「戸次鑑連」(べつき・あきつら 1513 ~ 1585)とは、「立花道雪」の名でも知られる戦国時代の豊後大友家家臣であり、大友家の隆盛から斜陽まで一身に背負って奮戦した名将である。
歴戦界隈では「ベッキー」の愛称で親しまれている。
(「戸次」→「べつき」→「ベッキー」)
若干13歳で病気の父に代わって佐野親基・問田重安ら全盛期の大内義隆勢いとの戦いにて初陣を飾り、寡兵ながらも猛攻によって大内義隆軍を押し切って、大内義隆より降伏同然の和睦を引き出した事で勇名を得る。正式に元服した際に、烏帽子親の大友家当主・大友義鑑より一字を得て「戸次鑑連」と名乗る事となった。
その後まだ若い頃に振り出した雨を避ける為に大樹の下で雨宿りしていた所、稲妻が鑑連を襲った。しかしこの時、愛刀千鳥を振りかざして稲妻を一刀両断し、下半身不随の後遺症は残ったものの、一命を取り留めて雷神の化身となり、その後は生涯三十七度の戦いに、六人担ぎの輿に乗って鉄砲と稲妻を切った愛刀・雷切を振るって参加して無類の強さを誇った所から鬼道雪とまで呼ばれる様になる。
主家・大友家の後継者争いによる「二階崩れの変」が起きると、鑑連は後継者・義鎮(後の大友宗麟)の側に立ち、義鎮の教育係でありながら彼の廃嫡を画策した自身の舅・入田親誠を成敗し、ケジメを付けるべく妻の波津夫人とも離縁した。
義鎮が当主となって以降は、対毛利家の前線司令官として関門海峡を睨む仁王となり、毛利家に奪われていた門司城を奪還する命を受けた際には、
参らせ候戸次伯耆守鑑連
と書いた紙を括りつけた矢を毛利陣内に放ち、色々な意味で毛利方にもその名が知られる様になる。
毛利元就が自ら大軍を率いてきた際には
豊筑を手に入れ候はずば兵を引くまじく候
との決意で出撃し、小早川隆景軍を蹴散らすも戦いが長期化する中、毛利迎撃軍総大将・吉岡長増の策略により周防に上陸した大内輝弘の働きにより毛利軍を撤退に追い込んで、義鎮の北九州覇権争いに多大な貢献をした。
この時、毛利家の調略を受けて主家に反旗を翻した立花鑑載の居城・立花山城を攻略・敗死させた為、奪還後主命により同城の城主となり立花の名跡を継ぐも、立花の名字を名乗る許可が下りなかった為、彼は名字を生涯戸次で通した。
※謀反の前科のある家名を重臣に簡単に名乗らせない様に時間を空けようとした為といわれている。
しかし、この後クリスチャンとなった義鎮は南国の猛者「薩摩隼人」を率いる島津家に追い詰められた日向の国主・伊東義祐から助力を請われて調子に乗り、「日向をクリスチャンの楽園にする」という奇天烈な野望を抱いて島津家に戦いを挑む。鑑連は島津家はこちらから仕掛けない限り動かないと判断して大友家側からの攻撃には大反対していたのだが、結局聞き入れられずに攻勢に出た事で島津家も北進。大友家は耳川の戦い(高城の戦い)で盛大な釣り野伏をくらって惨敗する羽目となる。しかも鑑連は対毛利家の押さえとして残された為この戦いには参加できなかった。
島津家の勢いは止まらず、鑑連の死の前年には肥前のクマーこと龍造寺隆信を沖田畷の戦いで五人揃って四天王他多くの家臣諸共島津四兄弟の末弟家久が釣り上げて敗死せしめる。鑑連は相棒(兼弟子?)の高橋紹運と共に筑後地方を取り戻そうととうに古希を超えた老体ながら戦いに赴くが、とうとう病に倒れ、
自分の死後、遺骸に甲冑を着せ、柳川の方に向けてこの地に埋めよ
~辞世の句~
異方に 心引くなよ 豊国の 鉄の弓末に 世はなりぬとも
これは遺骸を戦地においていけないという家臣達の判断であり、もしこれを恨んで鑑連が枕元に立つ時は自害して侘びる覚悟で決定した事だった。
そして運び出される彼の遺骸の前では敵味方の区別はなく、
道雪の遺体を僅か1000人で立花に送る。
國中野心の武士も、道雪開陣と聞いて、矢一筋も射ることなく、戦国争乱の中にあっても老将立花道雪を、敵味方たがわず多くの将兵が、優れた武将として見ていたことが察せられる。
※その他、彼の詳細についてはWikipediaの該当記事
参照の事。
鑑連は雷を斬った代償に下半身不随となり、生殖能力に悪影響が出たのか長らく子に恵まれず、56歳にしてやっと一人娘の誾千代(ぎんちよ)を授かった。
