現在の皇居は東京都の江戸城跡にあり、敷地内には宮中祭祀が執り行われる場である宮中三殿、天皇の住居である御所、宮中行事や外国からの賓客を招いての式典が行われる宮殿、宮内庁の庁舎などがある。住所は東京都千代田区千代田1番、郵便番号100-0001。東京の真ん中にありながら、自然豊かで歴史的建造物の多い場所である。
東京に遷都する以前は長い間、平安京(京都府京都市)の京都御所が皇居であった。
ちなみに、地下鉄は全て皇居を迂回して通っているが、別に作れない訳ではない。ただ範囲内は通過するだけになるので、営業上需要がないだけ。
徳川幕府の居城であった江戸城は慶応4年(1868年)に明治政府に引き渡され、半年後の明治元年には明治天皇が京都から江戸へ行幸した。江戸は東京、江戸城は東京城(とうけいじょう)と名を改め、翌明治2年の二度目の行幸で天皇の東京滞在が決まると東京城は皇城(こうじょう)と称されることとなった。
旧江戸城の中心であった本丸及び二の丸の御殿は既に焼失していたため、無事に残っていた西ノ丸御殿が天皇の御座所として用いられた。
明治6年(1873年)に女官部屋からの失火によって西ノ丸御殿が焼失すると、御三家の一つ紀州徳川家の藩邸があった赤坂御用地が仮の御所となり、天皇は明治21年までこの御所に居住した。
明治12年(1879年)、旧江戸城西ノ丸に新しい宮殿を造営することが決まり、明治17年(1884年)の着工から11年後の明治21年(1888年)10月に落成、以後は宮城(きゅうじょう)と称された。これが明治宮殿と呼ばれる建物である。
この宮殿は銅板葺き入母屋造りの屋根を持った木組みの日本建築で、建築面積は5800坪(19173平方メートル)。京都御所を模した和風の外観だが、家具や建具は洋式であり、室内装飾は伝統的な格天井からヨーロッパの宮殿のようなシャンデリアが吊るされるなど和洋折衷式の豪華絢爛なものだった。
宮殿は大きく3つの区域に分かれていた。宮中儀礼に使われる表宮殿、天皇の政務や臣下との会議が行われ、侍従たちの詰め所がある中段、私的な生活の場となる奥宮殿である。宮殿を構成する中で最も重要な建物は表宮殿にある広さ160畳の正殿(謁見所)で、ここでは新年祝賀の儀や内閣総理大臣の認証式、帝国憲法の発布等の儀式が執り行われた。
昭和10年(1935年)に建て替えられた宮内省庁舎(現在の宮内庁庁舎)には地下金庫室と呼ばれる天皇のための防空室があったが、大型爆弾に耐えられる設計では無かったため、1941年から42年にかけて御文庫(ごぶんこ)と呼ばれる新たな防空壕が皇居内の吹上御苑に作られた。御文庫は建坪1320平方メートル、地上二階地下一階の三階建で、内部には天皇と皇后の居室の他、映写室やビリヤード台、ピアノ等もあった。
太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)5月25日、皇居桜田濠沿い(現在の憲政記念館の位置)にあった参謀本部が爆撃され炎上、飛び火によって明治宮殿は全焼した。当時、昭和天皇は御文庫に避難しており、宮殿焼失後は香淳皇后共々そのまま御文庫に住み続けた。終戦後、昭和天皇は多数の国民が住む家すら無い状況下での宮殿再建に反対し、引き続き御文庫を住まいとし宮内庁庁舎を仮宮殿として公務と儀式の場に当てた。御文庫建造の際、爆弾に耐えるために屋根に詰めた大量の砂の中に雪が混ざっていたため、この当時は天井から数年越しに染み出す水の湿気により御文庫内の居住環境は極めて劣悪なものだったという。
昭和天皇・香淳皇后のお住まいだった御所。吹上御所。皇居吹上地区にある。1960年(昭和35年)7月建設決定、1961年(昭和36年)11月20日竣工。大林組が手掛けた鉄筋コンクリート2階建て。昭和天皇崩御後は香淳皇后がお住まいになり、吹上大宮御所と改称された。2000年(平成12年)6月16日に崩御されたため、居住者はいないが宮内庁が管理をしている。
最近は外国人が裸で泳いだことで有名。
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最終更新:2025/03/14(金) 00:00
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