笠戸(海防艦) 単語

カサド

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笠戸(海防艦)とは、大東亜戦争中に大日本帝國海軍が建造・運用した択捉海防艦14番艦である。1944年2月17日工。艦首を2回も喪失する大被害を受けながらも終戦まで戦い抜いた。1948年9月25日に解体了。

概要

艦名の由来は山口県下松市から。瀬戸内海国立公園の一部で、の半分は定されている自然豊かな戸の名を持つのは本艦で2代目である。先代は日露戦争ロシア義勇艦隊から拿捕したカザンを改称した戸丸。微妙名前が異なっているからか戸が就役した後も戸丸の名で運用され続けている。

択捉(甲海防艦)は占守ベースに簡略化を進めた戦時急造である。開戦前海軍東南アジアの欧植民地攻略を企図していたが、占領後に本土・南方間を往来する輸送の護衛兵力が不足している事に気付く。艦隊決戦を重視する方針上、駆逐艦を護衛に割く訳には行かないので北方警備用の占守型海防艦ベースに新護衛艦艇を設計。それが択捉であった。1941年8月に実行へと移されたマル急計画において択捉14隻の建造が決定し、基本設計は10月10日完成

戦時急造とは言っても占守若干簡略化した程度で、相違点と言えばを量産に適したへ変更、艦首の直線化、居住設備の簡易化、爆雷搭載数の増加(18個→36個)など実に微々たるもの。機関に関しては22号10ディーゼル2基2軸から全く変わっていないので同じ速力と航続距離だった。要は複雑な構造である占守からあまり変わってない訳である。また、南方航路で運用する想定でありながら何故か暖房用の補助を搭載していたり、旧式駆逐艦から転用したは仰が33度しかないため対戦闘に向かないなど問題点も多く抱える。

一応工期は占守の約9万から約7万(56%)にまで削減されたが、戦時急造として見ると不満が残る結果となってしまう(1隻完成させるのに均11ヶを要する)。加えて開戦前海防艦の役割が明確ではなかった事もあり、対兵装は占守と同じ25mm連装機2基のみ、電探も大変貧弱と改善の余地を多く残し、後に順次強化されたとはいえ兵装が戦況に即していなかった。このため、より一層簡略化と対・対潜力向上を推し進めた御蔵、日振が誕生していく事となる。それでもノウハウの蓄積により択捉最後の就役艦である戸は同級中最短の201日で完成している。ちなみに最長は1番艦択捉の418日。択捉は計14隻建造され、このうち8隻が戦、6隻が終戦まで生き残った。占守とあまり変わっていないからか艦艇類別等級によると占守扱いとなっている。

戸は最後に就役したためこれまでの戦訓が取り入れられ、就役時から電探を装備。後の改装工事で2番12cm単装を撤去して25mm連装機を2基から5基に増備、爆雷投下台を投下軌条に換装、対潜迫撃砲や逆探装置を新たに装備、艦に防弾を装着するといった小改良が見受けられる。

排水量870トン、全長77.7m、最大幅9.1m、喫3m、機関出力4200力、最大速力19.7ノット、乗員150名。兵装45口径12cm単装3基、九四式爆雷投射機1基、爆雷投下軌条2基、爆雷36個、掃具。

艦歴

1941年8月より開始されたマル急計画において第330号艦の仮称で建造が決定。建造予算は551万2000円であった。戦争も佳に入った1943年8月10日浦賀船渠にて起工、8月31日戸と命名され、種別を海防艦、艦占守と定められる。12月9日進水式を迎え、1944年1月10日川島少佐装員長へ就任。彼は第8号掃海艇の元副長であった。翌日より賀造所内に装員事務所を設置して事務を開始する。そして2月27日工。装員事務所を撤去するとともに川島少佐が艦長に着任、佐世保鎮守府所属の警備海防艦となり、海防艦の訓練を担当する呉鎮守府部隊防備戦隊へ部署した。

