「吉川元春」(きっかわ・もとはる 1530年月日未詳 ~ 1586年12月25日)とは、中国地方で活躍した戦国武将。
(南北朝時代の毛利家にも『毛利元春』なる当主がいるが、ここでは戦国時代の人物について述べる。)
享禄3年(1530年)に、毛利元就と妙玖夫人の間に生まれる。初名は少輔次郎。
武才豊かな猛将としての気質を備えていた元春は、天文9年(1540年)に父の居城である吉田郡山城が尼子家に攻められた(吉田郡山合戦)際、父の反対を押し切って強引に初陣を飾った。まだ11歳(実年齢は10歳)と幼年ながら、元春は何人もの敵兵を討ち取った。
元就は元春の将才を見抜き、「戦では元春に及ばぬ」「眼東南を見て、心西北にあり」などと評した。現にその後、元春は毛利家屈指の猛将として成長していくことになる。
その後、元春は父の政治的布石の1つとして、天文19年(1550年)に吉川家の家督を継ぐ。
吉川家は実母・妙玖夫人の実家でもあったが、現当主・興経は問題の多い人物で、元就を嫌悪していたほか、譜代の家臣団とも対立していた。そこで元就は一計を案じ、譜代家臣達を買収して元春を養子にねじ込み、興経を失脚させたのだった。(後に興経は居館を襲われ、殺されている)
元春の継いだ吉川家は、弟である小早川隆景の小早川家とセットになり、後世に名高き「毛利両川」として、長兄の毛利隆元とその息子・輝元を支えていくことになる。
その後も、厳島の戦い、忍原崩れ、月山富田城攻め、布部山の戦いなど、毛利家の勢力拡大事業における最先鋒で戦い続ける。吉川家は山陰地方に影響力が強く、元春も主に山陰方面で戦っていたが、山陽でも主要な合戦には必ず参戦した。(特に尼子家との戦いは元春の生涯の半分以上を占め、尼子遺臣・山中鹿介からは『宿敵』呼ばわりされるほどの凄まじい死闘を演じた)
しかし、巨大な後ろ盾だった父・毛利元就が死去し、織田信長という魔王の手が中国地方に伸び始めると、毛利家の勢力拡大は徐々に頓挫していく。
信長の命を受けた羽柴秀吉が中国遠征軍を率いて東から侵攻、同時に西からは大友家が圧迫してくるという二正面作戦を余儀なくされた毛利家は、当然の如く追い詰められていく。
そんな逆境の中にあって元春は奮戦するのだが、戦略的劣勢を元春1人の武勇で打開できるはずもなく、ジリ貧に陥る。
そんな中、天正10年(1582年)に織田信長が本能寺で横死。
当時、織田軍は清水宗治の籠もる備中高松城を水攻めで包囲していたが、秀吉は信長の死を毛利側に一切伏せたまま和睦し、大返しを行って畿内へ帰ってしまう。これを元春は「騙された!」と憤慨してすぐに追撃しようとしたが、隆景に制されてできなかった。
(隆景のこの判断は当時の織田家と毛利家の情勢を鑑みれば至極妥当であったのだが、もし追撃していたらどうなったのか、気になるところではある。またこの時の毛利家の判断については諸説あり、追撃中止を訴えたのは安国寺恵瓊であった、元春はむしろ追撃反対派だった、などの説も存在する。)
小身の敵には、遠くから囲み立てるようにするべし。
さすれば、自ずから潰れていく。
大身の敵には、十死必勝の覚悟を持って、全力で事を構えるべし。
さもなくば、我々は天下に『勇無し』と舐められてしまうだろう。
『名将言行録』より、吉川元春の言葉
▲元春が、尼子再興軍を率いた山中鹿介と対峙した際に言ったとされる。元春が単なる猛将ではなく、戦術眼をも持ち合わせていたことを匂わせる言葉である。
織田家と和睦した後の元春は、それまでとは打って変わって戦場からは遠のき、家督を嫡男の元長(もとなが)に譲って隠居してしまう。
これは、弟・隆景との仲を壊したためとも、天下人となった秀吉に仕えるのを嫌ったためとも言われる。これも諸説あるものの、事実だとすれば頑固な元春らしい身の処し方であるとも言え、要領の良い隆景との見事なまでの対比となっている。(一説には、鳥取城の戦いで、股肱の重臣だった吉川経家を秀吉によって自刃に追い込まれたことを、元春は根に持っていたとも言われている)
