ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地であるエルサレムは11世紀当時はイスラム教国家が支配していた。このエルサレムを巡礼しイスラム教徒から奪還することを目指して、当時のローマ教皇の呼びかけによりキリスト教国家の連合軍「十字軍」がイスラム教国家の支配地に侵攻した。最終的にこの第一回十字軍はエルサレムを陥落させ、占領に成功した。
現在でも中東にある街、エルサレム。ここは、ソロモン王の神殿が築かれたとされる場所でありユダヤ教徒の聖地である。また、イエス・キリストが活動し、処刑され、復活したとされる場所でもあるためキリスト教徒の聖地でもある。さらには、ムハンマドが神の元へ訪問する宗教的体験をしたとされる場所であるためイスラム教徒の聖地でもある。
これらの宗教の信者でない人間にはよく分からないだろうが、とにかく「いろんな人にとってすげえ神聖で大事な場所」と理解しておけばOKだ。そんなエルサレムは7世紀にイスラム教勢力に占領された。10世紀頃からは、今で言うエジプトあたりを本拠地にするファティーマ朝というイスラム教国家が支配していた。
さて、11世紀の東ヨーロッパに、東ローマ帝国(ビザンツ帝国とも言う)と言うキリスト教国家があった。キリスト教と言ってもカトリックとは別宗派の正教系だ。この国は11世紀始め頃までにはブイブイ言わせ、周囲の国を征服して現在で言うイタリアあたりからトルコあたりまでを含む広大な領土を得た。また当時は首都コンスタンティノープルがヨーロッパ随一の繁栄を誇っていた。だが軍事面ではパッとせず、戦争に負け続け、トルコあたりはイスラム教国家に奪われてしまう。
そのイスラム教国家はセルジューク朝と言った。この国も肩で風きってブイブイ言わせ、11世紀末にはファティーマ朝からエルサレムを占領した。キリスト教国家はこのことに対して、「なんかよくわからんがイスラム教徒がごたごたやってるな・・・聖地エルサレムが危なくね?巡礼できなくなるんじゃね?」と危機感を抱いたようだ。しかしセルジューク朝はその後、後継者争いの内乱を起こして弱体化した。
セルジューク朝の混乱をみて領土を奪い返すチャンスだと思ったのか、東ローマ帝国の皇帝は1095年、宗派を超えて、カトリック総本山であるローマ教皇にお願いしてみた。「イスラム教のセルジューク朝と戦争するからたすけてくんね?宗派は違うけど俺らって同じキリスト教徒じゃん」
するとこれには教皇がやたらやる気を出した。フランスで会議を開いてフランス貴族を呼び集め、「イスラム教徒が聖地を荒らしてるお・・・聖地のキリスト教徒の命が危ないお・・・だから聖地取り戻すお!それに聖地は「ミルクとはちみつが流れる地」っていってな、スゲーいい場所なのよ。取り戻せばお前らウハウハだぜ!」と言う内容の名演説をかまし、さらに他のヨーロッパの各国でも同じような勧誘が広められた。
それを聞いたキリスト教徒の貴族たちは信仰心とか、得られる領地の損得勘定とかから「やってやんよ」と次々に呼応し、十字軍と呼ばれる連合軍をエルサレムへ派遣することになった。ここに第一回十字軍が成立した。軍人ばかりでなく、ほとばしる信仰心からついてきた民間人巡礼者も多数含まれていた。
その後十字軍はセルジューク朝に勝利をおさめつづけて領土を占領していき、最終的には1099年にファティーマ朝の支配するエルサレムへと到達した(間の悪いことに、ファティーマ朝は十字軍が来る直前の1098年にセルジューク朝からエルサレムを奪い返してしまっていた。ファティーマ朝涙目。)。幾多の戦いと流血の末、エルサレムは陥落し、エルサレムやその周囲の地域にキリスト教徒による国家が複数建設された。
なお、教皇に助けを求めた東ローマ帝国は十字軍の力で怨敵セルジューク朝を追い返せて笑いが止まらん状態だった・・・かと言うと、そうでもなかった。十字軍の中にはエルサレムへの途中にあった東ローマ帝国の領土内で略奪をかました者達も居たのだ。また、セルジューク朝から十字軍が占領した領土がどちらのものになるかで、十字軍との対立・緊張も生じた。
さらに東ローマ帝国の奉じる正教は、それまでのイスラム教徒支配下でもエルサレム内に教会と聖職者を置いており、支配者に税を支払いながらもそれなりに勢力を保っていたのだが、エルサレムに到達した十字軍は正教の者達を追放し、教会を自分達カトリックのものにしてしまった。
なお、歴史で何かとひどい目にあうことの多いユダヤ人はこのキリスト教徒とイスラム教徒の争いで今回もとばっちりを食った。イスラム教徒支配者に税を払いつつもエルサレムに住んでいたユダヤ人は、異教徒に厳しい十字軍に虐殺されてしまった。また、十字軍運動による異教徒への反感の盛り上がりのあおりを食らい、ヨーロッパでもユダヤ人虐殺が起こった。
! 以下の文章は十字軍側から見たものです !
! 人によっては不快感を感じます !