1944年2月29日横須賀を出港、3月2日佐伯へと入港して慣熟訓練を開始。乗組員の基礎力錬成に努める。18日間で一通り訓練を終えた戸は3月20日連合艦隊へ転属となり、最初の護衛任務に従事するため3月30日を出港、4月1日淡路島本へ寄港する。ここで横須賀に向かう東山丸、阿蘇山丸、能登丸と合流し、3隻を護衛して翌2日に本を出発。既に本土近にも潜水艦が出し始めていたが何事も4月3日横須賀へ辿り着いた。

その頃、中部太平洋では連合軍が反攻に転じており、トラックマリアナ諸に対する襲、並びにエニウェトクの失陥を受け、大本営絶対国防圏マリアナ諸中西カロリンの線まで後退させる事を決断。最前線となったマリアナ諸に第14軍、第29軍、関東軍から抽出した部隊を送るため「輸送」と呼ばれる緊急輸送作戦が開始され、戸は第14師団と第35師団の第一パラオまで進出させる東5号団に加わる。

東松5号船団の護衛と1回目の艦首切断

4月7日午前3時30分、東山丸、阿蘇山丸、能登丸、三池丸で編成された東5号団を、第3護衛部を乗せた駆逐艦皐月(旗艦)、戸、満珠、第4号駆潜艇(第4号海防艦とする資料もある)の4隻が護衛して館山を出発。重要任務ゆえ輸送は全て優秀船舶で占められていた。パラオに向かう途上で機動部隊接近の報が入り、4月10日午前10時30分に父島二見港へ退避。戸は湾口から敵潜が入ってこないよう僚艦とともに監視任務に就く。4月12日20時5分、満珠が発見した敵潜を追って皐月や第4号とともに父島を出撃するが、敵情を得られず翌13日午前6時30分に満珠と帰投。

4月18日13時50分から14時10分の間に戸、第4号、満珠が父島を出港、やや遅れて16時17分に団が皐月を伴って出港してパラオす。そして4月24日午前11時15分にパラオへ到着して任務を了させた。団が兵員と物資を急速揚陸させている間はパラオ周辺の対潜に従事する。

4月26日16時40分、引き揚げる民間人や軍人等を乗せて東5号団がパラオを出発、これを戸、皐月、満珠の3隻で護衛する。ところが帰路には思わぬ災難が待ち構えていた。4月27日午前2時50分、潜水艦トリガー団を雷撃して阿蘇山丸と三池丸が被雷。戸は救援のため三池丸のもとに向かうが、午前3時5分、二度の雷撃で艦首魚雷が直撃。中破させられて乗組員8名が死亡、2名が重傷を負う。東山丸にも魚雷が命中していたが幸い不発だった。三池丸は漏れ出た燃料によって火だるまと化して体放棄(翌日沈没)。阿蘇山丸と戸はかろうじて沈没を免れ、浅瀬に囲まれて潜水艦が活動出来ないコッソルに退避。下手人のトリガーは第4号駆潜艇爆雷投下によって撃退された。翌28日に団はパラオ反転入港。5月1日から20日にかけて、現地のパラオ工作部で損傷した艦首を切断して仮設艦首を取り付ける応急修理を行う。5月22日に輸送する陸軍部隊を乗せてパラオを出港、翌23日にヤップへ到着して部隊を揚陸し、5月24日パラオへ帰投した。

5月26日午前6時、特設駆潜艇丸とともに特設運送新丸を護衛してパラオを出港。5月28日16時30分にダバオへ到着し、現地で新たに置山丸を加えて5月30日に出港、6月4日にマニラへ到着した。キャビテ軍港で短時間の応急修理を行った後、新丸のみで編成されたマタ22A団を護衛してマニラを出発。6月9日台湾南東部高雄へ寄港する。6月11日、輸送10隻で構成されたタモ20A団を第58号駆潜艇、第90号特務駆潜艇、特設砲艦白山丸、砲艦とともに護衛して高雄を出港、6月14日が護衛より離脱したが、中何事も6月17日に門へ入港。本格的な修理を受けるため同日中佐世保へと回航された。しかし何らかの事情で佐世保では修理が行えず、やむなく6月23日佐世保を出港して翌日釜山へ入港。朝鮮重工の釜山渠にて入渠修理を受けた。修理中の8月20日軽巡五十鈴を旗艦に据えた対潜専門部隊の第31戦隊へ編入。

