応仁の乱とは、応仁元年(1467年)~文明九年(1477年)の間に起った、将軍家をはじめとする幕府勢力の内乱である。応仁・文明の乱とも呼ばれ、戦国時代の端を切った戦乱としても有名である。
戦国時代の始まりのひとつとも言われる内乱。(※今日では1493年の明応の政変を始まりに据えることが多い)
教科書でも間違いなくその名を習う非常に有名な出来事であるが、どうしてこんな戦いが起こったのかについてはスルーされている事も多いので知らない人も多いと思われる。何故この乱が起こったのか、当時の興福寺の僧侶・尋尊の書き記したところによれば
「いくら頭をひねっても応仁・文明の大乱が起こった原因がわからない」
…という事で、当時のトップクラスの知識人からしても意味不明な戦乱だった。ざっくり説明すると
といった辺りが原因といえる。様々な思惑で乱は長期化し、室町幕府の統治体制は崩壊へと向かっていった。
南北朝の動乱のさなかに産声をあげた室町幕府だったが、将軍である足利氏の権力基盤は、かつて鎌倉幕府を支配した北條氏と比べると貧弱というべきものだった。これは創立者である足利尊氏の性格や、動乱のさなかに在って敵味方に様々な妥協をして政権を維持していった結果だった。このため、将軍は諸大名の権限の上に権威をもって君臨するという形となり、幕府政治は諸大名たちの合議の上に成り立つものだった。この体制は自国の安定や、他家との調整を望む守護大名たちにとって必ずしも悪くないものだったが、将軍にとっては形式的とはいえ上位にいる自身の命令が必ずしも実行されないこともあった。
この貧弱な将軍権力をいかに獲得するかが、幕府滅亡に至るまでの歴代将軍の課題となった。
この課題を相当程度達成したのが足利義満である。諸大名の内乱を誘発し、将軍が制御しやすい片方の勢力に介入することで、有力大名たちを次々と弱体化させて、自身が制御しやすい相手としたのである。幕府の政治は義満の専制となっていった。ところが、こうした政策は義満の死で頓挫し、次代の足利義持の代では、関東との緊張や巻き返しを図る大名たちの画策もあって、幕府の体制は従来の合議体制へと戻っていく。
こうした流れの中で、義持の死後第六代将軍に就任したのが足利義教だった。宿老たちが生きていた時分は比較的押しとどめられた彼も、宿老たちが相次いで世を去ると、万人恐怖と称された強権政治をもって守護大名たちを排除し、将軍権力の確立を推し進めていく。こうした政策はほぼ達成されたかに見えたのだが、恐怖政治故に排除されるのではないかと疑念を抱いた播磨守護赤松満祐によって弑逆される。
残された義教の息子たちは幼く、更に七代将軍足利義勝は早世。義教の死後八代将軍足利義政の成人までの8年ほど将軍権力は空白となる。これが、将軍権力の弱体化となっていった。
混沌の中、8代将軍に就いたのが足利義政。しかし彼は有力大名を抑えこむことが出来ず、次第に政治を嫌い文化の発展へのめり込んでいく。さらに、彼は正室・日野富子との間になかなか子ができなかった。(正確にはできたけど早死)
隠居したいのに後継者がいない。窮した足利義政は、実弟の足利義視に対して将軍の後継者になるように要請した。義視は、兄が30歳にも満たない年齢で隠居することに戸惑い、義政に男子ができれば後継者争いの元となる…という理由で拒絶したものの、「子供が出来ても将軍職は義視に譲る」と起請文まで書かれたため、しぶしぶこれを承諾する。後見役には、三管領のひとつ・細川家の細川勝元がついた。
ところが、足利義政の正室日野富子に男児が誕生(のちに足利義尚となる)。日野富子は自身の息子に将軍職を継がせたいと考え(というのが旧来の通説だが21世紀になって「その通説には疑問が残る」とする有力説が展開されている)、四職にあたる山名家の山名宗全を後見人につけた。と言っても、史料をつぶさに見ていくと義視と山名宗全の関係も決して悪いものではなく、このへんがさらに応仁の乱に至る経緯をややこしいものにしている。