教皇ウルバヌス2世が東ローマ皇帝アレクシオス1世の『救援を求める書簡』を受け取ったことからはじまる。
主な参加者は後に述べていく。
青字の部分は当時の十字軍参加者(後述)の記録に基づく部分である。水平線で分かたれたより下の部分は、この記事の最初の執筆者による注釈や感想である。
主の受肉より1100年がまもなくたとうとしていた頃、かつての不安定な気候と周期的に繰り返される疫病の流行に悩まされ続けてきたヨーロッパ世界は今や神の恩恵によって温暖な気候と多くの人口を得るに至った。しかしながら神聖ローマの「所謂」皇帝ハインリヒやフランス王フィリップによって信仰に揺らぎが生まれ、ヨーロッパは悪に満ちていた。幾多の同胞たちが、幾多の親類が、互いの欲望を果たすために剣を抜き、血が流された。善良なるキリスト教徒たちは救いを求め、自らのあるべき地への回帰を望んでいた。
だが、同じ時に更に苦しむ同胞達が東の地にて彼らに救援を求め、声を上げていた。かつては栄華を誇り、キリスト教徒に一定の安全を提供したセルジューク帝国はマリク・シャーの死とともに同胞同士の戦いが生じ、細切れに分裂し、もはや安全は失われ、巡礼は勿論、そこで暮らすキリスト教徒たちは悲しみにくれていたのだ。さらに、かつては小アジアとバルカン半島全域を支配した東ローマ帝国は弱体化し、小アジアをセルジューク帝国によって奪われていた。
そんな折に東ローマ帝国にてアレクシオス・コムネノスが皇帝として即位する。彼は再びローマ帝国としての威厳を回復し、小アジアを含む完全な形の「ローマ帝国」となるべくローマ教皇ウルバヌス2世に書簡を送り、部隊の要請を行う。これを聞いたウルバヌスはこれまで自らの目で見てきたヨーロッパの状況、そして書簡により知った東の同胞達の苦しみを知った上で、全ヨーロッパの聖職者にクレルモンに準備された日に集結し、公会議を行うことを告げる。そしてそこで彼は沢山の教会として為すべき取り決めを作り上げ、さらに重大な発表を行う。
所謂「クレルモンの奇跡」、十字軍参加の呼びかけ、「観説」である。
十字軍の原因は研究者によって異なっている。そのためどれが正しいということは出来ないが、あえて言うならどれも正しい。
ハインリヒ4世(1056~1106)神聖ローマ皇帝であるが、グレゴリウス7世、ウルバヌス2世と様々な問題において対立(叙任権闘争など)。そのため、教皇側の立場をとる聖職者であるフーシェ(後述)は「所謂」という言葉を用いている。
フィリップ1世(1060~1108)フランス王国の王であるが、クレルモン公会議で彼は破門とされており、十字軍には参加できなかった。ユーグ(後述)の兄。
アレクシオス1世コムネノス(1048~1118:位1081~1118)東ローマ帝国皇帝。ニケフォルス3世を退け、自ら即位。帝国の再興を望み、活発に活動している。だが、戦争については、「外交手段、そして賠償などのすべての戦争回避の方法が失敗した時の策であり、最も愚かな行為」としている。プラチェンツィア公会議に特使を派遣。『援軍』を求める。
「主の受肉」という表現は後述のフーシェの史料より引用。当時、年号というものは国によってばらばらであり、例えば神聖ローマでは国王の治世●●年などの表記をしている。フーシェはこの十字軍をキリストの事績であると考えているのか、それを「主の受肉より●●●●年」としている。ちなみに主の受肉とはキリストの生誕のこと。キリスト教三位一体説において、神とは「父」、「イエス・キリスト」、「精霊」の3つのペルソナが一つの存在であるという訳の分らないことを言っている。そのため、イエスとはそれまで体を持たなかった神が体を持って現れた存在と言うことになる。つまり、受肉。
主の受肉より1095年の時が流れた時、ガリアの地のオーヴェルニュ、クレルモンにて教皇ウルバヌスは歴史に残る、偉大なる演説を行う。
「いと愛する兄弟たちよ、神により全教会の最高位に立つことを許された私、ウルバヌスは神の僕たるあなた方になすべきことがあることを伝えます。あなた方が神聖な祈りによって目覚めている今、あなた方と神に関する問題について、あなた方はあなた方が持つ誠実な信仰と強さを示さねばなりません。
急ぎ、あなたたちは東の地に住み、あなた方の救援を求める声を何度も何度も叫んでいるあなた方の兄弟たちを助けねばならないのです。
あなた方が既に知っているように、ペルシアの種族であるトルコ人たちは、あなた方が『聖ゲオルギウスの腕』と呼ぶ地中海の小アジアの地にまでその邪悪な手を伸ばし、キリスト教徒の土地を占領し、既に7度の戦いに敗北した我らの同胞を殺し、神の王国たる教会を壊し、荒らしまわっている。
もしもあなた方が立ち上がろうとせず、長い時間この問題を放っておけば、神を信じる正しき者たちは更に支配され、涙を流し続けるであろう。
この危機に関して私は、いいえ、私ではなく主イエス・キリストはすべての階級、騎士も歩兵も、富める者も貧しきものも、老いも若きも、キリストの戦士たるあなた方全てに、あの邪悪なる異教徒を一刻も早くキリストの土地から駆逐し、再び主の栄光に満ちた地へと戻すことを説きすすめます。
ここに出席するあなた方にはこの私の口から、そしてここにいない者には私が書簡を送りますが、これはキリストによる命令なのです。
勇敢に東の地へと向かう途中の陸路や海路、そして異教徒との戦いの中でこの世に縛られた命を落とすものがたとえいたとしても、そのものには罪の赦しと永遠の救済が与えられるでしょう。私はその権威を神によって与えられ、そしてこの旅に参加するものにはそれを与えましょう。
堕落し、そして悪魔の奴隷と化した者達が偉大なる神の信仰を与えられキリストの名において光り輝く者たちを征服することがどうすれば出来ようか。
あなた方の同胞である人びとをあなた方が救わなかった時に神があなた方に背負わせる幾多の悪から逃れることがどうすれば出来ようか。
かつて、同胞であっても私闘に現をぬかし、神の土地に荒廃を齎していたものたちは今既に剣を抜き、異教徒との戦いへと身を投げ打ってなければならない。そしてかつては盗賊であったものは、今こそキリストの戦士となり、かつては兄弟血縁者と戦っていたものたちは今こそ野蛮人たちと戦いなさい。今までは僅かの銀貨の為に雇われていた人びとは今こそ永遠の酬いを勝ち取りなさい。かつて身も心も窶れ、つかれきっていたものたちは二重の名誉を得るために働きなさい。
この地で悲嘆にくれていたものは、かの乳と蜜の流れる地にて喜びと富を得るであろう。そして、この地で神の敵であったものは、かの地で神の友となるでしょう。
行く人をとめてはなりません。しかし、彼らが旅の費用を準備し、冬が終わり春が来た時、あなた方は神の導きとともに勇敢に進軍していきなさい。それでも尚、自らの貪欲と高慢にとらわれるものがあれば、そのものは破門とし、永遠の苦しみを与えよう。アーメン。」
これを聞いた善良な心を持ったキリスト教徒たちは口々に叫んだ。
「神はそれを欲したもうた!神の御意思である!!」
ウルバヌス2世(1040/1043~1099:位1088~1099)ローマ教皇。前代のグレゴリウス7世の改革における右腕的存在であり、自身が即位した後もグレゴリウス改革を継承。1095年には名実共にローマ教会の長となっていた。長身で姿勢が正しく、髭を蓄えた美男子で弁論に非常に長けていたそうで、まさに『カリスマ』を所有していた人物。研究者の中には十字軍のイニシアチブを彼に見出す者も多い。
教皇の十字軍勧誘演説『観説』についての史料はいくつかあるものの、どれも少しずつ内容が違う。というのも、その原文の史料と言うのは見つかっておらず、たぶん、無い。ウルバヌスのアドリブであったのではないだろうか。そのためここでは第一回十字軍の史料として名高いシャルトルのフーシェの記録を元に作成した。原文はラテン語なのだが、ラテン語が読めないので英訳版であるFulcher of Chartres Chronicle of the first Crusade , by Martha Evelyn McGinty, Oxford University Press: London 1941を使用した。また、この記事全体としてもこの史料を基にしている。
少なくともこの段階で聖なる目的と俗なる目的二つを見出すことが出来る。すなわち、乳と蜜の垂れる彼の地で地を得ること、など。また、教皇としてはこの十字軍運動をヨーロッパ内部の飽和状態のパワーを外に吐き出すことで安定させることが目的であったと考えられている。
神によって祝福された演説が終えられた後、ピュイの司教であり、この演説より約十年ほど前に聖都イェルサレム巡礼を行っていた敬虔なる神の僕アデマール・デ・モンテイルは教皇からこの巡礼者集団、すなわち十字軍兵士達の総司令官として、そして教皇の代理としての任を受けた。
一方、キリストがウルバヌスの口を通して人々に伝えた命令はすぐさまヨーロッパ中に広がった。これによってこれまで親類どうしで槍を向けていたものたちは『神の休戦』という形でこれまでの戦いをやめ、ヨーロッパは平和に満ち、そして幾多の者達が準備を整え、自らの罪を告白し、清らかな魂のまま神の軍へと向かい、自らの体を神にゆだねた。そして彼らは神にこの事業に参加することを誓うと、教皇は巡礼者たちにマントの肩かカソックに絹や金を縫いこんだ美しい十字架を授けた。彼らのなんと誉れ高きことか!彼らのなんと光り輝けることか!