後年の九州征伐には、元長を豊臣軍に派遣する。しかし、秀吉は元春の完全隠居を認めず、九州への参陣を強く要求した。
この頃、元春は病(癌?)に冒されており、とても戦陣に立てる状態ではなかったが、元春は戦場を終の地とすべくこれに従った。(元春が病身なのを知りながら出陣を強要した秀吉の態度は、元春以外の吉川家家臣達の不興も買ったようで、後に吉川家が反豊臣・親徳川へと傾いた遠因とされている)
九州へと出撃した元春は、精強で知られる島津軍から豊前各地の城を奪取し、往年の猛将としての強さを見せつけた。だが無理をした結果、病状は悪化してしまう。
天正14年(1586年)、元春は出撃先の豊前小倉城で生涯を終えることとなった。享年57。一説には黒田官兵衛から勧められた鮭料理によって病が悪化して、命を縮めたともされている。
元春の死後、吉川家の家督は嫡男の元長が継ぐ。だが、その元長もすぐに病没。結局、吉川家の後を継いだのは三男の経言(つねこと)だった。彼が、後に関ヶ原の戦いで徳川家康に内通する吉川広家である。
シリーズを通して、元就に比肩もしくは彼を超える戦闘能力を持つ猛将として登場している。その戦闘力は中国地方でも随一を誇り、全国で見た場合も最上級クラスである。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 79 | 政治 | 82 | 魅力 | 90 | 野望 | 74 | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 85 | 政治 | 58 | 魅力 | 83 | 野望 | 59 | 教養 | 80 | ||||||
覇王伝 | 采配 | 93 | 戦闘 | 90 | 智謀 | 65 | 政治 | 66 | 野望 | 54 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 182(A) | 智才 | 130(B) | 政才 | 152(B) | 魅力 | 86 | 野望 | 69 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 91 | 智謀 | 70 | 政治 | 73 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 88 | 戦闘 | 87 | 智謀 | 66 | 政治 | 64 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 83 | 智謀 | 72 | 政治 | 56 | 野望 | 80 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 86 | 知略 | 71 | 政治 | 47 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 85 | 知略 | 68 | 政治 | 52 | 教養 | 70 | ||||||||
革新 | 統率 | 95 | 武勇 | 94 | 知略 | 78 | 政治 | 61 | ||||||||
天道 | 統率 | 93 | 武勇 | 94 | 知略 | 78 | 政治 | 61 | ||||||||
創造 | 統率 | 93 | 武勇 | 93 | 知略 | 82 | 政治 | 65 | ||||||||
大志 | 統率 | 93 | 武勇 | 94 | 知略 | 83 | 内政 | 64 | 外政 | 74 |
CV:杉田智和。
能力そのものは武力9に統率8、更に攻城と魅力を持つとかなり恵まれている。毛利家は全員眼鏡(またはそれに準じるもの)を着用しているが、吉川一門は吉川元春の子孫である吉川晃司の影響か全員サングラスである。
計略の「百戦不敗」は味方にかける武力上昇の采配だが、範囲内に自分しか居ない場合は超絶強化並の武力上昇になる。しかし武力しか上がらないため、他の士気6騎馬単体強化に比べると見劣りしてしまう。
