後醍醐天皇とは日本の第96代天皇である。
鎌倉幕府が滅んでから室町幕府が成立する前の時期に一時的に天皇親政を成し遂げ、また南北朝分裂時代の引き金を引いた天皇としても知られる。
当時の朝廷では後深草天皇系の持明院統と亀山天皇系の大覚寺統で派閥争いが生じており、鎌倉幕府の介入でお互いの天皇が交互に即位する「両統迭立」が取られていた。
大覚寺統の後醍醐天皇はこの両統迭立に嫌気が刺した上、承久の乱以来、朝廷にも盛んに口出しする幕府にも強く不信を抱き、天皇を中心とした平安時代の体制を時勢も顧みず取り戻したいと考えるに至る。
1324年に倒幕計画を立てるが、幕府の監査機関である六波羅探題に知られ失敗(正中の変)。
1331年、再度計画を立案。だがまたしても六波羅探題に知られ、笠置山に引きこもる。護良親王、楠木正成をここで味方につけて挙兵するがやはり失敗。今度は隠岐へ追放されるに至った(元弘の乱)。
しかし、北条氏の専横が続き、政治的にも腐敗していた鎌倉幕府に嫌気が指していたものは多く、楠木正成の他にも足利尊氏、新田義貞などが幕府に反旗を翻し、1333年に六波羅探題と本拠鎌倉が陥落。鎌倉幕府は崩壊した。
京都に戻った後醍醐天皇は「建武の新政」として天皇中心の理想政治を打ち出すが、実際に働いた武士よりも公家への恩賞を重視したことや、当時最大の課題であった土地関係への訴訟に満足に対応できなかったこと、理想重視で現実を見据えた施策が取れなかったことなどから、武士のみならず民衆からの支持も失い、遂に足利尊氏に見限られることとなる。
足利尊氏との戦いの中で1336年には楠木正成と新田義貞を失い、尊氏は持明院統の光明天皇を即位させ、後醍醐天皇は吉野へ逃亡。建武の新政は2年余りで終了した。そして尊氏は光明天皇から征夷大将軍に命じられ、京都に幕府を開くこととなる(室町幕府)。
しかし、後醍醐天皇は吉野逃亡の前に光明天皇に渡した「三種の神器」は偽物であると後に主張し、吉野において自身が正統な天皇であると宣言。ここに京都(北朝持明院統)と吉野(南朝大覚寺統)にそれぞれ別の天皇が在位する「南北朝時代」が到来した。
後醍醐天皇は新幕府に抵抗し、何とか京都に戻りたいと願うが果たせず、1339年に自らの第7皇子である後村上天皇に譲位し逝去した。南北朝時代はその後60年近く続くが、最終的に持明院統の北朝に統一され、彼の血筋の天皇は途絶えている。
政治は結果が全てなため、全国を統御出来ずに日本史上未曽有といえる戦乱を引き起こした人物の一人である後醍醐天皇の評価は高いとは言えない。
しかしながら、これだけではあまりにも不憫であり、なぜ後醍醐天皇が中央集権体制に固執したのかを当時の政治情勢を交えながら説明していく。
元弘の乱当時、政治の実権は鎌倉幕府が概ね握っていたが、鎌倉幕府とはそれまで武勇を示すだけであった武士が初めて政治の領域に乗り込んだ組織であり、その治世は5年に一度のペースで戦乱や暗殺が起こる稚拙なものであった。さらに鎌倉幕府の末期は国権の指示系統が混乱を極めていた。天皇が任命した征夷大将軍の開いた鎌倉幕府であったが、当時の鎌倉幕府の将軍は完全に傀儡と化しており、執権が幕府の運営を取り仕切っていた。その執権の権力も形骸化して北条氏の得宗(惣領)のものとなり得宗家以外の者が執権になった時はただの傀儡に過ぎず、その得宗すら傀儡になって北条家の執事に過ぎない内管領が操る。つまり私的な組織の人物が天下の采配を振るっており、天皇から数えて傀儡を操る傀儡を操る傀儡を操る傀儡を操る影のフィクサーが政治を動かすという世界史でも類を見ない傀儡政権だった。こんな状態でまともな政治など出来るはずもなく、汚職は蔓延り、幕府の統制も上手くいかず、悪党によって治安は乱れに乱れていた。もっとも最末期になると内管領独裁からさらに変化して北条氏有力者と内管領を含めた得宗家の有力従者=御内人により構成される寄合衆が合議制で政治を担当したことにより一応体制は安定はするのだが、得宗が傀儡なのは変わらずかつ何事も先例重視になったため、強力なリーダーシップを必要とする危機対応能力や変革能力は事実上喪失してしまった。
