐 | ||||
第一水雷戦隊 | 木村昌福少将 | 阿武隈 | 花田卓夫大佐 | ||
第七駆逐隊 古閑孫太郎大佐 |
曙 | 余田四郎少佐 | |||
潮 | 荒木政臣少佐 | ||||
不知火 | 荒悌三郎中佐 | ||||
霞 | 山名寛雄少佐 | ||||
別行動 | |||||
第十六戦隊 | 左近允尚正少将 | 青葉 | 山澄忠三郎大佐 | 南西方面艦隊 | |
鬼怒 | 川﨑晴実大佐 | ||||
浦波 | 佐古加栄少佐 | ||||
第二十一駆逐隊 | 石井汞大佐 | 若葉 | 二ノ方兼文少佐 | 第五艦隊 | |
初春 | 大熊安之助少佐 | ||||
初霜 | 酒匂雅三少佐 |
(註) 二十一戦隊所属の軽巡「木曾」は内地残留。二十一駆はマニラへ航空機材輸送のため別動、その後本隊に合流しようとするが空襲を受け「若葉」が沈没し「初霜」も損傷したので撤退。十六戦隊はリンガ泊地にあり、本隊とと合流すべくマニラへ移動。しかしレイテ湾突入が決まった本隊はマニラに寄らず直接コロン湾に向かったので合流できず、戦隊は第一次多号作戦へ出撃する。
部隊 | 司令/隊司令 | 機種/機数/所属隊 | |
艦隊司令部直率 | 二〇一空 | 山本栄大佐※1 | 「零戦」×12~16機 |
一五三空 | 高橋農夫吉大佐 | 「月光」×1機 | |
七六一空 | 前田高成大佐 |
「一式陸攻」×3機
|
|
第一〇二一空 | 海東啓六大佐 | 陸上輸送機 | |
第二二航空戦隊
|
澄川道夫少将 | 東カロリン航空隊※2 | |
古川保少将 | 濠北航空隊※2 | ||
第二十六航空戦隊
|
有馬正文少将※3 | 菲島航空隊※2 | |
第六十一航空戦隊
|
上野啓三少将 |
※1…山本大佐はこのあと航空機事故で負傷し、実際の指揮は副長の玉井浅一中佐が執った。
※2…これらの飛行隊は乙航空隊である。乙航空隊とは日本海軍の航空隊の一つだが、固有の航空機は持たない(対して航空隊を持つ部隊を「甲航空隊」と称した)。基地防衛及び甲航空隊への支援体制をもつ地上部隊を指している。但しこの区別は公式なものではなく便宜上のもので、正式に部隊名に甲乙がつくわけではない。
※3…有馬少将は前日の航空攻撃で陸攻に搭乗して出撃、戦死している。
部隊 | 航空隊/飛行隊 | 機種/機数 |
配備基地
|
||
第一攻撃集団
|
前路索敵隊
|
「天山」艦攻×5
|
クラーク北
|
||
制空隊 | 二二一空 | 「零戦」×30 | マルコット | ||
三四一空 | 「紫電」×約40 | ||||
二五二空 | 「零戦」×32 | マバラカット西 | |||
六五三空
※誘導任務
|
「天山」×2 | ||||
遊撃隊 | 戦闘三〇三飛行隊 | 「零戦」×20 | クラーク南 | ||
第一攻撃隊 | 第一直掩隊 | 二二一空 | 「零戦」×32 | ||
第一爆撃隊 | 二二一空 | 「零戦」×8 | |||
第二攻撃隊
|
第二爆撃隊
|
攻撃三飛行隊
攻撃五飛行隊
|
「彗星」×12 | マバラカット西 | |
第三攻撃隊
|
第三掩護隊
|
戦闘三〇四飛行隊
|
「零戦」×5~60機 |
(一部)
|
|
第三爆撃隊 | 七〇一空、六三四空 | 「九九艦爆」×34 | マバラカット東 | ||
特別第一攻撃隊
|
攻撃二五八飛行隊
攻撃二五二飛行隊
|
「天山」×14 | クラーク北 | ||
特別第二攻撃隊
|
六三四空
|
「瑞雲」×19 | キャビデ | ||
偵察三〇一飛行隊
|
「瑞雲」×12 | ||||
陽動隊
|
一四一空
|
「月光」×6 | 第一ニコルス | ||
薄暮攻撃隊
|
七六三空 | 「銀河」×4 | クラーク中 | ||
第二攻撃集団
|
攻撃七〇二飛行隊 | 「一式陸攻」×24 | キャビデ | ||
九〇一空 | 飛行艇×6先遣部隊 |
部隊 | 役割 | 艦名 | 艦長 |
甲潜水部隊 | ミンダナオ島東方海域哨戒 | 伊号第二十六潜水艦 | 西内正一少佐 |
伊号第四十一潜水艦 | 近藤文武少佐 | ||
伊号第四十五潜水艦 | 河島守大尉 | ||
伊号第四十六潜水艦 | 山口幸三郎少佐 | ||
伊号第五十四潜水艦 | 中山伝七少佐 | ||
伊号第五十六潜水艦 | 森永正彦少佐 | ||
乙潜水部隊 | レイテ・サマール島東方海域哨戒 | 伊号第三十八潜水艦 | 下瀬吉郎中佐 |
伊号第五十三潜水艦 | 豊増清八少佐 | ||
呂号第四十一潜水艦 | 椎塚三夫大尉 | ||
呂号第四十三潜水艦 | 月形正気大尉 | ||
呂号第四十六潜水艦 | 鈴木正吉大尉 | ||
丙潜水部隊 | ルソン島東方海域哨戒 | 呂号第百九潜水艦 | 増沢清司大尉 |
海軍はマリアナ沖海戦(1944年6月19・20日)頃の編成として、広大化した戦線を連合艦隊が全て指揮するのは困難であるとして、「方面艦隊」を組織する。広い太平洋を北東、中部、南東、南西の4方面に分けて司令部を置き、方面艦隊1つにつき水上艦隊1、基地航空艦隊1を配属した。また攻撃戦力も複数の艦隊を連合艦隊が直接指揮するのではなく、新たに「第一機動艦隊」を設立し、これに空母機動部隊である第三艦隊と、水上打撃部隊である第二艦隊を配置、指揮官を第三艦隊司令長官である小沢治三郎中将とし、連合艦隊の攻勢兵力は彼が指揮を執る事になった。そして連合艦隊は第一機動艦隊を含めた5つの方面艦隊を統括する立場となっていた。
連合艦隊戦時編成 ※1944年10月1日現在 | |||
所属部隊
|
|||
第27航空戦隊ほか | |||
第一機動艦隊
|
第二艦隊
|
||
第三艦隊
|
|||
北東方面艦隊
|
第五艦隊
|
||
第十二航空艦隊
|
第51航空戦隊ほか | ||
南西方面艦隊
|
第一航空艦隊
|
||
第三南遣艦隊
|
第30根拠地隊ほか | ||
第28航空戦隊ほか | |||
第一南遣艦隊
|
第9特別根拠地隊ほか | ||
第二南遣艦隊
|
第21特別根拠地隊ほか | ||
第四南遣艦隊
山県正郷中将
|
第24特別根拠地隊ほか | ||
方面艦隊
直率
|
第16戦隊 | ||
南東方面艦隊
|
第八艦隊
|
第1根拠地隊ほか | |
第十一航空艦隊
|
第958海軍航空隊ほか |
1944年8月、次期作戦「捷号作戦」が各部隊に発令されると同時に、その軍隊区分※1も発令された。
捷号作戦での連合艦隊軍隊区分 ※1944年 8月1日時点 ()内は部隊略号 | ||||
部隊/指揮官 | 所属部隊 | 役割 | ||
連合艦隊(Gf)
|
福留繁中将
|
第二航空艦隊
陸軍第8飛行師団
|
捷二号作戦での基幹
航空戦力
|
|
第三航空艦隊
|
捷三号作戦での
基幹航空戦力
|
|||
機動部隊
(KdB)
|
本隊(KⅾMB)
|
第三艦隊 | 空母機動戦力※2 | |
第一遊撃部隊(1YB)
|
第二艦隊 | 水上打撃戦力※2 | ||
第二遊撃部隊(2YB)
|
第五艦隊 | 機動部隊の前衛 | ||
第14・15潜水隊 | 作戦海域の哨戒 | |||
北東本面部隊
(HTB)
|
(2FGB)
|
第十二航空艦隊
第51航空戦隊
陸軍第1飛行師団
|
捷四号作戦での
基幹航空戦力
|
|
(NSB)
|
(5FGB)
|
第一航空艦隊
|
基幹航空戦力
|
|
(3FGB)
|
第十三航空艦隊 | 後方支援 | ||
第三南遣艦隊 |
防衛任務
|
※1「軍隊区分」とは作戦ごとに組織される実施部隊の事であり、通常の編成とは異なる。真珠湾攻撃の際の南雲機動部隊や第一次ソロモン海戦での三川艦隊も軍隊区分であり、配属の各艦艇の所属艦隊は異なっていた。捷号作戦時でも軍隊区分上の組織構成と、戦時編成上の組織構成は異なり、例えば第二遊撃部隊を構成する第五艦隊は戦時編成上は北東方面を担当する北東方面艦隊の指揮下にあるが、軍隊区分である第二遊撃部隊としては機動部隊の所属であり、更に直前に南西方面部隊の指揮下に異動となっている。同艦隊が南西方面艦隊の戦時編成に加わるのは捷号作戦後の12月5日である。
※2機動部隊本隊、第一遊撃部隊は所謂遊撃兵力と位置付けられ、それぞれの作戦によって役割が異なっている。例えば第一遊撃部隊は捷一号作戦では敵攻略部隊の攻撃を役割としているが、捷三号作戦では機動部隊本隊と合流して敵主力部隊との決戦を挑む事になっている。
※3角田覚治中将はこの発令の翌日にテニアンにて戦死し、司令部も全滅したので後任に寺岡謹平中将があたることになる。しかしその寺岡中将も9月初旬の「ダバオ誤報事件」と、それに付随した米機動部隊の空襲による航空戦力の壊滅の責任を負い司令長官を更迭となる。後任に大西瀧治郎中将が選ばれるが着任が米軍のレイテ上陸が始まった10月20日となってしまった。またこれら一連の事件により捷一号作戦での基幹航空戦力が壊滅したので、捷二号作戦用の基幹航空戦力である第六基地航空部隊(第二航空艦隊基幹)がこれを兼ねる事になる。
しかし捷号作戦という北は千島列島から南はフィリピン諸島という広大な海域で行われる作戦で、遊撃戦力となる機動部隊のうち、南方で待機する第一遊撃部隊と、本土で航空戦力の錬成に励む機動部隊本隊を小沢が統一指揮するのは難しかった。そこで小沢長官は連合艦隊に遊撃戦力の第二・三・五の三艦隊を連合艦隊直率とする方が妥当であること、第一遊撃部隊の直協航空戦力のため1個航空戦隊を配置すべきことなどを意見具申した。
だが連合艦隊側は小沢が統一指揮する事を望み、参謀を派遣して説得にあたったが、小沢はこれに納得せず、議論は平行線となった。結局この問題は米軍の侵攻を確認した17日時点で機動部隊本隊の航空戦力が台湾沖航空戦などで損耗し、まともな航空戦を展開できなくなったことから、なし崩し的に小沢の進言通り第一遊撃部隊は連合艦隊直率となった。
これはこれで一見合理的であるが、横浜(慶應義塾大学日吉キャンパス内)の連合艦隊司令部が全艦隊の行動を把握しなければならなくなり、移り変わる戦況を遠方の連合艦隊が掌握できるか、適切に指示を機動部隊本隊や第一遊撃部隊にだせれるか、という点が問題であった。本来なら指揮を執りやすくするため連合艦隊司令部を内地ではなく、状況を掌握しやすい場所、例えば台湾や沖縄など戦場に近づけるべきなのだが、それを実施する事もなく、結果として遠く南方から断片的にしか届かない電信に翻弄された連合艦隊の作戦指導は要領を得ないものになってしまった。
捷一号作戦発動による最終的な軍隊区分は以下の通り(関係部隊のみ)
部隊 | 指揮官 | 役割 | ||
(第二航空艦隊基幹)
|
福留繁中将 | |||
機動部隊本隊
(第三艦隊基幹)
|
小沢治三郎中将 | |||
第一遊撃部隊
(第二艦隊基幹)
|
栗田健男中将 |
の殲滅
|
||
南西方面艦隊
|
第二遊撃部隊
(第五艦隊基幹)
|
志摩清英中将 |
の殲滅
|
|
(第一航空艦隊基幹)
|
大西瀧治郎中将 | 敵機動部隊への航空打撃戦 | ||
先遣部隊
(第六艦隊基幹)
|
三輪茂義中将 | 周辺海域の監視哨戒 |
マリアナ沖海戦後の6月6日より、ヨーロッパ戦線ではノルマンディー上陸作戦からドイツ占領下フランスへの進撃が始まっており、太平洋戦線の米軍の展開も、それとの兼ね合いで流動的な面があった。上層部では台湾への進撃を主張する作戦部長キング大将と、フィリピン攻略を主張する南西太平洋方面司令官マッカーサー陸軍大将が対立する一幕もあった。
そうした中、ハルゼー大将率いる機動部隊(第3艦隊/第38任務部隊)は8月末に小笠原諸島、9月上旬にパラオ諸島、中旬にフィリピン各地を空襲する。中旬の空襲では、真の悪い事にサランガニ見張所が波飛沫を接近する米上陸部隊と誤認し警報を出し、それが全軍に広まり「捷一号作戦警戒」が発令される騒ぎとなり、出動のため第一航空艦隊の所属機が各飛行場に集結していた。そこに米軍の空襲が始まり第一航空艦隊は実働機数約260機だったのが60機にまで激減してしまう。所謂「ダバオ誤報事件」である。