8月24日修理了。8月28日に鎮を発って同日中佐世保へ戻った後、リハビリのため9月3日防備戦隊に編入され、翌4日から9月29日まで佐伯湾で訓練に従事。訓練を終えた戸は9月30日へと回航し、10月4日に第1上護衛隊に転属して速次の護衛任務に臨む事となる。10月10日に門を出港、同日17時にモマ05団が集結中の万里に到着して合流する。

東南アジア方面での活動

10月16日18時20分、10隻の輸送で編成されたマニラ行きのモマ05団を、駆潜艇5隻(第17号、第18号、第23号、第27号、第28号)とともに護衛して万里を出港。各輸送は、アメリカ軍の来攻が近いフィリピンに送る第54独立混成旅団約1万名を積載していた。中の10月20日戸、三宅、干珠、満珠の4隻で第21防隊が新編される。翌21日16時にモマ05団は高雄へ寄港。ここで戸は護衛から離脱し、10月22日正午へ移動したのち澎で対潜掃討任務に従事。10月26日午前4時へ帰投した。翌27日午前8時へ入港したミ23団から特設工作沙が切り離され、戸と三宅沙をシンガポールまで護衛するよう命じられる。10月29日を出発し、11月12日シンガポールへの進出を果たす。

11月17日17時10分、練習巡洋艦香椎海防艦満珠、来、能美三宅、第17号、第51号、機雷敷設艇新井埼とともにヒ80団(加入船舶7隻)を護衛して出発。11月20日午前6時サンジャックから応援に来た第23号海防艦が護衛に加わり、代わりに午後12時40分に第17号サイゴンへ向かうため護衛を離脱。翌21日午前2時35分には視界不良が原因で団が二つに分かれてしまうトラブルがあったものの午前11時55分に問題なく合流。11月22日午前11時50分に陸軍徴用日南丸が機関故障を訴えて団より落来が護衛に寄り添うが18時15分に復帰する。11月24日13時日南丸、満珠、第51号がバンフォン湾に向かうため離脱(第51号のみ護衛に復帰)。11月28日午前9時30分に新井埼、良栄丸、有馬山丸が高雄に向かうため離脱した。そして被害皆無のまま12月2日にヒ80団は六連へ到着、翌日門へ入港して護衛任務を終了する。

12月25日戸は第21防隊から除かれて第12航空艦隊千島方面根拠地隊へ転属。

12月26日シンガポールから門す途上で基に退避していたヒ82団(ぱれんばん丸1隻のみ)を海防艦久米、択捉、昭南、第9号、第19号とともに護衛して出発。ヒ82団は出発時こそ5隻いたが、インドシナフラッシャーの襲撃を受けて3隻が一挙に撃沈され、生き残った立丸も高雄で分離していたため現在は1隻のみとなっていた。戸は全滅を避ける的で護衛に加えられたと思われる。

1945年1月1日午前9時上海南東の舟山列を出発、1月3日に舟山北北東の礁山泊地に到着して仮泊し、翌4日午前8時30分に出発。危険な東シナ一気に突破、1月8日18時4分に六連へ事帰投する。その後は佐世保に入渠して整備を受けた。

狭まる包囲下、日本近海での船団護衛

1月12日アメリカ軍は南シナへ機動部隊を侵入させ(グラテテュー作戦)、16日まで香港及びインドシナ方面の船舶を盲爆、ヒ86団やヒ87団が壊滅させられてしまう。とりわけ輸送タンカーへの被害が大きく、また機動部隊の南シナ侵入を許した事は南方航路の閉鎖が間近に迫っている事を意味していた。そこで帝國海軍は生き残っているタンカーをかき集めて「特攻輸送」を企図した南号作戦1月20日に発動。

