小笠原政長(?~?)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
小笠原氏は甲斐源氏のうち信濃に進出した一族であり、鎌倉時代は阿波守護を務めた存在である。とはいえよくある話で鎌倉時代は惣領職をめぐる争いがあり、建武政権時代の小笠原貞宗の信濃守護補任をもってようやく決着がついたようであった。貞宗は諏訪氏や海野氏に擁立された北条時行による中先代の乱の早期鎮圧には失敗したものの、足利尊氏と協力して戦功をあげ、尊氏の建武政権からの離反にも付き従った。
その息子が小笠原政長である。父の活躍に拠って足利尊氏からの信任が厚く、後醍醐天皇の冥福を祈る天竜寺供養儀式では先陣12名の一人に加えられ、弟の小笠原政経、一族の小笠原宗光、小笠原行嗣らも供奉人として参列するなど重用された。
1347年に父の小笠原貞宗が亡くなると、守護職を継ぎ信濃春近領が与えられて勢力を拡大させ、信濃国内への権限を強化していった。
観応の擾乱が起きると小笠原政長は当初足利尊氏・高師直方につくが、状況の不利を悟ると足利直義方に降り、打出浜の戦いに参加する。しかしそのために信濃国守護は解任され、諏訪直頼に守護職が与えられ、諏訪氏らによる攻勢で不利な状況に陥った。そこで尊氏による帰順工作が行われて元鞘に収まり、直義の鎌倉落ちの際は遠江で吉良氏と戦っている。
観応の擾乱が収まると今度は南朝方が宗良親王を中心に信濃を拠点とし、1355年の桔梗ヶ原の戦いで息子の小笠原長基とともに完勝し、これでようやく政長による支配が確立したのである。
しかし小笠原政長の死後、信濃国は鎌倉府の管轄に組み込まれ、守護職も関東管領上杉朝房のものとなった。さらに鎌倉府から幕府のものに戻されても、信濃守護は斯波義種が務め、小笠原氏は政長の孫・小笠原長秀の代に一時守護に戻るも、大塔合戦で村上氏に大敗して罷免されて幕府の直轄領になり、小笠原氏がようやく信濃守護として復帰するのは1425年の小笠原政康の代になる。
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最終更新:2025/07/30(水) 22:00
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