小松帯刀(1835~1870)とは、幕末から明治時代初頭にかけて活躍した人物である。
薩摩国喜入領主肝付兼善の三男。幼名尚五郎。のち兼才。1856年に吉利の領主小松清猷の妹・千賀と結婚し、婿養子として小松家を継ぎ、小松帯刀清廉と名を改めた。若いころから頭脳明晰で、長崎で西洋水雷の研究に従事したという。
1861年に側役となり、島津久光の藩政改革を大久保利通らと補佐していく。その信頼から薩摩藩の中心人物となり、1862年に久光が公武合体の実現を目指して上京すると、勅使とともに東下した。そして家臣筆頭として寺田屋事件、幕政改革、生麦事件などにあたっていき、その功績から家老に昇進する。またこのころ大火に見舞われた人吉藩への災害復興のために5000両もの大金を用意し、人吉藩側を驚かせた逸話が残る。
大久保利通、西郷隆盛などを重用する一方で、坂本龍馬を支援して海援隊の設立も援助する。1864年の禁門の変では薩摩藩兵を指揮し長州藩を撃退するが、その後関係改善に尽力し、薩摩藩名義で長州藩が武器を購入できるように斡旋するなど支援。ついには1866年に桂小五郎を招き薩長同盟を締結させた。このように彼は藩の上位にいる立場から、幕末の動乱の中、維新志士たちを支援していったのである。
さらに薩英戦争後のイギリスの関係改善も図り、グラバーと提携。イギリス留学生の派遣や、鹿児島紡績所、小菅修船所の設立などに尽力した。
こうして足固めを済ませていくと、ついに大政奉還を実現させる。しかしあくまでも名目上の大政奉還にとどめようとする徳川慶喜の意図を察すると、王政復古・倒幕に踏み切った。その後、戊辰戦争では後方支援に専念し、特に目立った動きは見せていない。
維新後は徴士、総裁局顧問、外国官副知事などに任ぜられるが、1870年に病気のためすべての職を辞し、そのまま大阪で没した。
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最終更新:2025/04/22(火) 18:00
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