これら一連の空襲でフィリピン方面の日本側の反撃が、アメリカの予想よりも脆弱である事を知ったハルゼーは、ニミッツ長官にヤップ島及びパラオの攻略作戦を取りやめ、日本の戦力が回復しないうちにレイテ島を攻略すべきだと進言する。これを受けニミッツは9月12日にルーズメルト大統領、キング海軍長官にハルゼーの意見を伝えた。14日にはマッカーサーもミンダナオ島迂回に依る攻略という修正案を提示したので、9月15日に統合参謀本部は計画を2か月繰り上げて10月20日にレイテ島へ上陸を開始する事を決定する。
10月10日、ハルゼー機動部隊は沖縄を空襲、12日からは台湾を空襲する。これに対して日本側は第二航空艦隊を中心に反撃に出る。「台湾沖航空戦」の始まりである。この戦いで日本側は300機近くを失う大損害を被るが空母11隻撃沈8隻撃破などの大戦果を挙げたと考え発表、昭和天皇にも上奏されたが、実際の米軍の損害は重巡洋艦2隻の大破と90機の損失だけだった。
その後の偵察などでハルゼー機動部隊は健在であることが判明したが、この事は海軍の一部幕僚のみ知らされ、大本営の発表や天皇への上奏の訂正などはなされなかった。この為フィリピンの前線などでは「大戦果」の認識のままであり、それが直後に行われたレイテ湾入り口のスルアン島に対する米軍の上陸を、「台湾沖の敗残兵による攻撃」と陸軍側が認識し、初期対応が遅れる原因となった。
台湾沖航空戦の最中の10月18日、レイテ湾入り口にあるスルアン島に米大艦隊が接近し一部隊が上陸、同島にある監視隊は警報を発したのち沈黙した。これを受けて大本営は夕刻になって捷一号作戦を発令する。各隊出動に向けて準備に入るが「台湾沖航空戦」で航空戦力を提供していた機動部隊本隊は内地に残る航空隊をかき集め、何とか100機ほどの航空機を搭載、19日に出撃する。米軍潜水艦が豊後水道で監視に当たっていたが、小沢艦隊の移動と前後して九州西方へ配置転換(関門海峡からの出撃を警戒のため)したので、艦隊は潜水艦に見つからずに太平洋へ出る。
のちに米軍は暗号解読で、機動部隊の出撃自体は察知したが行き先までは把握できなかった。
一方第一遊撃部隊も出撃準備に入る。この時点では敵上陸地点への突入は22日とされていた。しかし敵の侵攻速度が速い事と、最終の補給を受けるブルネイに補給部隊がついている確証がなかった事もあり、期日の変更が求められた。そうした不安要素があるなか、第一遊撃部隊は18日、予定通りブルネイに向けて出撃する。
航空戦力の基幹である第六基地航空部隊も台湾沖航空戦で戦力を半減していたが、発令を受けて台湾に展開していた航空隊をフィリピンまで前進させる。クラーク基地等を中心に展開した航空隊は2~300機ほどとなる。
20日、レイテ島へ米軍の上陸が開始される。正午になり第一遊撃部隊はブルネイに入港。しかし不安は的中し、予定していたタンカーは到着しておらず、栗田長官が独断で手配した2隻が翌日に到着する状況だった。このため艦隊は一日足止めを受けることになり、突入期日も25日に変更された。また遅れを取り戻すため、22日の出撃で艦隊は二手に分かれ、低速の第三部隊を編成して最短のスリガオ海峡ルートへ、主力は潜水艦襲撃の危険があるパラワン水道ルートを高速で突っ切ることにした。従来の予定より3日も遅れることになった事に第一遊撃部隊司令部では「すでに米軍は上陸して射程外まで進出してしまっているのではないか?」「物資の揚陸も既に終わっていて何処にあるか分からない状態ではないか」という不安もでたが、そういった要素を振り払い出動準備を行った。またこの日は第五基地航空部隊で神風特別攻撃隊を初編成。訓示と命名式を行う。
21日、第二遊撃部隊はようやくレイテ湾への突入が決まり、台湾を出撃してマニラへ向かう。第五基地航空部隊は神風特別攻撃隊(敷島隊・大和隊・朝日隊・山桜隊)の24機を出撃させるが、悪天候に阻まれて攻撃できなかった。
22日、一日遅れで給油を終えた第一遊撃部隊は、主力(第一部隊・第二部隊)が8時にブルネイを出港。15時30分、第三部隊(西村部隊)がブルネイを出港する。その頃第二遊撃部隊に第一遊撃部隊の突入予定期日の詳細が知らされるが、マニラに向かっていては間に合わない可能性があった。そのため部隊ははマニラ行きを中止し、西村部隊の後を追うべくコロン島へ向かう。その為マニラ湾に向かっていた第16戦隊や第21駆逐隊との合流はかなわなかった。
パラワン島はフィリピンの南西、ボルネオ島(カリマンタン島)に向かって伸びる細長い島。この島と、南沙諸島との間にある海峡がパラワン水道。多島海にあって海峡の幅は狭く、潜水艦の襲撃にはもってこいの場所であった。
午前1時頃、米軍潜水艦2隻(「ダーター」「デース」)が第一遊撃部隊を発見、ハルゼーに通報し、追跡を開始する。第一遊撃部隊の方でも敵潜の存在は察知していたが、狭い海峡では回避運動も取れず、とにかく一刻も早く通過するべく水道を高速で航行していた。
6時半ごろ、米潜の魚雷攻撃が行われ旗艦「愛宕」と後続の重巡「高雄」に命中。「高雄」は大破・漂流し、「愛宕」は6時53分に沈没する。7時前、重巡「摩耶」にも魚雷が命中し、「摩耶」は7時8分沈没。旗艦の撃沈で、艦隊はたちまち大混乱に陥った。
マリアナ沖海戦後に内地に帰還した際、小柳富次参謀長は連合艦隊に対し、旗艦を重巡の「愛宕」から、防御力と通信力に勝る戦艦「武蔵」(2代前の連合艦隊旗艦)へ変更したいと申し出ていたが、巡洋艦による高速・夜戦と「指揮官陣頭主義」の観念に固執する連合艦隊に却下され、仕方なく戦艦「大和」(第一戦隊旗艦)を万一の場合の予備旗艦に指定しておくにとどまっていた。
沈みゆく「愛宕」から泳いで脱出した栗田長官以下艦隊司令部は、駆逐艦「岸波」に救助される。その後も敵潜水艦発見の誤報が相次ぎ、その都度艦隊は対応に追われたので「大和」への移乗は16時23分となってしまう。「大和」の艦橋は、宇垣纏中将の戦隊司令部要員と、後から乗ってきた栗田中将の艦隊司令部要員でひしめき合うことになる。そのため艦長の森下信衛大佐他、大和の幹部は操艦に必要な必要最低限の人員だけを艦橋に残し、防空指揮所など他所に移動した。
大破した「高雄」は21時40分になって応急修理ができ、駆逐艦「朝霜」「長波」の護衛でブルネイへ引き返した。第四戦隊で唯一生き残った重巡「鳥海」は、臨時に第五戦隊(重巡「妙高」「羽黒」)へ編入。栗田艦隊はここで早くも、重巡3と駆逐2を戦列から失った。
この日、マッカーサーはレイテ島へ上陸。3年前の「I shall return」の公約と雪辱を果たした。
同日、コロン湾に入った第二遊撃部隊だったが、こちらもタンカーと会合することができず、仕方なく重巡から駆逐艦へ燃料補充を行った。栗田本隊と別行動を取る西村艦隊は、パラワン島の南を抜けてスールー海へ入った。
体制を立て直した第一遊撃部隊は明けて24日、シブヤン海にさしかかる。シブヤン海はフィリピン諸島中央部のやや広い海域で、ここからルソン島東南端のサンベルナルジノ海峡を通って太平洋へ出、島沿いに南下してレイテ島へ向かうのが第一遊撃部隊の予定コースである。
※24日早朝の陣形 進行方向・東 ▲:戦艦 △:巡洋艦 ○:駆逐艦
浜風○ 藤波○
磯風○ 浦風○ 浜波○ 秋霜○
利根△ 筑摩△ 長門▲ 鳥海△
8時20分、第一遊撃部隊は米軍の索敵機に発見される。この時フィリピン東部に展開していたハルゼーの第3艦隊は正規空母6、軽空母6、戦艦6を基幹とする大機動部隊で3群に分かれて展開していた(他に先鋒としてフィリピンを空襲し補給のため一時後退していたマケイン中将の第1群もいる)。
10時26分、第一波の攻撃隊が第一遊撃部隊に襲いかかる。この攻撃で戦艦「武蔵」と重巡「妙高」が被雷。速力が半減した「妙高」は落伍し、第五戦隊司令部を僚艦「羽黒」へ移して単独で戦線離脱する。(後に「高雄」の護衛についていた長波が護衛に派遣される)
第二波・第三波と空襲が繰り返される中、米軍機の目標は戦艦「武蔵」に集中した。ブルネイ出撃直前、船体を塗りなおしたのを「死装束のようだ」と言われた「武蔵」は、輪形陣中央の旗艦「大和」からやや離れた位置におり、損傷で徐々に速力の落ちた「武蔵」は格好の標的となる。
主に艦首側に被雷したため浸水で艦首が沈み、後続の第二群の輪形陣との間に取り残される格好となった「武蔵」へますます攻撃は激化し、推定で各20発の魚雷と爆弾が命中。14時53分、栗田長官は「武蔵」に駆逐艦「清霜」を護衛として戦線離脱を命じ、「清霜」と重巡「利根」、駆逐艦「島風」「浜風」が警戒にあたった。
米軍の攻撃は「武蔵」へ集中されたが、他の艦も大なり小なり損害をこうむった。
戦艦「大和」「長門」は爆弾が命中し、「長門」は一時機関が停止した(速力23ノットまで回復、副砲4門使用不能)。ほか重巡「利根」、軽巡「矢矧」、駆逐艦「清霜」「浜風」も爆弾で損傷。第一遊撃部隊は、計画では約束されていた航空隊の支援の効果が認められない事に苛立ち、刻々と増加していく空襲損害にたまりかね、いったん反転・空襲圏外への離脱を決意する。
元々作戦計画ではこの日、機動部隊本隊がハルゼー艦隊を北方へ誘引し、基地航空隊と機動部隊本隊による航空攻撃でこれに大打撃を与え、それによって敵航空攻撃の脅威から解放された第一遊撃部隊はその間隙を縫ってシブヤン海からサンベルナルジノ海峡を抜けるはずだった。ところが機動部隊本隊をハルゼーが発見したのはこの日の夕方だったのと、基地航空隊の攻撃が芳しくなく、僅かに軽空母「プリンストン」を撃沈するにとどまったため、日中の第一遊撃部隊は米機動部隊の猛攻に曝される羽目に陥った。(しかも基地航空隊の攻撃が、米軍の関心を対空戦に回してしまって機動部隊本隊の発見を遅らせた可能性がある)。
第一遊撃部隊 一六〇〇電 (※略)
・・・1YB主力ハ日没一時間後『サンベルナルヂノ』強行突破ノ予定ニテ進撃セルモ・・・逐次被害累増スルノミニシテ・・・一時敵機ノ空襲圏外ニ避退シ友隊ノ成果ニ策応シ進撃スルヲ可ト認メタリ・・・
15時30分に後退を発令(16時付、連合艦隊通知)した第一遊撃部隊は、西方へ転進する。
16時40分、米空母「レキシントン」の索敵機は南下してくる機動部隊本隊を発見。栗田艦隊の反転を「退却」と判断したハルゼーは、同隊に貼り付けていた索敵機を呼び戻し、麾下の戦力を集結。翌25日の出撃を期し、20時過ぎに全力北進を開始した。
西進する第一遊撃部隊は、まだ日が沈んだわけでもないのにパッタリ空襲が途絶えたことを訝しんでいた。先の後退電に対する連合艦隊からの返信は来ないし、機動部隊本隊からの連絡もない(※17時15分付電で「瑞鶴」は米索敵機の出現を発信したが、「大和」には受信記録が無い)。とはいえ、空襲が無いのならレイテ湾に突入する絶好の機会である。17時14分栗田長官は決断し、連合艦隊の返電を待たず再び東進を開始した。
18時頃、第一遊撃部隊は微速後退中の「武蔵」とすれ違う。「大和」と「武蔵」の間で発光信号が交わされる。「武蔵」の返信は『機械6ノット可能なるも、浸水傾斜を早め前後進不能』だった。
18時30分頃、「武蔵」は前日に救助していた重巡「摩耶」の乗員を駆逐艦「島風」に移送。その後「島風」は損傷した「浜風」と護衛の任を交代し本隊に合流する。同じく警護に当たっていた重巡「利根」も艦長の要望を栗田が受け入れ艦隊へ復帰する。
19時15分頃、傾斜を増した「武蔵」は総員上甲板を発令。19時30分総員退艦。19時35分「武蔵」はついにフィリピンの海に沈んだ。猪口敏平艦長以下1000余名が戦死し、生存者は護衛の駆逐艦「清霜」「浜風」が救助にあたり、両艦は救助作業ののち、マニラへ撤退する。
