塚原卜伝(延徳元年~元亀二年/1489~1571)とは、戦国時代の剣豪、兵法家である。新当流の祖。
大事なことなのでもう一度書くが、読み方は塚原「とでん」ではなく、塚原「ぼくでん」である。
延徳元年(1489)に常陸国の鹿島郡に、鹿島神宮に使える卜部(うらべ)吉川覚賢(あきかた)の息子として生まれる。兄弟に、双子の兄である常賢(つねかた)が居る。卜伝の初名は朝孝(ともたか)という。卜伝の祖父・呼常は鹿島七流の使い手として知られ、父もまた鹿島の剣の使い手であり、鹿島神宮の神主や近隣の者など多くの門人を擁していた。
朝孝が10歳の頃、彼に養子の話が持ち込まれる。塚原城の主、土佐守安幹は50歳の時嫡男を病で失い、もともと剣術を通して親交のあった吉川家から養子の話を持ちかけたのである。こうして吉川朝孝は塚原家に入り、のちに元服して塚原新右衛門高幹と名乗ることとなる。養父の安幹は鹿島七流と共に、香取の飯篠長威斎家直の天真正伝香取神道流を学んでおり、これを高幹に教授した。
永正二年(1505)、17歳の高幹は父に願い出て廻国修行の旅に出、京の都へ上洛する。この頃の京では鬼一法眼を祖とする京八流が兵法の中でも隆盛を誇っていた。高幹は京で名のある兵法者と立ち合い、これに打ち勝ちしだいに名声を得るようになる。卜伝は『生涯三十七度戦場に立ち、二十二度敵と槍を合わせ、一度も負けず、対象首十二、端武者の首十六、二百十二人を討ち取ったが、刀傷は一切受けず、矢傷を六箇所に蒙ったのみだった』とされる。永正四年に起こった永正の錯乱に端を発する京の動乱の中、高幹もまた戦に参加して兵法の腕を磨いていたものと思われる。永正十五年(1518)、高幹は郷里へ戻った。
鹿島へ帰還したこの頃に、高幹は鹿島神宮に千日の参籠を行い奥義である『一の太刀』を会得したとされている。(養父より伝授された、もしくは師である松本政信から授けられたという説もある)
大永三年(1523)、高幹36歳で二度目の廻国修行の旅に出る。天文二年(1533)に鹿島へ帰還。この頃に、高幹は養父の娘と祝言をあげ夫婦となるも、妻は祝言を挙げた翌年に病で没した。その後養父も世を去り、高幹は家督を継ぎ塚原城の城主となる。高幹には子がなかったため、塚原一族から養子を貰い受け嫡子としている。
弘治二年(1556)、高幹は息子・幹重に家督を譲ると、剃髪出家して『卜伝』と名乗るようになる。68歳になった卜伝は三度目の旅に出る。この時には、まるで大名のような一団を整えて上洛したと言う。この上洛のおり、卜伝は伊勢の国司・北畠具教、将軍足利義輝などに剣を伝授したとされる。永禄九年(1566)鹿島へ帰る。
元亀二年(1571)、弟子の松岡則方の家にて亡くなった。享年83。
なお、講談などで宮本武蔵と対決する話があるが、武蔵は卜伝没後に生まれた人物であり、史実ではない。
流亡の章~昇竜の章で、鹿島の町で新当流の師範として道場を開いている。
NPC時のみ上泉信綱と共に"剣聖"チートで凄まじい硬さを備えている。
新当流奥義・一の太刀でこちらの無刀取りなどのカウンター系秘技を貫通する一撃を浴びせてくる(こちらは死ぬ)ので非常に厄介。
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最終更新:2025/03/29(土) 21:00
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