鑑連はこの一人娘を後継者と定めて男子同然の教育を施し、主・宗麟の許可を得て、正式に立花山城を彼女に譲り、その後、相棒(兼弟子?)・高橋紹運の長子の高橋統虎を婿養子に貰い受けて家督を譲った。この高橋統虎こそ後の西国無双・立花宗茂その人である。
しかし、彼女は男子同然に育った為か器量良しの美女ではあったが、勝気なじゃじゃ馬でもあった為、城の事に口出しして立花宗茂を困らせたという。
※特に父が死んでからは大変だったらしく、豊臣秀吉の九州平定に協力して柳川の大名となった立花宗茂に対して、生まれ育った立花山城を離れようとしなかった。
信賞必罰・公正無私で軍紀に厳格だった鑑連らしい言葉が残っている。
大事な戦場の持ち場から逃げ帰ってくる息子を追い返さない限り、その親も同罪だ
▲筑前の蒲池氏との戦いが長引いて正月を迎えた際に、故郷恋しさに陣を離れた者がいた。事実を知った鑑連は追手を差し向け家族諸共粛清する様に命じ、家族の助命を請う家臣にこう返して粛清を断行したと言われている。
若い内は誰でも間違いを犯すもの。軍規に反した訳ではない
▲道雪の侍女と密通した家臣への言葉。まぁ確かに軍規には密通の事は書いてないよな・・うん・・・
例え折檻を受けても、主人の過ちを正すのが臣たる者の務めである。
我が身を恐れて、自分さえよければ、他人はどうでも良いと言うのは卑怯だ。
自分の命は露程も惜しくは無い。それよりも主人が世間の外聞を失う事が無念である。
▲若い頃から放蕩三昧で家臣の嫁まで強奪する色欲馬鹿な主君・大友義鎮(宗麟)の重臣となった道雪が説教を続ける意図を語ったもの。義鎮も懲りないもので、道雪の説教を受けてもすぐに元に戻るの無限ループだったらしい。
人を弄べば徳を失い、物を弄べば志を失う
▲義鎮が飼っていた猿(豊臣秀吉ではない)を家臣にけしかけて、引っかいたり、噛み付かせたりして家臣が困る姿を見て楽しんでいた時に、タガが外れて道雪にまでけしかけた際に、鉄扇で猿を撲殺してこう叱責した。 中国の古典「書経」からの引用で、大友宗麟は深く反省したらしい。多分すぐ元に戻っただろうけど。
ワシを敵の只中に担ぎ入れろ。もし命惜しくばその後で逃げろ
▲下半身不随で自力で歩けない為、輿に乗って戦う道雪の担ぎ手への言葉。戦闘中にこう言われたら勇敢に戦わざるを得ない。
私の家臣が粗相を致し、誠に申し訳ない。だが彼は一度戦となれば、体の動かぬ私の代わりに真っ先に敵に向かって行く勇敢な者です。戦の粗相なら致し方ないが、接客の粗相は主人の責です。どうかお許し下され。
▲下半身不随の身を手助けする小姓が来客に対して失態を犯した際の言葉。部下に恥をかかせない配慮。道雪かっこよすぎ。
士卒に本来弱い者はいない。
もし弱い者がおれば、それは本人が悪いのではなく、大将が励まさない事に罪がある。
もしワシの方に来て仕えれば、どんな者でも大剛の者にしてやろう
武功は運である。そちが弱い人間でないという事はワシがよく知っておるから、抜け駆けして討ち死にする様な事はしなさるな。身を全うして今後もワシの力になって貰いたい。ワシはそちの様な者を引き連れているからこそ、年老いた身で遅れを取る事が無いのだ。
▲目立つ武功が無くて悩んでいた配下の将兵への言葉。ここまで言われたら奮戦せざるを得ない。
さて、この様に「公平で部下を大事にするが、必要なら主君への諫言も厭わず、規律を犯す者は決して許さない謹厳実直で高潔かつ有能な武人」以外の何物でも無い道雪だが、そんな彼には何と「絵画とガーデニング」という意外な趣味が存在した。その証拠として筑後に在陣中、配下の薦野増時に以下の様な手紙を送っている。
尚々、件之たねの事、すいふんとをほしめし候するをたのミ申候、おかしく候、先剋原左差遣候砌、礑致失念候間、態用飛脚候、今程花たん時分之由、人々申候間、去年之所江植置候て、詠申度候、隨分御秘蔵之種を五所ニ植候ほと可給候、頼申候、去年之ハ多過申候、為御心得候、恐々不淺、 二月廿八日 、増時 申玉へ 麟白軒道雪
