後藤基清(?~1221)とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将である。
父親は西行の兄弟である秀郷流藤原氏の佐藤仲清で、後藤実基の養子となった。
1185年の屋島の戦いで養父実基とともに源氏方として参戦し、内裏などを焼失させる活躍をした。しかし同年の兵衛尉の無断任官で、源頼朝に「眼は鼠眼にて、ただ候うべきのところ、任官稀有なり」と評されている(とはいえもともと御家人と京武者を兼ねた存在なのでそれ以上の何かしらの行動には移されてはいないのだが)。また、基清の僕従と源義経の家臣・伊勢能盛が乱闘におよび、基清は能盛と雌雄を決しようとして、主君の一条能保に止められていることが記録に残っている。
以後平重盛の息子・平忠房を預かったり、源義経の捜索に駆り出されたり、といった活動が記録される。藤原泰衡追討の際は一条能保の使者として朝廷と宣旨について交渉した。また讃岐の守護であったが、源頼朝没後の源通親(土御門通親)襲撃を企てた三左衛門事件で解任されてしまっている。しかし以降も梶原景時追討、平賀朝雅討伐などに駆り出され、在京御家人として有力な存在であった。
しかし、後藤基清は京武者としての本来の在り方を御家人としての役割と併存しており、西面の武士として承久の乱に宮方として参戦。戦後鎌倉方についた息子の後藤基綱の手で斬首された。
掲示板
掲示板に書き込みがありません。
急上昇ワード改
最終更新:2025/03/14(金) 03:00
最終更新:2025/03/14(金) 03:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。