北条時行 単語


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北条時行(?~1353)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代に活躍した武将である。なお、旧暦1325年11月22日生まれなのでくてもこれより後の生まれだが、鈴木由美神奈川県史料2801号から元徳元年(1329年)ではないかとは言ってはいる。

概要

北条氏最期の得宗・北条高時の次男である。母親については、軍記物語の『太平記』には北条高時の二位殿(新殿)との別離のシーンが描かれているものの、一次史料では全く記録に残っていない。1333年に北条氏が滅亡した際、幼子だった彼は北条邦時と異なり脱出に成功し、御内人である信濃諏訪氏の下で養育された。

なお、南方としては最後の最後まで相模次郎であり、官職にそこまで興味のない伝統を受け継いだようである。

中先代の乱の伏線

鎌倉幕府滅亡後、建武政権になったわけだが、依然として北条与党の反乱は起こり続けていた。

これらを見ていくと必ずしも北条氏の各門が基盤を持っていた土地を拠点にしていたわけではなく、建武政権に不満を持つ武士の旗頭として、北条氏が機し始めていた、と言われている。

そしてその最大のものが、北条時行の中先代の乱である。

中先代の乱

『小槻遠記』によると、建武2年(1335年)6月、代々関東申次を務めていた西園寺宗が太上天皇光厳上皇?)を奉じて挙兵し、北条高時北条泰家北条時興)を京都大将、北条時行を関東大将名越時兼を北陸大将として起する計画が発覚した。

宗の乱は未然に防がれたが、北条時行は諏訪頼重諏訪時継子らに擁立され信濃で挙兵。7月14日に挙兵した信濃内の戦乱は北条時行方の敗戦濃厚でじりじりと時間が経っていった。しかし、この間急に関東に北条時行軍が現れる。つまり、信濃の挙兵は陽動であり、本隊が鎌倉に向かっていたのである。

7月18日には上野へ侵攻し、足利直義軍の渋川義季岩松経家小山大将格を多数討ち取るレベル膚なきまでに打ち破り、24日に鎌倉入りした。

この足利直義の惨敗に対し足利尊氏8月2日に出立。今川頼基らを失ったものの破の勢いで北条軍に勝ち続け、諏訪子らは自害を遂げる一方、幼い北条時行は離脱し、足利軍はあっけなく鎌倉を奪還した。ちなみに、後日反乱側だった三浦時継一門の乗ったが熱田に漂着して大宮に捕まったことから、脱出は路だった可性がある。

こうして当初の計画とは異なり北条軍は各個撃破されてしまい、建武3年(1336年)2月には北条泰家が再度信濃で挙兵するも、3月鎌倉斯波家長に撃退されている。この鎌倉合戦であるが、かなりの戦だったようで、既に西戦闘している足利兄弟に代わって吉良貞家斯波家長らの総力戦が展開されたようだ。

その後とその死

北条時行の次の動向がわかるのが、建武4年(1337年)である。『太平記』の設定のため史実かはわからないが、狙う首は足利尊氏のみであり、後醍醐天皇新田義貞に恨みはない旨の書状を送りつけている。

というわけで、北条時行はなんと南に帰順した。時行以外にも普恩寺寿、普恩寺友時、越後五郎武蔵三郎、越後政継、相模治部権小など各地に南に属した北条氏一族はおり、足利氏に対する恨みが彼らの原動力だったといわれている。

そして時行は延元2年(1337年)に北畠顕家義良親王とともに西上を開始すると、伊豆起した。また、同時に上野新田義興が挙兵し、鎌倉三方作戦を展開する。かくして、斯波家長を敗死させ、二度鎌倉入りを果たす。

新田義貞の挙兵も足利尊氏の差配といわれるようになった昨今、北条高時息子新田義貞息子との間にはわだかまりはなかったのかもしれない(いや、わかんないけど)。

佐野本系図』によると、応元年(1338年)5月野合戦頃までは、北畠顕家軍にいたようだ。しかし、この年の8月義良親王後村上天皇)、宗良親王北畠親房結城宗広らの団に加わっていたようだ。しかし、この団は散り散りになり、北条時行がどこに漂着したかは全く不明。

続いて『南北朝遺文関東編』1160号によると、応3年(1340年)6月信濃で挙兵。諏訪頼継らと立てこもる。とはいえなのだが、もはや諏訪氏以外に味方を作れず、ジリ貧だったようだ。

そして観応の擾乱による足利直義の討伐の余波で起きた、文和元年(1352年)の武蔵野合戦では、新田義興、義新田義宗屋義治らとともに宗良親王を奉じて挙兵。北条時行はこうして義とともに三度鎌倉入りを果たした。なお、この挙兵は京都との連携作戦であり、足利義詮京都を一時失った、最大の好機であった。

しかし北条時行の活躍もそこまでであった。文和2年(1353年)5月上旬に『鶴岡社務記録』によると残党狩りがあり、ここのどこかで捕らえられたようだ。かくして『鶴岡社務記録』によると5月20日長崎駿河四郎工藤次郎御内人とともに処刑されたのである。すでに新田義貞らによる鎌倉陥落から20年が経過しており、こうして北条氏嫡流はついに絶えたのである。

名前について

ちなみに「ほうじょうときゆき」、ではなく「ほうじょうときつら」なのでは?、という説も最近言われている。この点に関しては楠木正行が「くすのきまさつら」で確定なので、同時代人として「行」は「つら」はないかという傍である。

では、「行」がどこから来たのかという点で、鈴木由美は挙兵前にバックにいた光厳上皇が、さながら後醍醐天皇新田義興名前を与えたように、通字の時と組み合わせて与えた名ではないかとしている。

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