桑(松型駆逐艦) 単語

クワ

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桑(松型駆逐艦)とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した松型駆逐艦/丁駆逐艦5番艦である。1944年7月25日工。同年12月3日、多号第七次輸送に参加中、オルモック湾で120駆逐群から集中火を浴びて沈没した。

概要

艦名の由来はイラクサクワ科クワ属の木から。

ガダルカナル島争奪戦やそれに伴うソロモン諸島の戦いにより、多くの艦隊駆逐艦を失った帝國海軍安価で大量生産が可駆逐艦の必要性を痛感し、これまでの「高性な艦を長時間かけて建造する」方針を転換。1943年2月頃、軍部は時間が掛かる夕雲型秋月型の建造を取りやめ、代わりに戦訓を取り入れ量産性に優れた中駆逐艦の建造を提案。ここに松型駆逐艦の建造計画がスタートした。とにかく工数を減らして建造期間を短縮する事を念頭に、まず曲線状のシアーを直線状に改め、鋼材を特殊鋼から入手が容易な高力鋼及び普通鋼へ変更、新技術である電気溶接を導入し、駆逐艦用ではなく鴻雷艇の機関を流用など簡略化を図った。

一方で戦訓も取り入れられた。機関シフト配置により航行不能になりにくくし、を12.7cmに換装しつつ機の増備で対力を強化、輸送任務を見越して小発2隻を積載、九三式探信儀と九三式水中聴音器を工時から装備して対潜力の強化も行われている。これにより戦況に即した力を獲得、速力の低さが弱点なのを除けば戦時急造とは思えない高性な艦だった。

桑は松型駆逐艦中佐の艦長が揮を執った艦である(の艦長は20代の若い少佐で占められてる)。また、短期間ながら第11戦隊の旗艦になるなどしい来歴を持つ。エンガノ戦では瑞鳳を守って奮戦。瑞鳳沈没した後は847名を救助、その中には竹内カメラマンも含まれている。最期は第七次多号作戦中に生起したオルモック夜戦。大アレン・M・サムナー級駆逐艦3隻を相手に勇敢に立ち向かったが多勢に勢、く間にレーダー射撃を喰らって僅か9分で沈没した。しかし桑が時間を稼いだおかげで僚艦のが苦闘の末にクーパーを討ち取る戦果を挙げている。

排水量1262トン、全長100m、全幅9.4m、出力1万9000力、最大速力27.8ノット、重370トン、乗員211名。兵装は40口径12.7cm連装高1基、同単装高1基、九六式25mm三連装機4基、同単装機12基、九四式爆雷投射機2基、61cm四連装魚雷発射管1基。電探装備として22号水上電探と13号電探を持つ。

艦歴

1942年9月に策定された改マル五計画において、丁一等駆逐艦第5485号艦の仮称で建造が決定。

1943年12月10日永田所で起工、1944年4月5日駆逐艦桑と命名され、5月25日進水式を迎える。6月24日海軍学校教官の大熊安之助少佐装員長とした装員事務所を造所内に開設。本来であれば装員長がそのまま艦長に就任するのが海軍の慣例。しかし工が近づいてきた7月2日装員長が山下正倫(やましたまさとも)中佐に変更という異例の人事が行われた。山下中佐とは、駆逐艦文月艦長等を歴任して艦政本部部員に勤めていた人物で、「上勤務となって最前線で戦いたい」という本人の熱望が人事に反映され、急遽桑の装員長に補職されたのだった。彼は若い少佐クラスが艦長を務める松型駆逐艦において一の中佐艦長となり、同艦の20代艦長から信望を集めている。

そして7月25日山下中佐揮下に桑は工を果たした。呉鎮守府へ編入されるとともに訓練部隊の第11戦隊に部署する。

7月26日午前2時45分、第11戦隊より「八泊地において当隊と合流せよ」との命が下り、翌27日午前8時永田所がある大阪を出港。瀬戸内海方面へと移動した。7月28日17時52分にへ入港して弾薬魚雷・燃料・軍需品の補給と諸修理を受ける。第11戦隊に出港準備を急かされつつも準備を整え、柱島泊地にて戦隊との合流を果たした。

