北条時房(1175~1240)とは、平安時代末期から鎌倉時代に活躍した武将である。
なお、北条時房の母親が足立遠元の娘という話は、『北条氏系譜人名辞典』の北条時房の項目がきっかけで広まった史料の解釈ミスである。同項目は『新編埼玉県史』の「足立系図」を根拠として挙げているが、実際は同書籍の足立遠元の項目にある通り、「足立系図」の足立遠元の娘に関する記述は、「修理権大夫平時房朝臣(妻也脱カ)遠江守時直等母也」と記載されており、彼女は北条時房の妻のことである。
また、この他にも『中条町史』収録の、「桓武平氏諸流系図」が北条時村、北条資時、北条朝直、北条時直、北条時定、北条房快の母親を足立遠光の娘とするが、「関東評定衆伝」や「系図簒要」は足立遠元の娘とするため、おそらく「桓武平氏諸流系図」の方が誤りとされている。
1189年に元服し、治承・寿永の乱には参戦しなかったものの、その総仕上げである奥州征伐には従軍している。その後は源頼家の側近として活動し、後白河院の寵臣で太鼓持ちエピソードに事欠かない平知康に名前を北条時連から北条時房に変えさせられ、北条政子を怒らせた逸話でおなじみである。頼家のその後から父・北条時政に送り込まれたスパイ説もあるが、実際のところはっきりしたことはわからない。
比企氏の乱後は源実朝に変わらず仕え、1205年の畠山重忠の乱では和田義盛とともに大将軍を務めている。そのまま兄・北条義時とともに時政から離反し、時政失脚後は遠江守、ついで駿河守に任じられ1207年には武蔵守に転じる。さらに1213年の和田義盛の乱では甥の北条泰時とともに若宮大路を防衛し、奮戦した。一方、歌や蹴鞠をたしなみ、後鳥羽上皇から信頼されるなど、京都とのパイプも持ち合わせた人物であった。
源実朝の暗殺後、1220年に上洛し皇族将軍を要請したが、結局後の九条頼経を連れて戻ることとなる。承久の乱では北条泰時、足利義氏、三浦泰村、千葉胤綱らと東海道を進軍し、戦後泰時とともに六波羅に入って戦後処理を行った。この結果泰時とともに六波羅探題の任につく。
1224年の北条義時の死没によって伊賀氏の変が起きると、足利義氏とともに鎌倉に戻り、北条政子とともに事態の鎮静化を図った。その後は再度京都に戻り、息子・北条時盛と北条泰時の息子・北条時氏のサポートを務めた。しかし、政子の死後再度鎌倉に戻り、連署として泰時をサポートする役目を担う。以後も幕政に従事したが、1240年に病で亡くなることとなった。
時房の子孫は佐介流と大仏流に分かれていくが、大仏宣時の連署就任などで、北条義時の子孫ではない傍流もいいところの大仏流は家格上昇していき、寄合衆の一角を担うこととなった。
なお、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』でも登場している(演:瀬戸康史)。りく(牧の方)から名前を「トキューサ」と読まれてしまい、以降も視聴者や作中の後鳥羽上皇から「トキューサ」と呼ばれるようになっている。
掲示板
14 ななしのよっしん
2022/12/18(日) 21:23:11 ID: mvzmt6Vm5j
鎌倉殿の13人だと義時死後も仲良くやってたんだろうが史実ではどう思っていたか確かに気になるところだな
いやしかしトキューサとかコメディ描写抜きにしても面白い描き方だった、普段は温厚で情もある男なのにどんどん余裕を失くして冷酷になる兄と違って非道なことは淡々とこなせるある意味怖い人物だったな
15 ななしのよっしん
2022/12/26(月) 12:46:26 ID: CXMOKpV77b
宴会エピソードは泰時が倒れた隙に好き勝手はしませんよアピールだったと思ってた
16 ななしのよっしん
2022/12/26(月) 12:56:36 ID: gMJjR1yYHS
鎌倉殿の13人では、作中でトップクラスに肝が据わってたね
兄についていくという覚悟が決まってた
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最終更新:2025/04/27(日) 08:00
最終更新:2025/04/27(日) 08:00
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