大友義統 単語


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大友義統(吉統)(おおとも・よしむね 1558~1610)とは、豊後の戦国大名である。大友氏22代当

概要

豊後大友氏22代当であり、大名としては最後の当

大友宗麟と共に龍造寺氏・島津氏に押され気味の中で豊臣秀吉に救援をめ、豊後1を安堵された。秀吉には相当気に入られていたようで「吉」の一字を拝領して「吉統」(読み同じ)に改名している。…が、文の役で誤報による敵前撤退を犯してしまい、改易されてしまった。

その後は毛利氏などの下で保護されていたが、関ヶ原の戦いで旧領を取り戻そうと西軍側で挙兵。が、黒田如水の前に敗北。またも閉の身となった。その後は秋田氏の下に預けられて常陸にて死去。

どうにも悪手が立つ人物ではあるが、関ヶ原の挙兵で旧臣団が続々集結するなど人望は篤かったようだ(単に大友ブランドが強かっただけかもしれないが)。大友自体は息子大友義乗が徳幕府高家として取り立てられ、幕末まで続いた。

生涯

大友宗麟(義鎮)の嫡男。

1570年、今山の戦いで大友氏は龍造寺氏に敗れ、肥前筑後への力を失い始める。こうした状況を打破するためか、1576年、が隠居して19歳で督を継いだ。と同じく「義」は足利将軍(当時は足利義昭)からの一字拝領である。
とはいっても実権は依然として宗が握っており、以降の大友は宗と義統の二頭体制となる。

……が、翌1577年、の戦いで島津氏の前に大惨敗を喫し、大友は多数の重臣を失ってしまった。ここから大友氏は本格的に苦の時期を迎えることとなり、臣たちも分裂・離反を繰り返すようになる。そして宗と義統の子間にも対立が生じていくのであった。

島津との戦い

1585年、重鎮・立花道雪が病する。こうなると島津が本格的に侵攻を始め、翌1586年、高橋紹運が壮絶に玉砕した。志賀親度など寝返る者も続出するが、一方で志賀親次度の子)や利吉岡妙林尼らが意地の徹底抗戦を見せた。こうした中、宗は独力での対抗は不可能と判断、大坂へと上り豊臣秀吉に臣下の礼をとる。こうして豊臣軍による島津征伐が始まった……!!(だが戸次の戦いで盛大にコケる)

戻ってきた宗丹生(のちの臼杵)に籠もりフラン国崩し』を撃ちまくり意地を見せる。こうして各地の大友軍は豊臣本隊到着を決死の思いで待ちながら戦っていたが、その頃の義統は逃げまわっていた。…と書くと情けないが、彼の名誉のために言っておけば、当である義統が捕らわれたり死んだりしたら元も子もないし、豊前で集結中の豊臣軍に救援を要請していたとも言われる。とりあえず臆病に吹かれていた訳ではない…たぶん。

その待望の豊臣本隊は期待通り島津軍を打ち倒し、九州定された(宗は前後して病死)。が、大友氏に与えられたのは豊後1のみであった。全盛期に保持していた豊前は黒田官兵衛に、筑前小早川隆景に、そして筑後臣であった立花宗茂独立大名として取り立てられ与えられたのである。……だが、大友氏は生き残った。

はずだったのだが。

改易

秀吉は義統をいたく気に入り、自身の「吉」の字を与えて吉統と改名させた。更に豊臣の氏も授けられるなど厚遇されている。文の役が始まるとこの期待に応えるべく、渡して黒田勢とともに奮戦した。

ところが、小西行長が包囲された際に「行長討死」の誤報を受け取ってしまい、結果的に行長を見捨てる形で撤退してしまう。これが秀吉逆鱗に触れて改易、せっかく安堵された豊後すらボッシュートされてしまったのである。人生一寸先は闇とはこのことか。