アデマール・ド・モンテイル(生年不詳~1098)貴族の息子でル・ピュイの司教。教皇から「代理」の任を受ける。非常に敬虔な人物であったそうで、十字軍全体の精神的支柱となる。
このとき、教会が財産を預かり、帰ってきたら変換するという形をとっていた。また、残される者の安全は教会が保障していたとされている。
主の受肉より1096年の3月。ウルバヌスによりこの奇跡の事業が提唱されたのち、他のものよりもいち早く準備を整えた者達が聖なる旅を開始した。他の人びとは、準備が出来次第、4月、5月、6月、7月、そして更に8月9月、あるいは10月に旅を開始した。この神によって祝福された年は、世界に平和が齎され、莫大な穀物とワインが溢れた。
軍は取り決めにより、帝都コンスタンティノープルにて一度集合することとなった。
巡礼者の司令官は次のような人びとである。フランス王アンリ1世の息子で兄フィリップが破門されたことによってその代理として参加することとなったヴェルマンドワのユーグ。彼は最初に旅を開始した人物であるが、ブルガリアのドゥラッゾに上陸した際に市民によって襲われ、コンスタンティノープルの皇帝の下へ連れて行かれしばらくの間拘束されることとなった。私が帝都に赴いた際、皇女アンナに聞いた話に寄れば、ユーグは予め皇帝に書簡を送っていたそうで、内容は「帝王の中の帝王たる私に相応しい対応を要求する」と言うものだったそうで、アンナはそれを鼻で笑っていた。どちらも聞いた話であり私の目で見たものではないのでどちらが正しいのか私には分らない。
彼の後、ノルマン民族のロベール・ギスカールの子、ボエモン。彼はユーグの後を追う形で旅をはじめ、後にアンティオキア公ボヘモンド1世となる。この不誠実な口が、ここで語るべきでないことを語る前に次へ行こうと思う。
次はロレーヌ公ゴドフロワであった。彼は南部ライン川からの分遣隊に導かれ、彼の兄弟のボードヴァン、そしてユースタンスなどとともに、多くの兵を連れて参加し、陸路でコンスタンティノープルを目指した。
次にレーモンドが進んだ。彼はトゥールズ伯であり、スペインの地で相当な戦闘の経験を持っており、ゴート族とガスコーニュ人とともに、そしてアデマールを伴ってダルメシアを通ってコンスタンティノープルへと向かった。
10月。最後の部隊であるイングランド王ウィリアムの子、ノルマン人の伯ロベールが彼の兄弟でブロワの高潔な人物であり、後にイングランドの王となるブルゴーニュのエティエンヌの父、エティエンヌとともに聖なる旅へと向かった。
教皇が指定したのは1096年の春、とのこと。それぞれ準備が出来次第出発していった。
この時点では個々別々の状態で、完全に一つの隊となったのはニカエアに到着してから。ちなみに本隊はレーモンドの軍。
教皇の命を受け、組織された軍として活動していた巡礼者達とは他に、アミアンの隠者ピエールによって率いられた軍もいた。ピエールは非常に敬虔な人物であり、熱烈に神を愛していた。彼は粗末な服を身にまとい、ロバにまたがって行く先々で説教を行ってその集団を肥大化させていった。彼ら組織されていない人々の中には、高潔なる騎士ウォルターもいた。彼らはひたすらにイェルサレムを目指していたものの、イェルサレムがどこにあるのかすら、知らなかった。彼らがブルガリアを通った際、彼らのうちの一人があるブルガリア人に尋ねた。「イェルサレムは、どちらの方向にあるんだろうか?」と。
彼らは行く先々で略奪をしながら食糧を集め、何とかコンスタンティノープルにたどり着いたが、皇帝は彼らが城壁内部へと入ることによる帝都の混乱を恐れ、彼らをすぐさま小アジアへと送り出した。あぁ、なんと悲しいことだろうか!彼らはニコメディアとニカエアにて邪悪なる魂を持った異教徒達によって打ち倒されてしまったのだ。
隠者ピエールは何とかそこを脱し、帝都にて本隊と合流し、後にイェルサレムまで旅をすることとなった。
所謂民衆十字軍。民衆十字軍については多くの研究がなされており、これまでの『無知蒙昧』な民衆による各地の略奪という考えは否定されつつあり、割と整然とした集団であったらしい。とはいえ、ブルガリアで「ここはエルサレムかね?」であるとか、そういったことを聞いているのは彼らにとって住んでいた町の城門からイェルサレムまでの道のりの欠落があったと考えられる。だが一方で研究者には彼らこそ「真の十字軍」であるとするものもおり、彼らの素朴な信仰は民衆レベルにまでキリスト教信仰が浸透していたことの現れであると考えられる。
また、民衆の多くはニカエアで打ち滅ぼされたものの、生き残ったものたちは後に本隊と合流し、巡礼を果たしたものもいた。
我々巡礼者は当初の取り決めどおり帝都コンスタンティノープルに集合することとなった。しかし、皇帝アレクシオスは我々主の僕たちが帝都の中へと入ると皇帝の臣民にとって『よくないこと』が起こるのではないかと不安を抱き、我々をその城壁に入れることを拒み、部隊のうちの指導者幾人かが交替で城壁の内に入り、皇帝との接見と教会での祈りを行うよう我々に伝えた。帝都はこの耳で聞いていた以上の壮麗さで、通りの両側を見事な石柱が並び、教会は主を賛美する美しさで円の形をしたものであった。聞こえてくるのは聖なる言語ギリシア語であり、そして臣民達は自らをローマ人であると言っていた。
さて、皇帝アレクシオスは我々と接見をし、皇帝が主となって主従の誓いを立て、幾らかの旅の費用と増援として将軍タティキオスを我々に与えた。
これが終わると我々は個々に聖ゲオルギウスの腕と呼ばれる海峡を渡り、アナトリア、あるいはロマニアと呼ばれる地に入っていった。
アナトリア、ロマニアとは現在の小アジア(トルコのあたり)。アレクシオスは帝国が本来あるべき姿に戻るには小アジアがなんとしても必要と考えていた。というのも、帝国にはもともと、バルカン半島と小アジア両方あって初めて帝国と言う観念があったため。また、聖ゲオルギウスの腕というのは現在のボスフォラス・ダーダネルス両海峡のこと。
キリスト教において神聖な言葉はギリシア語、ヘブライ語、ラテン語の三つであった。
帝都側からの史料としてはアレクシオスの娘アンナの記録が有名で、皇帝の憂鬱や悩みなど、非常に深く書かれている。(一方十字軍については非常に「野蛮」な存在としている。)
