「小田氏治」(おだ・うじはる 1534 ~ 1602)とは常陸の戦国大名である。本姓は藤原氏。家系は宇都宮氏の一門・八田知家を祖とする、小田氏15代当主。出家した後の号である「天庵」としても知られる。
小田の血筋は関東八屋形にも名を連ねる鎌倉時代から続く名門であり、室町時代末期まで370年もの長きに渡って、常盤国筑波郡とその周辺を支配してきた。
父・政治は古河公方・足利家などの周辺勢力と戦い、小田氏の勢力を拡大していった。だが、1545年の河越夜戦では足利晴氏に味方する。この戦は晴氏側の敗北に終わり、佐竹・北条両氏の拡大も重なって、小田氏の衰退は始まった。
1548年、父・政治が亡くなると(享年57)、当事14歳であった氏治がその家督を継いだ。
ここまで見ると、当時の名門にありがちな没落の話に見える。だが、何故かマニアの間では人気を集めている。その理由には彼の「戦下手」にあるだろう。氏治は一つの目的に固執したり、頭に血が上ると冷静に行動できず最悪のところに突っ込んだり、といった欠点があった。そのためか「天才的」ともいえる戦歴を残している。
1556年、北条氏康は結城政勝と打ち合わせをし、北条家臣である遠山・太田、古河公方下命の壬生・千本・佐野・茂呂、それに小山、多賀谷、真壁、水谷、山川らと共に小田領の海老島城(城主・平塚長信)を攻めた。救援をおくった氏治であったが山王堂で敗北し、海老島城は落城した。この戦いで手子丸城主・赤松則定らが討死。さらに4月までに小田氏の所領中郡42郡、田中庄、海老ヶ島、大島、小栗、沙塚、豊田などが占領された。8月に反撃に出た氏治は小田城と海老名城を奪回する(だが城以外の所領は奪回できず)。
1557年、多賀谷氏の下妻城を攻めるが、佐竹義昭の援軍を受けた多賀谷氏に敗北。
1558年、上杉謙信が上野に進出する。この上杉の力添えを受けた佐竹・多賀谷両氏が小田城を3度落城させ、氏治は3度土浦城に逃げ延びる。3月の戦で菅谷範政の嫡子・政頼が討死(享年32)。
1559年、菅谷政貞の活躍で小田城を奪回するも、その勢いで攻めた結城氏との戦からの撤退中、逆に北條城を奪われる。さらに佐竹・多賀谷軍が海老島城を落城させる。9月には小高城の小高氏が玉造氏・手賀氏との内紛を起こし、要請を受けて出陣したが、玉造氏・手賀氏側に加勢した大掾氏に攻められ城2つを落とされる。さらに氏治は退却中に敵の追撃を受け、青柳で敗北する。氏治は上杉謙信に降伏し、佐竹氏と和議を結ぶ。
1560年、氏治は宇都宮氏と佐竹氏に近づき、結城晴朝が関宿城に向かった留守の隙に佐竹・宇都宮と共に出陣、上杉の増援、多賀谷氏の謀反もあって結城城を落城寸前にまで追い込むが、古河公方の調停で講和する。このときに海老島城を取り戻す。
1561年、北条を牽制していた上杉が遂に小田原に総攻撃を仕掛ける。この戦には小田家一族や家臣も参加している。3月16日に佐竹、小田、宇都宮の勧めを受けた上杉は撤退。同日、小田家臣の宍戸四郎は結城勢の佐野氏を破るが、多賀谷氏に敗北する。
1562年、勝倉城主・勝倉俊幹が山王堂で氏治と戦う。同じ頃、佐竹が小田攻略を計画する。
1563年9月、佐竹の圧力に耐えかねた氏治は、上杉との約束を破り、息子を人質に差し出し北条と同盟を結ぶ。
1564年、氏治の裏切りに怒った上杉謙信は厩橋城に入り、佐竹・宇都宮軍とともに海老島城を落城させる。城主・平塚自省は討死した。氏治は敵を動揺させるため、敵の手薄な坂戸城へ向け出陣する。野戦で敗北した城主・小宅尚時は宇都宮に救援を要請し、篭城するも、小田軍大将・信太頼範の攻撃の前に落城。小宅親子は小栗城へ脱出。坂戸城は落ちたが、海老城へ向かっていた氏治の3000騎は山王堂で上杉・佐竹・宇都宮と戦い、敗北。この戦いで菅谷政頼らが討死した。
氏治は小田城を捨て、藤沢城、そして土浦城へと逃げ延びた。その後、小田城を奪回するも、再び佐竹軍の攻撃で落城、土浦城へと撤退した。また、坂戸城も奪回され、信太頼範は討死した(小田城落城時に自刃したとも言われている)。
1565年8月、長年の宿敵であった佐竹義昭が病死する。家督は16歳と若い義重が継いだ。「これは好機」と反撃に出た氏治は小田城、木田余城を奪回する。
