満州国とは、1932年から1945年にかけて満州(現在の中華人民共和国東北部)に存在した国家である。
基本データ | |
正式名称 | 滿洲國 Manchukuo |
国旗 | |
国歌 | 滿洲國國歌![]() |
国花 | 白蘭、高粱※1 |
国鳥 | ― |
公用語 | 北京官話 日本語 モンゴル語 ロシア語 |
首都 | 新京(現・長春) |
面積 | 1133437km² |
人口 | 約4500万人※2 |
通貨 | 圓 |
※1 一般的には国花は蘭であるとされているが、1939年に新京 案内社から出版された「新京案 内」には「國花として高粱が用 ゐられる」と記載されている。 ※2 滿洲國は国籍法が制定されなかったため、正確な人口を記載することは不可能である。 |
正式表記は滿洲國。1934年に帝政に移行してからは大滿洲國、大滿洲帝國などとも呼称された。1934年4月6日の外交部布告第5号によれば、英称のうち正式なものは「Manchoutikuo」もしくは「The Empire of Manchou」、略式のものは「Manchoukuo」もしくは「The Manchou Empire」とされている。
中国大陸の北東部に位置し、ソビエト社会主義共和国連邦、モンゴル人民共和国、中華民国、蒙古聯合自治政府(後に蒙古自治邦政府と改称)、大日本帝国と国境を接していた。
1931年9月18日に関東軍の謀略によって満州事変が発生、関東軍は独断で満州(現在の中国東北部)に侵攻して各都市を占領。翌9月19日に日本政府は外務大臣の幣原喜重郎が関東軍の謀略疑惑を表明するが、9月21日に朝鮮軍が独断で国境を越えて満州に進撃(昭和天皇の開戦の詔勅もないまま外国に進撃する重大な統帥権干犯であった)、翌1932年2月関東軍と朝鮮軍は満州全土をほぼ制圧。日本政府の承認を得ないまま関東軍が独断で傀儡国家としての満州国建国を進めた。
1932年に東北行政委員会によって建国が宣言され、34年にはそれまで執政職にあった旧・清朝皇帝の愛新覚羅溥儀が皇帝に即位(康徳帝)し、帝政に移行した。日本人、満州人、朝鮮人、漢人、蒙古人による五族協和の王道楽土を理念とし、アメリカ合衆国をモデルとするアジアで初の他民族共生の国家を謳ったが、実態は皇帝の溥儀には何の権力もなく統治機構の中央官庁は日本人が掌握し、行政においては総務庁と外交部、民政部、財政部、司法部、軍政部、実業部、交通部の行政7部には名目上は満州人や中国人が長に就いたが次長に日本人が顧問として就いたため、実際には何の権限もなかったのが実情である。また、国防は関東軍の委託で国防費は満州国の負担となり、その他に港湾、鉄道、空港、交通機関といったインフラは全て日本に管理を委託するといった取り決めが行われ、独立国と謳われながら実態は日本の管理下に置かれたうえでの独立に過ぎなかった。
日本政府は建国当時の首相であった犬養毅が関東軍の要求する満州国の承認には応じず、あくまで国際問題として政府が満州事変を解決させる方針を示したが1932年5月15日に犬養毅が日本軍の青年将校によって暗殺されると後任の斎藤実は満州国を承認、関東軍の独断で行った満州侵略を追認することとなった。
1933年に国際連盟が満州国についての調査のため派遣したリットン調査団が満州国の実態が日本の傀儡で独立国家としての体をなしていないこと、日本の関東軍の占領は自衛ではないことを報告、その一方で南満州鉄道沿線における日本軍の駐屯は認めるなど日本の権益は認めるという妥協的な内容であった。しかし1933年2月21日に関東軍が満州国に隣接する中華民国の熱河省に独断で侵攻して満州国に併合してしまい、リットン調査団の調査中に侵略を行ったことで国際連盟での日本に対する心証が悪化してしまい、日本軍の満州撤兵勧告案が賛成42ヵ国、反対1ヵ国(日本)棄権1ヵ国でほぼ満場一致で可決。その報告に不満を持った日本は国際連盟を脱退し、国際的孤立の道への第一歩となった。