「武蔵」に収容されていた「摩耶」の生存者は自発的に戦闘配置について戦闘に参加し、117名が戦死した。「島風」に移乗の際も、45名が「武蔵」に残り、応急修理作業の応援をしている。「島風」に移乗した乗員もその後の対空戦闘に参加し5名が戦死している。この「摩耶」乗員の奮闘に武蔵戦闘詳報は
当時便乗シオリタル摩耶乗員ハソレゾレ固有戦闘配置ニ応ジ本艦戦闘力ヲ増強スル配備ニ就キ 極メテ勇敢ニ奮闘努力シ其ノ功績顕著ナルモノアリシコトヲ特筆ス
と記述し讃えている。
余談ではあるが、それから約70年後の2015年3月3日、マイクロソフト共同創業者のポール・アレン氏が自身のtwitterにて、フィリピン中部のシブヤン海海底にて武蔵を発見した事を報告している。
有名なこの命令は、第一遊撃部隊が進撃を再開した後の24日18時13分付で発信されたものである。相次ぐ前線部隊の苦戦に対し、連合艦隊の不退転の決意を知らしめるために打った電報である事を連合艦隊司令長官豊田副武大将は戦後証言している。この電報は前線各部隊ともに受信記録がある。
時系列的に、第一遊撃部隊は先の16時付で送った「一時退却」電に対する返信と受け取った(あまりに中身が無いので処置に困った)のだが、実は連合艦隊が「一時退却」電を受領したのは、この「天佑」電を送った更に30分後で、今度は連合艦隊の側が「一時退却」電を「天佑」電に対する意見具申か何かと受け取り、余計に混乱した。連合艦隊は、19時55分付で「一時退却」電を不可とする返信を送ったが、これを「大和」が受領したのは23時52分。既に第一遊撃部隊はサンベルナルジノ海峡を通過するところだった。
実際のところこの電報は前線で戦う将兵には不評であった。現場で苦戦する前線部隊に対し、有益な敵情や、他に戦う友軍の状況などを報告する事もなく、ただ悪戯に「突入せよ」というだけのこの電文に、上記のように第一遊撃部隊側は扱いに苦慮し、「利根」艦長は「今時天祐などあるものか!確信などあるものか!」と激怒している。遠く第一遊撃部隊の苦戦を無線傍受で把握していた機動部隊本隊の通信員は、戦場から遠く離れた本土からの「現場の苦戦を知らない突入電報」に「いささか抵抗感を覚えた」と証言している。
機動部隊本隊がハルゼー艦隊に発見されたことを知らせる最も重要な電信だが、これを第一遊撃部隊は受信していない(連合艦隊は受信)。
但し信号が全て不達だった訳ではなく、機動部隊本隊が早く米軍と接敵するべく前衛部隊を分派した電信などは「大和」でも受信しているが、この肝心の一七一五電を受信できなかったため、栗田長官は機動部隊本隊の囮作戦の成否を把握できなかった。なおかつ、現に空襲を受けているのだから「失敗」と考えてもおかしくない。
一方東京の軍令部は、米軍は機動部隊本隊を発見しているが、まず先に、レイテに近づきつつある第一遊撃部隊を攻撃しているのだと認識していたという(軍令部参謀・野村實の証言)。
第一遊撃部隊 一九三九電 (ミンドロ島サンホセ基地宛)
1YB進撃中「レガスピ」東方「サマール」島東方及「レイテ」湾ノ総合敵情報速報セヨ
進撃を再開した第一遊撃部隊が、サンベルナルジノ海峡出口の敵艦隊の位置を知らせるよう、19時39分付で水上偵察機隊(朝のうちに貴下の艦艇の水偵をサンホセ基地に退避させていた)に送った命令文。栗田は東進を悟られぬよう、再反転をすぐには連合艦隊等へ通告せず、進撃再開から2時間半ほど経過したこの電信で初めて「進撃中」の語句を使った。
しかしこの電信は連合艦隊も機動部隊本隊も傍受しておらず、第一遊撃部隊が退却なのか進撃なのか把握出来ずにいた。
第一遊撃部隊 二二一三電 (※略)
・・・1YB主力ハ全滅ヲ賭シ「タクロバン」泊地ニ突入敵部隊ヲ殲滅セントス 航空部隊ハ全力ヲ挙ゲ敵機動部隊攻撃ヲ強行 全軍作戦目的達成ニ挺身セラレンコトヲ切望ス
シブヤン海を通過しつつあった第一遊撃部隊がはっきりと進撃の意思を示した信号で、連合艦隊は受信。ともあれ、同艦隊は進撃中であると判断した。しかし、機動部隊本隊ではこれを受信できなかった。このため小沢長官は、先の「天佑」電で栗田も進撃を再開しただろうという希望的観測をするに留まることになる。
※戦後、「日向」に座乗していた第四航空戦隊司令官松田千秋少将は、小沢長官は第一遊撃部隊の再進撃を知らなかったと証言しており、二二一三電を機動部隊本隊が受信した記録もない事から、小沢長官は最後まで第一遊撃部隊は退却したと考えていた可能性が高まっている。
第2戦隊戦艦「山城」を旗艦とする西村祥治中将の部隊は、第一遊撃部隊とは別行動を取り、パラワン水道の南からフィリピン南西のスールー海へ入る。
24日午前2時「最上」から夜間発進した水上偵察機が明け方にレイテ湾の偵察に成功する。正午には「山城」に報告球を投下しレイテ湾内の敵戦力について報告を行った。この情報は各部隊に知らされたが、今作戦で唯一のレイテ湾の敵情報告となった。
24日朝、艦隊はスールー海で米索敵機に発見され、空母「エンタープライズ」と「フランクリン」艦載機の小規模な攻撃を受けたが、両空母はすぐにシブヤン海の第一遊撃部隊攻撃に転進したため、西村部隊は空襲の損害無く、ある意味順調に航海を続け、スールー海→ボホール海からスリガオ海峡の南口に達したのは25日午前1時30分。計画では午前5時30分にスリガオ海峡南口に至り、それから第一遊撃部隊と歩調を合わせてレイテ湾へ同時突入することになっていたから、西村部隊の進撃は4時間も早まったことになる。
しかしシブヤン海の戦いで第一遊撃部隊は後退を余儀なくされ、再進撃を開始したもののサンベルナルジノ海峡通過は25日午前1時、レイテ湾突入は午前11時ということとなり、「同時突入」の計画は最早成り立たなくなってしまっていた。
西村中将が第一遊撃部隊の一時後退と再進撃を把握していたかどうか定かではないが、24日20時13分付の電信では25日午前4時のレイテ湾突入を報じており、この時点で西村部隊が計画を繰り上げ、単独での突入を決意していたことがわかる。
一方、西村部隊を追う形で台湾から南下してきていた志摩清英中将の第二遊撃部隊は、23日にコロン島(シブヤン海の入り口付近)に達したが、上記のようにタンカーとの連絡に失敗。重巡から駆逐艦へ燃料を分ける作業ののち、スールー海からスリガオ海峡へ向かう。
第二遊撃部隊は南西方面艦隊指揮下であり、連合艦隊直轄となった第一遊撃部隊の指揮下にある西村部隊とは指揮系統が異なっていた。このため目的地を同じくする部隊でありながら、第二遊撃部隊は栗田・西村両司令と作戦調整をすることも無く(正確には前述のように開始以前の第二遊撃部隊の使い道に関する南西方面艦隊と連合艦隊の意見対立で、決定がギリギリとなったためその余裕がなかったのだが…)進撃していた。
只、志摩長官は西村部隊となるべく連携するように行動するよう心掛け、西村長官が予定を切り上げて突入をすることを無電で聞いたのちも、志摩長官は西村部隊と歩調を合わせるべく、進撃を速めている。
第2戦隊司令官(西村中将) 1YB(栗田)・2YB(志摩)宛
0130スリガオ水道南口通過「レイテ」湾突入 魚雷艇数隻ヲ見タル外敵情不明
天候スコールアリ 視界漸次良クナリツツアリ
24日夜半から米軍魚雷艇と断続的に交戦していた西村部隊は、25日午前1時30分過ぎ、スリガオ海峡へ突入。水雷艇と交戦しつつ北上。駆逐艦「時雨」は2時53分に敵艦隊発見を記録する。
待ち構える米艦隊は南西太平洋方面軍(最高司令官はD・マッカーサー陸軍大将)所属のT・キンゲイト中将指揮する第七艦隊、その中でも戦艦6・重巡4・軽巡4・駆逐28のオルテンドルフ少将指揮の第77任務部隊であった。「ペンシルベニア」「メリーランド」など戦艦の多くは、真珠湾攻撃で着底・大破させられたのを浮揚・修理したもの。旧式ゆえに空母機動部隊での運用はできなかったが、代わりに陸軍の輸送護衛・上陸戦での艦砲射撃に従事。「マッカーサーの海軍」の異名をとる部隊へと生まれ変わっていた。
単従陣となり北上する西村部隊に対し、待ち構えるオルテンドルフ艦隊は日本海海戦もかくやと言わんばかりの完全な丁字戦法を取る。
3時10分、まず駆逐艦の雷撃第一波により戦艦「扶桑」が被雷、電気系統がやられたのか「扶桑」はすぐさま沈黙し、その後爆発を起こし船体が真っ二つとなり炎上する。この時後続していた重巡洋艦「最上」はすぐさま「山城」後方に就くが、「扶桑」が沈黙した事で「山城」側はそれを把握できず、西村長官は「扶桑」落伍を把握していなかった。
3時13分の雷撃第二波は艦隊を右回頭したことで回避したが、続く3時20分の第三波は躱せず、まず駆逐艦「山雲」が轟沈(総員戦死)、「満潮」も大破航行不能となり程なく沈没(艦長以下数名が米軍に救助される)。「朝雲」も大破航行不能となるが後に微速航行が可能となり後退を開始する。「山城」も被雷し5番・6番主砲塔が使用不能となる。
「山城」「最上」「時雨」の3隻となった西村部隊はなおも北上を続行する。3時30分、西村は栗田に「山城被雷1、駆逐艦2隻被雷」を報じる(「大和」4時15分受領)。3時40分、「山城」から「ワレ魚雷攻撃ヲ受ク 各艦ハワレヲ顧ミズ前進シ 敵ヲ攻撃スベシ」を発令。これが旗艦の最後の命令となった。
3時50分頃より米戦艦群と激しい砲撃戦が始まった。「山城」は程なく中央で大火災が発生し3番・4番主砲塔も使用不可となる。やがて大爆発が起こり扶桑型独特の前檣楼が炎の中崩れ落ちていったという目撃証言がある。1番・2番砲塔はなおも砲撃を続けていたが、4時19分に「山城」は転覆・沈没していった。生存者は主計長以下10名が米軍に救助されている。
「山城」に続いて砲撃していた「最上」は3時50分頃に被弾し3番砲塔と中央部で火災が発生、更に4時2分には艦橋に直撃弾を受け艦長以下幹部が戦死、生き残った信号員が咄嗟に舵を取り、射撃指揮所に居て助かった砲術長が指揮を代行、避退の為南下を開始した。
唯一健在の「時雨」も米艦隊の砲撃の閃光と水柱のの連続に、まともに敵の位置を知る事も出来ず、やむなく後退を開始する。この間砲弾を1発被弾するが不発だった。
こうして西村部隊を壊滅させたオルテンドルフ艦隊だが、敵に接近した米駆逐艦が誤射を受け大破したので砲撃を一時中断する。この結果生き残った3隻は退避行動をとることが出来た。
その頃「午前3時スリガオ海峡突入」を栗田に報じていた第二遊撃部隊は、海峡入り口付近で軽巡「阿武隈」が米魚雷艇の奇襲攻撃を受けて被雷する。速度の落ちた「阿武隈」を残して艦隊は進撃を続けるが、結局戦場に到着したのは午前4時過ぎ。部隊が見たのはつに折れて炎上する「扶桑」とその遠方で光芒する米艦隊の大砲撃だった。それでも電探による索敵で敵を発見し魚雷を発射したが、これは島影を誤認したもので成果は無かった。
4時30分、第二遊撃部隊旗艦「那智」と、南下をしていた「最上」が衝突する。「那智」側が、微速撤退中の「最上」を停止と誤認したことによるものだったが、これにより「那智」は中破し速力も低下する。状況把握の難を認めた志摩長官は戦場離脱を決意。「最上」には駆逐艦「曙」、北上してきた「阿武隈」は乗艦している第一水雷戦隊司令部(木村昌福少将指揮)を駆逐艦「霞」に収容したうえで、駆逐艦「潮」を護衛につけて離脱を命じ、4時49分付で各隊に対し「第2戦隊全滅 最上大破炎上」を通報した。
第二遊撃部隊が離脱していった同じ頃、漂流中の「扶桑」が沈没する(数名の生存者が米軍に救助されている)。離脱を試みていた駆逐艦「朝雲」は追撃を開始した米巡洋艦部隊に捕捉され沈没(艦長以下30名が米軍に救助)、重巡「最上」は、夜明けとともに米艦載機の空襲を受けて損害が増加。生存者を駆逐艦「曙」に移し、同艦の魚雷により処分された。「阿武隈」も同様に追撃を受け、艦長以下生存者を「潮」に救助させたのちに沈没している。唯一生き残った駆逐艦「時雨」は、途中で舵故障しながらもかろうじて単艦で離脱を果たした。