7月31日13時53分、戦隊から満230度1000mを桑の錨地に定され、これから慣熟訓練を開始……すると思いきや、8月3日13時戦隊・高間少将が座乗する旗艦に選ばれ、一時旗艦の戦艦扶桑から将旗を継承。翌日桑は巡視を受けた。これは沖縄方面への輸送作戦に投入された現旗艦の軽巡洋艦長良の代艦という一時的な措置で、8月中旬以降に復帰可と伝えられていたが、8月7日長良潜水艦クローカーの雷撃で撃沈されてしまったため、予想以上に長く旗艦任務を務める事に。8月9日から11日にかけて出動諸訓練を行うも、部を乗せたままの状態では中々捗らず、揮下の艦艇に対する監督業務もあって非常にやりづらかったという。8月21日戦艦扶桑空母龍鳳とともに給油日栄丸から燃料補給を受け、23日午前10時15分に姉妹艦槇と出港して日栄丸の給油教練に協力、それが終わるとへ入港した。

8月30日午前8時47分、第21戦隊から軽巡多摩が第11戦隊へ編入。ようやく代艦の軽巡洋艦が来てくれた事で桑は旗艦任務の重荷から解放された。

8月31日に槇とともにを出港し、諸訓練を行いながら柱島泊地へ回航。9月2日に槇ともども通信閲を受けた。9月5日午前7時30分、戦隊旗艦の軽巡多摩に率いられて姉妹艦槇、とともに柱島泊地を出港し、出動諸訓練を行う。9月10日20時40分に八を出港した桑は、第4航空戦隊隼鷹龍鳳を標的とした間襲撃教練(実戦用魚雷1本発射)に従事。23時45分に柱島泊地へ帰投した。9月11日16時に柱を出港してへ回航、翌日よりにて入渠整備を受ける。9月18日午前8時30分に出発して柱に戻った。9月20日午前5時40分、旗艦多摩に率いられて第11戦隊全員で諸訓練を実施。翌21日は桑、多摩、槇、合同訓練を行った。

10月4日、桑は対潜専門部隊の第31戦隊と第21駆潜隊によって編制された敵潜掃討部隊に転属。約2週間の対潜訓練に従事したのち商改造空母海鷹とともに対潜掃討任務を担う予定だった。準備のため岩国を出港してに移動するが、ここで桑の運命を狂わせる事が降りかかる。

運命のレイテ沖海戦

10月17日午前6時50分、レイテ湾スルアン海軍所がアメリカ兵16万5000名を乗せた敵輸送420隻を発見し、各部署に文で緊急電を打つ。それと同時に第7艦隊と第3艦隊もレイテ東方に出現、間もなくスルアン艦砲射撃を受けて見り所からの連絡は途絶えた。

この危急を受けて連合艦隊は捷一号作戦を発。運悪く台湾沖航空戦の残敵掃討のため第2遊撃部隊は出撃中、また駆逐艦冬月涼月が相次いでドック送りにされた事で空母の護衛兵力が足りなくなり、急遽第31戦隊から軽巡五十鈴大淀駆逐艦槇、桑を抽出。第3航空戦隊空母瑞鶴瑞鳳千歳千代田を基幹に第4航空戦隊、第31戦隊第61駆逐隊、第43駆逐隊の計17隻で小沢艦隊を編制し、栗田艦隊のレイテ湾突入を援護するための囮として敵航空兵力を釣り上げる大任を帯びた。

10月20日17時35分、二度と見る事は出来ないであろう夕焼け色の故の情を背に、小沢艦隊は豊後を勇躍出発。敵潜水艦の待ちせを警して20ノットの速力で道東側を南下し、17時30分頃に四国南西端の通過して太平洋に進出。対潜警航行序列を組む。翌21日正午頃、魚雷の発射音が聞こえたため護衛の駆逐艦爆雷を投下するとともに一時東への偽装針路を取る。

10月22日午前11時頃より空母千歳から重の洋上補給を受けるが、20時10分に瑞鶴めがけて伸びてくるい雷跡を瑞鶴多摩の見り員が発見し、ぎりぎりのところで瑞鶴は回避に成功。潜水艦の襲撃である。直ちに艦隊は急回頭して東方へ偽装針路を取り、迎撃に駆逐艦若月が急された。こので桑は予定100トンのところ75トンしか補給出来なかった。ただ桑はまだ幸運な方で、まともに給油出来なかった姉妹艦のは、航続距離の問題に苛まれて後に台湾へと引き返している。