『柳川市史』史料編V近世文書(前編)61 立花文書 四三七 戸次道雪書状より
【大まかに要訳すると…】
一方、絵画の方も自ら描いた雷神・菅原道真像を家臣・小野成幸に贈った物が現存しており、その画は『柳川藩叢書』第一集に写真が掲載されている。
「咆えよ、雷切!」
戦国大戦のベッキーは3.5コスト、10/11、槍足軽、制圧・防柵と凄い能力でやってきた。
計略はその武器「雷切」で、士気8のダメージ計略。あの真田幸隆の「百火繚乱」と同じ士気である。
しかしその範囲は前方円であり、そこそこの範囲がある。威力も件の百火より上、更に喰らった武将は生存しても移動速度が大幅に下がってしまう。
ただし、範囲内にいる武将全てなので味方も対象になる。更に言うと自分も範囲内にいるのでダメージをくらい移動速度が下がる。自分も結構な兵力ダメージを受けるため、兵力が少ない時は注意が必要。
本人が勝利武将になった時、立ち上がって腕を組む。本人は下半身不随の為立てない筈なのだが、そこはSSQということで…
因みに輿に乗って戦ったという史料を再現し、ちゃんと本人は御輿に乗って戦っている。
「わが身に宿る、猛き雷神よ!敵を貫け!」
Ver2.2では若かりし頃の彼が登場した。名前も「戸次鑑連」である。
兵種も主君と同じ鉄砲隊、コストで優秀な能力、制圧持ちと隙が無い。
計略「雷神剣」は自分の武力と統率と射程距離を上げ、更に鉄砲の射撃に統率差ダメージを追加するというもの。
自身の元々高い統率に更に統率を上乗せして放たれるその射撃は相手に関係なく5発モロに食らえば瀕死か即死という破壊力を誇る。
▼「信長の野望革新PK」地方別武将ランキング九州編に、チート枠の最後を飾って登場。
▼「信長の野望天下創世PK」武将ランキングでは統率ランクで5位。
▼秋月律子のライバルとして、そしてプロデューサーとして登場するiM@S架空戦記シリーズ「律子の野望」
▼星井美希に「へつへつ」呼ばわりされるiM@S架空戦記「戦国アイドルマスター」・・・雷神終了のお知らせ
「信長の野望」シリーズにおける戸次鑑連(立花道雪)の能力一覧。
軍事能力は言うまでもなく一流。知略は初実装の「覇王伝」では高くなかったが、「天翔記」「将星録」で大きく上方修正され、こちらもかなりの高評価となる。逆に内政は「天翔記」まではそこそこの数値だったが「将星録」以降は平均レベルに落ち着いた。「天下創世」では自身と上杉謙信と真田幸村の3名だけが持つ「自分の隊の一定範囲内に近付いた敵の隊の士気を下げ、逆に味方の隊の士気を上げる」特殊技能『軍神』の所持者。また、同作で50を下回るまでに落ち込んだ政治力も次作「革新」以降は徐々に評価が上がり、「大志」ではそれまでの顔グラとは別に青年時代の新規顔グラが用意されると共に外交能力を示す外政が75と評価され、「新生」にその数字が政務に引き継がれた事で文官仕事も勤まる文武両道の名将へと更なる強化を受けた。
| 作品名 | 軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
| 全国版 | 知能 | - | 健康 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 運 | - | |||||||
| 戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | |||||||||
| 武将風雲録(S1) | PC | 戦闘 | 85 | 政治 | 68 | 魅力 | 76 | 野望 | 64 | 教養 | 70 | ||||||
| DS | 戦闘 | 95 | 政治 | 71 | 魅力 | 76 | 野望 | 64 | 教養 | 70 | |||||||
| 覇王伝 | 采配 | 92 | 戦闘 | 93 | 智謀 | 45 | 政治 | 66 | 野望 | 67 | |||||||
| 天翔記 | 戦才 | 194(A) | 智才 | 126(B) | 政才 | 140(A) | 魅力 | 87 | 野望 | 67 | |||||||