こうして西村部隊は壊滅、第二遊撃部隊は戦場を離脱した。ほとんど為す術無かった志摩中将もさることながら、事実上の「特攻」となった西村中将の指揮が批判の対象となることもある。
だが、小沢長官は戦後、この海戦で唯一戦死した指揮官である西村のことを「あの海戦で唯一まじめに戦ったのは西村提督だけだ」と語り、自分を含めて任務に失敗した指揮官たちと違って職務に猛進して戦死した同長官を擁護している。また志摩中将についても、その艦隊の運用方針が二転三転した挙句の突入戦だった点を鑑みて、第一遊撃部隊の小柳参謀長は「指揮官こそいい迷惑で、その焦燥苦慮は同情に耐えない」と語っている。
10月24日午前、フィリピン北東海面に進出した機動部隊本隊の戦力は、空母4・航空戦艦2・軽巡3・駆逐艦8。艦載機は100機余。これが3年前、6隻の正規空母と400機余の艦載機を有し、大艦巨砲主義を打ち砕いて航空主兵時代の幕を開け、太平洋を東へ西へと暴れ回った日本海軍空母機動部隊の最後の姿だった。
24日11時30分に送り出した最後の空母航空隊の練度は、母艦へ戻らず陸上の基地へ行くよう命ぜられる程に低迷。軽空母の航空隊は米艦載機の妨害によって敵に近づけないままマニラへ向かい、わずかに「瑞鶴」航空隊のみが米空母を攻撃。空母「エセックス」に至近弾など軽損害を与えるに留まり、これが日本空母最後の戦果となった。
この日の日中、機動部隊本隊を発見出来ないハルゼー艦隊は、シブヤン海の第一遊撃部隊を集中攻撃。更に貴下の3個群から高速戦艦を引き抜いてリー中将指揮の第34任務部隊を編成して、第一遊撃部隊と砲撃戦をするべく準備する事を各部隊に通達する。一方栗田長官の「悲鳴」に対し小沢長官は、早く自艦隊をハルゼーに発見させるべく、14時30分付で前衛の戦艦「伊勢」「日向」と駆逐艦隊を分離派遣(電信、連合艦隊・第一遊撃部隊ともに受信)。16時30分頃、ついに艦隊は米索敵機に発見される(電信、連合艦隊受信、第一遊撃部隊含め受信せず)。
第一遊撃部隊に十分な打撃を与え、栗田の西進を「全面撤退」と判断したハルゼーは、ようやく発見した日本空母を空襲のみならず砲雷撃によって全滅させるべく、サンベルナルジノ海峡・レイテ島沖にいた艦隊も全て集結させ、全力北進を開始する。万一第一遊撃部隊が引き返してきたとしても、レイテ湾に残るキンケイドの第7艦隊で対応できると考えた。しかし、ハルゼーはこの北進をキンケイドに伝えなかった。
ところが当のキンケイドはサンベルナルジノ海峡はハルゼーが編成通達した第34任務部隊が防衛していると誤解していた。前述の通達はあくまでも準備命令であり、海軍の慣例でいえば効力はないのだが、キンケイドは第34任務部隊は編成され、ハルゼー艦隊の北上には加わっていないと勝手に解釈してしまい、ハルゼーに確認をとる事もなかった。
またハルゼーも仮に第一遊撃部隊が突入を再開しても、オルテンドルフ艦隊がいるのだからキンケイドは十分対抗できると考え、キンケイドに対する詳細な説明をしなかった。その後まさかキンケイドが小兵力でしかない西村部隊に、オルテンドルフ艦隊の全力を差し向け、北方への備えを疎かにするとは考えもしなかったのである。これが後のサマール沖での米軍苦戦の要因となった。
米軍側のそのような混乱を知る由もない機動部隊本隊は24日20時過ぎの16時付、「一時撤退」電を傍受する。小沢長官はこのままでは敵中に孤立すると考え、分離していた前衛に合流を命じ、合流後北上し米機動部隊と距離をとろうとする。この時、前衛の駆逐艦「杉」と「桐」は米艦隊の中に紛れ込んでいたという証言がある。両艦は米艦隊の群れ(?)を抜け出した後、燃料不足のため本隊へは戻らず台湾へ退避していった。
25日早朝、機動部隊本隊は再び米索敵機の接触を受ける。わずかに20機弱の零戦を残して文字通り空船となった四空母(そんなことをハルゼーは知る由もなかったが)に対し、8時15分、米軍の第一次攻撃隊180機が殺到する。
8時50分、駆逐艦「秋月」が大爆発を起こし、船体が2つに割れて沈没した(原因については諸説あり)生存者は駆逐艦「槇」が救助する。
「千歳」も直撃弾5発と無数の至近弾により火災が発生、やがて航行不能となり、9時37分に沈没する。生存者は駆逐艦「霜月」と軽巡洋艦「五十鈴」が収容した。その他「瑞鳳」にも爆弾2が命中。「瑞鶴」は8時35分に爆弾1、37分に魚雷1が命中し、浸水・スクリュー破損。通信機は8時48分までに使用不能となった。
軽巡洋艦「多摩」も艦首に被雷し大破、同艦は単独で退却する事になる。その後単艦で行動中に米潜水艦の攻撃を受け沈没、乗員全員が死亡した。
機動部隊本隊がハルゼー艦隊と交戦開始したことを示す、最も重要な電報である。時間的に「瑞鶴」から発信されたものと思われるが、連合艦隊も第一遊撃部隊も受信できなかった(現場の戦艦「伊勢」・空母「瑞鳳」は受信記録あり)。
9時23分、小沢長官は「大淀」に対し通信機の状態を問い合わせ、司令部は旗艦変更の準備を始める。しかしその最中の10時過ぎ、米軍第二次攻撃隊が飛来したことで旗艦移乗作業は中断する。
10時「千代田」が直撃弾1発を受け航行不能となり艦隊から落伍する。しかしこの空襲は「千代田」の損傷のみであり、終了後小沢長官は旗艦移乗作業を再開するよう指示する。
TF34は何処にありや、繰り返す、TF34は何処にありや 全世界は知らんと欲す
WHERE IS RPT WHERE IS TASK FORCE THIRTY FOUR RR THE WORLD WONDERS
サマール島沖で突然第一遊撃部隊と遭遇した米護送空母部隊は直ちにハルゼーへ救援要請を送ったが、同隊は手負いで、キンケイドの艦隊が対応できると思い込んでいるハルゼーは、補給のために帰投中の空母群(マケイン中将指揮の第1群)を取り敢えず向かわせただけで、自身は引き続き機動部隊本隊の追撃に猛進した。
こうした中の10時過ぎ、ハルゼー座乗の戦艦「ニュージャージー」へハワイの太平洋艦隊司令長官ニミッツ大将から送られてきたのが、有名な上記の電報である。侮辱を感じたハルゼーは帽子を床に叩きつけて踏みにじり、怒り狂った。しかし命令は命令である。11時、ハルゼーは第38任務部隊の第2群と編成を終えた高速戦艦からなる第34任務部隊を率いてレイテ方面へ引き返し、第3群と第4群・第34任務部隊の巡洋艦部隊(デュポーズ少将指揮)の指揮をミッチャー中将に任せて、引き続き追撃を命じた。
11時過ぎ、小沢司令部は旗艦を「瑞鶴」から「大淀」へ変更。11時7分付で「大淀ニ移乗 作戦ヲ続行ス」を発信する。これがこの日、第一遊撃部隊が機動部隊本隊から受信した最初の電信となった。
13時過ぎ、ハルゼーから空母部隊の指揮を引き継いだミッチャーの放った第三次攻撃隊200機が襲来。「瑞鳳」へは「エセックス」と「ラングレー」、「瑞鶴」へは「レキシントン」の航空隊が襲いかかる。「レキシントン」は昭和17年5月の珊瑚海海戦で、「翔鶴」「瑞鶴」と戦って沈没した空母の名を引き継いだ2代目。「レキシントン」の隊員は、初代を沈めた敵討ちとばかりに「瑞鶴」を攻撃したと証言する。
大目標となった「瑞鶴」には次々と魚雷と爆弾が命中。戦闘詳報は7本の魚雷と7発の爆弾を記録する。出撃前の不沈化対策が役立ったか装甲の弱い空母としては驚異的な耐久力を発揮し、「彼女(瑞鶴)の対空砲火は危険で、手に負えなかった」と米側に記録せしめた、機銃と噴進砲による猛反撃を繰り広げた「瑞鶴」だったが、艦の傾斜が増し、ついに機関停止。14時頃、軍艦旗降下・総員退艦となる。傾斜した飛行甲板の上に集合し、「軍艦瑞鶴万歳」を三唱する乗員たちを映した有名な写真が残る。
13時14分、「瑞鶴」は艦尾から静かに沈没。貝塚武男艦長以下、800名余が戦死。歴史を切り開いた真珠湾攻撃に参加した日本空母は、こうして全て戦没した。生存者は駆逐艦「初月」「若月」が行った。
14時17分、「瑞鳳」も10分間にわたり空襲を受け、魚雷2本と爆弾4発を受け大破航行不能、15時26分歴戦の空母「瑞鳳」も沈没する。生存者は駆逐艦「桑」が救出するが、戦艦「伊勢」も短時間ながら救助作業に加わり100名弱を救出している。
航行不能となっていた「千代田」は曳航するため「五十鈴」が準備をし、戦艦「日向」と駆逐艦「槇」がこれを警備していた。しかし小沢長官からの合流命令を受けた「日向」座上の松田少将は、「五十鈴」「槇」に千代田乗員の収容と、同艦の処分を命じ、「千歳」生存者の収容を終えた「霜月」と共に本隊合流を目指して北上を開始する。
曳航断念の命を受けた「五十鈴」だが、米機の断続的な攻撃で直撃弾を被る。このままでは乗員収容も難しいと判断した「五十鈴」は間もない日没を待ってから収容作業をするべく、15時に「槇」と共に一時撤退する。だが直後に「千代田」は米偵察機にはっけんされる。報告を受けたデュポーズ少将の巡洋艦部隊(ミッチャー中将の指示で先行していた)が接近すると「千代田」も残った高角砲で応戦、16時25分砲撃戦となる。しかし多勢に無勢であり、16時47分「千代田」は沈没。生存者はいなかった。
この時点での機動部隊本隊は四散しており、小沢長官が掌握しているのは旗艦となった「大淀」と戦艦「伊勢」だけだった。その後方を合流するべく北上する「日向」「霜月」がおり、更にその後方で「千代田」救助を一時断念した「五十鈴」「槇」が後続、その他「瑞鶴」「瑞鳳」の生存者救助で「初月」「若月」「桑」、単独退避中の「多摩」前日以来本隊と合流できていない駆逐艦「杉」「桐」が周囲に散開している状態だった。
こうした中の17時26分、この日最後の空襲が始まる。米機のうち大半の約85機が先行する「大淀」「伊勢」を狙い、特に「伊勢」に攻撃が集中するが、艦長の適切な指揮でその全てを回避する。またその後方の「日向」「霜月」にも10数機が襲い掛かるが、「日向」に数発の至近弾で、これもほぼ無傷で切り抜ける。
日没後の18時30分ごろ、軽巡「五十鈴」は「千代田」救助のため引き返す(「槇」は燃料の不足によりそのまま本隊に合流)その途上、「瑞鶴」「瑞鳳」乗員救助を行っていた防空駆逐艦「若月」「初月」と合流する(「桑」は「瑞鳳」乗員の救助を終えて本隊合流に先行)が、そこへ「千代田」を撃沈した米巡洋艦隊が出現する。3隻は直ちに退避行動に出るが、位置的に一番的に近かった「初月」はやがて反転し、敵艦隊へ突入する。その後の同艦の動きは生存者がいないため米側の資料を基に推測するしかないが、同艦は反転突入後も時たま雷撃体制をとるなどして米軍側を翻弄し、結局米巡洋艦部隊はたった1隻の駆逐艦を沈めるのに2時間も浪費し、結局「五十鈴」「若月」。そして機動部隊本隊を取り逃がすことになる。
「初月」からの無電を受けた小沢長官は「大淀」「伊勢」「日向」「霜月」に反転南下を指示するが、損傷疲労が激しく南下に時間がかかってしまう。「五十鈴」「若月」と合流した時は、既に米巡洋艦部隊も後退しており、結局小沢長官は再度北上を指示し、同艦隊は退却する事になる。
10月25日、小沢艦隊は大きな犠牲を払った。ハルゼー機動部隊を北方に吊り上げること自体は成功したが、そもそも囮となった理由である「突入する第一遊撃部隊をハルゼー機動部隊の脅威から解放する」という目的達成には失敗した。実際貴下の艦である「大淀」の戦闘詳報では、小沢司令部が囮任務を何時から何時まで成功させたら栗田艦隊が脅威から解放されるのかという認識が欠けていたと批判されている。尚同戦闘詳報では小沢司令部だけでなく、対話の機航空戦などで作戦の中核となる基地航空隊の戦力が半減しているのにもかかわらず、米軍の来襲速度の速さに振り回され、作戦内容を改めずに実施させた連合艦隊司令部にも大きな批難を浴びせている。