10月23日午前6時頃に台湾東方へ到達。本格的な敵襲もなく穏な航が続いていた。午前6時32分、小沢艦隊は対潜警とした第一警航行序列から対用の輪形に変更。小沢艦隊は二つに分かれ、瑞鶴瑞鳳を中核としたグループ千歳千代田を中核としたグループを編成。2つのグループは約10kmの距離を保ちながら空母を中心に軽巡駆逐艦が輪形を組む。桑は瑞鳳の直衛艦として左舷側約1.5km先に占位。駆逐艦秋月初月、若軽巡大淀多摩戦艦伊勢とともに対に向ける。午前10時頃にパラワン重巡摩耶愛宕が撃沈、高雄が大破したとの緊急電が入り、艦隊の士気に悪を与えている。夕刻、小沢艦隊は全艦隊に明朝の予定位置を通達。これは味方に位置を伝えるだけでなく敵にわざと傍受させて戦力を釣り上げる意図も含まれた。

10月24日午前6時に予定地点へ到着。16時17分、340度方向に敵の偵察機が出現。決して近寄らず遠巻きに小沢艦隊を観察していたため30分後に対射撃を行って追い払った。後は敵が襲い掛かってくるのを待つだけである。同日深夜戦艦伊勢日向を基幹とした前衛部隊を先行南下させたが会敵に失敗。

エンガノ岬沖海戦

10月25日午前7時48分、空母エセックス所属のF6Fヘルキャット4機が小沢艦隊を発見して触接。小沢中将は関係各部隊へ「敵機動部隊本隊艦上機の触接を受けつつあり」と敵機の誘引に成功した旨の電報を打ち、艦隊は敵機を栗田艦隊からより遠くに引き離すべく北上を開始。上には僅か18機の直掩機が旋回していた。

午前8時15分、10隻の敵空母から飛び立ったヘルキャット60機、ヘルダイバー65機、アベンジャー55機からなる第一次攻撃隊が出現、各艦艇が対戦闘を始めた事でエンガノ戦の幕が上がった。敵機は小さな駆逐艦無視して大物空母戦艦に攻撃を集中。午前8時35分、瑞鳳の飛行甲後部に250kg爆弾が命中し、左舷側へ3度傾斜するとともに格納庫で小規模な火災が発生。午前8時50分には桑の右前方にいた秋月が突如爆沈、最初の犠牲艦となる。続いて瑞鶴の右前方にいた軽巡多摩航空魚雷を受けて落午前9時に航行不能となり、護衛兵力が5隻にまで減じてしまう。5分後、敵機が引き揚げて第一次攻撃は終了。午前8時54分、旗艦の瑞鶴が損傷して通信困難となったため、大淀に旗艦を変更する。また直撃弾5発を受けていた千歳午前9時37分に沈没した。

二次攻撃は午前9時57分に始まった。午前10時千代田に1発の爆弾が命中して大火災が起こり、16分後には航行不能となって艦隊から落五十鈴千代田の救援に向かった。生き残っている瑞鳳瑞鶴は未だ盛んに反撃を繰り返す。今回の襲は較的短く午前10時10分に終了、その44分後、襲の合間を縫って瑞鶴部が大淀への移乗に成功した。艦隊上で敵機と戦っていた直掩機18機は半数の9機を撃墜されるも17機を撃墜。しかし午前11時頃に燃料切れとなり、空母へ降りようにも被弾ので降りられず、生き残っていた機が次々に不時着。搭乗員は初月によって救助された。こうして艦隊のエアカバー全に消失した。

午後12時40分に大淀の電探が接近する敵の大編隊を探知。午後12時58分、小沢中将は2つに分けていたグループを1つに統合するよう示を出したが、その直後の13時5分に第三次攻撃隊約200機が出現。瑞鳳グループは敵機を千代田から引き離すため北上を開始、桑もそれに追従して対戦闘を続ける。

14時14分に集中攻撃を浴びた瑞鶴沈没。最後の空母となった瑞鳳にも敵機が殺到し、15時26分にとうとう力尽きて沈没。囮となった空母4隻は全滅した。すぐさま桑、初月、若の3隻が生存者の救助を行い、日を迎える17時20分まで献身的な作業を続けて桑は杉浦艦長を含む847名を救助、途中で駆け付けた伊勢が98名を救助した。桑が救助した者の中には瑞鳳に便乗中の竹内カメラマンもおりレイテ沖海戦重な記録映像が残った。その後、南方で大破漂流中の千代田の救援に向かうが、レイテから出撃してきたローレンス・T・デュボース少将率いる巡洋艦部隊撃を受けて退避する。幸い桑は最小の被害地獄のエンガノ戦を生き残った。