ただそれらに比べると効果時間は長い方であるため、速度面は家宝効果や奥義で補えば中々頼もしい。勢力は違うがBSS茶々の「茶々の応援」を採用するのも一考。百戦不敗は勢力は問わない采配なので二色にしてもさほど問題はない。
ver3.2になり自身のみの場合の武力上昇値が10から8に下がったが、悲願の移動速度上昇効果を得た。他の超絶騎馬に比べるとそこまで速くはならないが、それでも全く上がらなかった以前に比べれば遥かに扱いやすくなった。元々の高統率も相まって移動速度低下系の妨害に対して更に強くなったのもポイント。
Ver2.0でレアリティはRに下がったが2枚目が登場した。武力とコストが一回り小さくなっているが、2.5騎馬隊としては破格のスペックになっている。いくらか歳を取ってダンディな親父になっている。
計略の「剛毅果断」は、範囲内の敵の武力と統率を下げ、更にその部隊数に応じて自分の武力を上げ、3部隊以上になると移動速度も上がるという超絶強化。しかし士気が7と結構な重さで、小回りに欠ける。
しかし2.5コスが持つ計略としては破壊力が凄まじく、相手が下手に固まってきたら相手が大名采配級を使っていたとしても蹴散らす事も可能。
毛利には貴重な高性能騎馬であるのも見逃せない。
信長の野望シリーズでは、毛利家どころか中国地方最強クラスの猛将として登場する。智謀や政治も中の上といったところであり、使いどころを選ばない。
一応、戦国無双シリーズや戦国BASARAシリーズにも出演しているが、いずれもモブ武将である。(ただし、戦国無双3Empiresでは他のモブ武将とは若干異なった外見が用意されており、特殊イベントなども用意されている。)
掲示板
42
2024/02/15(木) 16:04:55 ID: eH4NhLgMF7
奥さんがブサイクという話は遥か後年に成立した陰徳記が出典なので、事実かどうかは相当疑わしい。
元春が父・元就に無断で熊谷信直に直談判し、彼の娘を妻に迎えた後は生涯側室を設けなかった
熊谷信直の妹は絶世の美女だった
出典元である陰徳記や陰徳太平記の著者である香川氏と熊谷氏は安芸武田家の家臣同士であり、早期に毛利家に鞍替えした熊谷氏と武田家滅亡後に毛利に降伏した香川氏との間に対立があった
これらを考えると、元春夫人はむしろ美人だった可能性が高いと思う。
ちなみに、熊谷信直は元春の求婚のことを元就が了承しているのか訝しみ、確認の手紙を出したところ、元春の暴走だったことが発覚。
元就は信直宛に平身低頭謝罪の手紙を送り、その中で元春のことを「犬のように考えなしに突っ走る奴」と酷評、「こんな非常識な話が知れ渡ったら自分の面目は丸潰れ」と愚痴りつつ、両家の結婚についてはよろしくお願いしますと頼んでいる。
43
2024/02/16(金) 13:10:58 ID: eH4NhLgMF7
毛利元就といえば手紙が長くてくどいことで有名だが、その遺伝子は元春にもしっかり受け継がれていて、息子宛に6〜7メートルもある長文の訓戒状を送りつけてる。
ちなみに、その訓戒状の中で「私が子どもの頃は父の元就を畏れ、なにごとも言われた通りにしなければならないと思っていた」なんて白々しいことを記しているが、上で書いてある通り、元就の反対を押し切って元服前の10歳で初陣を飾ったり、元就に無断で嫁取りしたり、元春自身も相当やんちゃな子どもだったりする。
44 ななしのよっしん
2024/04/01(月) 19:02:06 ID: QdWTzkWi/K
元就「元春は犬のように考え無しに突っ走る下郎」
元就「隆景があそこまで性格が悪いのは親である俺の責任」
確実に言えるのは似た者親子
提供: kyu
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提供: 子子子koneko
提供: 大好き!模造アイドル
急上昇ワード改
最終更新:2025/03/24(月) 22:00
最終更新:2025/03/24(月) 21:00
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