また小沢艦隊が発した無電で、作戦を成功したと報じる電報が、どれも自艦隊以外はどこにも届かず、以後の作戦に大きな影響を与えてしまった。小沢艦隊の戦闘詳報では、それについて「瑞鶴の通信代行を、瑞鳳に命じていたが、瑞鳳沈没時に通信担当者が戦死したので、なぜこうなったか詳細は不明」と報告されている。
10月25日午前0時30分、第一遊撃部隊はサンベルナルジノ海峡を通過、フィリピン東海上に出る。米空母「インディペンデンス」の夜間索敵機は、ずっと消えていたサンベルナルジノ海峡の灯台が点灯していることをハルゼーに通報したが、問題視されなかった。
夜明けを控え、艦隊は夜間の対潜警戒序列から、日中の対空輪形陣へ隊列を組み直そうとしていた。
6時45分、スコールを抜け、夜明けとともに視界が明るくなってきた先に、第一遊撃部隊は艦載機の発進作業中らしい複数の空母を発見した。
艦隊は色めき立った。手の届く先に敵空母がいるのだ。各艦は慌ただしく、敵艦隊への攻撃を始める。
6時59分、戦艦「大和」の46cm砲が、初めて敵艦艇に対して火を吹いた。続いて7時に「金剛」、7時1分「長門」「榛名」(マリアナ沖海戦で推進器を損傷し速力が20ノット代にまで低下していた「榛名」は第一戦隊と行動を共にし、高速の「金剛」が別路より侵攻した)の各戦艦も発砲を開始する。7時3分、栗田は全艦突撃を下令。敵に近い位置にいた重巡が先陣を切り、続いて戦艦、そして第十戦隊と第二水雷戦隊が後に続く。
7時10分、第一遊撃部隊の先行していた重巡のいずれか(おそらく「羽黒」)が、護衛空母「カリニン・ベイ」に直撃弾を与えた(戦艦「大和」が初弾から空母「ガンビア・ベイ」に命中させたと言われるが、「大和」が砲撃をしていた時刻と「ガンビア・ベイ」が被弾した時刻とが大きく異なり、現在は誤認・伝説の類とされる)。
第一遊撃部隊は、この発見した敵空母をハルゼー艦隊主力の一部と思って攻撃した。しかし実際は、キンケイドの第7艦隊に所属し陸兵輸送・上陸支援を行う小型空母の艦隊で、護衛空母6隻を中心とする「タフィ3」と呼ばれる集団(指揮官:クリフトン・スプレイグ少将)だった。
第一遊撃部隊の再進撃を知らない「タフィ3」は、6時30分に警戒態勢から通常態勢へ移行したばかりだった。すぐさまハルゼーとキンケイドへ救援要請を打電したが、ハルゼー艦隊は機動部隊本隊を深追いして北方にあり、キンケイドはオルテンドルフ艦隊を未明の西村部隊との戦闘に全力投入して戦闘を終えたばかりで、すぐには動けなかった(そればかりか、時間稼ぎの捨て石を求めるかのような指令を送ってきた)。
進退窮まった「タフィ3」だったが、それでも第一遊撃部隊の砲撃を受けながら、各空母の艦載機100機の発艦に成功する。艦載機は母艦に戻らず、既に米軍が確保していたレイテ島の飛行場へ着陸し、これを往復しながら第一遊撃部隊への攻撃を継続した。脚の遅い護衛空母隊が必死の退避行動を取る中、駆逐艦部隊がすかさず煙幕を張り、駆逐艦「ホーエル」と「ヒーアマン」が戦艦「金剛」と重巡「羽黒」に、駆逐艦「ジョンストン」が重巡「熊野」に、護衛駆逐艦「サミュエル・B・ロバーツ」が重巡「鳥海」に立ち向かう。
7時30分、第七戦隊旗艦「熊野」は、煙幕から突出してきた「ジョンストン」の魚雷攻撃を受けて大破。艦首を喪失・落伍する。戦隊は手近にいた重巡「鈴谷」へ司令部を移したが、その「鈴谷」も既に7時24分に米艦爆の爆弾命中で速力低下しており、戦隊司令部は以後の戦闘についていけなくなる。
7時54分、「大和」と「長門」は米駆逐艦の放った魚雷を避けるべく転舵。しかしこの魚雷の速度が戦艦と同じで、なおかつ両側を挟まれる格好となったため、「大和」「長門」は約10分間にわたって、魚雷の燃料が切れるまで北走、戦場から遠ざかってしまう。
8時50分、「サミュエル・B・ロバーツ」と殴りあっていた重巡「鳥海」が艦載機の爆撃により直撃弾を被る。8時53分には重巡「筑摩」も艦攻の魚雷によって大破・航行不能に陥る。敵本隊に最も近づいた重巡は「羽黒」と「利根」だったが、「羽黒」は爆弾命中により2番砲塔が吹き飛んだ。
※攻撃打ち切り時 ▼:戦艦 ▽:巡洋艦 ||:駆逐艦列 ×:赤は撃沈・緑は大破
(タフィ3は南西方向へ逃げ、栗田艦隊はその外側を回りこむように行動)
× 熊野
× 鈴谷
× ホーエル(駆)
(二水戦) || × サミュエル・B・ロバーツ(護駆)
▽能代
|| × ジョンストン(駆)
▽矢矧
(十戦隊) ▼長門
× 筑摩
▼金剛
9時11分、各艦各個に敵を追撃した事で艦隊は四散し、掌握が困難となったのと、これ以上の追撃はレイテ湾への突入の時期を逸してしまうと考えた栗田長官は追撃戦を止め、艦隊集結を下令する。
この時点で米側は「ホーエル」と、護衛空母「ガンビア・ベイ」が撃沈。「ロバーツ」は煙幕から出たところを「金剛」に発見され、36cm主砲弾の直撃を被って大破。集結地点へ向かっていた軽巡「矢矧」の第十戦隊に止めを刺される。「熊野」を大破させた後、戦艦「榛名」や第十戦隊と激しく交戦していた「ジョンストン」も航行不能となり、「矢矧」によって撃沈された(沈みゆく「ジョンストン」から脱出した乗組員に、日本駆逐艦から缶詰や飲料水が投げ入れられたという逸話がある)。
戦時急造の“ジープ空母”と“ブリキ缶”(カサブランカ級護衛空母・バトラー級護衛駆逐艦のアダ名)からなり、とても砲雷撃戦を行えるような艦隊ではなかった「タフィ3」だったが、その“ブリキ缶”の勇戦敢闘によって、空母の損害をわずか1隻に留めることができた。
第一遊撃部隊は集結した各艦の報告から正規空母5隻を撃沈・撃破などと判定し連合艦隊司令部などに報告、その報告を受けた軍令部や連合艦隊は狂喜乱舞した。実際には上記のように護衛空母1と駆逐艦3の撃沈だったのだが日本側は終戦を迎えて米側の情報を知るまでこの事は誰も気づかなかった。一方先陣を切った重巡の損害は大きく、それらを海域に残しての進撃再開となった。なお「鈴谷」は集結行動中の10時50分に敵機の爆撃による至近弾で魚雷が誘爆し、生存者を駆逐艦「沖波」が収容した後12時30分に沈没。大破した「鳥海」「筑摩」のうち、「鳥海」は駆逐艦「藤波」護衛の下微速での後退を開始するが21時40分頃に航行不能となり、乗員を「藤波」が収容したのち撃沈処分される。
「筑摩」には駆逐艦「野分」が救援に赴くが、既に「筑摩」は沈没していたともいわれ、「野分」は生存者を救出し退却する。
第一遊撃部隊 一一二〇電
我地点ヤヒマ37針路南西レイテ泊地ヘ向カフ
北東30浬ニ空母ヲ含ム機動部隊及ビ南東60浬ニ大部隊アリ
隊列を整えなおした第一遊撃部隊は、レイテ湾に向かって進撃を再開する。しかしこの一一二〇電を発信する前、司令部は南西方面艦隊発信のひとつの電信を受信したらしい。栗田艦隊の真後ろ地点「ヤキ1カ」に米機動部隊が居るというものである。
栗田は11時50分、基地航空隊に対しこの「ヤキ1カ」の敵艦隊を攻撃するよう依頼を発信している。
いわゆる『栗田ターン』は、ここから始まった。
戦後から現在に至るまで、この「ヤキ1カ」電について数多の検証がなされてきた。そもそも「ヤキ1カ」電は、発信元とされた南西方面艦隊に発信記録が無い。かつ、第一遊撃部隊側にも受信記録が無く、ただ唐突に11時50分発の第一遊撃部隊が発信した「『ヤキ1カ』ノ敵機動部隊ヲ攻撃サレ度」という攻撃要請の電文で登場し、それに応じる形で基地航空部隊がヤキ1カへの攻撃を命じる電文を出しているのが記録されているのみである。
このため、一部から「ヤキ1カ」電は捏造だと言われ、栗田と参謀たちが臆病風に吹かれて逃げ出したのだと糾弾する者もいる。
しかし状況証拠や当事者の証言などから、現在では「ヤキ1カ」に類する電報は実在し、捏造もあり得ないというのが大勢を占めている。というのも9時ごろに栗田艦隊の北方、サマール沖東方というヤキ1カも含む海域に米機動部隊を発見したという内容の電文は、第一遊撃部隊だけでなく第二航空艦隊などの基地航空隊や東京の軍令部でも記録されているからである(但し報告地点が「ヤキ1カ」ではなく、地点「ウキ5ソ」や地点「ヤンメ55」など、「ヤキ1カ」の近海を指している情報となっている)
要するに、栗田艦隊の北方海域(サマール島東方)に、9時ごろ米機動艦隊を発見した索敵情報を、第一遊撃部隊以外の部隊でも把握しているのだ。
詳細を書くと
第六基地航空部隊(第二航空艦隊基幹)は25日11時3分に、前日に機動部隊本隊から出撃し、艦隊に帰投せずにツゲガラオ基地に帰投していた機動部隊本隊の航空隊(零戦18機、彗星13機、艦偵2機)に対して、『ツゲガラオに着陸せる3航戦飛行機はレガスピーに躍進補給のうえ、0940地点「ウキ5ソ」針路南の敵空母3隻を攻撃殲滅すべし(以下略)』と打電している(6FGB機密第251103番電)。生憎通信が遅れたのかこの攻撃隊出撃は実施されなかったのだが、この「0940時ウキ5ソの敵空母3隻がいる」という情報を第六基地航空部隊が何時どこから入手したのか、第二航空艦隊の記録には一切の記述はない。この「ウキ5ソ」は「ヤキ1カ」の東方海域の地点略語で近海域でもあり、その付近に5分違いで発見されたと報告されたわけなのだが、「ヤキ1カ」電と同じく発信者も、その通達経路も記録がない、謎の情報となっている。
先遣部隊(第六艦隊基幹)は25日11時37分に「先遣部隊総合情報」として貴下の潜水艦部隊にあてた敵情報告に『0900地点「ヤンメ55」付近敵空母3隻…南下中』と報告している(6F機密第251137番電)。この「ヤンメ55」は艦船用の地点略語で航空機用に替えると「ノキ5ソ」で、「ヤキ1カ」と「ウキ5ソ」のちょうど中間あたりである。しかしこの敵情報告にある「0900時ヤンメ55に敵空母3隻が南下中」という報告を何時どこから先遣部隊司令部が入手したのか、これも一切の記録がない。
当時大本営海軍部作戦部長だった中沢佑少将の「戦況メモ」にも25日の敵情略図の中に「0900空母3」の位置が記録されている。同じく大本営参謀だった野村實も、この頃の軍令部の作戦図にヤキ1カ付近に同様の書き込みがあった事を記憶している。この書き込みが第一遊撃部隊や第六基地航空部隊、先遣部隊などに届いていた同一電報の情報を元に書いたのか、先遣部隊の総合情報電を元に書かれたものなのかは明らかではないが、軍令部にも同様の情報が届いていたことを示唆している。
第61航空戦隊所属の彩雲偵察機が問題の0900時に「ヤキ1カ」などの該当海域を偵察しており、この機も4か所に敵艦隊を発見(4か所にそれぞれ巡洋艦1隻を視認)している。実際には誤認なのだが彩雲はその報告を打電しようとした。しかし通信機の故障か上手くいかず、結局基地に帰着後の13時31分に61Sf機密第251331番電として『0900地点「ノテ4ケ」巡洋艦1、0906地点「ヤキ3ク」「ノキ4エ」「ノツ4二」巡洋艦各1、針路北西速力14ノット。機上より敵味方識別出来ず』と打電している。これら4つの地点も「ヤキ1カ」近傍の地点である。
以上の事実から、「ヤキ1カ」電は捏造ではなく、0900時にその付近に敵艦隊がいるという情報が何者かが発信したのは事実であると考える方が妥当である。
最後の61航戦所属の彩雲だが、この機は計4か所に4隻の巡洋艦を視認して報告しているが、実際に米艦隊はいなかった。しかしこれらの地点の南側では実際に第一遊撃部隊がタフィ3と交戦していた。彩雲偵察機は0900から0906までの6分間に4か所で艦艇をそれぞれ目撃したと言っているのだが、誤認するにしても4か所同時に見誤るという事が起こり得るだろうか?実際これらの海域の少し南側では第一遊撃部隊とタフィ3の死闘が継続中であり、これらの艦艇を見た彩雲偵察機が自機の位置を誤り、その為発見位置も間違ったものを送信した可能性もある。(位置情報の誤発信はあり得ないわけではない。ミッドウェ―海戦でも最初に米空母を発見した「利根」4号機が位置情報を誤って送信[実際よりも遠くにいると送信した]し、その結果敵はまだ遠方にあり時間的余裕があると考えた南雲長官が兵装転換を決断し、それが敗因となったという事例もある。)
