加賀で富樫氏を滅亡させ、織田信長と石山合戦でやりあった中世の宗教勢力…というのだが、実はホイッグ史観と唯物史観のキメラのような発展段階論によって割と最近までちゃんと政治史的に研究されてなかった気配のある存在である。中世史研究者である神田千里は、これまでの一向一揆研究の見方として、以下の3点を問題視している。
神田千里はこの3点は後世のバイアスがかかって形成された一向一揆像がまずあると述べ、現在の一向一揆研究はおおよそ、この流れを脱しようとしている。
寛政6年(1465年)に比叡山延暦寺が本願寺を攻撃し始めた。この攻撃で東山本願寺のみならず、近江や畿内に戦乱が拡大し、蓮如は摂津にいったんは脱出した。この攻撃は、高田派や仏光寺派にも予定されていたが、最終的に本願寺派のみが対象となった。
この理由としては、本願寺が独自に「一向専修」を主張し他派を否定したことが大きいが、高田派を当初攻撃しようとした延暦寺から見れば、一向宗内の派閥はあまり関係なかったような気もする。最大の原因は、他宗派と衝突を繰り返す門徒の行動に対し、幕府に多数の人脈を有していた本願寺方に足利義政が肩入れした結果、延暦寺が警戒を強く持ったからとされる。
一方延暦寺方も一枚岩では決してなく、本願寺に融和を持ち掛ける青蓮院、仏光寺派を見逃させた妙光院などもいた。ところが、和睦の機運が高まりつつあった状態に反発した、「大物の兵庫」という延暦寺方の人物が、本願寺と戦端を開き、金森合戦が起きる。これに対し蓮如は抵抗をやめさせ、応仁元年(1467年)にようやく騒動が収まった。
蓮如は和睦の結果実如に嫡子を変えたものの、自由な立場にありつつ依然として教団のトップの地位にはあった。結果、高田派の勢力圏である北陸に蓮如が布教を始めたのである。これは朝倉孝景が制圧し、西軍方についた越前などで、安位寺経覚の人脈の利用と足利義政属する東軍支持の行動によるものとされる。あれほど口を酸っぱく騒動を避けるよう言っていた蓮如であったが、高田派を黙殺するかのように、北陸の勢力拡大を進めたのである。
文明6年(1474年)についに一向一揆が始まる。そもそもの問題として、加賀には赤松政則と富樫政親の2人の守護がいた(すべて足利義教が悪い)。赤松政則と言えば細川氏の代表的な与同勢力という積極的な東軍方であり、富樫政親は流動的な浮動勢力だった結果、気づいたら西軍として加賀を制圧したのである。
これに対し、文明3年(1471年)に朝倉孝景が東軍に寝返りを行い、越前が東軍方になる。この中で加賀では西軍が有利になり、同じようにふんわりと東軍方として朝倉孝景と連携しようとする富樫政親は孤立しつつあった。結果、西軍方は富樫幸千代を擁立。こうして一揆まで間もなくの段階になっていた。
そんな中で、前述の蓮如侵出で高田派と本願寺派の対立が激化する。富樫政親は本願寺に与同し、勝利したのだ。ところが、勝者の加賀「国民」が本願寺の威を借りて年貢などを放棄し、言ってしまえばやりたい放題し始めたのである。本願寺蓮如はこの事態に驚き、富樫政親との連携を強めるが、高田派は富樫幸千代と提携を始めた。
しかし、教団幹部の思惑とは別に、一般門徒達は「法的打破」の戦いと思い始めた。本願寺派と協力した富樫政親は富樫幸千代を追い払うも、江沼郡、能美郡、石川郡、河北郡の加賀四「郡中」が本願寺派によって形成され公的に認められるなど、蓮如の思惑をはるかに超えた事態が推移する。蓮如ではなく二俣本泉寺、波佐谷松岡寺、山田光教寺の加賀三ヶ寺と連携した郡中に対し、蓮如は加賀を脱出して放棄した。
かくして加賀は富樫政親にある程度認められた郡中との相互補完のような状態に入り、摂津政親が所領を横領されるなどが行われていった。
応仁の乱は終わったとはいえ、足利義尚の治世においては加賀は西軍方の勢力が強く、最終的に東軍方だった富樫政親の立場は怪しかった。要するに、畠山義就と畠山政長と同じようなことが、ここでも起きていたのである。
文明11年(1479年)に越前で斯波義良と甲斐敏光らが朝倉氏への蜂起を行った。これに対し、尋尊は伝聞情報として、越前・美濃・加賀が足利義視と足利義材を担ごうとしている、と述べている。これらが、畠山義就、一色義春、大内政弘と手を結び、東軍方の朝倉氏と敵対しているというのである。