満州国では当時150万人の日本人が住んでおり、そのうち約30万人が満蒙開拓団として日本からやってきた移民であった。しかし開拓団と言っても開拓とは名ばかりで、実際には既に中華民国時代から満州で農業をやっていた中国人をはじめとする現地人から土地を二束三文の安値で強制的に買い上げ、現地人を追い出して奪った農地が開拓団に分け与えられて農業が行われるなど各地で日本人による暴挙が行われた。五族協和、王道楽土が謳われた満州国の実態は日本人が支配する前提での五族協和、日本人にとっての王道楽土でしかなかったため、土地を追われた中国人、満州人、朝鮮人から深い恨みを買った。
1945年8月9日、ソビエト連邦が日ソ中立条約を破って対日参戦し、満州国にソ連軍157万人、戦車5500両、戦闘機5000機の大軍で満州国に進撃。当時は既に関東軍の間でもソ連軍の軍事力が大幅に強化されていることに気づいてソ連が攻めてくることを察知しており、ソ連軍が満州国の国境を越えてくると関東軍上層部の高級軍人は前線の兵を置き去りにして真っ先に逃亡、国境の最前線はソ連軍によって瞬く間に陣地を木っ端微塵に破壊されると関東軍の統制は崩壊してしまい、ソ連軍の侵攻に気づいていない満州国の日本人を見捨てて真っ先に南へと逃げ出してしまう。
関東軍が逃げてしまった満州国にソ連軍が侵攻してくると日本人に蹂躙されていた現地人たちはソ連軍を歓迎し、関東軍指揮下の軍隊であった満州国軍では関東軍の出動命令を拒否し、指揮官であった日本軍将兵が次々と殺されるクーデターが発生し満州国軍は崩壊、土地や権利を奪われて蹂躙されてきた現地人による日本人への復讐が始まり、逃げ遅れた日本人開拓移民にソ連軍、中国人、満州人、朝鮮人が襲い掛かった。そのなかには逃亡中にソ連軍に捕まったかつての満州国皇帝、愛新覚羅溥儀も含まれる。
満州国を建国したのは大日本帝国陸軍の関東軍であり、日本政府は建国後に事後承認したことになる。一国の軍隊、それも海外に派兵している1万人程度で規模にすれば旅団並みの兵力の軍隊が、なぜ中国東北部の侵略をする必要があったのか、その経緯は大正時代まで遡ることになる。
第1次世界大戦が終結後、ベルサイユ条約で処理しきれなかったアジアの戦後処理が残っており1922年にアメリカのワシントンでワシントン会議が開催され、その際に中国の戦後処理で日本が第1次世界大戦中に獲得したドイツの植民地であった山東省が槍玉にあげられ、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、ポルトガル、日本、中華民国の9ヶ国で9ヶ国条約が結ばれた。条約の内容は日本を含む欧米列強国が中国に進出して得た租借地(植民地)の権益を一旦白紙にして中国の領土として認め、そこから各国で協議しながら中国の権益に手を付けようというもので、日本は第1次世界大戦で獲得した中国の権益をほとんど手放すハメになってしまった。さらにワシントン軍縮条約も結ばれて日本は戦艦の数も制限されたことから軍部は第1次世界大戦で勝ったにもかかわらずトバッチリを受けるハメになり、陸軍は戦果をパーにされ海軍は戦艦の一部を廃棄させられて保有数に制限がかけられた。このことから欧米列強に強い不満を持ち、その時の外務大臣の幣原喜重郎に恨みを持って世論も軟弱外交と批判を浴びせた。
昭和2年に日本で金融恐慌が起きると金融恐慌の原因となった若槻礼次郎内閣の片岡大蔵大臣の責任と金融危機対策が国会で追及され、若槻礼次郎首相は緊急の金融勅令案を提案したが枢密院が若槻首相の勅令案を通さなかったため金融対策が打てず、金融勅令案と引き換えに若槻内閣の総辞職を条件に付けてきたため若槻内閣は退陣、幣原喜重郎も外務大臣を辞職することになった。次の内閣は元陸軍大将の田中義一が首相と外務大臣を兼任する田中内閣が成立するが、田中義一は当初から国粋主義と周囲から言われていたくらいのガチの右寄りの人物で幣原喜重郎の協調外交を強く否定していた経緯があった。