度重なる襲で小沢艦隊は散り散りとなってしまい、各々北上退避を続けているような状況だった。北方への退避中、被弾して速力が低下している駆逐艦槇と遭遇し、山下艦長が「如何なりや(大丈夫か)?」と気遣う一幕があった。この時の様子を槇艦長の石塚少佐は「わざわざ近づいてきてをかけてくれたので非常に助かった」と回想している。槇に付き添いながら10月26日16時沖縄中城湾へ到着。ここで瑞鳳生存者の一部を五十鈴と槇に移し、翌27日午前6時30分に手負いの槇を率いて出発、15時10分に奄美大島湾へと退避する。先に到着していた戦艦日向生存者の一部を移乗させた。そして10月30日へと帰投。

11月2日、第11戦隊所属の桑とは第31戦隊揮下に編入。第31戦隊フィリピン方面緊急輸送と同方面進出後の南西方面部隊編入を命じられており、11月5日連合艦隊は桑、五十鈴にマニラ方面緊急輸送を下地獄から帰投してすぐにフィリピン域へトンボ返りする羽となった。11月8日戦艦伊勢日向軽巡五十鈴駆逐艦7隻とともにを出港して六連に移動する。予定では涼月も参加するはずだったが艦首からの漏しく取り止めとなっている。

再びフィリピン海域へ

11月9日午前2時15分、軽巡五十鈴駆逐艦霜月とともに六連を出港。南方でまず戦艦伊勢と合流し、午前8時30分に五島列島北方12里で後発の戦艦日向駆逐艦グループと合流した。同日夕刻、単独で北上中の特設巡洋艦丸とすれ違い、「必勝を祈る」との信号が送られてきたため、返信は旗艦の日向が行った。不幸な事に護丸は翌日潜に襲われて沈没してしまっている。

11月11日14時台湾へ寄港して翌日出発。そこから直接マニラす予定だったが、11月13日20時にマニラしい襲を受けて在泊艦艇に甚大な被害が及んでいるとの報告が入り、11月14日14時に新南諸へ退避する。退避中の11月15日姉妹艦樅、檜、樫と第52駆逐隊を新編し、駆逐隊には岩上次一大佐が着任した。物資の積み下ろし作業がある第4航空戦隊とは南沙諸島長島で別れ、桑は五十鈴を護衛してマニラに向かい11月18日に入港。港内には撃沈された輸送マストが墓標のように立ち並んでいた。

11月23日、第52駆逐隊は第31戦隊に編入されるが、それから2日後の11月25日部を乗せた駆逐艦霜月シンガポール北東で雷撃を受けて沈没江戸太郎少将を含む全員が戦死してしまい第52駆逐隊は宙に浮いた存在となる。

その頃、海軍はマニラを策地にしてオルモック緊急輸送こと多号作戦を敢行、レイテ攻略せんとすアメリカ軍を撃退するため増援を送り続けていた。策地のマニラと補給基地のあるオルモックは720km離れている。これは低速の輸送では1日以上、高速艦でも17時間を要する遠い場所であり、中には襲や敵潜水艦の襲撃もある。これまで六次に渡って行われた輸送作戦は第二次と第四次を除いて失敗し、第三次に至っては加入艦駆逐艦朝霜以外全滅という惨憺たる結果に。このためマニラ・オルモック間の航路は「墓場」と揶揄されるようになっていた。

11月30日午前に第七次多号作戦が発。元々桑に参加の予定はかったのだが、が座礁して修理が必要になったため代艦として充てられた。19時より作戦の打ち合わせを実施。当初の予定ではブラウエン飛行場を企図して第68旅団を輸送するはずだった。しかし第三次の失敗で軍需品が不足している現状を鑑み第七次輸送で軍需品を送る事に決めた。第9号、第140号、第159号輸送艦で第七次輸送団第3梯団を編成、これを桑とが護衛するとともに、第52駆逐隊が参加していないため団の総揮は桑艦長の山下中佐に委ねられた。出撃前、山下艦長は「死は許さん。一人となっても敵に踏み込むべし」と励。

第七次多号輸送

12月1日18時、野戦高射砲大隊と独立工兵大隊を積載した輸送艦3隻とともに単縦を組んでマニラを出港。出港直後に団は陸軍三式潜航輸送艇と遭遇する。

多号作戦の輸送は往路のレイテ西方、もしくはオルモック湾で苛襲を受けて壊滅させられる事が多く、生還するだけで大成功扱いされるほどの難易度だった。したがって全滅を避ける的で第七次輸送団は3つに分割されている(本来は4分割であったが第3梯団と第4梯団が一めになった)。