| 将星録 | 戦闘 | 93 | 智謀 | 85 | 政治 | 57 | |||||||||||
| 烈風伝 | 采配 | 85 | 戦闘 | 93 | 智謀 | 78 | 政治 | 57 | |||||||||
| 嵐世記 | 采配 | 87 | 智謀 | 79 | 政治 | 53 | 野望 | 52 | |||||||||
| 蒼天録 | 統率 | 87 | 知略 | 77 | 政治 | 50 | 野心 | 46 | |||||||||
| 天下創世 | 統率 | 88 | 知略 | 77 | 政治 | 48 | 教養 | 63 | |||||||||
| 革新 | 統率 | 107 | 武勇 | 89 | 知略 | 86 | 政治 | 54 | |||||||||
| 携帯版 | 戦才 | 95(騎馬兵) | 智才 | 86 | 政才 | 57 | |||||||||||
| 天道 | 統率 | 107 | 武勇 | 85 | 知略 | 86 | 政治 | 64 | |||||||||
| 創造 | 統率 | 95 | 武勇 | 87 | 知略 | 87 | 政治 | 64 | |||||||||
| 戦国立志伝 | 統率 | 95 | 武勇 | 87 | 知略 | 87 | 政治 | 64 | |||||||||
| 大志 | 統率 | 93 | 武勇 | 89 | 知略 | 86 | 内政 | 64 | 外政 | 75 | |||||||
| 新生 | 統率 | 92 | 武勇 | 91 | 知略 | 88 | 政務 | 75 | |||||||||
掲示板
67 ななしのよっしん
2025/09/06(土) 21:45:37 ID: 3mR3+kN5Wu
耳川の大敗北から絶体絶命まで追いつめられたのを豊後日向二国までいけそうだったあり、宗麟の外交力は化け物だよな
そりゃ道雪も復帰要請するわ
なお親と家臣の頑張りは息子が全部台無しにしました
68 ななしのよっしん
2025/09/11(木) 14:34:29 ID: 4T/Q6mlZr6
寺を焼いて寺領を横領したり宗麟から止められても好き勝手した野心家でもある
意外なことだが宗麟の方が奔放な道雪たちの宥め役、というか彼らの被害を被った勢力からのクレーム処理に追われた苦労人
息子の義統も志賀親次の勝手に苦労させられた
道雪たちからすれば大敵と戦うには先ず彼らが権益を牛耳り強大な武力を手に入れて赴任先の連中を服従させなければ始まらない、利害調整してもどうせ毛利や島津が来たら奴らは寝返るだろ、という感覚だったのかもしれないが
69 ななしのよっしん
2025/10/13(月) 21:30:45 ID: zgiokaHnIj
大友領国は原田や筑紫や高橋等、自立心無茶苦茶高い国衆だらけの筑前豊前肥前+裏切者の菊池義武(大友義鑑の弟)が治めてた肥後・筑後と地雷塗れだし、筑前には道雪の弟含む一族重臣悉くを討った復讐者秋月種実が…(道雪は俺の親父と兄者の仇!怒)
高城耳川直後に即豊薩和睦結ばせ、独立反乱した龍造寺を孤立させつつ秋月種実の工作と家久の独断(境目の入田氏調略)による惣無事令違反までは表向き和睦は守られ全面衝突無かったたのも大きかった→外交
田原親宏(田原本家は度々主家に反乱起こしてた身で養子の親貫は豊前長野氏出身で秋月と姻戚かつ親宏も種実の舅)が
秋月種実の反乱で家中からお前の手引きか?って白眼視されたところを
宗麟「種実の逆心はどうしようもないこと。心中お察しします。気にしないで忠勤に励んでくれたら幸いです」と書状出して加勢を防いだりしてる(その後豊前国衆高橋・長野氏と交戦→種実書状「もうお前に言うことはない。口利かん。後悔するなよ?」)
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最終更新:2025/12/16(火) 13:00
最終更新:2025/12/16(火) 13:00
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