結局この蜂起は、斯波方の失敗に終わった。ところが文明16年(1484年)に斯波と朝倉の戦いが再開される。それに対し、既に加州一揆の協力が見られる。東軍方だった蓮如はすでに北陸にはおらず、一貫して足利義尚に忠実だった富樫政親が浮き始めたのである。
本願寺門徒はこのような富樫政親に対立し、鈎の陣で足利義尚に富樫政親が参陣したのが、最後の栄光の日々であった。長享元年(1487年)に乱中に免除された年貢の取り立てが守護から行われ、反政親勢力がこれに抵抗を始めた。翌長享2年(1588年)に両者が武力衝突し、幕府は富樫政親を助けるよう軍勢を集め始めたさなか、6月9日に富樫政親が戦死したのである。
この時の「国中一揆」が「郡中一揆」と結びつく存在なのかどうか、実はよくわからない。少なくとも一揆に富樫泰高が擁立されているので、この支持勢力ではあるのだろう。ただし、この事態に対し、本願寺の幹部であった実悟は、足利義尚から本願寺蓮如は一揆を破門するよう命じられたと記録している。実態としては、多数の本願寺門徒を含めた反足利義尚勢力だったのであろう。
本願寺蓮如は足利義尚の踏み絵を汲み、「御叱りの御書」を加賀に発行した。しかし、なんやかんやで加賀は一向一揆に推戴された富樫泰高が治め続けていた。
ところが、さらに事態が変わる。足利義尚の早世と、足利義材が地位を追われたその後の明応の政変である。加賀が足利義澄を擁立した側の、細川政元派だった赤松政則に与えられたのである。しかし、足利義材は脱出し、畠山義統、富樫泰高らを味方につけたと上杉房定が伝え、武田元信が足利義澄派として若狭でこれの防波堤となろうとした。
細川政元は加賀でこの動きに抵抗しようとした一揆勢力を味方にしようとしたが、国人の系譜をひく富樫泰高らの一揆勢力に対し、地下人中心のこれらの勢力は何ら抵抗できなかった。そしていよいよ足利義尹(1回目の改名)は上洛するが、六角定頼に敗北。大内義興のもとに逃れたのである。
こうして足利義尹が脱すると、ついで足利義澄の勢力が、加賀に浸透していった。本願寺教団をパイプに、中央の人々はなおも加賀への交流を持てていたのである。つまり、本願寺教団は足利義澄方の手足となり、より勢力を伸ばしたのであった。
永正元年(1504年)に越前で朝倉元景の乱がおこる。この背後にいたのが細川政元とされる。さらに畠山尚順と畠山義英が和睦したことに対し、細川政元が差し向けた軍勢には本願寺教団が加わっていた。しかも、これはあちこちたらいまわしにされた結果白羽の矢が立った、加賀の一揆勢だったのである。
本願寺実如は細川政元からの要求にできることとできないことを分けて、生き残りを図っていった。この結果として、蓮如以前になかった政治への軍事介入という特徴ができ始めた。永正3年(1506年)には美濃で土一揆が起き、防波堤として本願寺軍勢が動いたこともあった。
かくして、越前で朝倉貞景に対抗する初めての教団による組織的な一向一揆が行われた。これは細川政元の要請のようであった。なお、この時朝倉方には高田派が味方していた。とにもかくにも、北陸で大規模な一揆がおき、越中での一揆勢によって長尾能景(上杉謙信の祖父)が戦死に追い込まれている。
というわけで、厳密な意味で加賀が百姓の持ちたる国になったのがこのタイミングである。ちなみに、忘れてはいけないのが、富樫氏はまだ健在であることだったりする(ていうか織田信長の頃までずっといる)。
永正4年(1507年)に細川政元が暗殺され、翌永正5年(1508年)に足利義澄の没落と足利義稙(2回目の改名)の復権が起きた。この時本願寺実如は堅田に逃れた以外の事績よくわからず、彼がこの騒乱をどう生き残ったのか定かではない。とはいえ、越前朝倉氏と加賀の一向一揆は相変わらず対立状態にあった。
加賀の一向一揆は、本願寺実如から三ヶ条の掟などで私闘を禁じられつつも、法敵との戦いは認められていた。この最たる例が、東から侵出してきていた長尾為景である。