「当主の代替わりがあったときに攻めるのは、関東じゃご祝儀がわりだよね」と攻めた氏治だったが、そんな関東の常識は上杉謙信に通用するはずも無く、「喪も明けぬうちから攻めるとは、なんたる不義」として小田を攻める。1566年2月、小田城は上杉と佐竹の総攻撃を受けて落城。氏治は脱出し、捕虜となった小田のものは20銭、30銭程で人身売買にかけられたという。
そんな孤立した小田家のもとの優秀な武将が訪れる。太田三楽斉と梶原政景であった。上曽氏俊を頼ってきた二人を氏治は家臣とし、知領1000貫を与えて片野城、柿岡城を守らせた。また、梶原政景を景国と改名させ、重鎮として扱った。しかし、何か不満があったのか佐竹義重の誘いを受けて二人は佐竹家臣となり、義重は景国に真壁の娘を嫁がせ、自身は三楽斉の娘を側室に迎えた。
1567年5月、甲斐の武田晴信に佐竹征伐を要請するも、丁重にも断らた。そこで氏治は北条氏康と同盟を結び、小田城を奪回した。だが、小田包囲網を緩ませることは出来ず、1568年に城壁を修理しないことを条件に上杉謙信に降伏する。
1569年1月、佐竹は海老島城を降伏させ、さらに小田城周辺の村々を焼き払ってまわった。5月には小田城への攻撃を開始したが、迎撃に出た氏治軍により大きな損害を受けて撤退した。小田攻略のために太田三楽斉は上曽氏、小幡氏が氏治に逆心ありとの流言を流し、これに怒った氏治は3700騎を率いて出陣した。両氏は使者を出して逆心は無いと伝えたが、氏治はこれを信じなかった。だが太田と梶原が出陣し、真壁が増援に向かっているとの情報に、やっと謀られたことに気づいた。手這坂を撤退していた氏治の子・守治は「梶原の首をとらずしておめおめと帰れん」として転進し、信太兵庫は戦を知らぬとこれを笑い、守治はその態度に怒ったといわれている。転進してきた小田軍を迎え撃った太田・梶原・真壁軍は3丁の鉄砲を発射し、谷田部城主・岡見治資が討ち取られると大混乱に陥った。そこへ佐竹軍が坂を下って攻撃を仕掛け、信太兵庫、田土部弾正ら300騎が討ち取られた。さらに小田城が落城し、小田軍は藤沢城へ逃げ延びた。
1570年5月、結城晴朝は宇都宮国綱と同盟し、小田城へ向け出陣した。結城軍は佐竹軍を次々に破り安楽寺に陣を敷いた。ここで氏治は立ち上がる。結城軍に奇襲を仕掛け、連絡路を切断し、結城軍を撤退に追い込んだ。こんな戦いぶりを佐竹相手に出せないものなのだろうか。
1571年11月、氏治は上杉に佐竹征伐を要請する。上杉と佐竹は一時、対峙するも1572年2月に上杉と佐竹は和議を結ぶ。
1572年冬までに小田城を奪回した氏治は毎年恒例である、大晦日の酒宴と歌会を開こうとしていた。その情報を得た太田三楽斉は真壁久幹と相談して奇襲を考えた。そして1573年1月1日、佐竹軍は小田城を攻め、落城させる。氏治は一ノ矢の八坂神社に逃れた。1月3日、氏治は軍議を開き反撃を開始、1月12日(17日説あり)に小田城を奪回した。この後も両軍は戦を繰り広げ、2月7日には氏治の子・重治が討死している。だが4月11日までに小田城は落城し、小田軍は藤沢城と土浦城に撤退した。藤沢城を包囲していた太田軍に夜襲を仕掛けたりなどして防いでいた小田軍であったが、佐竹義重が加勢し永井館、本郷館、甲山城が陥落した。藤沢城も足高加賀守、甲崎四郎左衛門、横山弾正、岩崎勘解由らが討死し、落城した。
1574年2月、遂に土浦城も完全包囲された。野中氏兼は氏治・守治父子を脱出させ、沼尻播磨守を身代わりとして篭城した。総攻撃が始まると城に火を放ち、野中と沼尻は自刃し、土浦城は落城した。佐竹軍に切りかかり討死したと言われる侍大将16人は菅谷正光、由良成繁、岡見宗治、沼尻家忠、片岡、中野、中村、小野、小造、星宮、雨宮、天野、吉原、木村、石堂らとされる。8月に小田属城の宍倉城や戸崎城も陥落し、江戸崎監物は佐竹に寝返った。