何故このような地点の異なって受電されたのかは原因は不明だが、現在考えられる説の一つとしては、上記の彩雲偵察機がサマール沖で戦う日米艦艇の幾隻かを視認し、これを報告しようとしたが、通信機の不調で中々上手く送信できず、基地に帰ってから打電した。だが実際には不完全ながら飛んでいて、その電波を中継所傍受してそのまま広域無線で発信したか、各部隊がそれを直接傍受したが不完全なものだったのでそれぞれが位置情報が異なる内容となった。というのもある。
上記の彩雲偵察機が通信機の故障か通信できなかった件もそうだが、今海戦では各部隊で通信の大幅な遅延や不達が頻発した。特に機動部隊本隊が発した囮任務が成功したと事が判る『1KDF機密第250815番電』が、機動部隊本隊所属の艦以外にはどこにも届いていないなど、作戦の根底を崩すような事例が発生している。
例えば野村實・軍令部参謀は、25日日中に機動部隊本隊から軍令部が受け取った情報は、7時23分付・敵索敵機に監視されているというもの(1KDF機密第0732番電:第一遊撃部隊には未達)と、11時7分付・大淀への旗艦変更(1KDF機密第251107番電:第一遊撃部隊にはこの日最初の機動部隊本隊からの電文として12時41分に受電)だけでしかなく、軍令部も囮作戦は失敗したと考えていた証言している。また栗田艦隊の北方にはハルゼー機動部隊が展開していると考えており、ヤキ1カ電に類する似た情報が軍令部にも届いていた事を証言している。この為反転北上する栗田艦隊を「単独で敵中に突入する」行為と捉え、伊藤整一軍令部次長は「それはかえって危険だ」と発言もしている。
また軍令部では前述した空母4隻は健在であるとすら考えていた。着電している電文の内容では「瑞鶴」に旗艦変更を必要とするような損害が出たことが判るだけだし(それですら沈没したとまでは断定できない)他の3空母の状況を知らせるものは一切ない。このため27日に及川古志郎・軍令部総長が天皇に戦況を上奏した際も、空母4隻は健在であると報告している(空母の全滅を知ったのは27日午後、小沢艦隊が奄美大島に入港した後の戦況報告)。
何故このような状況となったのかについてだが、当時「大和」に通信士として乗り込んでいた都築卓郎は当時の通信システム上、遅延不達は起こり得ると証言している。
当時の作戦行動中の艦隊間の通信方法だが、この方式は当時日本だけでなく英米など主要国も同様のシステムであった。
まず無線電波を出すという事は、暗号を解読されていなくても「電波を出す」という行為だけで自隊の位置を敵に露見する可能性のある危険な行為である。無線電波を傍受してたら、その電波の飛んできた方位と、その出力から発信者の大体の位置が予測できるからである。そのため艦隊同士でダイレクトに通信しあう事はまずない。
そこで通信は付近の味方勢力圏内に設置される「通信所」を中継して行う。まず発信するときは暗号化した電文を全周囲送信ではなく、一方向に進む指向性の電波で中継所のある方向に向かって送信する。これを受けた中継所は暗号電文をそのまま全周囲に発信する広域電波に変換して送信する。
そして受信するときは受信機を常に中継所のある方向に向けて、自隊宛ての無電がないか聞き耳をたて、届いたらそれを受信し暗号解読の上報告する。
こうする事で危険な無線電波の発信を安全な中継所で行うようにしているのだが、当然問題点もある。
まず艦隊から発信するのは指向性の電波なのだが、高速で移動し、対空戦闘中は回避行動などで方向が変動する艦船では、常に中継所の方向に電波を出せれる訳ではない。飛ばした電波が中継所に届かない可能性は十分ある。指向性の電波は広域電波よりも不安定であり、大気の問題など様々な要因が不達となる要素となる。
中継所が受電できたとしても、その内容は暗号化されており、何等かの理由で電文に欠落(電波障害などなど)が発生していても中継所ではわからないのでそのまま送信されてしまうし、電文自体が判読不明なほど障害がでていたら中継所では判読不明として中継しない。また数多くの電文を処理している中継所では、相手に届かなかったら何度も送信するが、その分後で届いた電文は後回しにされるし、逆に後に届いた電波を優先するため、その前に届いていた電波を後回しにする場合もある。
受信側も聞き耳を立てているが色々な要素で受信できない場合もある。例えば都築氏のいた「大和」では以下の要因が通信能力の低下を招いていたと都築氏は証言している。
- 「大和」の通信設備は海軍一のものだが、その人員は即席された兵員も多く、技術的に未熟な人間も多かった。
- 旗艦変更による第一遊撃部隊司令部が「大和」に移乗した際、通信要員は移乗しなかったので定員が足りなくなり、「大和」の通信員が応援に割かれた。そのため各通信員がオーバーワークとなり、欠けた分を数少ない熟練者でフォローしなければならなくなり、更に能力低下を招いた。
- 24日の対空戦闘で、「大和」艦上の多くの通信ケーブルが断線、その都度修理はしたが戦闘しながらの修理は困難でり、十分ではなかった。
- また断線したケーブル自体から発するノイズが無電の送受信を妨害した。
- 二つある通信所のうちの一つが対空火器を増設した甲板の直下にあり、対空戦闘が始まるとその轟音が酷すぎて受信電文が全く聞こえず、実質通信所は使用不可能だった。
この様な理由から、電文不達は十分あり得ることが判る。不達となった直接要因は数多くの可能性があるのだが、太陽風の影響などが示唆する人もいる。
機動部隊本隊からの電文の多くでこのような遅延不達現象が起こった事で多くの関係各部隊は、『機動部隊本隊の囮作戦は奏功せず、逆にサマール島沖の第一遊撃部隊が米艦隊の真っ只中に飛び込んでしまっている』と考えていた。そしてそれは第一遊撃部隊も同様だった。
その考えを裏付けるかのように、レイテ湾進撃を再開した第一遊撃部隊へは断続的に艦載機が来襲。また「タフィ3」の追撃を打ち切ったとき、最も南東にいた戦艦「榛名」は「タフィ3」とは別の空母群(「タフィ2」か?)を発見したという。また、4時49分付で第二遊撃部隊が送ってきた西村部隊全滅の報は第一遊撃部隊も受信しており、レイテ湾の米艦隊は次なる敵・第一遊撃部隊迎撃の態勢を取っていることが予想された。こういった25日以降も続いた空襲を第一遊撃部隊が「囮作戦は奏功していない」と考える十分な状況証拠となった。
仮にこのまま第一遊撃部隊が突入を継続したらどうなったのか。これに関して半藤利一や谷光太郎などにより「キンケイド艦隊は西村艦隊の迎撃で砲弾・魚雷を使い果たしていたから、レイテへ突入すれば、大和の46cm砲でマッカーサーを吹き飛ばせた」とする説が根強く信じられているが、実は“全くの出鱈目”である。
上記の2者はキンケイドがハルゼーに対して7時25分に発信した「第七艦隊は弾薬が欠乏している」という電文を論拠にしているのだが、欠乏=使い果たす、ではない。
今日の検証で、米第7艦隊の武器弾薬が不足気味だったり、いくつかの戦艦の主砲が故障したりしていたものの、一会戦を行う程度の戦力は十分にあったことが明らかになっている。各戦艦の砲弾の残数まで判明しているが、第一遊撃部隊を迎え撃てないほど欠乏してはいない。むしろブルネイからの出撃以来、連日連夜の空襲・夜襲を受けている第一遊撃部隊の方が疲労困憊・満身創痍であった。
スリガオ海峡夜戦前後のオルテンドルフ艦隊の戦艦6隻の主砲弾の状況
榴弾の方はスリガオ海峡夜戦前よりも増えてすらいるのが判る。この記録は戦後間もない時期より米側の記録などで記載されており、調べれることは可能だったはずだが、半藤も谷もこの資料を見た形跡はない。如何に栗田の反転を問題視する論者の根拠が的外れかつ検証不足であるかを物語るいい例であるといえる。
他の艦艇にしても巡洋艦には徹甲弾が各砲辺り5~80発が残っていたという記録があり、後述の「羽黒」の砲弾残数と比べても、日本側よりも残数が多い。駆逐艦に関しては各艦の主砲弾数が定数の20%を切っていると記録があり、駆逐艦の砲弾は不足している事が判るが、要の魚雷に関しては撃ち尽くした駆逐艦は3隻だけで、残り1本なのも6隻のみ、あとの20隻は5~10本の魚雷を保持していたと記録があり、十分戦闘できる状態だったことが判っている。
以上、アメリカ側の記録の判明により、オルテンドルフ艦隊は十分戦闘出来た状態であったといえる。
また「当時の米軍の射撃レーダーは低性能で故障もあり、実際はレーダー射撃も300発近く打って命中は2発だけであり、命中率は高くなかった」という話もあるが、これは疑わしい話である。
戦艦部隊の中でもMk3型射撃用レーダーを装備していた「ミシシッピ」などは目標が識別できず有効な射撃を殆ど行うことができなかったが、Mk8型射撃用レーダーを装備していた「ウェストバージニア」などはアクションレポートを見る限りではとても優れた成績を示しているのである。
非常に効果的な射撃をしたと言われる戦艦「ウエストバージニア」は、初弾と第二斉射だけで複数の命中を確認しているとされ、ウェストバージニア」のアクションレポートでは全13回行われた斉射のうち目視確認されただけでも1,2,6回の斉射時に命中が確認されている。「命中弾が2発」という話は「ウエストバージニア」の記録を見る限り非常に疑わしい話であるが、「命中弾が2発」とする話を紹介する著書も多い。この他にも「ウエストバージニア」の砲撃は全て目標を夾叉(きょうさ)しており、通常の砲撃よりも好成績を残している(普通初弾から最後の斉射まで夾叉させるというのは日本海軍でもまずない記録である)
「山城」に米戦艦部隊の砲撃が何発命中したのかについては詳細が不明な部分もある。「ウエストバージニア」の記録などを見る限りでは2発以上は命中しているようにも思える。(一説には米戦艦部隊の命中数は7発とも言われる。)
突破できるという論者には、46cm砲や酸素魚雷などの額面性能だけをとらえて、戦艦「大和」や「長門」がいる第一遊撃部隊が旧式の戦艦部隊しかいないオルテンドルフ艦隊を撃破できないわけがない、などと言うカタログスペックだけで判断する意見もあるが大きな誤りである。この時の第一遊撃部隊とオルテンドルフ艦隊の戦力差は「大和」や「長門」がいたからどうにかなるよう様な戦力差ではない。
実際この時点での第一遊撃部隊の戦力は
でしかなく、その艦艇の多くは損傷していた。例えば「金剛」はサマール沖海戦で測距儀が破壊され管制射撃が不可能。「榛名」は上記のようにマリアナ沖海戦の傷が癒えておらず速力は20ノット台、「羽黒」は第二砲塔が被弾して使用不能の上、第四砲塔は砲弾を打ち尽くしこれも発砲不可能、主砲弾も大量消費してしまい健全な3砲塔6門の主砲の残数は125発であり、1門辺り20発前後しかなかった。「利根」もシブヤン海海戦などで複数発被弾しており、健全な状態ではなかった。
何よりも3日間にわたる戦闘の連続で将兵は疲労困憊しており、自身で気づかぬうちにその影響が出てきていた。(サマール沖海戦で護送空母を正規空母と誤認し、煙幕の展開を砲弾の命中による爆発と報告するなど、通常では考えられないような誤認を連発している)