足利義視・細川勝元の勢力と、足利義尚・山名宗全の勢力は当初こそ直接の軍事衝突はなかったものの、三管領の1つである畠山家にて家督争いの激化(畠山政長と、その従兄である畠山義就の家督争い)に端を発して、ついに戦争が発生した。10年以上の長きに渡る「応仁の乱」である。
応仁の乱が起こるまでにはいくつもの伏線があった。様々な対立構図が最終的に細川勝元と山名宗全をそれぞれ頼るような形で結集し、それが応仁の乱という形で爆発に至ったのである。
色々な場所で分裂・対立が起こっていたのには、足利義教や足利義政が各地の大名家に介入して火種を作っていた事も大きな理由だった。足利義満はその類まれな政治感覚で介入・挑発を繰り返しては守護大名たちの力を削いでいったが、その再現とはならなかったのである。特に義政は当初は有力大名たちに対抗するため、自分の側近たちによる派閥を新たに作ろうとしていた。が、あまりにもコロコロと方針の変わる義政陣営の行動が問題視され、1466年に『文正の政変』で側近たちは一掃された。義政の政治力は一気に低下し、やる気も消滅してしまう。
この政変によって足利将軍家は「武家の調停役」という幕府本来の役目を果たせなくなり、応仁の乱がズルズルと続く一因となった。
既に前項で述べられたように、元々は足利義視(義政の弟)を後継とする予定であったところに、足利義尚(義政の子)が誕生した事で二派に分かれた。ではあるが、将軍家の跡目争いが応仁の乱の原因として大きなものであったとする従来の通説に対し、現代では様々な反証が試みられている。
嘉吉の乱(1441年)で山名宗全が赤松満祐を討伐し、赤松氏は一時滅亡していた。ただ、これにより山名氏の勢力が強くなり過ぎた為、警戒した足利義政は赤松氏の再興を企んだ。もちろん宗全は反対したが、最終的に赤松政則が加賀半国を与えられて再興(1458年)。
旧領である山陽地方を山名氏から取り戻すため、赤松氏は反山名(つまり東軍)に接近していく。
大内氏は日明貿易から大きな権益を得ていた。そこに注目していた細川勝元は、伊予の河野氏の当主人事に介入するなどして瀬戸内への影響力を強め、最終的には大内氏の権益を奪おうと考えていた。この争いは大内教弘・大内政弘と父子二代に渡って続いていた上、教弘の妻が山名宗全の養女であったことも手伝って、大内氏は山名方(西軍)に接近していく。
畠山持国は足利義政の将軍就任当初の最大の実力者だったが、跡継ぎがいなかった。このため当初は弟の畠山持富を後継に指名していたのだが、晩年(1448年)になって庶子・畠山義就に後継者を変更してしまう。当然お家騒動が勃発した。
持国と対立していた細川勝元・山名宗全らは持富の子・畠山弥三郎を支持する(持富は1452年没)が、畠山氏を自分の派閥に取り込みたい足利義政は義就を後継者として認めてしまった。
しかし義就は失策続きであっという間に義政の信頼を失ってしまう。弥三郎は1459年に早世したが、代わってその弟・畠山政長が勝元らの支援の下に取り立てられた。
失脚した義就の方は宗全の力を借りようと接近する(→西軍)。文正の政変で義政側近が一掃されたのをチャンスと見て、宗全らは政長を追放処分とし、義就を当主に復帰させることに成功した。当然ながら納得いかない政長は、勝元の下へ走る(→東軍)。
宗家・斯波武衛家で後継者無く当主が死去したため、分家から斯波義敏が入って家督を継いでいた。だが、義敏は守護代の甲斐常治や朝倉孝景(敏景)と対立してしまう。間の悪い事に、享徳の乱鎮圧のための援軍総大将として関東へ出陣する事を幕府に命じられるも、守護代勢力との睨み合いから動くに動けず、これを無視してしまった(1459年)。