この後は毛利氏などに預けられ閉の身となった。出して宗厳と号している。なお督自体は文の役の際に既に嫡男・大友義乗に譲っていた。この後はなんとか許しを請おうとするも(以前のお気に入りからは一転)何故か全く許されず、1598年の秀吉の死によってようやく閉から脱することが出来た。

関ヶ原

こうして再び豊臣臣の身分となるが、世は関ヶ原の戦いへと向かっていた。だが当時の吉統の立場は微妙で、嫡男(現当)の大友義乗は徳川秀忠近侍を務めていたのである(大友子は一時家康に預けられていた)。だが吉統は西軍からの「豊後一の恩賞」の誘いに乗り、旧臣たちを糾合して挙兵した(石垣原の戦い)。

緒戦は優勢であったが、黒田如水の巧みな戦術の前に敗れ、吉弘統幸らは討死する。吉統は降を選び、今度は徳川家康から閉処分を下されることとなった。(下広しと言えども、二人の下人から改易や閉くらったのは彼と織田信雄くらいではなかろうか……)

なお息子・義乗は小山評定で東軍参加を申し付けられ、これが実現していれば「豊後一の恩賞」が与えれられるはずだったのだが……なんという運命のすれ違いか。

晩年

吉統は秋田実季預かりとなった。秋田氏が常陸宍戸に移封されたためこれに従い、ここでその生涯を終えた。享年53。

義乗は処分されることなく、そのまま徳に仕え、高家旗本として存続した。

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける大友義統の力一覧。

よわい。政治だけが辛うじて二線級といったところで知略は壊滅的。なお義乗は未登場。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 政治 魅力 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 39 政治 52 魅力 78 野望 65 教養 73
覇王 采配 78 戦闘 59 智謀 43 政治 52 野望 65
天翔記 戦才 104(C) 智才 86(C) 政才 128(B) 魅力 76 野望 66
将星 戦闘 46 智謀 44 政治 60
烈風 采配 52 戦闘 32 智謀 30 政治 53
世記 采配 34 智謀 15 政治 44 野望 44
蒼天録 統率 33 知略 11 政治 44
下創世 統率 29 知略 11 政治 44 教養 64
革新 統率 39 武勇 33 知略 13 政治 49
統率 39 武勇 33 知略 13 政治 49
創造 統率 39 武勇 45 知略 23 政治 50
大志 統率 39 武勇 44 知略 32 内政 49 外政 35

関連項目

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掲示板

  • 24 ななしのよっしん

    2023/08/19(土) 16:25:58 ID: oWcAQk7Ivs

    最近の研究だと後の復事業と本領安堵後の領内再編に関しては一定の評価が与えられてるから内政面はまともなのが為政者としての一の評価点かな。今でも使われる治路を整備したりしてるらしい。
    それ以外だと史料残したと高家としてを残した悪運と立花宗茂に優しかったくらいしか評価出来ないっす。
    擁護点としては大友システム自体が守護大名から脱却出来てなかった事とそれによる深刻な恩賞不足、足利義昭からの幕府の敵認定による権威の喪失、朝鮮出兵失敗の責任を取らされた改易かな。
    、豊戦争関ヶ原と3回も級のやらかししてるから総合的な評価が変わることはいだろうな、評価点の発見や悪評への反論は一次史料次第じゃ可性はあると思うが。そもそも一次史料見つかるのが難しくなって大友研究講談ベースになったのはこいつが地域史料燃やしたからだしある意味自業自得なんだよなぁ…
    仏罰って実際にあるもんやね。

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  • 25 ななしのよっしん

    2023/12/22(金) 03:44:50 ID: PqwFB4Ii8I

    >>23
    そこに関してはエネルギー革命による田川の衰退が原因だ
    なんせ1970年から人口減少し続けてるんだから
    ついでに田川さえ発展すれば北九州市~豊後高田まで確実に発展する

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  • 26 ななしのよっしん

    2024/12/11(水) 08:18:46 ID: sJw9N0KHx3

    父親宗教上の理由で色んな武将と険悪だから隠居させていつもこいつ君にしてプレイしてる

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