とはいえ、既に加賀は本願寺が治める国である、という認識が共有されており、本願寺は加賀の門徒達をコントロールする必要があった。そのケーススタディとして、能登への侵攻と細川高国が斡旋した和平協定があり、停戦勧告に暴発しようとする門徒達を抑えるなどの苦労も強いられていたのである。
大永5年(1525年)に本願寺実如が死んだ。この時彼はどこの守護にも味方しないようにし、仏敵への戦いを止めるかのように信仰の実践を呼び掛けた。さらに実如は越前への和睦を呼び掛け、以後の加賀三ヶ寺の基本路線は、能登、越前、越中との融和であった。
ところが、享禄4年(1531年)に越前の超勝寺と加賀三ヶ寺との間で抗争が始まった。加賀三ヶ寺は瞬く間に超勝寺陣営を包囲したものの、本願寺教団の幹部である下間頼秀、下間頼盛らが加賀に侵攻を始めたのである。この結果、加賀は超勝寺と下間兄弟が支配することとなった。
この背景には、細川高国の急な敗死があったようだ。とはいえ、越前朝倉氏と加賀三ヶ寺は足利義晴を支持する点で協調しており、このような急な支配体制の変換は軋轢を読んだ。結果、足利義維を支持し、細川晴元と連携することになった本願寺教団は、畿内情勢の激変に盛大に巻き込まれていく。
細川晴元は、本願寺証如に木沢長政への援軍を依頼し、享禄5年(1532年)に大坂への進軍が起きた。畠山義宣を敗死させ、三好元長をも殺した一向一揆の行為に対し、木沢長政と連携した本願寺首脳部への反発が、内部から起きた。奈良で一向一揆がおきたのである。この蜂起は一向一揆とは言いつつも、本願寺門徒が指揮しただけの土一揆と呼んで過言はない。
このような流れから、本願寺は細川晴元と手を切りつつあった。これに対し、足利義晴は法華宗と連携して、本願寺は足利義晴・細川晴元・法華宗を一斉に敵に回してしまったのである。
これにさらに六角定頼も加わり、天文元年(1532年)山科本願寺が燃えた。
かくして、天文元年(1532年)に本願寺は京都を追われた。本願寺は細川晴元への抵抗を続け、細川晴国率いる細川高国残党も与同していった。結局、三好長慶によって足利将軍家と細川氏をめぐる争いは和平に持ち込まれたが、全国的には法華宗と一向宗の争いが頻発していたようだ。
ところが細川晴国らが抵抗を続けるうちに、下間頼盛らが本願寺証如を人質に取り、再蜂起に追い込まれた。『私心記』によると、細川晴国方の三宅国村が本願寺門徒になっていたらしく、三宅国村の妻は下間頼広の娘だった。
この流れに三好連盛らが与同したが、最終的に彼らと木沢長政との間で和平が進められ、本願寺実如は和平に応じ、下間頼秀、下間頼盛兄弟を粛正した。かくして下間頼慶らが細川晴元との戦いを終わらせに動き、法華一揆以来の戦いが終わりつつあった。
ところがそれでうまく話が終わらないのが、加賀である。下間兄弟が粛清された結果、三ヶ寺派は下間兄弟に嚙んだ人々を排斥していった。この抗争は「郡中」を動揺させ、本願寺証如は三ヶ寺を排除した。とはいえ、これは現実的ではなく、結局形無しになったようだ。洲崎氏や河合氏といった長享一揆以来の国衆も、決して本願寺に従順ではなく広範囲の人脈を生かして生き残りを図っていったのである。
かくして、幕府体制に戻った本願寺・および加賀は、その権門のひとつへと戻った。その最たる例が天文15年(1546年)の金沢御坊成立である。本願寺証如は戦争回避、中立の政策をとっていったため、「郡中」は謀反人ではあるものの、幕府体制の一員と認められていたのである。実如によって蓮如の原則から放たれつつあった本願寺は、証如によってそこに回帰を試み始めたのだ。
とはいえ、加賀の一向一揆は依然として朝倉氏と対立し、武田信玄と結んで上杉謙信への抵抗も試みた。しかし、実は意外なことに天文法華一揆以後中央の政争に数十年近く関与せず、実は一人勝ち状態だったのが本願寺であった。そして本願寺顕如の代に、ついに織田信長との戦いが行われた。
元亀元年(1570年)に大坂本願寺が突然蜂起した。足利義昭・織田信長に対抗し、三好三人衆に味方したのである。実はこの原因であるが、あまりにも急な蜂起だったために、諸説紛糾している。
