狐は古来より精霊・妖怪に近く、なんらかの力を持つ動物とされていた。年を経て妖力を増した狐は尻尾が増えていき、最終的には9本まで増えるといわれた。これが九尾の狐である。九尾狐(きゅうびこ)、九尾の妖狐、尾裂狐(おさき)などともよばれる。後述するように、吉兆をもたらす神獣とされる場合と、人を惑わす妖怪とされる場合がある。
九尾の狐が最初に文献に見えるのは中国最古の地理書『山海経』で、「南山経次一経」の青丘山の項に、
という旨の記述がある。また同じ『山海経』「東山経次二経」の鳧麗(ふり)山の項には、
という記述も見られる。
3世紀ごろ、西晋の時代に『山海経』に追加された「大荒東経」では、上記の記述に加えて「天下泰平の時代に現れる」と書かれ、瑞獣とみなされている。それより以前、後漢時代の『白虎通義』では子孫繁栄の証とされた。唐代の歴史書『周書』や北宋時代の『太平広記』などでも同様に幸福と平和をもたらす天界の聖獣と書かれている。日本においても、平安時代の『延喜式』では神獣とされていた。
これと同様のものに「天狐」がいる。千年生きた狐は神獣となり、体毛は白く、眼は金色に輝き、千里先までを見ることができるという。天狐は尻尾が4本、もしくは9本だといわれる。なお古代中国などでは天狐がさらに二千年生きると「空狐」となり、狐耳を持つ人の姿をした神になるとされた。一方江戸時代の日本では天狐が狐の最上位とされていた。
かように古くには神聖なものとみられていた九尾の狐だが、日本では時代が下ると絶世の美女に化けて国を傾ける妖怪「白面金毛九尾の狐」として語られるようになる。とてつもない妖力を持つ妖怪で、その名のとおり顔は白く毛は金色に輝いているという。その実体は狐の姿をしているとも、狐の尻尾を生やした人間の姿をしているともいう。
このベースとなったのは後述する「玉藻前」の話で、これが江戸時代の歌舞伎や人形浄瑠璃などによって中国やインドにみられる同様の傾国の美女伝説と結びつけられて広く流布した。近年の数多くの創作作品に登場する九尾の狐もこれらの影響を強く受けていることもあり、現在ではこちらのイメージのほうが広く知られている。
ただしここに語られる伝説の元となった話には、いずれも「九尾の狐」がはっきりと登場するわけではない。
玉藻前は室町時代の『玉藻の草紙』などでは二尾の狐とされており、現在のように九尾の狐として扱われるようになったのは妲己や褒姒らと同一視されるようになってからのことである。
また妲己についても「千年狐狸精」との記述はあれど、尾の分かれた狐であるとの描写はない。前述の、千年生きた狐は九尾となるという言い伝えから、九尾の狐へと連想が繋がったものと思われる。
更に華陽夫人および褒姒については、大元では狐と結び付けられてすらいない。これらの話が日本に入ってきた際に、傾国の美女という共通項から玉藻前や妲己の伝説と結びつき、日中印の三国を渡り国を傾けた白面金毛九尾の狐の話として流布されるようになったのである。
その当たりをふまえたうえで、以下に「白面金毛九尾の狐」として語られる話を紹介する。
妲己(だっき)
紀元前11世紀頃、殷の帝辛(紂王)の后に妲己(だっき)という女がいた。その正体は実は千年狐狸精という千年を生きた化け狐で、紂王の妾であった寿羊という娘を食い殺し、その身体を乗っ取っていたのである。
紂王はあっさりと妲己に惚れ込み、妲己の言うことなら何でも聞くようになった。元いた皇后は殺害され、皇太子すら流罪となった。紂王と妲己は酒池肉林の乱痴気騒ぎをしたり、税を厳しく取り立てたり、無実の人々を残虐な刑罰にかけたりなど、大いに暴政を振るって国を傾けた。
このあまりの暴虐に反発した姫発(のちの周の武王)によって殷は滅ぼされ、紂王は炎の中で自殺した。妲己は捕らえられて処刑されることになったが、いざ刑執行というときになって、死刑執行人が妲己の妖しい微笑に魅せられてしまい、その首を斬ることができなくなってしまった。そこで武王の軍師・太公望が妲己に照魔鏡(ラーの鏡のようなもの)をかざすと、妲己はたちまちその正体を現した。化け狐は黒雲を起こして飛び去ろうとしたが、太公望が投げた宝剣によって体を3つに引き裂かれて地に墜ち、息絶えた。