これが問題となって義敏は追放され、代わって堀越公方足利政知の側近・渋川義鏡の息子である斯波義廉が斯波氏当主に就任した(1461年)。ところが渋川義鏡はまもなく不祥事を起こして失脚してしまう。
義敏は足利義政に接近し、義廉との激しい主導権争いの末に義敏が当主に復帰する(1466年)。義廉は山名宗全の娘を妻に迎え、宗全の力を借りての復権を目指した(→西軍)。
文正の政変に巻き込まれて義敏は失脚し(当主復帰から僅か半月後という慌ただしさ)、当主はまた義廉になったが、義敏は当然対抗するために細川勝元の力を借りようとする(→東軍)。
この乱が始まり、長期化した主な原因としては、
が挙げられる。将軍家の跡目争いの当事者たる、8代将軍足利義政、将軍後継候補の足利義視(弟)、足利義尚(息子)たちは、主導的に諸大名の争いを収めようとした形跡が殆ど見られず、逆に山名宗全に懐柔されて畠山の内紛を広げるなど、芯の通らない態度を足利将軍家がとり続けていた。
2つ目の「各勢力の寝返り」は凄まじいものがあり、数多くの諸大名が返り忠を行っていた。富樫政親、朝倉孝景などはその代表である。さらに両軍の人間関係は複雑で、西軍総大将の山名宗全の息子・山名是豊は東軍に所属し、父親の西軍と戦っていた。さらに途中からはトップの将軍家まで入れ替わってしまう。
そして、更に厄介だったのが「陣営内部の目的の不統一」である。この乱で各勢力が西陣や東陣に参加した理由は全く違った物だった。例えば、乱の中盤で大内家が西軍として参戦するが、これは大内家と細川家の瀬戸内の覇権争いや明との朝貢貿易権の争いに端を発する物で、余り各勢力のお家争いとは関わりが無かったりする。つまり、大内家にとって必要な勝利条件とは明との貿易から細川家が離脱することなのだが、細川家からしてみればこの条件はのめないわけである。一方、東軍に付いた赤松家は旧領播磨奪還を望んでのことであるが、現所有者山名家からすればやはり飲めないわけである。
こんな有様なので、両陣営とも和議を結ぼうとするものの、大名毎の和議の必要条件がばらばらで、交渉内容が多岐に渡り複雑化して、あちらが立てばこちらが立たずと言った様で、全く交渉が進まなかったのである。実際、1473年には足利義尚の将軍位が決定するが、その後も戦いは続いたし、大内、細川間や山名、赤松間では和議の後も戦いが続けられたのである。
こうして、応仁の乱は長期化し、京は焼け野原と化す。更に、「将軍家の跡目の決定=権力の獲得」を一応の目的としていたはずの戦争によって、権力の象徴たる足利幕府は著しく弱体化していた。
最早、勝っても何も得られない。何のためにやっているのか…。
山名宗全が自殺しようとして家臣に止められる、という所業を行うくらいに厭戦気分が高まっていたのに、やめどきが分からない。そんな乱は、細川勝元、山名宗全の相次ぐ病死によって終息の兆しを見せ始め、勝元の息子・細川政元、宗全の孫・山名政豊によって和議が結ばれ、9代将軍に足利義尚が就任することで一応の終わりを見た。
この応仁の乱は、殆どの勢力にとって徒労に終わる。以下に主要大名のその後を辿る。
9代将軍に足利義尚が就任する。なお、応仁の乱終結時に、全国の守護大名が戦乱で疲弊し、三管領も斯波が没落、畠山が分裂、細川が幼主となったため、幕府の権力は大暴落したものの、義政が健在であった将軍家の権威が相対的に上昇することとなる。
だが、近江の六角氏征伐の最中に25歳の若さで死没する。更に、8代将軍足利義政も死没し、結局将軍家継承のため再び足利義視にお鉢が回ってくる。跡目争いどこ行った?やがて足利義視の息子である足利義材が相続する(10代目将軍)。ところが足利義政の正室・日野富子と、将軍の父親である足利義視の対立が激化し、日野富子は細川政元と協力して足利義材を京都から追放。1493年には足利義澄を11代将軍に据える。