2月3日、鎮警備府電作第6号により戸、沖縄、択捉の3隻は部隊揮下に入り、南号作戦の一環でシンガポールから本土に向かって帰投中のヒ88A団の直接及び間接援護の命を受ける。これに伴って午前2時佐世保を出港し、六連と山群を経由して2月5日駆逐艦樫、、第41号海防艦が護衛するヒ88A団(加入船舶2TL戦時標準船せりあ丸のみ)と合流を果たし、2月6日15時に加徳へ到着。現地で海防艦沖縄が護衛に加わった。ここまで来れば本土はもう前である。2月7日午前5時に加徳出発、中で択捉を護衛に加えながら16時30分にヒ88A団は六連へと到着。せりあ丸が運んできた1万7000トン航空機ガソリン和歌山県港の石油基地に揚陸されて南号作戦第一は見事成功に終わった。

2月10日正午、択捉、沖縄、第39号とともに今度はモタ35団(加入船舶2隻)を護衛して門を出港。2月14日14時礁山泊地へ到着した際に戸と択捉が護衛より離脱、代わりに門へ向かっている第108輸送艦陸軍機動第101号艇で編成されたタモ42団を護衛し、2月20日午前0時50分に青島外港で仮泊。2月23日17時に門へ帰投した。

この護衛任務了を機に戸は本来の任地である千島列島方面へ転戦する事になり、2月25日から3月6日16時まで舞に寄港した後、3月8日15時に大へと到着。4月6日海防艦後とともに特設運送船長和丸、陸軍輸送丸からなるキ602団を護衛して大を出港。翌7日午前4時55分に浮上中の敵潜を発見・交戦するが取り逃がしている。中の4月10日戸は大湊警備府部隊104戦隊に転属し、宗谷防備部隊に部署。4月13日午前2時片岡湾に到着して護衛任務終了。4月19日13時丸1隻で編成されたツ901団を護衛して出発し、4月25日釧路へ寄港する。本来であればここで護衛了であったが、第104戦隊部より丸を津軽海峡まで護衛するよう命じられ、翌26日20時にツ901団と釧路を発つ。4月28日丸を函館へと護送した。航続距離の関係から東北以北には米軍機が出現せず、跳梁跋扈する潜水艦のみがな脅威だったため他の場所とべるとやや安全と言えた。

5月7日14時52分、千島列島に向かうキ704団(加入船舶4隻)を福江、択捉とともに護衛して小樽を出港。5月14日18時15分に的地の片岡湾へ到着した。5月19日午前1時30分、帰路も択捉や福江とヲ904団を護衛して片岡湾を出発、5月24日21時45分に小樽へ帰投する。続いて5月28日20時陸軍部隊を乗せた2E戦時標準貨物安房丸、海軍一般徴用北進丸で構成されたオ団を護衛して小樽を出発、中で稚内から出港してきた第47号海防艦が合流し、6月1日千島列島中部松輪島へ到着。護衛任務を終えると6月10日から17日にかけて北海道西方で対潜掃討に従事する。

2回目の艦首切断

6月22日午前1時小樽戸が8100m離れた先に潜む潜水艦クレヴァルをソナーで探知、対するクレヴァルも戸を発見して夕雲型あるいは吹雪型駆逐艦と推測する。彼距離が縮まる中、先に仕掛けたのはクレヴァルだった。戸の正面から最後に残っていた魚雷2本を発射し、このうち1本が艦首に直撃して艦より前の艦首部分を喪するとともに大破、乗組員26名が戦死する。魚雷使い果たしたクレヴァルはトドメを刺さずに逃走したため命からがら助かった。

翌23日に何とか小樽まで帰り着いた戸は小樽渠に入渠、仮設艦首の取り付け工事を行う。6月26日、二代艦長に川本少佐が着任。7月15日第38任務部隊所属の敵艦上機小樽襲し、港内の戸、第47号、第55号海防艦が損傷。対戦闘戸の乗組員1名が戦死した。7月26日仮設艦首の取り付け工事が了。本格的な修理のため大への回航を待っている時に8月15日終戦を迎える。

終戦後

1945年8月26日に自力で小樽を出港し、8月29日佐世保へ入港。一応航行可ではあったが復員輸送任務に適さないと判断され、9月10日に第4予備海防艦(棄予定の艦)に定、海軍省の解体に伴って11月30日に除籍となる。1947年2月1日佐世保地方復員局所管の行動不能艦艇となり、5月3日に二度の除籍を迎える。

そして1948年5月31日から9月25日にかけて天草で解体された。

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