と3倍以上の戦力を持っており、損傷している第一遊撃部隊がたやすく突破できるような規模ではなかった。更に言えば「メリーランド」「ウエストバージニア」は「長門」と同じく40センチ砲搭載の戦艦で、戦前には「ビック7」として世界の7大戦艦の一つに数えられた同世代艦であり、しかも真珠湾攻撃後に大幅な近代化改装を実施しており、決して旧式戦艦ではない。むしろ日本側の「金剛」「榛名」の方が旧式であり、能力的にも近代化改装で装備を一新した「ミシシッピ」「ペンシルバニア」「テネシー」「カリフォルニア」には太刀打ちできない(そもそも「金剛」「榛名」は改装されているとはいえ元巡洋戦艦であり、装甲も同世代の戦艦と比べると脆い)。つまり新鋭なのは「大和」だけであり、あとは同世代か、日本の方が古い艦であり、「旧式戦艦だから勝てる」という論拠は全くの空想の産物でしかない。
第一遊撃部隊を妨害する戦力はオルテンドルフ艦隊だけではない。周囲には攻撃した「タフィ3」以外にも2個の護送空母群が存在し第一遊撃部隊を空襲するべく控えているし、偶々別行動をとっていてハルゼーの「ブルラン」に加わっていなかったマケイン中将の第一群(正規空母2、軽空母2基幹)も急行していて、それらからの空襲も受けることになる。(実際北上を開始した第一遊撃部隊にこれらの艦載機が空襲をしている)
これら水上艦隊と航空攻撃を突破できたとしても第一遊撃部隊が損害もなく進撃しているとは考えずらく、レイテ湾に突入しても有効な戦果を挙げれたかは大いに疑問である。
もし仮に第一遊撃部隊が戦力をほぼ維持したまま上陸地点に到達したとして、「どうやって地上の敵上陸部隊を捕捉して攻撃するのか」という問題がある。
洋上の艦艇から地上の目標を攻撃する場合、艦艇からでは地上は沿岸部しか見えず、内陸部は非常に見にくい。また当然ながら射程外まで進軍されていたら攻撃する手段もない。仮に居たとしても洋上から陸地にいる部隊のどれが敵でどれが味方かなど識別する方法がなく、同士討ちを起こす危険もある。実際第一遊撃部隊はブルネイでの打ち合わせの席上で、派遣された陸軍の参謀に「地上では敵味方入り乱れて戦っており同士討ちの危険があるので艦隊は洋上の輸送船を攻撃してほしい」と要請されている。
第一遊撃部隊側が「上陸して5日も経っている」事を不安視していたのも実はこの事が関係している。5日も経っていれば上陸部隊は内陸に進軍していて射程外にいる可能性が高まるからだ(実際そうなっていた)。上陸した米陸軍は既に大和の主砲の射程外まで進んでいたのだ。
では揚陸した物資を攻撃するのはどうか?。実はこれにも問題がある。
レイテの上陸地点は海岸近くまでジャングルがあり、簡単に洋上から見えないよう隠すことができるのだ。日本艦隊が接近しているのを前日から知っている上陸部隊が物資を沿岸に放置したままにする事は考えられない。そうなると洋上からこれらを探すのはほぼ不可能。各艦搭載の水偵など使って航空偵察する事も考えられるが、第一遊撃部隊は所属の水偵を主に対潜哨戒任務に使い、それも任務終了後は友軍基地に帰還させており、この時点では大和に1機しか残っていない。たったの1機だけでは航空機による観測射撃は不可能だし、既に制空権を奪われている上陸地点で水偵を飛ばしても、すぐに撃墜されるので、効果は期待できない。
これだけ水上艦隊が制海空権を奪われている状態で、敵上陸部隊を攻撃するというのは言うのは簡単だが実施には困難を伴うのだ。だからこそ捷号作戦の作戦内容に態々「敵上陸から2日以内に突入する」と明記されていた訳である。2日以内なら上陸した米軍も射程内にいるだろうし、物資も輸送船の中にあって、船を攻撃すれば物資も失われる。つまり見える目標を攻撃すればよい事になるからだ。
それにそもそも第一遊撃部隊は地上の敵への攻撃法については「見える敵を攻撃する」程度でしか考えていなかった。これは前述してる通り乱戦の中を敵味方を識別して敵だけを砲撃するのは困難である事や、搭載水偵は航路の対潜哨戒に集中運用していて突入時点で1機しかなく、水偵を用いた観測射撃も考慮していない事から見ても明らかである。各艦から観測しての射撃でしか地上を攻撃できない訳だが、巡洋艦以下の艦艇は艦橋が低く測距儀の位置も低いので、海岸近くまでジャングルで覆われている沿岸で敵を狙って撃つのは困難だった。戦艦にしても金剛は測距儀が破壊されていて主砲個々で狙わねばならず、巡洋艦以下と同じ程度の見晴らししかない。有効的な射撃ができそうなのは大和、長門、榛名だけしかいないが、根本的な問題
「観測射撃ができず、ジャングルで覆われた戦場を各艦の測距儀で狙って撃たねばならない」
が解決しておらず、どれだけ効果的な攻撃ができたか?大いに疑問が残る。
結局第一遊撃部隊が敵上陸地点に着いたとしても、そこに待っているのは既に届かない所に行った上陸部隊とジャングルなどに隠されて何処を狙えばいいか分からない状態の物資、そして撃沈しても何の戦果にならない輸送船、そしてごく少数の護衛艦艇だけである。そして後方からは突破されたオルテンドルフ艦隊やらマケイン艦隊がレイテ湾に閉じ込められた第一遊撃艦隊に殺到し、遅れて戻ってきたハルゼー機動艦隊がこれに加勢する。恐らく第一遊撃艦隊は全く戦果を挙げれぬままに米艦隊になぶり殺しとなった可能性が高い。
「大和」の元乗員だった方々には「大和は突入すべきだった。あそこで戦って沈むべきだった」と言われている方もいる。感情的にはそういう思いも理解できるだろうが、当時の米軍の状態から考えると突入していたら後の「沖縄特攻作戦」を上回るような悲劇的な結末、いや無駄死にを「大和」だけでなく栗田艦隊残存艦艇の大半が強いられていた可能性が高く、本当に「大和」は突入した方が良かったのかは大いに疑問である。
「連合艦隊がそれだけの決心をしておられるならよくわかった。ただし、突入作戦は簡単に出来るものではない。敵艦隊はその全力を挙げてこれを阻止するであろう。したがって、好むと好まざるとを問わず、敵主力との決戦なくして突入作戦を実現するなどという事は不可能である。
よって、栗田艦隊は命令どおり輸送船団に向って突進するが、途中敵主力部隊と対立し二者いずれかを選ぶべきやに惑う場合には、輸送船団を棄てて、敵主力の撃滅に専念するが、差支えないか」連合艦隊・神重徳参謀
「差支えありません」
これは南方で訓練に勤しむ第一遊撃部隊に、捷号作戦の説明をするために、8月11日マニラで第一遊撃部隊の小柳参謀長と、連合艦隊の神参謀が打ち合わせを行った際のやり取りである。この発言だけ見ると小柳参謀長が敵主力との決戦に未練を残しているかのように思う人もいるだろうが、彼の発言は軍事的には常識的なものであり、船団攻撃を軽視するものではない。
幾ら機動部隊の囮作戦が成功したとしても、相手が船団の護衛に有力な艦隊を残さずに全力で向かうとは限らない、むしろ残していると見る方が常識である。この艦隊を無視して突入だけを優先しても、当然相手は阻止行動に出るだろうし、最悪後方から襲われては大損害を被る可能性もある。こういった脅威をまず排除してから突入するのは常識的判断であり、小柳の意見もそういった意味である。
実際捷号作戦の要領でも、第一遊撃部隊は上陸地点に近づいたら、まず「周囲の水上艦隊と決戦をし、しかる後に輸送船団を攻撃する」としており、周囲に敵主力がいるのにそれを無視してでも輸送船団攻撃を優先しろとは言っていない。連合艦隊自体も上記のようにまず周囲の敵主力を排除する事を作戦に盛り込んでいるのである。
尚この会議に南西方面艦隊司令長官の三川軍一中将の加わっていた。三川中将は第八艦隊司令長官時代に第一次ソロモン海戦を指揮しており、神はその時の作戦参謀である。この海戦の目的は捷号作戦での第一遊撃部隊と同じく敵上陸船団の壊滅であったが、敵巡洋艦部隊と遭遇した時これの攻撃を優先している。神が小柳の意見を退ける事は、この時の第八艦隊の決断(神が攻撃を意見具申したともいわれる)を否定する事になり、自身の海軍での名声を上げたこの海戦を否定する事は、神参謀にはしずらかったともいわれている。
第一遊撃部隊 一二三六電
1YBハ「レイテ」泊地突入ヲ止メ「サマール」東岸ヲ北上シ敵機動部隊ヲ求メ決戦 爾後「サンベルナルヂノ」水道ヲ突破セントス 地点「ヤモ2チ」進路零度
ついに第一遊撃部隊はレイテ突入を中止し、反転・北上を開始した。
宇垣纏・第一戦隊司令官の陣中日誌『戦藻録』によると艦隊首脳は、レイテでは米軍が水上部隊・陸上飛行場ともに迎撃態勢を整えているだろうから、むざむざこの敵陣へ突っ込むより敵の意表をついて、北から追ってきている機動部隊を撃破してやろうという考えにより、反転を決意したという(この後13時にまた南下し、『戦藻録』によれば13時13分、最終的な反転・北上へ移った。米軍側には、第一遊撃部隊が行動を決しかねてウロウロしているように見えたらしい)。
しかし当然ながら、この追い求めた「敵機動部隊」は何処にも存在しなかった。そうこうしているうちにも米艦載機の断続的襲撃は止まず、「利根」と駆逐艦「早霜」が損傷する。しかも空襲の一部は、日本軍航空機による誤爆だった。
なお、宇垣長官はこの反転の決断に不満そうだったことが多くの生存者の証言にある。しかし映画「連合艦隊」などで描かれるような、反転を不服として怒鳴っていたという証言は「大和」の副砲長など一部でしかなく、部下の第一戦隊参謀などは「怒鳴っていた事実はない」とすら証言している当事者もいる。(この大和の副砲長の証言に関しては、彼の講演、著書の内容で、当時の記録や他の生存者の証言にかみ合わず、裏付けが取れない物が多く、信憑性に欠ける点に注意)
宇垣が不満であった理由については
と考えられる。
従来は反転した事に不満で上陸船団攻撃に向かうべきと考えたからともいわれていたが、それではそれまでの彼の言動と矛盾することになり、かつての映画などで表現されるような「宇垣長官は突入すべきだと考えていた」というのは現在では否定的である。
16時16分、北上を続ける第一遊撃部隊の上空を「ヤキ1カ」の敵を攻撃すべく、基地航空隊の航空機約60機が通過する。今作戦で初めて見る友軍の編隊に、疲労していた艦隊乗組員たちは大いに鼓舞された。しかしこの航空隊はそれから間もなく米航空隊と交戦し四散、しかも一部の機は16時40分から米機の空襲を受けていた第一遊撃部隊を「味方機の空襲を受ける米艦隊」と誤認し、空襲を仕掛けてしまう。一説ではこの時「羽黒」が被弾したともいわれている。
また単独で退避行動していた「熊野」も2度友軍機からの誤爆を受けている。このような状況をうけ、基地航空隊の福留繁司令長官は出撃中止の命令を出す始末となる。
決戦を挑むべき敵艦隊を見つけられず、艦隊の損害は刻々と増加。長距離を走り回り、駆逐艦は燃料が欠乏しつつあった。17時22分、栗田はサンベルナルジノ海峡の通過要領を下令。21時過ぎ、第一遊撃部隊は海峡を抜け、シブヤン海へと戻った。ハルゼー艦隊が“サンベル”の沖合まで引き返してきたのは、その4時間後だった。
戦艦「大和」の戦闘詳報によると、「大和」は機動部隊本隊から、12時15分に「大淀へ旗艦変更」の電報、14時41分に「敵機100機の空襲を受けて「秋月」が沈没、「千歳」と「多摩」が落伍」の電報を受信している(ただし後者は「瑞鶴通信不能」の部分が欠落)。栗田は戦後のGHQの尋問や戦史家の取材に対し、その受信時刻にはその電報を見ておらず、サンベルナルジノ海峡通過直前(25日夕方)になって知らされたと説明している。
この電報が、いままで私のところへとどかなかったのはどういうわけか。
着信してから、なぜこんなに遅れたのか。まだほかにないか。
すべては、後の祭りだった。
戦術としての特攻(神風特別攻撃隊)を始めたのは、この海戦で基地航空隊・第一航空艦隊の長官だった大西瀧治郎中将である。故に彼が「特攻の創始者」とされることが多いが、海軍内部、こと軍令部では一年前の昭和18年から既に研究が始まっており、本格的に取り組んでいたのは、山本五十六・連合艦隊司令長官の下で主席参謀を務めていた黒島亀人少将である。