田中義一は前外務大臣の幣原喜重郎が9ヶ国条約で手放した中国の山東省の権益に強く固執しており、総理大臣就任直後の1927年5月に日本人居留民の保護を理由に山東省に日本軍を派兵した。しかし実態は山東省における日本人の資本の保護と、当時中華民国の統一のため各地の軍閥と戦っていた蒋介石率いる中国国民党政府に軍事的圧力をかけるためであった。既にこの時点で日本の中国侵略の布石を打っていたのである。
山東出兵から1年経った1928年5月についに日本軍と中国国民党軍が武力衝突して戦闘になり、日本軍は国民党軍を退けたが、この戦いで田中義一は中国東北部の満州における権益に目を向け、将来的に満州を日本のものにしようと画策する。この考えは田中義一が陸軍大将であったことからすぐに陸軍にも伝わり、陸軍の参謀本部は満州を手に入れるため、当時満州全域に勢力を持っていた軍閥のボスである張作霖に目をつけた。張作霖は親日派であり、日本の権益であった南満州鉄道の護衛にも協力的であった。しかし中国国民党軍が勢力を満州にまで拡大してきたら張作霖は日本を裏切るかもしれないと考えた陸軍は張作霖の暗殺を企て、1928年6月に奉天付近の鉄道に乗車中だった張作霖の汽車に爆弾テロを行って殺してしまう。いわゆる張作霖爆殺事件である。張作霖は死に際に自分は日本軍に殺されたと言い残し、息子の張学良は日本に対して強い恨みを持った。日本の思惑は全くの逆効果になってしまったのである。
父の遺志を継いだ張学良は中国国民党と手を結んで満州全域の行政権を承認してもらうと日本の権益に対して対抗措置を実行、南満州鉄道の沿線に包囲路線を張り巡らせて南満州鉄道を使わなくてもよくなるように新しい鉄道を敷き、第1次世界大戦以降に反日意識が高まっていた中国人や中国資本は南満州鉄道を使わなくなり、日本の国策企業であった南満州鉄道株式会社は創立以来万年黒字経営で莫大な利益を上げていたのが一気に赤字転落するほどの大打撃を受けてしまう。政治的にも経済的にも田中義一と日本軍が行ったことは全て裏目に出ることになり、田中義一も張作霖爆殺事件の一件で昭和天皇の怒りを買って激しく追及されて即日総辞職に追い込まれ、田中義一はまもなく心臓病を悪化させて死んでしまう。しかし張作霖爆殺事件を計画実行した軍部は首謀者から実行犯まで軽い制裁で済んでしまったため、昭和天皇は自分たちの味方だと考えた陸軍の参謀本部は本格的な満州侵略を企てるようになる。そして計画実行されたのが満州事変であり首謀者になるのが石原莞爾中佐なのである。
満州国の末路は日本人がいかに現地人から恨まれていたかを裏付ける結末になったが、そんななかでも逃げ遅れた子供に限っては現地人によって助け出された例も多く、子供たちは後の中国残留孤児となって中国国内で生存していた。1972年に日中国交正常化が行われると中国残留孤児の日本帰国事業が日中両政府によって共同で行われ、満州国崩壊から30年近くの歳月を経て日本の地を踏んだ。2019年現在、20879人の中国残留邦人およびその家族が日本への永住帰国を果たしている。
なお2011年現在、滿洲國臨時政府(外部リンク)を名乗る団体がインターネットを中心に活動しているが、本来の滿洲國との政治的関連性は定かではない。
当該サイトでは臨時政府の国籍、旅券、身分証明書などを取得することができるが、やってみたい方は自己責任でどうぞ。なお、臨時政府に一定額以上の寄付を
すると爵位などが貰えるらしい(例:100ドルを寄付すると男爵)。シーランド公国の爵位よりは箔がつきそうだ。高いけど。
滿洲國の国旗は1932年に制定された。中華民国の五色旗に類似しており、五族共和を意味すると解釈されることが多いが、大同2年2月24日の国務院布告には
青ハ東方タリ 紅ハ南方タリ 白ハ西方タリ 黒ハ北方タリ 黄ハ中央タリ
中央行政ヲ以テ四方ヲ統馭スルノ義