我々がロマニアに入ると、まずニカエアとニコメディアへ向かった。それまで各隊ばらばらであった我々は、ニカエアの地でついに一つの巡礼者集団を作り上げた。ニカエアへと近づくにつれ、いくつもの既に命を終えたフランク人の肉体が横たわっているのが目に付いてきた。その中には騎士らしきものは勿論、女、子ども、老人の死体もあった。
そしてニカエアで我々はあの邪悪なる民族との戦いをはじめて行った。彼らはずる賢く行く先々で待ち伏せし、我々を殺そうと試み、切り落としたキリスト教徒の頭部を投石器を使って我々に投げてきたが、我々主の僕たちはいくつかの命と引き換えにニカエアでの戦闘を勝利で終えた。我々がそれまでの慣習どおり、街を略奪しようとするとタティキオスが「この都市は皇帝のものであり、汝らフランク人には皇帝より報酬が与えられる。だがそれはこの都市を略奪することではない。幾らかの金貨だ。汝らの主の皇帝陛下の代行である私が命じる」といった。フランク人は得られると思っていた領土と報酬を得ることが出来なかったので腹立たしく思ったものの、主従関係を破ることは出来ず、その都市は皇帝のものとなった。
今や我々の軍は、そしてそこに続く人々は数多くの言語を話す集団であった。誰がこれまでにフランス人、フランドル人、フリジア人、ガリア人、ブリタニア人、アロブロゲス人、ロタリンギア人、アレマン人、ババリア人、ノルマン人、スコット人、アキタニア人、イタリア人、アプリア人、イベリア人、ダキア人、ギリシア人、アルメニア人がいる一つの集団を見たことがあろうか。古の時において主が怒り、言語を別ったバベルでの出来事は、主へと近づこうとするが故にそうなった。だが、我々は今や一つの目標、すなわち主の教会の解放という主御自ら御下しになった命によって一つの意識を共有するに至った。
しかしながら私がもし、ブリタニア人やドイツ人から話しかけられたとしても、私は返事を出来なかった。しかし、我々は固い兄弟の絆で結ばれ、心は一つであり続けた。主のこの計らいを賛美する言葉は違えど、その心は一つであったのだ。
シャルトルのフーシェは西ヨーロッパの十字軍の人びとをすべて含んでフランク人と呼んでいる。
ニコメディアを後にした我々はロマニアを敵の幾多の攻撃に耐えながら進んでいった。ロマニアのヘラクレアの地に入った時、神は我々に東の方向を指した剣の形をした白い光を御見せになった。それからまたしばらく進み、シリアのアンティオキアまで3日ほどのところに我々が進んだ時、先に述べたボードヴァンが本隊を離れて本来南に進むべきところを東に進むことを決めた。彼はまず既にタンクレットのものとなっていたタルススを強引に奪うと、少数の騎兵とともに一度本隊に戻ったがすぐにユーフラテス川の方向へと向かって駒を進めた。ユーフラテスの河畔のいくつかの城壁を攻略し、虐げられていたキリスト教徒を解放しながら進んだ。この働きを聞いたエデッサの領主トロスが彼に使節を送り、「エデッサに赴き、二人が生き続ける限り父と息子のごとく、友情を交わしたい」との旨を伝えた。すなわち、『もしもトロスが死んだ時に隣にいたのがボードヴァンであるならば、彼はエデッサの領主となる』ということであった。
エデッサに到着するとトロスとボードヴァンは一つの大きな布で出来た合羽のような服の中に入り、互いの胸をこすり合わせ、父と子の誓いを立て、トロスの妻とも同じようにして誓いを立てた。
その15日後、既に語られたことは現実となった。
ボードヴァンはトロスを守ることが出来なかったことをひどく悲しむとすぐさまトロスの子としての責務を果たすべく国の中にいた異教徒を排除し、国を守ることに努めた。
他の史料にはこのエデッサについての出来事を、ボードヴァンの策略としているものもある。ていうか誰がどう見てもそうだろ・・・ボードヴァンは地元ではうだつのあがらない後継者にすらなれない男。それが一つの国の支配者となり、後にはイェルサレムの王にさえなる。たぶん最も出世した男だろう。
生涯のうちで最も苦痛となるべき時がどのような人にも必ずや一度は訪れるように、私はこのときのことを生涯、あるいは千年の王国のうちにあったとしても、そしてこれまで多くの罪を犯してきたこの私にも主の慈悲によって安寧の時が訪れるとしても、忘れることは無いだろう。
神が人の肉を得て我々の前に姿を御見せになってより1097年10月の20日。我々は主の御導きによってシリアの聖都、アンティオキアに到着した。この都は街から何者かが裏切り、我々に門を開けぬ限り落とすことが出来ないと思われるような頑強な城壁で囲まれ、山の腹に作られた街であった。更にこの都市を攻めるものにとって不幸なことにこの都市にはフェルヌス川という川が流れており、ここを通して都市には常に物資が送り込まれていた。長くこの都市は異教徒の手の内にあったものの、我々が来ることを既に知っていた神は我々にこの都市の中にある教会を無傷のままに保ち、守ってくださっていた。というのも、この都市の教会は、あるいはこのアンティオキアという都市は我らキリスト教徒にとってはとても重要なものだったからである。なぜなら、使徒聖ペテロはかつて主より天国の鍵を受け取り、キリスト教会の長として任じられた後、この地で彼は司教に任じられてここの聖堂にて座したからである。また、もしも仮に我々がここを落とさずにイェルサレムへと赴いた場合、ここを拠点として我々は敵に全く完全に囲まれてしまうため、なんとしても落とさねばならない街であった。
我々はまず都市から1キロと半分ほどの距離に天幕を張って陣取り、フランク軍諸侯はこの難攻不落の都市を神の御助けによって攻略するまで共に戦うことを硬く誓い合った。
まず我々は川にあった小船を解体して橋を作った。橋がなくばこの都市に進むことも出来なかったからである。
一方これを見たアンティオキアのエミール、ヤギ・シヤンはもはや街を捨てて脱することは出来ないと見てすぐさま彼の息子のシェムス・アド・ダラウをスルタン、すなわちペルシアの王の元へ、援軍を齎すように頼むため、使節として送った。