ちなみに付け加えると、雑賀衆が織田方にいたのに本願寺が挙兵して云々は、仁木宏や武内善信らに本願寺軍の中核に雑賀衆がなるのはもっと後だし、この頃紀伊は畠山秋高が軍事動員できるから!的な批判もされているため、指標にしないほうがいい気がする。
というわけで、これも浅井長政の挙兵と同じく、複雑な当事者間のアレコレが積み重なった結果のようだ。
とにもかくにも、本願寺は阿波三好氏に味方しているのではないかと睨まれていたが、まさにそれが的中することとなった。なお、浅井長政、朝倉義景、六角承禎らも本願寺とこの時点までに結んでおり、信長包囲網の結節点になっていたようだ。
既に法主の命令で簡単に動員が行え、一揆勢力として軍団単位で動いていた本願寺であったが、それが組織的抵抗を始めたのである。足利義昭と二条晴良に進められた和睦で、浅井長政・朝倉義景・比叡山延暦寺らに頭を下げた織田信長であったが、元亀2年(1571年)に伊勢長島や近江で本願寺・浅井長政・六角承禎らと戦端を開く。この間、比叡山は燃えた。
本願寺顕如は織田信長に味方した門徒を排斥し、徹底抗戦を行った。その間、首脳陣は公然とは抵抗していなかったが、元亀3年(1572年)7月についに織田信長から絶縁をたたきつけられた。一方で武田信玄出馬の影響で、足利義昭が反織田信長近臣と提携して信長包囲網に加わりつつあった。
元亀4年(1573年)に足利義昭が蜂起し、敗れた。この結果、浅井長政・朝倉義景が一斉に滅ぼされた。さらに言えば、南近畿では遊佐信教に畠山秋高が滅ぼされただの、三好義継が滅んだだの、旧来の守護勢力が広範で一斉に解体される事象が起きていたのである。
こうしていったん収まったかに見えた本願寺勢力との戦いは、南近畿の再編成の最終段階かのように、天正2年(1574年)の越前一向一揆と連動して再開した。足利義昭が一色藤長らに指示しており、遊佐信教や三好康長らがこれに参加した。武田勝頼がこれに加わった一方、越前にも下間頼照が派遣されており、かなり組織的な反抗が進んでいたようである。
これに対し、織田信長は「根切り」、「撫で斬り」を宣言し、抵抗を呼び掛けた。織田信長はある程度の共存を認めつつも、足利義昭へのアピールと、民衆への一揆勢力の脆さのアピールもあってなのか、長島の願証寺などを、非戦闘員も含めて滅ぼしていった。
一方で、織田信長は味方する真宗の諸派を募っている。その最たる例が高田派であり、100年以上の争いが、いまだ続いていたのである。
天正3年(1575年)に越前の一向一揆は徹底的に壊滅された。しかし、劣勢に立ってから越前の教団が結ぼうとした和睦を織田信長は認め、越前のみならず、加賀の一部も織田信長の領土となった。
天正4年(1576年)についに石山合戦が始まった。鞆で毛利輝元らに推戴された足利義昭が全国に味方を募ったのである。織田信長はこれにあたったが、原田直政の討死など、あまりはかばかしい成果は得られなかった。ちなみにこの戦いには雑賀孫一(史料的には以後の鈴木孫一とは別人らしい)ら紀伊の雑賀衆も加わっており、毛利氏と連携しつつ、織田信長を脅かし続けたのである。
なお、この頃加賀は七里頼周と鏑木頼信、奥政堯らが対立し、あまり組織だって織田信長に対立できず、足利義昭から本願寺顕如に催促が行った結果、下間頼純が派遣され、上杉謙信と協力していった。
とはいえ、全国的に本願寺教団は組織だって石山合戦への協力が行われていた。それに加え、天正5年(1577年)に畠山貞政が雑賀衆・根来衆らと蜂起を行った。織田信長はこれを攻め、鈴木孫一らは降伏し、畠山貞政は逃走した。
しかし、閏7月に上杉謙信が動く。ところがあっけなく亡くなり、越後は御館の乱に陥ったのである。一方で播磨では別所長治が反乱し、羽柴秀吉がこれに対応させられていた。この段階でも織田信長は長島や越前のような非戦闘員を含めた根絶やしは命じておらず、明らかに対応に差が見てとれる。
天正6年(1578年)6月に九鬼嘉隆が海路を断ち、本願寺教如が毛利氏に派遣されて協力を持ち掛けられた。この結果釣りだされたのが荒木村重で、摂津が織田信長への反乱状態になったのである。織田信長はこの事態に、庭田重保、勧修寺晴豊から勅令として本願寺に和平を持ち掛けた。