やがて1496年に日野富子が病死、1507年に細川政元が暗殺されると、細川家で内紛が発生する。足利義澄は細川家の援助を得られないまま、大内義興を味方に付けた前将軍・足利義材が義尹と名を変えて、京都に侵攻。足利義稙とまたも名を変え、再び将軍職に返り咲く。ちなみに二度も征夷大将軍に就いたのは彼だけである。
足利義澄は近江六角氏のもとへ逃れ、細川澄元や三好之長らの援助を受けて義稙勢力と対立する。一度は京都を取り戻すも、決戦を前に死亡。義澄方は敗北し、阿波へと逃走する。
結局足利家の内紛はそのまま続き、10代将軍の足利義材勢力は養子となった堺公方足利義維に引き継がれ、一度崩壊するも、ここから14代将軍足利義栄を輩出、11代将軍の足利義澄勢力からは息子で12代将軍の足利義晴、孫の13代将軍足利義輝、15代将軍足利義昭を輩出する。カオス。
山名宗全の死後、紆余曲折あって孫の山名政豊がおさめるが、乱の最中から叔父の山名是豊に代表されるように、既に内部対立が加速していた。同じく四職で因縁のあった赤松氏との対立を深め、播磨に遠征するも失敗、備前美作を取り返され大きく権勢を落とす。やがて息子の山名誠豊の代には、山名四天王と称される地元有力守護代に押され、更に隣国からは尼子の侵攻もあって、かつて武を持って鳴らした山名氏の勢力は見る影もなく没落していった。
やがて養子の山名祐豊、そこから山名豊国と継承され、この代で織田信長、豊臣秀吉の勢力拡大に屈して江戸時代を迎える。
細川氏は細川勝元死後もその実子である細川政元がその権勢を引き継ぎ、足利幕府でも有力勢力として君臨していたが、細川政元が実子を作ろうとせず、逆に養子を3人も迎え入れ(細川澄之、細川高国、細川澄元)、結果的に澄之派の武将に暗殺され、内紛を招くことになる。応仁の乱の教訓が一切学ばれていない。
政元暗殺の元凶となった細川澄之は細川氏の血筋ではない他氏出身者で、結局真っ先に討伐対象となり滅亡してしまった。
しかし細川高国、細川澄元は双方とも細川氏出身であり、2人の内部分裂は家中全てを巻き込んで泥沼化する。一家で応仁の乱である。一度は細川高国が権勢を振るい、細川澄元を地方に追い落として病死に追い込むものの、執念を抱いた澄元の息子である細川晴元が三好元長を味方につけて細川高国を討伐、味方勢力であった朝倉宗滴、赤松政祐の離脱もあり、最後は甕の中にいたところを捕えられ処刑された。
ところが今度は細川高国の養子であり、養父と実父を晴元に殺害された細川氏綱が細川晴元と対立する。この動きに三好長慶が機敏に反応し、自分の仇討と細川晴元追放をやってのけ、さらに後で対立した細川氏綱をも追放し近畿地方に勢力をつける。(晴元は1563年、氏綱は1564年に病死。)その後弟の細川藤賢と細川晴元の息子であった細川昭元が台頭著しい織田信長へと帰属、ひっそりと生き長られた。
安土桃山時代、江戸時代以降は養子縁組で奥州細川家を相続した細川忠興をはじめとする肥後細川家が権勢を振るうことになる。さらに戦国時代から四百年後、細川政権が中央に返り咲いた。
応仁の乱の始まりである御霊合戦を起こした畠山氏は、その後畠山政長と畠山義就およびその子孫がそれぞれ尾州家、総州家として、畿内で猛烈な争いを続けた。応仁の乱の後ろ四年は大体こいつらの争いだったりする。
応仁の乱後、義就は河内大和に勢力を築き、一方政長は幕府権威を味方として紀伊越中を自制力として戦い続けた。両者は山城を舞台に応仁の乱後も激突を続けたが、これに嫌気が差した山城国衆が細川氏の援助の下での蜂起し山城を失うこととなる。
更に、将軍が義材となると、畠山政長が義就の息子基家(義豊とも)を攻めたが、明応の政変が勃発してしまう。
