渡辺省三 単語

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渡辺省三(わたなべ しょうぞう)とは、元プロ野球選手である。故人。

概要

1933年2月26日生まれ。愛媛県西条市出身。

6歳頃に徴用されたとともに朝鮮に渡り、終戦後に帰愛媛県に戻る。

西条中学校入学後、野球を本格的に始める。同校では1学年下に藤田元司がいた。

卒業後、倉敷レーヨン西条(現:クラレ)に就職し、軟式野球部に所属。

1951年、2リーグ分立に伴い力選手を大量に引き抜かれ人員不足に苦しんだ大阪タイガースは、11月に入団テストを実施。渡辺はこのテスト受験し、打撃投手として採用され入団が決まった。

1952年打撃投手として活動し、一軍登板はなし。

1953年、制球力の高さを買われキャンプに帯同。キャンプ中、梶岡忠義死球を与え骨折させてしまったが、その梶の代役としてオープン戦登板した際に好投し、一軍昇格。開幕一軍の座を掴むとシーズン通してリリーフとしてフル回転し、10勝11敗、防御率2.86と好成績を残す。

1954年、前年同様リリーフとして登板し、10勝13敗、防御率2.50と安定した投球内容でチームを支えた。

1955年先発として起用される試合も増え、18勝11敗、防御率2.40をマークオフには藤村排斥事件に関与したが、球団との話し合いの末生涯雇用の約束を取り交わし残留。

1956年、22勝8敗と大きく勝ち越し、防御率1.45と抜群の数字を残し、最優秀防御率タイトルを獲得。

1957年、17勝9敗、防御率1.88と前年同様エース格として活躍。9月広島カープ戦では、参考記録ながら9回を史上最小投球数の70球で投げきっている(渡辺は13回を投げ完封勝利を挙げた)。

1958年開幕投手を任されたが、12勝12敗、防御率2.81とやや成績を落とした。

1959年、3勝6敗と低迷。1960年からは再びリリーフ中心の起用に転向。

1961年には11勝、1962年には10勝を挙げるなどリリーフでも存在感を示した。

1965年、32試合に登板し1勝、防御率2.45という成績を残したが、同年限りで現役を引退

引退後は投手コーチとして球団に残り、1971年まで務めた後、1978年にも投手コーチを務め、上田次朗谷村智啓らを育てた。

コーチを務めていない時期はスカウトとして活動。新庄剛志をはじめ、野田浩司仲田幸司遠山奬志亀山努といった選手たちを発掘している。

1998年8月31日死亡享年65歳

人物・エピソード

球速はそれほど速くなかったものの、抜群の制球力と卓越した投球術で安定した活躍を見せた技巧右腕。決め球はシュートと稀に投げるナックルのような超スローボール

精密機械と呼ばれた小山正明が「私の投球の原点」と語るなど、後輩たちにも大きなを与えた。

普段は無口お酒を飲むこともほとんどかったようだが、麻雀はかなりの腕前を持ち、この他競馬競輪などのギャンブルでも類の勝負強さを見せていたという。

渡辺の死については不審な点が多い。路上で亡くなっているところを発見され飛び降り自殺の可性が高いと判断されたが、死の直前にスカウト活動のために航空券を予約していたり、遺書がいなど不可解な点が多かった。そのため遺族が独自に調を始め、1999年に被疑者不明の殺人事件として神戸地方検察庁に告発2006年に内偵捜に入ったことが神戸地検から告げられ、現在も捜継続されている。

通算成績

投手成績

通算:13年 登板 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 550 49 18 134 96 --- --- .583 2018.0 352 583 661 546 2.44

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