かの援軍が到着することを待つまでの間に敵は我々に何回も攻撃を仕掛け、我々も彼らを攻撃した。また、都市の中にいたキリスト教徒が彼らを裏切ることを畏れて、キリスト教徒の首を切り落とし、我々へと投石器を使って放り投げてきたりもした。我々はこの都市を包囲し続けるため、近隣の村々を荒らして何とか食糧を得ていた。しかしながら次第にその様なところも荒らしつくし、我々は食糧不足に陥っていった。そのため、我々のうちの何人かはこの包囲を投げ出してひそかに離脱することを考えた。また、食糧を探すために遠くへと向かったものも、常に敵の攻撃に怯えなければならず、そしてまた、実際殺されるものもいた。
街がなかなか占領することが出来ず、我々はその原因を我々の堕落により神の怒りを買ってしまったからであると考えた。そして軍の中にいたふしだらな女達を軍から離れさせた。そしてそれまで軍の中にいた女達は軍の周りで生活するようになった。
さらに日は進み、それでも尚都市を攻め落とすことが出来ず、包囲を誓いに反して離れる者、食糧を探しに行くといったまま帰らずに逃げるか、あるいは殺されるものが続出した。その頃に、我々は天に不思議な輝きを見て、また、台地が大きく揺らぐのを感じた。さらに、天には輝く光の十字架が現れた。私は、未だにこのときの不思議な体験の意味を知ることが出来ないままでいる。
1098年、アンティオキアを攻略できないまま我々は更なる飢餓に苦しんだ。
飢餓ゆえ、口に入るものは何でも口に入れた。薪不足で十分に火が通らず舌をちくりと刺す茹でたアザミも食べ、馬、ロバは勿論、犬やねずみも食べた。また、飢えで狂いかけた者は動物の糞の中の穀物までも食べ、また更に狂ったものは、とても私の口からは言うことができないようなものまでも食べた。飢餓に苦しみ、敵の刺客に苦しむ我々の中には自ら敵の只中へと飛び込み殉教するものまでもいた。また、名高い騎士であり、人びとから信頼されていたブロワ伯のエティエンヌは故郷フランスへと海路で帰っていった。このような幾多の難に晒され、我々の心はこれまで以上に神を求めた。更にこの飢餓によって肉体ではなく魂が清められていったことを、私は今でも思う。このときほど、私の魂が純粋に神を求めたことはなかった。
これを見た我らの主は大いに御喜びになったのであろうか。ついにその手を我らに差し伸べてくださった。
主はある夜、あらかじめ決められていたアンティオキアの中に住むフィルーズと呼ばれる男の元に現れ言った。「眠れるものよ、起きなさい。あなたがアンティオキアの都市をキリスト教徒の手に戻すように、私はあなたに命じます。」男はこの夢を不思議に思い、黙っていた。しかし主は再び彼の元に現れ言った。「街をフランク人のものへと戻しなさい。私はキリスト。あなたにこれを命じるものです。」彼は深く考え、このことを主君でありエミール、ヤギ・シヤンに相談した。しかしヤギ・シヤンは「お前は夢に従うのか?お前は馬鹿なの?死ぬの?」と言って彼を帰らせた。彼は黙ることを決めた。しかし、三度、主は彼の元に現れた。「私が命じることをなぜ汝は行わないのか。躊躇してはいけない。汝に命じる私は、万物の創造主たる主であり、精霊であり、イエス・キリストである」もはや彼は疑うこともなくなり、フランク人と密会することを決めた。彼はこれをボエモンにまず話して、その後この都市の攻略についての密議をした。そして彼は信頼の証として彼の息子をボエモンへと差し出した。そして、エティエンヌが逃亡した6月2日の翌日、すなわち6月3日がその日と決められた。
夜。20人のボエモンの部下が都市に潜入し、硬く閉ざされ、我々を外に締め出し続けた門を開放した。待機していた兵がすぐさま街へと侵入し、口々に叫んだ。「神はこれを欲し給う!神はこれを欲し給う!!」都市の内にいた異教徒はこの声を聞いて大変恐れた。東の空の暁が白み始めた頃、もはや我々を受け入れるために開かれた門へと、そして都市へと向かって我々は進軍した。城壁の上にはボエモンの赤い軍旗が翻り、兵が鬨の声を上げた。路上を兵たちが抜き身の剣を手に駆け抜け、異教徒を殺しまわった。これを見た異教徒は恐れ慄き、散り散りになって逃げ回り、そのうちの何人かが何とか岩壁の砦へと逃げ込んだ。
フランク軍の下級兵士は目に付いたものを我先にと手当たり次第略奪して回った。しかしながら高潔なものは敵を追い、軍務を遂行し続けた。その後、アンティオキアのエミール、ヤギ・シヤンがアルメニア人に捕まり、首を切り落とされてフランク軍の下に送り届けられた。
アンティオキアの占領後、巡礼者の一人、ピエール・バルテルミーが使徒ペテロに奉献された教会の地中に眠る一本の「槍」を発見した。彼は使徒アンドレアスに啓示されて発見したこの槍がキリストが我々の罪を贖うために磔にされた時に聖ロンギヌスがわき腹を刺した「聖槍」であると言った。アデマールは下賎な農民がこれを見つけたことからこれを疑ったものの、サン・ジル伯はこれを本物の聖槍であると考え、大切に保管した。伯はこの槍の前に捧げられた多くの供物を貧しい人びとの為に分配していった。
先にこの槍の顛末を述ておこうと思う。この槍を見つけたピエール・バルテルミーは聖職者がなかなかその槍を聖槍であることを信じないため、自らその真実を証明するため、後に占領されたアルカスにて火審を行うように頼んだ。アルカスの平原に薪が詰まれ、火が放たれた後、聖職者によって火に十字が切られ、彼はその中へと飛び込んでいった。火の中から出てきた彼の皮膚は焼き爛れ、体内に致命傷を負っていた。12日間の苦しみの果てに彼は死に、その槍がもはや聖槍で無いことが証明された。人々は大いに悲しんだものの、サン・ジル伯レーモンはそれでも信じ続け、槍を保管し続けた。その後槍がどうなったか、私は知らない。もしかしたら、どこかの地で眠り続けているのかもしれない。また、それが本当に聖槍でなかったのか、私には分らない。ただいえることは、私は再びこの口を巡礼の旅へと向けねばならないということだ。
我々がアンティオキアを占領し、都市の中の異教徒を排除していると既に語った使節が大軍を引き連れて都市へと戻ってきた。その軍はスルタンによって召集され、カルブカが長となっていた。このように包囲されたのは、我々がアンティオキアを占領したその夜に、我々の多くが都市にいた女達と姦淫をしたからであろう。神は我らの罪に罰を与えたのだ。
