新発田重家(しばた・しげいえ 1546?/1547? ~ 1587)とは、越後の戦国武将である。
越後北部の国人領主で、上杉謙信に仕えて活躍していた。謙信没後の家督争い『御館の乱』では上杉景勝に協力したが、その終結後に恩賞をほとんど与えられなかったことに不満を抱き、1581年に反乱を起こした。
この『新発田重家の乱』は上杉家の弱体化、新発田城近辺の守りの堅さ、伊達・蘆名といった周辺大名の介入といった様々な要因が重なって7年間も続いたが、最期は力尽きて自害した。
色々状況がややこしい為か、ドラマや小説やゲームなどでは反乱の存在がスルーされてしまうことも多い。ひどい…。
新発田氏は『揚北衆』と呼ばれる、越後北部・阿賀野川流域に割拠する領主たちのひとつ。近江源氏佐々木氏の子孫を称する加地氏の分家だったが、この頃には加地氏を凌ぐ勢力を持っていた。
新発田綱貞の次男で、新発田長敦の弟。一族の五十公野弘家に後継ぎがいなかったので養子となり、五十公野治長(いじみの・はるなが)と名乗った。難読である。
実家を継いだ兄・長敦と共に上杉謙信に仕え、川中島の戦いを初めとした数々の戦に参加してきた猛者であった。
1578年、謙信が後継者を指名せずに亡くなると、上杉景勝と上杉景虎の間で家督を巡る内乱『御館の乱』が勃発する。治長は当初は去就に迷っていたようだが、安田顕元に誘われて景勝方についた。
新発田一族はここでも活躍し、乱は景勝の勝利に終わった。特に乱の決め手と言える景勝と武田勝頼との同盟締結には兄・長敦も携わっている。だがまもなく兄が病に倒れて亡くなったため、新発田重家と名を改めて実家を継いだ。(五十公野家は妹婿の長沢道如斎が五十公野信宗と改名して継いだ)
ところが乱を制した上杉景勝はその恩賞のほとんどを自身の側近たち(上田衆。直江兼続など)に与え、譜代の家臣や国人衆は本領安堵されるに留まった。これは各地の家臣たちの勢力や独立性が大きかったために御館の乱が激化ことを踏まえて、彼らの力を抑え、景勝への中央集権化を一気に推し進めようとしたものと思われる。だが当然それは家臣たちの猛反発を呼び、遂には刃傷沙汰に発展して直江信綱が殺害されてしまうが、この直江家も側近である兼続が継ぐ事になる。
新発田家も例外ではなく、重家の家督継承が認められただけに終わり、戦功[1]や景勝のために命を投げうった兄の活躍は特に考慮されなかった。安田顕元は何とか新発田勢に恩賞を与えられないかと仲介するが効果はなく、もはや申し訳が立たぬと自害して果てた。
この状況を見て、東北の大名である伊達輝宗や蘆名盛隆が重家に接近してきた。伊達・蘆名は御館の乱のときも景虎方を支援・介入していたのだが、上杉家の更なる分裂を期待した結果、重家に白羽の矢が立ったのである。
後ろ盾を得た重家は1581年に遂に挙兵し、上杉家に叛旗を翻した。まずは交通・交易の要所である新潟津を奪取する。
家中の混乱が収まらない中、景勝は揚北衆の本庄繁長らに鎮圧を命じたが、ことごとく跳ね返されてしまった。更に伊達と友好関係にあった織田家が呼応し、柴田勝家を指揮官とする上杉への攻勢を強めてくる。やがて武田家が滅亡すると信濃方面からも織田軍(森長可)が攻めてきて、遂に上杉家は滅亡寸前にまで追い込まれてしまう。
……が、ここで本能寺の変が起こった事で織田軍はひとまず去った。だが上杉は今度は信濃を巡る天正壬午の乱や、第一次上田合戦などに巻き込まれる。この間も重家の反乱は全く収まることはなく、上杉家は信濃への介入も重家討伐も中途半端になり[2]、衰退っぷりが露呈してしまった。景勝としては信長死後の変化する情勢の中でなんとか上杉家を立て直したいところだったが、重家の存在はまさに目の上のたんこぶとなっていた。