本願寺は毛利氏を待ったが、荒木村重の反乱は鎮圧されてしまった。天正7年(1579年)末から天正8年(1580年)にかけて、畿内に近い織田信長の抵抗勢力は順次壊滅していき、3月に総攻撃があるとまで宣言されていた。しかし、その日が来ることはなかった。織田信長は裏で和平を進めており、正親町天皇の勅書が与えられた。
この和平の条件が以下である。
加賀を返還してもいいとまで譲歩した織田信長の提案を本願寺は呑み、下間頼廉、下間頼龍、下間仲之の三長老が派遣された。本願寺顕如、如春尼はこれを受け入れ、和平がなった。
ところが、これに対し息子の本願寺教如が抵抗する。教如が諸国に檄文すら飛ばしたのである。これは和平に反対だった足利義昭が、その派閥を動かした結果祭り上げられたものと考えらえれる。本願寺顕如は蓮如の発言を持ち出してまで和平を推進したが、加賀では戦いが収まらなかった。
和平を宣言する顕如と抗戦を呼びかける教如の異なる命令に混乱が生じ、加賀は柴田勝家によって攻略。7月2日には教如も抗戦をあきらめ、織田信長は彼の和睦を無条件に認めた。
本願寺教団は以後、織田信長と有効な関係を結んでいた。たとえば雑賀衆内の争いで本願寺顕如が危険にさらされた際、鈴木孫一の要請で彼の護衛すら行っていたのである。本能寺の変で織田信長が殺害されても、本願寺顕如は織田政権と入魂なので安心するよう加賀に直ちに送っている。
一方で、その後の戦乱に相変わらず一向一揆の動員が見られる。例えば賤ヶ岳の戦いの羽柴秀吉方などにである。一向一揆は戦国時代と同様、この時期にも中央の政治抗争に介入をやめていなかった。
ただし、豊臣秀吉によって次第にその勢力にはメスが入れられた。代表的なのが「寺内」に潜んでいた尾藤道休らが処刑された際に本願寺顕如らがその恩赦に感謝した書状を送っていることである。寺内特権は解体されつつあった。
また、加賀などの北陸は、前田利家らの支配下になった。本願寺教団はこれを受け入れ、前田家の飴と鞭の使い分けに従っていったようだ。
そしてついには、西本願寺と東本願寺の分裂へと至る。
歴史的経緯はともかくとして、西本願寺派、東本願寺派の対立は鷲森合戦といった空想上の事件を作り、近世の軍記などで増幅・拡散されていく。この結果生じたのが、織田信長が一向一揆と敵対していたとする石山合戦像である。この結果、それ以前の時代の軍記にも遡及され、例えば『重編応仁記』には『細川両家記』や『足利季世記』には見られない、宗教的結束をしている一向一揆が描かれていく。
加えて近代歴史学の導入によって「百姓」身分に注目した笠原一男など、新たな一揆像が展開されていった。一向一揆が「百姓」身分の利害行動に基づいたとする朝尾直弘らも現れ、ある種の「史観」が形成されたのである。
そもそも参考文献ほぼキリスト教宣教師と軍記やんけだのいろいろあり、それを超えようとしたのが冒頭の神田千里であるが、この人ももうだいぶ上の世代になりつつあるので、それ以後の展開はいったんパスさせてほしい(法蔵館とかがいっぱい出しているのでそれ読んでから…)。
掲示板
9 ななしのよっしん
2023/10/02(月) 09:52:49 ID: YEmnh1hhB0
当時の人間たちとあまりにも置かれてる環境が違いすぎてメンタリティがまるで異星人のようにわからないから答えも出そうにない
10 ななしのよっしん
2023/10/14(土) 00:56:28 ID: zOtj3oe3rq
いい記事だとは思うが…
誤字脱字に文章の散らかりにもうちょい洗練出来れば
11 ななしのよっしん
2024/05/27(月) 17:41:02 ID: lBBDEHRhfR
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と思ったけどまだ源信あたりだな
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最終更新:2025/03/30(日) 18:00
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