朝廷も平安時代末期より院政が敷かれ、天皇の実権は薄れていき、さらには皇統も鎌倉幕府の介入によって二つに分かれていた。官職は家格によって固定化されており、効率的な運用もされていない。天皇親政下の時代が懐かしまれることも無理もないことである。
後醍醐天皇の治世とは、腐敗した鎌倉幕府を打破し、国権の指示系統を名実共に一致させ、国政を安定させることにあった。これを実現させるために天皇親政を行い、天皇の意向によって官職を任命し、動かすことで政権運営を円滑に行うことを指向していた。後醍醐天皇はこの理想を実現させるためにかなり強引な婚姻関係によって朝廷での政局を制したり、当時中央集権体制を確立していた宋を深く学んだりしていた。倒幕のために非主流派の公家や当時勃興してきた悪党をまとめ上げる政治センスとカリスマを兼ね備えていたなど、決して無能ではない。しかしながら、後醍醐天皇は所詮傍流で中継ぎの天皇であり、朝廷における基盤は確かなものではなく、建武の新政のときには朝廷の官僚機構がすでに衰えており、軍事に関しては武士に立ち向かえなかった。
結局失敗はしたものの、建武の新政が行われていた期間はわずか3年ほどであり、組織を作るために十分といえる時間ではない。政敵であった足利尊氏も武士をまとめ切れなかったため、この時代に中央集権体制を確立するのは非常に困難な道であったといえる。目的はピントの外れたものではなかったが、時代が悪すぎた。
後醍醐天皇が指向した宋学(朱子学)による統治は後の江戸幕府、天皇の権力を強めた中央集権体制が確立するのは後の明治維新を待たねばならない。
鎌倉幕府を滅ぼしたものの、自らの現実離れした政策で武士・民衆の支持を失ったことで尊氏らに反逆されたため、「不徳の君」の代表的な例として語られることが多い。
しかしながら、明治時代中期から第二次大戦終結までは、武家政権の中で一時的にも皇威を回復させたこと、更に南朝が分裂時代の正統皇朝と位置づけられたことなどの理由から、「建武の中興」を果たした天皇として楠木正成と共に高く評価された。
第二次大戦後は、江戸時代以前の無能君主の位置づけに戻っている。21世紀に入って人格面、政策面、能力面の全てにおいて再評価がされていることについては前述の通り。
掲示板
172 ななしのよっしん
2024/10/15(火) 16:41:20 ID: cwb6hCMN+u
>>169
そんなことすりゃ廃帝(もしくは上皇)なんかは弑してOKと言う風潮が出来上がって次は自分がそうなってもおかしくない訳でそんなことできる訳無いんだよなぁ
173 ななしのよっしん
2024/11/01(金) 15:48:43 ID: oyxyBKflym
天皇がまだ大王だった時代から数百年の殺し合いを経て辿り着いた答えだからな
代わりに負け陣営の臣のトップが文字通り首を斬られ、その役目はやがて武士が担うようになり
174 ななしのよっしん
2025/02/19(水) 02:36:16 ID: 3DMTjJXKds
その後の未来がどうなるかっていうのは歴史のIFだから分かりようもないが
もし別系統の天皇は処断してOKって前例を作ったら少なくとも南北朝は今伝わる以上の地獄絵図だっただろうな
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最終更新:2025/04/09(水) 07:00
最終更新:2025/04/09(水) 06:00
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