敵の軍が何度も都市を攻撃したため、我々の心は挫折し、逃亡を試みるものが何人も出た。しかし、それでも神は我々をお見捨てになることなく我々を励まし続けた。逃げようとした司祭の下にキリストが現れ言った。「汝、逃げず、戦いなさい。私はあなた方が私の母の教会で祈りを捧げたことを知っている。故に私はあなた方と共に戦いましょう。これを戻って、皆に伝えなさい」司祭は直ちに戻り、そしてこのことを皆に伝えた。逃げようとした兵士の下に既に殉教していた彼の兄が現れて言った。「弟よ、どこへ逃げようと言うのだ。恐れずにとどまり、そして戦え。主は戦いの際はお前達に付き添うだろう。そしてこの旅で既に殉教した仲間もまた、お前達と戦うだろう。」
食糧が尽きた我々は三日の断食の後、主が我々を助けてくださることを祈った。そしてまず例の隠者ピエールを敵方へ派遣し、我々のうちの代表者が戦い、そしてその結果によってこの都市の支配権を決めようという旨の意向を伝えた。しかし、圧倒的に数において勝る異教徒の軍はこの提案を受け入れなかった。
主の受肉より1098年と6ヶ月、9日の前日、軍議によって翌朝、異教徒との戦いに打って出ることが決められ、深い祈りが行われた。
1098年、6月9日。有能なトルコ人の兵、アミルダリスという名の男は、フランク軍が軍旗を翻らせながら前進してくるのを見ると、すぐさま戦闘が近いことを悟り主君カルブカに報告するために彼の元に急いだ。アミルダリスがカルブカのテントにはいると彼はチェスに興じていた。アミルダリスが「何チェスなんかやってるんだよ!!敵が来てんだぞ?!もっと熱くなれよ!!」と言うとカルブカはたいそう驚き、「あいつら馬鹿なのか?死ぬのか?本当に戦いに来てるのか?降伏じゃなくて?」といった。「まだ戦いに来てるのかどうかは分らない。ちょっと待て。今調べるから」といって、アミルダリスはフランク軍を見た。フランク軍は整列し、騎手は高々と軍旗を掲げていた。そしてその中にはアデマール司教の旗もあることを見ると、「やっぱり戦いに来てるみたいだ。本気の顔してる。」といった。カルブカはまさか戦いになるとは思っていなかったので「やっぱりあの提案、受けようかな、って思うんだ。うん。使者を送ろう」だがアミルダリスは言った「遅すぎですよ。」
アミルダリスはカルブカのテントを出ると馬を駆って走りながら逃げるべきか戦うべきか考えた。だが、彼は戦うと決めた。「誰もが弓を引かねばならない。誰もが命をとして戦わねばならない」と。彼は仲間を鼓舞し、戦いの準備を始めた。
フランク軍がついに攻撃を開始し、トルコ兵全てを激しく攻撃した。トルコ兵は慣習どおりちりぢりになって戦ったが、一部のものが逃げ出すとまた一人、また一人と逃げ始め、さらに矢と共に神罰が彼らに降りかかり、彼らは力の限り全力で逃走した。フランク人は逃げる彼らを全力で見逃さずに追い掛け回した。しかし、追いかけようにもフランク人の馬は極度の飢餓で弱っており、彼らを十分に倒すことは出来なかった。
その後フランク人は彼らが残していったもの、すなわち馬、らくだ、ロバ、兜、弓、矢を奪った。また、テントの中に入ったフランク人は、その中にいた女達をその腹に剣を突き立てて殺害した。一方カルブカは逃走した。
戦利品を手にしたフランク人がアンティオキアの街に神を讃えながら再び戻ってきた。このとき、すなわち1098年6月9日、聖都アンティオキアは再びかつての名声と地位を取り戻したのである。
アンティオキアは既に語ったとおりの都市なのだが、第一回十字軍において最も長引き、そして最も最悪の包囲戦が行われた。飢餓に苦しんで人肉食を行ったものもいたと考えるのが普通である。
ちなみに、中盤で「不思議な光」というのが出てきているが、これは超新星爆発のことで昼間でも見えたとか。同時代の日本の記録にも登場してしまった事象。びっくりだね。
また、裏切った男フィルーズについては、イスラム側の史料には「キリスト教徒」と書かれ、キリスト側の史料には「イスラム教徒」と書かれる。自分達の同胞から裏切り者を出したくないのは当然のこと。
アンティオキアで我々が休息していた8月1日。これまで我々を励まし、そして束ねてきた精神的支柱であるピュイの司教、アデマールはその魂に永遠の安らぎを得ることとなった。
また、アンティオキア攻略の後、帝国の将軍が帝都に戻ることを決めた。彼が皇帝から命じられていたのは、あくまでロマニアの地の再征服までであったからである。
このことからアンティオキアを誰が統べるかと言う問題が浮上し、ボエモンが「私の策略によってこの都市は落とされた。私のものだ」と主張し、軍の兄弟同士での争いも吝かではないとしたため、その他の諸侯はこの提案を受け入れてボエモンがこの地を得ることとなった。
これより巡礼団は次第に内部での亀裂を深めていってしまうことになる。つい先日までは共に戦っていたものたちが仲たがいをしてしまうとは、私自身、とても悲しいことであるが主はこのことをどのように思ったのだろうか。私にはそれを知るすべが無いのが、悲しい。
アデマールの死因はチフスの感染。8月になると猛威を振るうので注意しましょう。
また、このアンティオキア占領の後、十字軍は中だるみを向かえ、自然消滅寸前までいく。諸侯も対立する。レーモンとボエモンは実際に戦闘までしている。
『尊敬すべき主人にして我らの霊性の父、教皇ウルバヌス2世聖下に、ボエモン、サン・ジル伯レーモン、ロレーヌ公ゴドフロワ、ノルマンディー伯ロベール、フランドル泊ロベール、ブローニュ伯ユースタスは聖下に挨拶と、忠誠を誓いあげつつ、あなたが提案なされた神の軍の行動をお知らせいたします。我々がいかにして聖都アンティオキアを攻略し、主を侮辱し続けてきた邪悪なる異教徒を殺したかを。
我々は1096年の出発より帝都を抜け、ロマニアでの異教徒との戦闘を勝利で飾りながら進み、アンティオキアを包囲いたしました。この地で我々は幾多の苦痛に耐えることを強いられ、また敵との戦いによって多くのものが殉教しました。ですが、その中で我らの主キリストの名は高められていき、ついに1098年6月3日この聖都を陥落させ、さらには聖ペテロの教会から聖槍までも発見いたしました。ですが、我々はこれまで包囲してきたトルコ人に、逆に包囲されてしまいます。我々はその中で飢餓に苦しみましたが、主の恩寵によって彼らも打ち破り、彼らの財産をことごとく略奪いたしました。その後、主はアンティオキアの内部の人びとをキリストの信仰へと変え、ついにアンティオキアは再びかつての栄光を手に入れました。