重家たち新発田一族は、湿地の多い阿賀野川河口付近という地の利[3]と、背後の伊達・蘆名の助力により3年以上も反乱を続けていた。だが1584年に蘆名盛隆が暗殺されたこと、伊達輝宗が隠居して新当主となった伊達政宗がこれまでの路線を放棄したことで、暗雲が立ち込め始める。政宗は蘆名との同盟を放棄し、新発田への援助も打ち切ってしまったのだ。
また、滅亡した武田家から流れてきた新参の藤田信吉が対新発田戦線で大活躍し、要所・新潟津を失ってしまう。それでもまだ蘆名との結びつきは残っており、金上盛備らの援助の下に必死の攻防が続いた。
だが1586年に上杉景勝が豊臣秀吉への臣従を表明したことで、長く続いた対決のパワーバランスも完全に崩れることになった。上杉の周囲はほとんどが豊臣方[4]となり、ようやく新発田討伐に全力を注げるようになったのだ。
新発田側の劣勢はもはや明らかで、敗北は時間の問題となる。1587年、まずは蘆名の援軍が退けられ、残る城は新発田城と五十公野城のみとなり、陸路での補給も不可能というところにまで追い詰められた。秀吉は「いま降伏すれば命は助ける」と勧告するが、重家はこれを拒否して徹底抗戦を貫く。
10月13日、五十公野城が陥落して五十公野信宗が自刃する。10月25日、完全に包囲された新発田城で別れの宴を行うと、息子・新発田治時らと出撃して散った。
その最期は、妹婿である色部長実の陣へと突撃し、そこで切腹したとされる。後世の軍記物では藤田信吉との壮絶な一騎討ちが描かれている。
戦功に対する恩賞のこじれ、というまさに中世らしい理由から反乱が勃発。彼の死をもって越後国人衆たちの独立性は大きく削がれ、ようやく上杉家の中央集権化が達成できたといえる。長尾為景や上杉謙信は抜きんでたカリスマ・軍事能力で家臣団を統率していたが、それが凄すぎたが故に、こうした集権化が戦国時代の末期にまでズレ込んでしまった感がある。
だが彼の反乱の存在は上杉家を一時は滅亡寸前にまで追い込んでおり、その影響力は甚大だった。本能寺の変が起こらなかったら、彼の運命も大きく変わっていただろう。一時は織田家の助力で成功しかけた反乱が、最後は豊臣家の援護で鎮圧されるのはなんだか皮肉というか、時代の流れというか…。
加えて伊達政宗による路線変更のあおりを受けた人物でもある。それでもなお数年間戦い続けた実力はもっと評価されるべき。
掲示板
12 ななしのよっしん
2023/07/25(火) 07:32:46 ID: jUwWcPOvoY
本当にコーエーだと不遇だよね
平均能力75ぐらいにして本能寺直前に反乱して独立勢力になるイベント入れるだけでいいのに
未だに景勝上杉家は義の大名みたいな縛りがあるせいでその闇の一つである新発田はフィーチャーされない
そういや長谷堂で農民皆殺しにして略奪しまくる直江兼続とかもまだ再現されてないな‥‥(関ヶ原の乱でこういった前時代的な戦いをしたのは上杉のみ)
13 ななしのよっしん
2023/08/05(土) 13:03:46 ID: g/GOXexPVa
御館の乱はゲームでもやるようになってるけど新発田重家の乱はないよね 上杉家がマゾゲーになってしまうからかな?
その代わり織田・豊臣家への外交工作進捗の向上とかのバフがあれば切り抜けられそうだけど
庄内絡んだ最上との衝突や御館と新発田に伴う蘆名・伊達との対決とかもクローズアップされないと後期上杉の奮闘劇掴みにくいよね
14 ななしのよっしん
2025/01/31(金) 02:10:53 ID: oSXSo3sadI
上杉なんて常にヌルゲーなんだから武田夢幻みたいに多少難しいシナリオがあってもいい
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最終更新:2025/03/28(金) 14:00
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