行く先が無くなった氏治は小田原に向かい、関東公方・足利義氏を通じて北条氏政に息子を人質として差し出し、助けてくれるよう懇願した。承諾した氏政は次男・北条氏房を土浦城へ向かわせた。だがそこの城主は旧小田家臣の菅谷範政だった。彼は降伏した後も小田家に忠義を尽くしており、直ちに城を明け渡した。1577年には手子生城を奪回し、江戸山城守・大藤小太郎らの働きもあり、一部所領を回復した。1578年に木田余城が落城し、氏治は土浦城へ逃れた。木田余城は菅谷範政の活躍により一時奪回するも、再び落城する。
1583年2月、氏治は孫・金寿丸を人質に出し降伏し、佐竹の軍門に下った。以降1590年まで佐竹勢として出陣している。だが佐竹の下でおとなしくしている氏治ではない。佐竹家臣の太田三楽斉、梶原景国を攻めたり、旧領回復のために独自に行動したりしている。1588年9月には太田・梶原との戦で江戸山城守、大藤小太郎らが討死し、1589年11月に出した文に応じたのは、板橋豊前守らわずか500騎だけだった。1590年1月に再び小田城への攻撃を仕掛けるも失敗。豊臣軍が北条へと侵攻し、氏治の小田城奪還の戦いは終わりを告げた。
1590年8月10日、小田氏治・守治父子は浅野長政を通じて、小田原攻めに参加しなかったことを豊臣秀吉に謝罪したが、領土没収が決定。氏治の娘が結城秀康の側室だったことから客分扱いになることは許され、氏治は秀康に300石を与えられ、大名家としての小田家は消滅した。
1602年に病没した。享年69。佐竹家が秋田に転封し、小田城が廃城されたのと同年であった。
長男・小田友治は北条家に仕え、北条家滅亡後は豊臣秀吉に仕えた。羽田の地を八田と改め、自らも八田友治と名を改めた。その後は豊臣秀次に仕えたが、秀次が謀殺されると同座した責めを問われて知行が没収された。1598年、徳川家康に拝謁し、結城秀康に出仕したが、関が原の戦いで秀康に先駆けを勧めたことが家康の逆鱗に触れ、1601年に暇を出した。1604年、京都で亡くなった(享年57)。
家臣・菅谷範政は佐竹家に降伏した後も、小田氏治に忠義を尽くし続けたとして評価され、浅野長政の推挙を受け、1596年に徳川家の旗本に取り立てられ、菅谷家は筑波郡のうり5000石を有して、幕末まで続いた。
家臣の忠告聞かないことで有名
太田三楽斉の挑発を受けたときの事、菅谷政貞は怒る氏治を諫めたが、出陣を取りやめずに小田軍は手這坂で惨敗する。これに絶望し、出仕しなくなった信太伊勢守は逆心を疑われて暗殺された。
地形を利用しようとした結果
1556年、海老島城下で小田軍と対峙した結城軍であったが、沼地でうまく攻められない。「このままなら勝てる」と氏治が思っていたときに報せが入る。「敵方に江戸衆の増援が着ました! その数、数百!」「たかが数百がなんだ」と思った氏治だったが、援軍にやってきたのはなんと江戸衆の太田源六。太田はその自慢の鉄棒を振るうと一気に形勢は逆転、結城勢は485の首を挙げ勝利したのだった。この時の沼地の事を氏治は覚えていた。
そして1564年、再び海老島城での戦が行われた。今度の相手は上杉謙信だった。氏治は上杉軍の手前で川を背に陣取った。結城軍との戦いで土地勘がある氏治は後ろは川でも、手前は泥田、攻撃してくる上杉軍を一方的に攻撃できると考えたのだ。だが、上杉軍は泥にはまらずこちらに向かってくる。向こうが先に陣を敷いていたのだから、事前に地形を調べているのは当たり前である。こうしてまたあっさりと負けた小田軍であった。
何故か高い人望
譜代の家臣であった菅谷一族は、敵からも賞賛される優秀な将であった。幾度と無く敗れようとも、息子が討死しようとも、敵に降伏しようとも、変わらぬ忠誠で氏治を支え続けた。領民も他国の武将にはなかなか頭を垂れず、新たな領主に年貢を納めず、小田家にだけ年貢を納め続けた。この謎の人望についてははっきりとしたことはわかっていない。氏治最大の謎である。信長の野望で魅力100でもおかしくないんじゃないかと思うのは私だけだろうか。
3から固有グラ女性キャラとなった。子犬。『氏治の直感に逆らえば大丈夫』的なイベントまで用意されていたりと負けネタの宝庫と化している。