華陽夫人
妲己の死後700年ほどが過ぎた頃のこと。天竺(インド)に耶竭陀(マガダ)という国があり、斑足(はんぞく)太子という王子がいた。斑足太子は華陽夫人という美女を愛して妃としたが、その妃の言うままに千人もを虐殺するなど非道を尽くした。
あるとき太子は庭園で一匹の狐が寝ているのを見つけ、弓で射た。すると次の日、華陽夫人が頭の傷がもとで寝込んでしまう。そこで天竺随一の名医・耆婆(きば)に診せると、夫人は人ではなく妖怪狐であるという。太子が金鳳山の薬王樹で作った杖で夫人を打ちすえると、夫人は九尾の狐の正体を現わして、北の空へ飛び去っていった。
褒姒(ほうじ)
殷を滅ぼした周の武王から数えて12代目、幽王の時代。褒国に褒姒(ほうじ)という絶世の美女がいた。褒姒の出生ははっきりしていないが、周の機嫌を損ねた褒国によって周に献上された娘であった。褒姒はやはり瞬く間に幽王の寵愛をほしいままにし、幽王の皇后だった申后をおしのけて后となった。
ところがこの褒姒、なぜか全く笑うということをしなかった。幽王は褒姒の笑顔を見ようとあれこれ手を尽くした。あるとき絹を裂く音を聞いた褒姒が、何が面白かったのかわずかに笑みを浮かべたのを見て、幽王は絹を大量に取り寄せて片っ端から引き裂いた。褒姒はそれを見てやはりわずかに笑みを浮かべたが、次第にそれでも笑わなくなった。
そんなおり、非常時に召集をかけるための烽火が手違いであがってしまうということがあった。有事でもないのに都に集まった諸侯たちのポカーンとした表情を見て、褒姒は笑顔を浮かべた。これを見て喜んだ幽王は、その後も何もないのに烽火をあげて、諸侯たちを集めるということを繰り返した。褒姒はそのたびに笑顔を見せたが、諸侯たちは呆れ果て、やってらんねーよと次第に不満を持つようになった。
そして遂には、堪えかねた一部諸侯と申后の父・申侯の一族、そして北方の異民族・犬戎が手を組んで、周に反乱を起こした。幽王は烽火をあげさせたがいわゆる狼少年状態、「どーせまたいつものお遊びだろJK」と考えた諸侯たちはすぐには集まらず、幽王は捕らえられて処刑された。褒姒も捕らえられたが、いつの間にか行方知れずとなっていた。一説には、狐に化けて逃げたともいう。
褒姒のエピソードが白面金毛九尾の狐のものとして語られる場合、前述の華陽夫人のあとにくることがあるが、史実ではこの出来事は紀元前771年、一方前項の耶竭陀国がインドに存在したのは紀元前6世紀~1世紀と、時系列が入れ替わってしまっている。この矛盾を嫌ってか、白面金毛九尾の狐関連の作品で褒姒のエピソードが省略されることもある。
玉藻前(たまものまえ)
奈良時代は聖武天皇のころ。遣唐使・吉備真備が日本へ帰る船に、いつの間にやら16、7歳の美少女が一人こっそり乗り込んでいた。玄界灘まで来たところで見つかったこの少女、司馬元修の娘・若藻と名乗り、日本見物に来たという。帰国を目の前にして戻るわけにもいかず、そのまま乗せていったが、博多に上陸するとまたいつの間にやら姿を消していた。これが実は白面金毛九尾の狐だったという。
それから三百数十年が経った平安末期、北面の武士坂部行綱の拾い子で藻女(みずくめ)という美しい少女がいた。藻女はやがて鳥羽上皇に仕える女官となり、美しいだけでなく非常に博識だったことから上皇の寵愛を篤く受けるようになった。
あるとき内裏で詩歌管絃の遊びがあり、鳥羽上皇は藻女を連れて参加した。そのさなか強い風が吹き、蝋燭の明かりを全て消し去り、辺りは暗闇に包まれた。すると藻女の体が光りだし、辺りを煌々と照らしたのである。その様が光り輝く玉のようであったため、このときから藻女は玉藻前と呼ばれるようになった。