黒島は山本の戦死後、連合艦隊から軍令部第二部長へ移り、モーターボートや航空機による特攻(自爆攻撃)の研究を重ねていた。一方、この時期の大西は特攻慎重論者だったという。
マリアナ沖海戦敗北とマリアナ諸島玉砕で壊滅した第一航空艦隊は、フィリピンに移って再建に乗り出した。しかし9月以降、米軍の空襲やダバオ誤報事件での無意味な出撃、そして台湾沖航空戦によって消耗し、一航艦の稼働機数は40機程度にまで落ち込む(シブヤン海で栗田艦隊の上空護衛が出来なかったのは、このためによる)。10月5日、寺岡謹平長官が更迭されて大西が長官となった。
特攻慎重論の大西だったが、戦局の悪化によって考えを変えたものか、赴任にあたって米内光政海軍大臣・及川軍令部総長・豊田連合艦隊長官それぞれに特攻の決意を語っている。10月19日、マバラカット基地(現・クラーク空軍基地辺り)に到着した大西は、すぐさま参謀たちと特別攻撃隊の編成・人選を開始。大尉・関行男が指揮官に選ばれ、20日、長官訓示と命名式が行なわれた。
国学の大家・本居宣長の和歌から引用し、特攻隊は「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」と名付けられる。
21日、特攻4隊24機はマバラカットを出撃。フィリピン東方のハルゼー艦隊攻撃に向かうが、悪天候に阻まれて帰投。「大和隊」の久納隊長機が未帰還となる。この後も特攻隊は連日出撃するが、条件が整わずの帰投が続く。帰還のたび、一航艦の玉井参謀に涙ながらに謝罪する関大尉の姿があった。
25日、出撃した「敷島隊」はサマール島東方で敵空母部隊を発見。奇しくもこれは、栗田艦隊が追撃戦を繰り広げた護衛空母部隊「タフィ3」だった。10時40分ごろ、栗田艦隊の攻撃から逃れたばかりの「タフィ3」へ「敷島隊」は突入。おそらく関大尉のものと思われる一機(もしくは二機)が護衛空母「セント・ロー」に“命中”。「セント・ロー」は魚雷・爆弾の誘爆を起こし、30分後に轟沈する。また、護衛空母「キトカン・ベイ」にも特攻機が命中し、損害を与えた。
この日は別の特攻隊が「タフィ3」に再度突入して護衛空母「カリニン・ベイ」に損害を与え、ハルゼー本隊にも特攻機が突入して空母「イントレピッド」を小破させた。
特攻隊の戦果は護衛空母1を撃沈、正規空母1・護衛空母2に損害などであったが、例によって日本側はこの戦果を過大評価。24日に第二航空艦隊(福留中将)が行った通常攻撃の戦果が捗々しくなかったことも相まって、一航艦の航空機消耗による臨時戦術だったはずの特攻が、これ以後は陸軍航空隊も加わって、終戦までの常套戦術となってしまうのだった。
25日19時15分、栗田は損傷落伍した艦とその救援の駆逐艦に対し、損傷修理が出来ない艦は自沈処分して退避するよう命じる。
駆逐艦「野分」と「藤波」がこれに該当したが、「野分」は26日1時ごろ、サンベルナルジノ海峡の手前で南下してきたハルゼー艦隊の高速部隊に捕捉されてしまう。「野分」は集中砲撃を受け撃沈。救助されていた「筑摩」の乗員もろとも総員が戦死する(「筑摩」処分地点で救助されなかった乗員1名のみ、漂流の後米軍が救助)。
「藤波」はサンベルナルジノ海峡を単艦で通過したが、27日、シブヤン海で損傷・座礁した駆逐艦「早霜」の救援に向かう事になる。発見した「早霜」を救助しようとするが、ミッチャー機動部隊の艦載機の攻撃を受けて撃沈。これも救助した「鳥海」乗員もろとも全員戦死となる。
26日、シブヤン海を西方へ撤退してゆく第一遊撃部隊は、夜明けとともにハルゼー艦隊の追撃を受ける。
この追撃空襲で、軽巡「能代」が撃沈。駆逐艦「早霜」は損害を受け、沈没を避けようとして浅瀬に擱座。「早霜」救援に向かった「藤波」は上記のように撃沈され、「早霜」のその後も不明となった。
単独で避退する「熊野」にも米艦載機が来襲し、艦中央に爆弾が命中し、速力が9ノットにまで低下する。「熊野」の危機を知った退却中の第二遊撃部隊指揮官の志摩長官は、第一水雷戦隊司令官の木村昌福少将に救援を指示、旗艦「霞」と「足柄」が救助に向かい「熊野」と合流、2隻の護衛の下「熊野」はなんとかコロン湾に帰着する。
また志摩長官は貴下であるが別行動をとっていた第16戦隊から空襲をうけ「浦波」が沈み「鬼怒」が航行不能となっている事を知り、「不知火」に救援に向かわせる。しかし第16戦隊の生存者は既に後続の輸送船に救助されており、「不知火」の出動は空振りに終わる。27日退却中の「不知火」は「早霜」が座礁した近海を通過するが、ここでもミッチャー機動部隊の空襲を受けてしまう。「不知火」は「藤波」と同様の運命をたどり、乗員総員が戦死する。
27日、機動部隊本隊の残存各艦は三々五々に奄美大島へ帰投。28日、第一遊撃部隊はブルネイへ帰投する。残余艦艇のうち、巡洋艦や駆逐艦など中小艦艇を中心に輸送作戦「多号作戦」への投入が決定されマニラに集結する。こうして5日間かけて行われたフィリピン周辺での一大決戦は終結する
実際とは異なり、海軍ではこの海戦で米軍に対して一定の戦果を挙げたと判断していた。神風特別攻撃を含む基地航空隊の戦果と、サマール沖海戦での栗田艦隊の戦果を総合し、10月27日には撃沈空母8、巡洋艦3、駆逐艦2、輸送船4以上、撃破空母7、戦艦1、巡洋艦2、撃墜500機以上と発表している。同日には海軍大臣及び軍令部総長が連合艦隊に対し大戦果を挙げた事を祝し、激励の電報すら打っている。
こうした状況判断により、陸軍はレイテ島での決戦を目指しルソン島からレイテへへの兵員増強を強化、海軍も多号作戦で護衛作戦を展開し多くの艦艇を失う事になる。
これらの戦果判断により、当時の栗田の評価は「自艦隊だけで米機動部隊の一群を撃破した」と高かった。そんな栗田長官は11月21日、第一遊撃部隊の主力艦艇(「大和」「長門」「金剛」)を率いて本土への帰投する。その途上で米潜水艦の攻撃を受け、「金剛」が撃沈。唯一潜水艦に沈められた日本戦艦となる。
大破した重巡「高雄」と「妙高」は、潜水艦の跳梁跋扈で本土帰投が出来ず、結局終戦までシンガポールに留まる。
フィリピン防衛と『一撃講和』を賭けた捷一号作戦は、そもそも敵機動部隊と攻略部隊双方の撃滅を目指した作戦であったが、主力の基地航空隊を直前の台湾沖航空戦で戦力の半数を失い、作戦の根幹が大きく変わったのにも関わらず、従来のまま作戦を強行した結果、文字通り日本海軍水上部隊を文字通り擦り潰して終わった。
なお、この作戦で「航空支援のない水上艦艇を敵勢力圏内に突入させる」ことはほぼ不可能であり、幾ら各艦の対空兵装を増設しても無駄であった。この事は開戦以来前線で戦ってきた小沢や栗田も同様の考えであり、小沢自身も作戦発動前より、栗田艦隊の防空用の航空戦力の強化を意見具申している。作戦後も栗田艦隊はその戦闘詳報で「水上艦艇に幾ら対空兵装を強化しても航空機に対抗できない」と意見具申、小沢艦隊も同様の具申をしており、水上艦艇単独で敵機に立ち向かう事の限界を進言している。
しかしそれに対する連合艦隊の態度は冷淡だった。栗田艦隊の本土帰還後、軍令部に報告に来た同艦隊参謀から「味方の航空援護なしに水上艦艇を突入させるのは無謀である。今後は一切その様な作戦はしないよう軍令部から注意してほしい」と頼まれた軍令部第一課長が、もっともだと考えて、連合艦隊に赴きそう伝えたが、連合艦隊側は「現場の勇気がないだけだ」と反論し、第一課長が過去の戦訓などを持ち出していくら説明しても納得しなかったと証言している。連合艦隊はその後沖縄戦が始まると、栗田艦隊や軍令部の意見を無視して再度突入作戦を実施、結果大和が沈み約3700名の将兵が無為に死んでいった。
また沖縄戦さながらの1945年4月30日、海軍大臣が天皇への人事内奏を行った際、敵勢力圏内に航空支援なしの水上艦艇を突入させたことに関して天皇より「レイテ作戦における水上艦船の使用について不適当ありやナシや」と御下問があり、後日軍令部より「捷一号作戦の構想自体は問題はないが、水上艦隊と連携すべき基地航空隊の戦術指導が不適切であり、遠く本土にいるのではなくフィリピンなり台湾に司令部を移して指導しべきであった」という旨を奏上し、連合艦隊の作戦指導に問題があった事を認めている。
作戦終了後も参加艦艇の多くは内地に帰還することなくレイテ島の戦いが「決戦」に変更されたことでルソン島からの増援計画が本格化し、それを輸送する「多号作戦」が複数回実施、それに多くの艦艇が動員され沈んでいった。しかし少ないながらも輸送に成功した事例もあり、レイテ島で苦戦を強いられる陸軍に少ないながらも物資補給や兵力増強ができたのも、この海戦から帰還した艦艇があったればこそであり、結果的に栗田の決断が功を奏する事になった。以下にこの海戦とそれ以降に沈んだ、今海戦の参加艦艇を記載する。
日付 | 喪失 | 戦没海戦・事由 |
---|---|---|
10月23日 | 重巡 「愛宕」 「摩耶」 | |
10月24日 | 戦艦 「武蔵」 | シブヤン海(空襲) |
駆逐艦 「若葉」 | スールー海 (空襲) | |
10月25日 | 戦艦 「山城」 「扶桑」 重巡 「最上」 駆逐艦 「満潮」 「朝雲」 「山雲」 |
スリガオ海峡(水上艦) |
空母 「瑞鶴」 「瑞鳳」 「千歳」 「千代田」 軽巡 「多摩」 駆逐艦 「秋月」 「初月」 |
エンガノ岬沖(空襲及び水上艦) | |
重巡 「鈴谷」 「筑摩」 「鳥海」 | サマール島沖(空襲) | |
10月26日 | 軽巡 「能代」 駆逐艦 「早霜」※座礁放棄 |
シブヤン海(空襲) |
駆逐艦 「野分」 | サンベルナルジノ海峡(水上艦) | |
軽巡 「阿武隈」 | ネグロス島沖 (空襲) | |
軽巡 「鬼怒」 駆逐艦 「浦波」 |
第一次多号作戦(空襲) | |
11月3日 | 駆逐艦 「秋風」 | ルソン島西方 (潜水艦) |
11月5日 | 重巡 「那智」 | マニラ湾(空襲) |
11月11日 | 駆逐艦 「島風」 「長波」 「浜波」 「若月」 | オルモック沖(空襲) |
11月13日 | 軽巡 「木曾」 駆逐艦 「曙」 「初春」 「沖波」 |
マニラ湾(空襲) |
11月15日 | ※第一機動艦隊および第三艦隊、解隊 以後、日本空母機動部隊は編成されず ※第一水雷戦隊と第十戦隊、解隊 第二水雷戦隊へ統合 |
|
11月21日 | 戦艦 「金剛」 駆逐艦 「浦風」 |
台湾沖 (潜水艦) |
11月25日 | 重巡 「熊野」 | リンガエン湾 (空襲) |
駆逐艦 「霜月」 | シンガポール沖 (潜水艦) | |
12月3日 | 駆逐艦 「桑」 | オルモック湾(水上艦) |
12月4日 | 駆逐艦 「岸波」 | パラワン島方面 (潜水艦) |
12月26日 | 駆逐艦 「清霜」 | ミンドロ沖(空襲) |
掲示板
210 ななしのよっしん
2025/01/20(月) 15:39:46 ID: ygtnu72kT6
>>209
どこにネガってるのか知らんがキミ自身の言葉で主張出来ないわけ?
211 ななしのよっしん
2025/01/20(月) 22:07:03 ID: HP8eaYY9SB
>>209
>「大勢の兵士が死んだのに無駄になった」という感情論
クワトロ「まったくだ」
212 ななしのよっしん
2025/02/27(木) 19:53:57 ID: OXkPLamckK
>>209
言わんとしたい事は理解できるが、記事自体がURLから読むことが出来なくなってるから、理解しようにも理解できん
提供: とーちよ
提供: kaka
提供: takapon
提供: Cuda
提供: Y.
急上昇ワード改
最終更新:2025/04/03(木) 15:00
最終更新:2025/04/03(木) 14:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。