玉川上水とは、
である。ここでは1.について記載する。
武蔵国多摩郡羽村(羽村市羽東3)の多摩川に取水口を設置し、四谷大木戸(新宿区内藤町)に至る43.72kmを、標高差わずか92mの勾配で導水する施設として造られた素掘りの水路。
江戸市中に入った上水は総延長85kmに及んだとされ、飲料水をはじめ防火用水や園池用水、堀用水など、多目的で利用された都市給水施設だった。
武蔵野台地の開発用水としての役割を果たし、船が通ったりもしたが、1965(昭和40)年、武蔵水路が完成し、利根川の水が東京へ導かれたことが決定打となり、1966(昭和41)年にその役目を終えた。
導水路としての使命を終えたことで小平監視所下流の玉川上水は流れが途絶えたものの、玉川上水を愛する地元の人々の尽力の甲斐もあり、1986(昭和61)年、清流復活事業により流れが復活しました。東京都下水道局多摩川上流水再生センターで処理された再生水は、約18km下流の高井戸の浅間橋付近まで流れた後、そこから管路で600m北の神田川と合流する。
2003年8月、開削350周年を迎えたことで国史跡に指定された。
1603(慶長8)年、江戸に幕府が開かれ、その後の人口増加により、飲み水はそれまで使っていた神田上水だけでは賄いきれない段階へとシフトしていた。
そこで、一部の江戸の町人の間で幕府に玉川上水を開くことの嘆願書が出され始める。
新しい水道の開発を迫られた幕府は、1652(承応元)年から多摩川の水を江戸に引き入れる計画を立て、設計書の検討及び実地調査の結果、工事請負人は庄右衛門、清右衛門兄弟に決まり、工事の総奉行に老中松平伊豆守信綱、水道奉行に伊奈半十郎忠治が任命された。
1653(承応2)年、幕府は遂に玉川上水開削の許可を与え、4月4日から着工が進められ、その翌年には完成したといわれている。
花見客に堤を踏み固めてもらうのと、桜の花びらが水質を浄化すると信じられていたこともあり、1737(元文2)年、幕府の命を受けた川崎平右衛門によって数千本の桜が上水沿いに植えられた。
その中でも「小金井の桜」は、江戸時代から第二次世界大戦前にかけて多くの花見客で賑わうなど評判が高く、歌川広重が浮世絵にしているほか、1924(大正13)年には国の名勝に指定されている。
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最終更新:2024/11/22(金) 04:00
最終更新:2024/11/22(金) 03:00
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