ですがうれしいことには悲しいことが続くのが通例であるように、8月1日、我々の司教、すなわちアデマールが死にました。ですので聖下、どうかこちらへ赴いていただきたいのです。この旅は聖下の偉大なる演説によって始められました。その旅が、聖下の名によって、そして聖下の統率によって終えられることが最も正しいことであると思われるからです。また、更に言えば我々は異教に染まった邪悪な者たちは撃ち殺しましたが、しかしながら異端者共、すなわち、ギリシア人、アルメニア人、シリア人、ヤコブ派信者を打ち倒すことは未だ叶いません。ですので聖下、どうかこの地へ赴き、かつて聖ペテロが座した司教座にお座りいただきたいのです。
これまであり、今あり、これからもある、永遠の統率者である神が聖下にかく命じられますことを。アーメン。』
ボエモンが中心となって書いたウルバヌスへの手紙。援軍要求なのかなんなのかは不明。中間報告と言ってもいい。
アンティオキアでの4ヶ月の休息の後、我々は再びイェルサレムへの進軍を開始した。我々はその途上にあるいくつかの都市、城壁を攻略しつつ進んでいった。
一部のものはまずギベリンへ向かったが後にアルカスで本隊と合流した。そこを去り、トリポリへ向かい、さらにギベレットへ。ベイルートを通り、カナンの息子シドンが建設したシドンを経由し、サレプタへと向かい、ギリシア神話のアポロンの出身地ティールへ進んだ。そこからかつてはアッコンと呼ばれたプトレマイスから右手にハイファを望む地を後にしてドラを通り、キリスト誕生の時の王ヘロデの孫ヘロデスが虫に食われたことで死んだ街カエサレアを進み、ラムレーを経由してついに我々の目的地、イェルサレムへと向かった。一方その途中、優秀な騎士100人ほどがキリスト誕生の地、ベツレヘムへと向かった。
私は、これまで聖書の中でしか知りえなかったキリストが歩き、教えた数々の地に脚を踏み入れようとしている。この感動はいつまでも忘れることが出来ないだろう。
そして主の受肉より1100年から1年を引き、6月が太陽によって暖められた月、すなわち1099年7月。我々はイェルサレムを包囲するに至った。
散々苦しんだアンティオキア戦ののち、約3ヶ月でイェルサレムまで進んでいる。この間にも諸侯は領土をめぐって激しく争い、時には共闘した。
また、当時地図があるわけでも、ましてや「ここはアンティオキア」「めんそーれベツレヘム」などの看板があるわけが無く、彼らは聖書を基にして旅している。後にはガイドブックのようなものも作られたが、そこでも基本的に聖書を下に「ここがペテロの司教座であるアンティオキア」などとしている。聖書、便利です。
この聖なる都市はまず、神がその地を約束しなかった限りとても人が住むのに適しているとは言い難い。森や川、泉はなく、乾いている。だが人びとはそれゆえ多くの水を保存し、街の周辺にも貯水池がいくつもある。都市は城壁で囲まれており、その西側には頑強な石造りの2対のダビデの塔が立っている。かつてのソロモンの神殿が建てられていたところには、かつての姿と比較することは出来ないものの、それでも優美な姿の円形の神殿が立っている。
聖墳墓の上には立派な同じく円形の聖堂が立てられている。その屋根は先端がぽっかりと開き、太陽の光によって照らされるように職人によって素晴らしいつくりが為されていた。また、その中心には一見すると教会の外見を損なうような自然石がすえられている。
その自然石については、いくつかの謂れがある。これから語ることがこの書を読んだり、あるいは聞いたりする人が混乱しないようにあえて先に述べておくが、私の無知ゆえにどちらが正しいとは明確に記さない。
この自然石ゆえに神殿は外見を損ねているように思われるが、この自然石には所謂、聖櫃、すなわちアークが収められているという。ユダの王ヨシュアが聖櫃をここにおくように決め、そして「決してこの場所から汝らは運ぶことは出来ない」といったからである。これはヨシュアがその後に起こるバビロン捕囚を預言していたためであった。しかし、エレミヤによる書によればエレミヤはこの聖櫃をアラビアの何処かに隠したことと矛盾している。エレミヤは「多くの民が共に為すときまで、聖櫃を探してはならない」と述べている。ヨシュア王とエレミヤは同時代に生きたが、王の人生はエレミヤのそれよりも先に終えた故、聖櫃はここには無いのかもしれない。また、その不敬によって神を怒らせたダビデ王の時代にこの自然石の場所に天使が現れ、人びとを打ち据えた。ダビデはそれを大いに畏れ、「罪を犯したのは私です。子羊たちが何をしたというのですか」と神に赦しを求め、神はその偉大なる慈悲によってダビデを許し、そしてダビデと主の契約の書たる詩篇が紡がれた。
主、イエス・キリストはこの地で罪を贖ってくださったのだ。すべての人びとの罪をその一身に背負い、苦しみの果てに昇天なされ、そして3日の後、すなわち金曜の処刑より三日後の日曜に復活なされた。我々はなんとしてもこの地を異教徒の悪しき手より奪い返さねばならぬ。
聖櫃には笏と石版が収められているという。石版はモーセが神様からシナイ山でもらったやつ。旧約聖書を読むとここの意味が理解できると思います。また、聖書内での矛盾は「よくあること」なので突っ込んだら負け。
聖墳墓教会は現在も存続しており、ついこの間乱闘事件が発生した。いやはや。
金曜の処刑より三日後、というと月曜のように感じるものの、当時は金曜も1日として含むため、日曜が三日後となる。
この記事の基にしているフーシェの記録には深い感動が感じられ、これまで知識としてしか知らなかった地に自ら立っていることの喜びが各所に見られる。彼らは、その当時の旅人でありながら、旧約、そして新約の世界を旅していた、とも言える。
1099年7月13日。主、イエス・キリストが十字架の上で人の罪を贖った週日である金曜日、それまでの幾らかの戦闘とその失敗の後、総攻撃が開始された。
その場で作った投石器や城攻めの塔、破城鎚などの機械を使い、城壁を破るべく激しい攻撃を行った。