滿洲國の国歌は公式には二種類、実質的には三種類ある。一番最初に国歌として考案された大滿洲國國歌は鄭孝胥作詞・山田耕筰作曲になるもので、日本国内ではレコードや楽譜が発表されたが滿洲國内では一切公表されず、結局正式に採用されることはなかった。33年の国歌制定の後、大滿洲建國歌と改題される。
次に作られたのが滿洲國國歌(大滿洲帝國國歌)で、鄭孝胥作詞・滿洲國文教部選曲(作曲は高津敏、園山民平、村岡楽童)になるものである。33年2月24日に国務院布告第4号によって国歌に制定された。軽快な曲調が好まれ、日本語の歌詞が無いにも関わらず日本人にも親しまれた。現在一般的に滿洲國の国歌として流布しているものはこれである。
滿洲國が帝政に移行した後、暫くするとそれまでの国歌が漢語のみで皇帝への言及が無く、「大滿洲帝國」の国歌に相応しくないという議論が起こった。これに応える形で建国十周年を期に制定されたのが滿洲國國歌である。作詞はやはり鄭孝胥、作曲は再び山田耕筰の手になるもので、日本語と漢語の両方で同時に斉唱ができるよう工夫されている。42年9月5日に国歌に制定され、それに伴い従来の国歌は建國歌に改題された。
政府の主導の下で日本の投資による重工業化が推進され、また近代的な経済システムの導入、開拓移民による農業開発などによって急速な経済発展を遂げた。1940年までに日本から集団で移住した開拓民は合計で18760人を数える。
政府の指導による計画経済を基本政策としていたため、企業間の競争を避けるために一業界につき一社の設立が原則であった。
滿洲國に進出した主要な外国企業は南満州鉄道(日本)、テレフンケン、ボッシュ(以上ドイツ)、フィアット(イタリア)、フォード・モーター、ゼネラル・モータース、クライスラー(以上アメリカ)など。
またその国土内に大規模な油田を有していたが、残念ながら滿洲國が存続している時代にその存在が確認されることは無かった。この油田は後に中華人民共和国によって開発され、大慶油田と命名される。
滿洲國には日本人、満州人、朝鮮人、漢人、蒙古人の「五族」を筆頭として白系ロシア人、ユダヤ人など様々な民族が混在しており、各民族の食文化もまた同様に滿洲國にもたらされた。
特に首都の新京には日本料理屋から中華料理、ロシア料理、洋食店までもが混在していた。1939年当時のガイドブック「新京案内 康徳六年版」にはおでん屋「田吾作」や喫茶店「チェリオ」、ぶたまんじゅう「ヱビス」といった店々の広告が掲載されている。
滿洲國の国技は何故か蹴球(サッカー)である。滿洲國蹴球協会や代表チームも存在し、39年から42年までに3試合を日本と行ったが、結局一勝もすることは無かった。FIFAへの加盟も希望していたようだが、こちらも叶えられることは無かったようである。
また野球にも関心が深く、日本プロ野球の初の海外遠征は1940年夏季に行われた満州リーグ戦である。
さらにオリンピックへの参加についても意欲を燃やしており、1932年5月1日に滿洲國体育協会はロサンゼルス・オリンピックへの選手派遣を同オリンピック組織員会に対して正式に申し込んでいる。結局参加はできなかったが、そもそもロス五輪は32年7月の開催である。開催2ヶ月前になっていきなり参加を申し込むほうがどうかしているともいえよう。
滿洲國では映画の製作が盛んであり、37年には国策映画会社である「満州映画協会」が設立されている。主な製作映画としては「東遊記」(39年、大谷俊夫監督)、「白蘭の歌」(39年、渡辺邦男監督)、「サヨンの鐘」(43年、清水宏監督)など。
(姓アイウエオ順、記事のある人物は太字)
(出生地であるというだけの人物含む)
※どれも有名でないとかそういう事を言ってはいけない。
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最終更新:2025/03/16(日) 16:00
最終更新:2025/03/16(日) 15:00
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