富樫泰高 単語


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富樫泰高(とがし・やすたか 1418~?)とは、加賀の大名である。

富樫17・19・24代当。/富樫加賀守護8・10・15代。

富樫の子。富樫富樫。子に富樫泰成がいる。

1度目の当主

当初は醍醐寺の食であった。

1441年、・教将軍足利義教逆鱗に触れて居したため、督を継ぐ。

しかし、まもなく義教は赤松満祐に暗殺されると、教畠山を後ろにして督の返還を要した。

泰高もこれに拒否して管領・細川持之を後ろにして争い、富樫を二分にする内乱を起こした。(加賀両流文安騒動)

この争いで泰高は敗れて雌の時を過ごすことになった。

 

2度目の当主

1445年、細川勝元が管領に就任すると、状況は優勢となり教を追放することに成功した。

1447年に勝元の仲介で和が成立。北に甥・富樫が、南に泰高がそれぞれ半守護になることで合意した。

1458年に赤松政則赤松合言葉後南朝から三種の神器を奪った功績で北加賀を与えられると、加賀統一に向けて支援したという。

1462年、甥・成の死で加賀統一に成功した。

1464年、成の子・政督を譲り隠居した。

 

3度目の当主

隠居から24年後の1488年、政の死により一向一揆に擁立されて3度督を継いだ。

一説では高尾の戦いは政と反政(または成と泰高)のお家騒動ともされている。

一般的には泰高は一向一揆の傀儡当であった(松岡綱、教寺誓、本悟の3人が実権を握っていたという)が、内の荘園を押領して独自の権力の強化に努めた。

1493年、明応の政変越中の放生に逃れてきた足利義稙の下に馳せ参じた。

1499年までの6年間、越中方の政権下で朝倉らと共に義稙を支えたという。

尚、泰高の死亡時期は1500年~1506年である。

督は子・富樫泰成世していたので孫・富樫稙泰督を継いだ。

 

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最終更新:2025/04/08(火) 23:00

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