鳥羽上皇は玉藻前を更に気に入り、とうとう契りを結ぶことにした。ところが契りを結んだ後、上皇は急に病に臥す。医者に診せても原因もわからず、日に日に病状は悪化するばかり。そこで陰陽師・安倍泰親[2]を呼んで診せたところ、その原因は玉藻前、しかもその正体は妖獣で、帝に近づいてその命を縮め、国を乗っ取ろうという魂胆だという。
泰親はこのことを上皇に申し上げたが、玉藻前を溺愛する上皇は信じず、病は更に重くなる。そこで上皇の病を治すためとの名目で「泰山府君」という神の祭をおこなって、玉藻前の正体をあぶりだすこととなった。帝の代理として祭の幣取りの役を任された玉藻前は、祭文が読み上げられるやいなやその形相を変え、九尾の狐となって飛び去った。泰親が咄嗟に四色の幣を取って投げつけると、青色の幣が玉藻前のあとを追っていったので、「妖孤は青い弊があるところに隠れている。見つけ次第都に知らせよ」とのお触れを出した。
青色の幣が見つかったのはそれから実に17年後。下野国(現在の栃木県)那須の領主が、那須野原に青い弊が落ちていると報告を寄せた。またその地では妖孤が女子供をさらうなど悪行を働いているということで、早速討伐軍として三浦介義明と上総介広常という二人の武士、陰陽師・安倍泰親、そして8万を越える大軍勢が送られた。
白面金毛九尾の狐を発見した討伐軍はこれを打ち倒そうとするものの、流石に大きな神通力を持つ妖怪とあってそう簡単には捕まらず、仕方なく一度は引き上げる。再び那須野に出向いて狩ろうとするも、七日をかけても成果はあがらない。この事態に三浦介と上総介の二人は、もし万が一狐討伐に失敗して恥を晒すような羽目になったら、生きて故郷を拝むまいと不退転の決意の元に神々に加護を祈った。すると、三浦介の夢の中に20歳ほどの美女が現れて、どうか命を奪わないでと泣き落としにかかってくる。これは狐が弱っている証拠と考えた三浦介は、「だが断る」と一刀両断、チャンスとばかり最後の攻勢に打って出た。そして逃げる狐に三浦介が放った矢が見事命中、九尾の狐は息絶えた。
その直後、狐は巨大な石と化した。石からは毒気が発せられ、近づいた鳥や獣はその邪気にあてられて倒れた。それを見た人々は石を「殺生石」と呼び、怖がって近づかなかった。それから二百数十年後の室町時代、玄翁和尚がやってきて杖で石を打ち砕くまで、殺生石は猛威を振るい続けた。なおこの時砕けた石のかけらが、高田の名をもつ3つの場所に飛び散ったという。
九尾の狐は妖怪の中でも特に力を持ったものであり、その知名度も大きいことから数多くの作品にこれをモチーフとしたキャラクターなどが登場する。主なものを以下に挙げる。
掲示板
172 ななしのよっしん
2024/02/25(日) 18:48:00 ID: KNykV8B72U
夏王朝の伝承だと首も9つだったという
尚妖怪化すると虎の爪も付いた
173 ななしのよっしん
2024/02/25(日) 18:59:19 ID: HfB5aRIrau
ベートーヴェンの第9といい、9ってやっぱり世界的に不吉な数字なのな
人間に害を成すだけの存在とはいえ人間どころか自分をも滅ぼすような存在に出会ったら流石に人間と協力するんだろうか
共通の敵も、時には必要
174 ななしのよっしん
2024/10/20(日) 11:15:58 ID: Pu3rNwXgIC
数字にまつわる印象と言うのは伝承由来のもの、言語由来のものに大別できる
九の音が苦の音に似てるのは大陸でも「苦力(クーリー)」といった用法がある
対してnine、nein、neunと数字と否定的な単語の音が似ている例は西欧にも見られるが
西欧と東洋に共通する伝承は見られず、両者をつなぐ要素はミッシングリンクと言える
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最終更新:2025/04/02(水) 05:00
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