そして主の受肉より1099年と7月の15日、イェルサレムの都市へと我々の軍が進入し、「神よ、我を助けたまえ!」であるとか、「神はこれを欲し給う!」と叫びながら市中を走り回って逃げる敵兵達を次々と殺していった。中には城壁から身を投げるものもいた。ダビデの塔に立てこもるものもいたが、彼らもまた殺された。先に述べたソロモンの神殿に逃げ込んだ者達もいたが、ついに神殿の扉が開けられ、フランク人たちが中へと入り込むと次々に首を切り落とし、殺しまわった。もしもこのときに、殺す側としてあなたがいたとしたら、あなたは溢れかえる血によって足首まで赤く染められていたことだろう。兵が抜き身の剣を手に走り回り、容赦なく、命乞いをするものも殺された。老いも若きももはや関係なく、女性や子どもとて兵は誰一人容赦しなかった。
人びとの頭はまるで腐った果実が揺さぶられて落ちるかのように、風に吹かれた樫の機からドングリが落ちるかのように地に落ちた。
女も子どもも、老いも若きも関係なく、そして容赦なく殺されるというおぞましい光景が広がっていた。ある兵が敵の腹を切るとその胃の中から金貨が出てきたので、他の兵もそれに習って敵の腹を切り開いて金貨を探し、さらに数日後に灰の山から金貨を探すために死体を山のように、否、まさに山に積み、燃やした。さらにタンクレッドは主の神殿に入るとそこにある金銀、宝石を占有した。しかし彼は後にこの神殿を更に壮麗に修復し、奪ったもの以上の財産を聖なる場所に戻した。
あぁ、どれほどこのときを切望したことだろうか!この事績の前に立つことのできるような誉れ高き事績が他にあろうか!すべてのカトリック信仰を持つものにとっての望み、そして魂の切望はついに果たされた!神とアブラハムが契約を為した地、契約の地、約束の地、そしてキリストが生まれ、死に、復活した地、この世界の最も神聖な地、イェルサレムはついに正しき主の羊達の手に戻された。
聖なる処女マリアが精霊によって授けられた全てを統べるお方を生んでより1099年
7月は15回の暁を見たその日、イェルサレムはキリスト教徒の手によって奪還された
イェルサレムを陥落させた十字軍はユダヤ教徒、イスラム教徒は勿論キリスト教徒までも殺したとされている。
私がここまで極力見たままの、あるいは聞いたままの事を書き綴ってきたこの物語ももはや達せられ、これを語る口の周りにはかつて旅をした時には無かった皺も増えた。旅を見据えた目も衰え、かつて馬の手綱を握り、今は筆を握る皺の増えた手は震える。もはやこの罪深い人生も終わりに近づきつつある。かつて、そこで行われた凄惨な出来事を知らぬままに私は聖地奪還を喜んだ。今思えば、それは余りにも血に濡れた道であったし、余りにも野蛮な行為だったのかもしれない。だが、それであったとしてもこの事績は幾多の困難を乗り越えて果たされた。神と、人の手によって。これは揺るぎの無い事実であり、そしてそれは誉れ高い事なのだと私は信じたい。
私はこの物語の最後に、この物語の人びとについて、知りうる限り書いておこうと思う。
聖なるお方、イエス・キリストの名は今もあり、これからもあり続け、語り継がれ、そして人びとから尊敬され続けている。
旅の発案者である教皇ウルバヌス2世猊下はその存命のうちにはイェルサレムの復帰を知ることなく1099年7月29日に昇天なされた。
私のよき友であり軍全体の支柱たるアデマールは既に語ったようにアンティオキアにて昇天してしまった。
イェルサレムは「聖墳墓の守護者」としてゴドフロワ公が手中に収めたが、彼も翌年には死んだ。後にエデッサ伯ボードヴァンが後継者として迎えられボードヴァン1世として即位したが、彼は1118年、死んだ。
帝国の皇帝アレクシオスはボードヴァンと同じく1118年に死んだ。
アンティオキア陥落の前日にフランスに帰ったエティエンヌは1101年にイェルサレムに再び戻ってきた。そして失った名誉を取り戻して異教徒との戦いの中で殉教した。
アンティオキアの支配者となったボエモンは1111年、アプリアで死んだ。
かつてレコンキスタの中で異教徒と戦い、軍の諸侯達の中のリーダーとなったサン・ジル伯レーモンはイェルサレムの安定のため周辺諸国を征服していく最中、1105年にトリポリで死んだ。
例の隠者、民衆達を率いた男ピエールは故郷フランスに帰ったと聞く。
そして、何よりもその熱烈な信仰を持ち、軍の中心を為した名も知れぬ人びとは、今尚、その信仰を保ち続けている。願わくば彼らの信仰が祝福に満ちたものであらんことを。
もはや私も死を迎えつつある。
罪深き私にも、主の慈悲が与えられ安寧の眠りが与えられることを祈りつつ、このイェルサレムの聖墳墓教会を見上げる地にて筆をおく。アーメン
最後にどうしてもいっておきたいことがあります。十字軍とは、侵略でした。侵略であり、虐殺であり、略奪でした。ですが、そのことから十字軍に参加した人びとや、キリスト教信仰が誤りであるということは出来ないと思います。彼らの信仰は我々から見れば過ちだったのかもしれませんが、彼らにとってそれは正しいことでした。この記事の基となっているフーシェ自身も、虐殺や略奪については極めて批判的であったということが読み取れます。彼らの行動が正しいかどうかと言うことはおいて、彼らの信仰については認めてあげてほしい、と僕は思っています。
それでも尚、批判するならば、あるいはそこから何か、自分の研究の道を見つけるのであれば、それは素晴らしいことだと思います。ですが、その際は必ず勉強をしてください。キリスト教とは何か、信仰とは何か、と言うことを勉強して、そして批判してほしい、新しい研究への礎となる批判をしてほしい、と僕は思っています。最後まで読んでくださって本当にありがとうございました。
掲示板
48 ななしのよっしん
2023/04/22(土) 17:15:05 ID: ae73Fu+TY+
49 ななしのよっしん
2023/05/07(日) 17:26:17 ID: Z+P2QDS+/1
クレルモンの奇跡のちょっと上の方の「精霊」は「聖霊」とすべきじゃねーかな。現代日本人はほとんど区別がつかないと思うが別の存在だってばっちゃが言ってた
50 ななしのよっしん
2023/05/12(金) 10:38:15 ID: xcD1NQ4EhQ
正直金目当ての合理的な商業戦争行為だった第四回の方が、宗教的理由で民間人が虐殺しまくる第一回とかよりよっぽど正気に思える
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最終更新:2025/03/13(木) 23:00
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