問題は佐竹や北条といった強豪国に囲まれている為、どのシナリオで始めても(システムの関係上)早々に切腹してしまいやすく、イベントの回収が難しい事。こればかりは運に天を任せるしかない。4では一定期間経つと勝手に死んでしまうという鬼畜のようなイベント付きなので手早く保護する必要がある。なお政治力はそこそこあるが戦闘力は絶望的。
キャラデザや声優を変えつつも、4・5・6・7と変わらぬ立ち位置で続投中。
天翔記以来、列伝に輝く「連戦連敗」の文字に涙を禁じ得ない。天翔記及び嵐世記以降の作品で大名としてプレイ可能。第8作「烈風伝」能力の下落が続いていたが第14作「創造」で歯止めが掛かり、第15作「大志」では「戦でやられた味方部隊の戦線復帰が早まり、復帰時に強化される」「民の忠誠心にバフが掛かる」等の効果を持つ専用の志「不死鳥が如く」と実在の肖像画をモデルとした新規顔グラが与えられた。
作品名 | 軍事能力 | 内政能力 | ||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
天翔記 | 戦才 | 114(B) | 智才 | 110(C) | 政才 | 76(B) | 魅力 | 63 | 野望 | 65 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 50 | 智謀 | 41 | 政治 | 56 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 42 | 戦闘 | 39 | 智謀 | 27 | 政治 | 47 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 32 | 智謀 | 22 | 政治 | 36 | 野望 | 54 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 36 | 知略 | 34 | 政治 | 37 | 野心 | 49 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 37 | 知略 | 35 | 政治 | 38 | 教養 | 40 | ||||||||
革新 | 統率 | 40 | 武勇 | 19 | 知略 | 38 | 政治 | 42 | ||||||||
天道 | 統率 | 40 | 武勇 | 19 | 知略 | 38 | 政治 | 42 | ||||||||
創造 | 統率 | 52 | 武勇 | 47 | 知略 | 43 | 政治 | 46 | ||||||||
大志 | 統率 | 51 | 武勇 | 47 | 知略 | 45 | 内政 | 46 | 外政 | 42 | ||||||
新生 | 統率 | 46 | 武勇 | 52 | 知略 | 46 | 政務 | 49 |
掲示板
79 ななしのよっしん
2023/09/09(土) 16:37:21 ID: VdQU4Nc04n
小田は実際あの辺じゃ大身で近隣の小勢力から非常に畏れられてた
だからみんな小田と事を構えるときは結城とか佐竹とか上杉とか宇都宮とかにケツ持ちしてもらってる
80 ななしのよっしん
2023/12/01(金) 14:36:44 ID: VS8d5yqePB
>領民も他国の武将にはなかなか頭を垂れず、新たな領主に年貢を納めず、小田家にだけ年貢を納め続けた。
ふるさと納税かな?
81 ななしのよっしん
2024/04/21(日) 22:07:51 ID: MU5LaDHPdg
氏治の父・小田政治が足利政知の落胤(=足利義澄の弟)説はどこまで信憑性があるのだろうか。政治の実父が家系図通り、成治だった場合、天庵さまの13代父が八田知家、さらに5代父を遡ると藤原道兼と、共に大河で話題の人物たちに辿り着く。
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最終更新:2025/04/13(日) 14:00
最終更新:2025/04/13(日) 13:00
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