のちには、堺公方崩壊の戦い、飯森山の戦いも義豊の孫、義堯によって起こっている。この時、義堯が死亡し、総州家が没落、応仁の乱以前から続く家督争いに一応決着がついたものの終わってみれば、越中は神保氏に取られ、家中は木沢長政や遊佐長教に牛耳られ、かろうじて紀伊が勢力圏という有様であった。
その後の畠山氏について、総州家は義堯の孫、尚誠が、永禄の変で足利義輝が討たれた際、一条院覚慶こと後の十五代将軍足利義昭の求めに応じて尽力し、奈良興福寺の一条院を無事脱出させているが、その後は不明。
尾州家は重臣によって当主が次々挿げ替えられるという事態に陥ったが、政長の曾孫、政尚が紀伊で勢力を維持し、その子貞政が高家に就任した。その後、分家の能登畠山家とともに子孫は幕末まで続いた。
足利の庶家では本家とも対等にして、三管領筆頭という、抜群の家格を誇った斯波氏だが、乱の最中に越前は朝倉に乗っ取られ、乱の最中から続いていた今川氏との遠江争奪戦に負けを喫する。勢力を弱らせたまま、最後に残った尾張では、守護代織田氏の台頭著しく、事実上その傀儡となる。復活をかけて立ち上がった相手が織田信長であったため、その歴史を閉じることとなった。
初期幕府の課題として、最有力別家であった斯波氏をどう扱っていくかがあった。そのため斯波氏の領国は他家と比べ分散しており、戦国時代に権威を保った細川、畠山氏などの他家よりも戦国時代に対応しきれなかったともされる。
山名氏と並んで、西軍の軍事力の中核となった大内氏だったが、結果として無傷のまま自国へ帰還することとなった。これにより、東軍に軍事力で完全に劣後した西軍は自然解散となった。
一方でその力をほぼ完全に維持したままだった大内氏は、九州の勢力と戦いつつ、次代の大内義興の代で、応仁の乱で果たし得なかった将軍就任へとこぎつける。
然し、その間に伸長した尼子氏、安芸武田氏の対処、長く続く九州勢力との対決から再び帰還した。義興の子、大内義隆の代で山口は小京都と呼ばれる賑わいを見せ栄華を誇ったが、陶晴賢が謀反。大友氏から来た大内義長を主君に据える。
陶の反乱は大内領内でも反対するものが続出し、更に、その晴賢を毛利元就が打ち取って、大内領国は瓦解。以後、大内氏領国を狙って大友氏と毛利氏が北九州で大激突を繰り広げる。
ブロワース氏のMAD4本を合わせて見ることでで応仁の乱も含め、大体応仁の乱直前の足利義教時代から13代将軍足利義輝死亡あたりまでの畿内政治史を勉強できる……はず。
掲示板
105 ななしのよっしん
2024/05/19(日) 10:15:31 ID: B1TsNn8tu8
日野富子だけが悪いのは違うけど、日野富子は悪くないはずがないんだよなあ
106 ななしのよっしん
2024/05/19(日) 10:55:20 ID: mQidxyIZv0
幕府再建のため、と言えば聞こえはいいけど自分とこで動員できる戦力もないのに金貸しで統制しようとして逆に反発を買ったせいで、家督相続のゴタゴタからの幕府有力家同士の争いに全く歯止めがかからなくなり、
足利将軍家は半身不随からの病状悪化で首から下が全く動かせなくなったので、足利家的にはまぎれもなく余計なことして出しゃばって家を潰した戦犯
107 ななしのよっしん
2024/08/17(土) 01:09:32 ID: 4ATt04ScIW
応仁の乱ってぶっちゃけ日本総国民便乗厨化とかいう一種の集団ヒステリーだよな
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最終更新:2025/03/29(土) 06:00
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