幸運な事に第3梯団はスコールローテーションの関係で襲を全く受けず、12月2日午後に敵哨戒機が飛来した程度であった。中島に隠れて時間調整を行い、襲の危険性がくなる半、23時30分にオルモック湾への突入に成功。輸送艦がイピルへの揚陸作業を開始する中、桑は南方側を、団南西側を警する。

最期の戦い

日付が変わった1944年12月3日午前0時南方10km先から3隻の艦がオルモック湾内へと突入してきた。その正体は、航空偵察で第七次輸送団の存在を把握し、レイテ湾から出撃してきた第120駆逐隊所属の駆逐艦アレン・M・サムナー、モールクーパーだった。1943年に就役したばかりの新鋭大駆逐艦であり、小団護衛を主任務とする松型駆逐艦には荷が重すぎる敵である。

その時、桑の頭上を第804海軍航空隊所属の戦闘機月光2機が通過していった。月光は湾内の魚雷艇狩りのため派遣されていたのだが、第120駆逐隊を発見するや否や猛然と挑みかかり、60kg爆弾を投下してアレン・M・サムナーに至近弾を与えて小破させる。更に後方から何度も機掃射を浴びせた事でモールは戦死者2名と負傷者22名を出す。反撃の対空砲火で月光は2機とも撃墜されてしまうも、戦闘によって、桑とに異状を気付かせた。

より南方300mにいた桑は「艦発見」の発信号を送りながら一直線に敵艦へ突撃。これは自らを犠牲にしてでも輸送を成功させるという覚悟の表れだった。第120駆逐隊レーダーで湾内に潜む桑との存在を察知、日本艦からの雷撃を警して艦を横に広がらせた横の隊形を取り、アレン・M・サムナーとクーパーは桑に、モールに狙いを定める。

北上する第120駆逐隊の中で最初に発したのはクーパーだった。次いでアレン・M・サムナーも撃を開始するが直後に桑が発射した魚雷の雷跡を右舷側に確認して回避運動に移る。一方、桑は電気系統に故障を抱えており、探照灯を照射しながら撃。しかし多勢に勢、火力に勝る敵艦2隻から正確レーダー射撃を浴びた事でく間に艦左舷と艦後部の2番が被弾、艦後部より発生した火災中部から前部へと徐々に広がっていき、左舷側に30度傾斜しながら大破炎上。決着は僅か9分でついた。山下艦長は体当たりを企図して突撃を命じ最後の抵抗を試みるも、午前0時30分に力尽きて艦首を直立させた状態で沈没山下艦長以下乗組員約250名が戦死した。あえなく敗れてしまったが桑の奮戦は戦闘準備を整える時間稼ぎとなった。

生き残った桑乗組員はたった1隻で第120駆逐隊に挑むを「頑張れ!」と応援。その甲斐あってかは決死の雷撃でクーパーを撃沈し、第120駆逐隊を追い払う事に成功する。やがては揚陸作業を終えた輸送艦を守ってオルモック湾から離脱。自分たちを見捨てて去っていくを見て、桑生存者は「ッ!」と叫んだという。非情な決断だが、先の戦闘では大破していた上、今すぐ帰路に就かなければ安全圏へ脱出する前に明けを迎えてしまい、破滅的な襲に身を曝す事になるだろう。が出来るのはオルモック基地に救助を要請して「大発が助けに来るから頑れ」と励する事だけだった。一方、桑生存者を見捨てられなかった第140輸送艦が救助のカッターを降ろして8名を助けている(うち1名は重傷者だった)。余談だが、同じく味方に見捨てられたクーパーの艦長ピーターソン中佐は、漂流中に桑の生存者と英語で会話するというしい体験をしたとか。

1945年2月10日除籍。

戦後

1982年12月2日、合者260柱をった「駆逐艦桑戦者之碑」が呉市の長迫公園内に建立された。

2005年、オルモック湾の108mで旧日本海軍の艦艇らしき残骸が発見。香港マンダリンダイバーズが潜調を行い、撮した写真を桑乗組員の遺族が確認したところ、にしかない溶接を見つけて桑の残骸だと特定された。61cm四連装魚雷発射管に1本も魚雷が残っていなかった事から夜戦中に全弾発射したと思われる。

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