後楽園球場とは、かつて東京都文京区後楽一丁目にあった野球場である。
|
正式名称は「後楽園スタヂアム」といい、1937年9月に開場した。
昭和を代表する球場の一つであり、読売巨人軍(と日本ハムファイターズ)の本拠地として、また東京を代表するプロ野球の聖地として親しまれた。
当時の東京にはプロ(当時は職業野球と呼ばれた)の試合に使える球場が洲崎球場や上井草球場しかなく(明治神宮野球場は既にあったが、プロの試合は許可されなかった)、両球場とも施設があまりにもお粗末なため、都心にプロの興行の出来る本格的な球場を造ろうということで1936年12月に株式会社後楽園スタヂアムが設立された。
また、球場直属のプロ球団として後楽園イーグルス(1943年に消滅。当時の球団名は大和軍)も設立され、1937年のリーグ戦から参戦することとなった。しかし、経営難などで球団と球場は不和となり、同年をもって両者の関係は解消された(球団名はイーグルスに変更)。
後楽園球場の開場は同年9月のため、結局後楽園イーグルスは一試合も後楽園球場で試合をすることはなかった。
1938年のシーズンから後楽園球場は本格的な稼働を始める。イーグルスとの関係が切れたため読売巨人軍をはじめとした多くの球団が使用することとなった。正力松太郎が大口出資者であったことから巨人が優先的に使用したと言われているが、満足な球場が他になかった当時の東京では在京球団はどこも後楽園球場を使うしかなく、あくまで都市伝説の域を出ないであろう。
プロ野球は1950年のシーズンからそれまでの8球団から一気に7球団も増加して2リーグ制に移行したが、相変わらず東京には後楽園球場以外に満足な球場がなく(明治神宮野球場はプロの試合は解禁されていたものの、学生野球最優先であまり試合数が増やせなかった)、在京球団はホームゲームの多くをここで行うしかなかった。そのため、1試合目と2試合目で対戦カードの異なる変則ダブルヘッダーも多く組まれるような有様だった。
1952年に正式にフランチャイズ制度が導入されたが、後楽園球場は読売巨人軍、国鉄スワローズ(現在の東京ヤクルトスワローズ)、東急フライヤーズ(現在の北海道日本ハムファイターズ)、毎日オリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)、大映スターズの5球団が本拠地とした。
後楽園球場の使用状況は超過密だったため、1953年に東急フライヤーズは専用球場の駒沢野球場(現在の駒沢球場とは異なる)を完成させて移転した。1958年に大映ユニオンズが毎日オリオンズに吸収合併され(大毎オリオンズ誕生)、オリオンズが1962年に完成した東京スタジアムに移転したことで後楽園球場の過密状態はようやく緩和された。
残った国鉄スワローズも1964年に明治神宮野球場に移転したが、駒沢野球場の閉鎖で暫定的に神宮球場を使用していた東映フライヤーズが代わりに後楽園球場に舞い戻ってくることになった。東映フライヤーズは日拓ホームを経た後日本ハムが親会社となり、1974年から日本ハムファイターズとなった。また、1981年はセ・リーグが巨人 パ・リーグが日ハムが優勝した為、日本シリーズ全試合が後楽園球場で行われた。(2021年時点唯一全試合同球場で行われたケースでもある。)
そして、後進の東京ドームも含めて、ファイターズが北海道に移転するまでの2003年まで続く読売巨人軍と日本ハムファイターズとの併用が始まるのである。
隣接する後楽園競輪場跡地に日本初のドーム球場である東京ドームが竣工したことにより役割を終え、1987年のシーズン終了後に閉鎖・解体された。現在、跡地には東京ドームホテルなどが立ち並んでいる。
両翼が87.8mと当時としても狭く、ホームランの出やすい球場として知られた。(昭和の野球場の両翼は平均90~92m程度。)それを考慮してか、両翼ポール際のフェンスは最大4.7mに高められていた。一方で中堅は120.8mと当時としては広い部類であった。
現在は主流となっている人工芝が1976年に日本で初めて採用された球場である。
掲示板
掲示板に書き込みがありません。
提供: イクラ(fake)
提供: ゆんなの
提供: jojojojojo
提供: みぞれ
提供: スィート
急上昇ワード改
最終更新:2025/03/24(月) 10:00
最終更新:2025/03/24(月) 09:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。