国家総力戦とは、国が戦争遂行のために有する国力全てを充てる戦闘形態。国家総動員とも。
国力とは軍事力のみならず、経済力や技術力、政治力から思想・文化力までを含め、これを全て国家と戦争遂行のために充てることを言う。このための手段としての動員(国家が人材・資源・民間私財を徴用すること)を国家総動員と呼び、体制を総力戦体制と呼ぶ。
語源は第一次世界大戦中のドイツ軍参謀次長エーリヒ・ルーデンドルフによる著書「国家総力戦」から。ただし、日本においては平時からの戦争計画である総動員とルーデンドルフによる第一次世界大戦のドイツ戦争経済をヒントに、1921年から永田鉄山が造語として使用していた。そもそも、日本以外ではあまり使われない言葉であるため、永田とその影響下にあった統制派軍人による戦争指導そのものを指すこともある。
一般に動員と言えば徴兵またはその実行(召集)を指し、総動員と言えば国家による戦争計画を指すことも多い。ヨーロッパでは通常はここまでを指し、前述のように兵士の他にも国力全てを戦争に費やす国家総動員と言う認識は薄いようである。とは言え、日本に限らず当然ながら全面戦争における根幹をなす制度と言える。
第一次世界大戦前には列強と呼ばれる国々では当然の制度となっており、訓練率(成年男子が軍の召集に即応出来る率)の向上と動員の量や速さにしのぎを削った。抑止力ともなるはずだが、動員制度の欠陥が第一次世界大戦への引き金となった。
成年男子が徴兵を受けると各産業における働き手は消えて行き、人手不足となって悪影響を与える事例が各国において見られた。
また、訓練されているとはいえ、職業軍人による常備軍に太刀打ち出来ない事例も第一次世界大戦から散見される。高度に訓練を受けた士気の高い職業軍人による短期決戦で人的損害を減らす思想がここから芽生え、ドイツによる電撃戦と言う形で昇華されたが、非対称の戦争はより凄惨な戦争を生むきっかけともなった。
産業革命による発達により、既存の兵器や弾薬が尽きれば和平と言う戦争形態は19世紀前半には消滅し、作っては消費し作ってはまた消費する消耗戦が当然の前提となった。各国の工業力がそのまま国力とみなされるようになり、19世紀中には帝国主義と呼ばれる資源や市場を巡る植民地争いが本格化した。建艦までに時間がかかる海軍は比較的、消耗戦思想からは免れていたが、太平洋戦争によりそれも過去のものとなった。
多くの場合、計画経済が取り入れられ、企業経営の自由や資源の使用、生産物は統制を受ける。平時における社会主義(統制経済主義)とは相性がよく、実際に日本で戦時統制を主導した企画院には共産主義の影響下にあった者も少なからずいたとされる。誤解されているが、1938年の国家総動員法も経済・産業面での統制法であった。
農業含めて戦時増産と前述の徴兵による人手不足により、多くの国では女性労働力が活用された。戦後も男子人口の減少もあって、婦人参政権など女性の人権向上に一役買ったとされる評論も多い。また、日本においては農業から工業への産業シフトを決定的に加速させた出来事となった。
物質不足や輸入途絶により、代用科学の発展が促された。代用石油(石炭液化)や人造ゴムなどは現在でも盛んに研究され、一部は実用にも供されている。
また、船舶の大量生産のために溶接技術が発展し、破壊力学への理解が進んだ。これらの技術は戦後に応用され造船業界に革新を起こした(リバティ船・戦時標準船)。
総力戦のみの結果とは言い難いが、第二次世界大戦における核やエレクトロニクスの発展は、戦後の礎の一つとなった。
軍事費の増大により財政は否応なく拡大する。一部ではこれを歓迎する財界人もおり、現在でもアメリカの恐慌からの脱却はニューディールではなく第二次世界大戦に求める論調は根強く、中には陰謀論につながるものもある。ただし、これは戦争に勝った国の話であり、日本においては末期の1944年度予算が戦前の三十倍規模にまで達し、公債と借入金の割合が78.6%にもなった。続く1945年度は国民所得すら上回り、1946年度予算は既に考えられないと揶揄される異常事態となった。
当然に市中に出回る紙幣が増えればインフレが発生し、物不足がそれに拍車をかける。インフレと個人消費を抑制するために貯蓄と公債の購入が奨励され、特に公債は多くの国では盛んに宣伝が行われた。ドイツではタンネンベルク戦の英雄に祭り上げられたヒンデンブルクの像が駆り出され、アメリカではチャップリンが公債購入を呼びかける映画を製作している。また、第二次世界大戦のドイツでは戦後に納入すると言う約束のもと、フォルクスワーゲン購入の積立預金が流行し、これは敗戦にも関わらずのちに実行されモータリゼーションの普及に一役買った。日本における有名標語「欲しがりません勝つまでは」もこのインフレ対策のことを指す。
とは言え、物質の不足はいかんともしがたく、敗戦国を中心に戦後の経済対策は復興よりもインフレ対策を意味するほどの惨状であった。
前述のインフレにより国民経済は悪化の一途をたどる。市場に紙幣が出回るため好景気と誤認した者もいたが、物質不足と物価高に収入の増加率が追い付くことはなかった。配給制度のみでは生活も出来ず、一度制度が敷かれれば闇市は例外なく現れ、政府が定めた価格の何倍もの値段で取引がなされた。
また、個人消費抑制への目は民間の間でも厳しく、日本においては無節操な消費はもちろん不満をもらすだけで非国民と言う言葉を容赦なく投げかけられた。アメリカですらガソリン統制は厳しく、自家用車の使用自粛などを呼びかけるポスターが何枚も作られ、現在ではそれをコレクションしている人さえいる。
農業人口の減少は耕作放棄へと容易につながり、第一次世界大戦、第二次世界大戦ともに多くの国で国民が飢えに苦しんだ。第一次世界大戦中の1916年の天候不順による不作が引き起こした飢餓は深刻であり、食料の不足はロシア革命へとつながった。末期にはスペイン風邪とよばれるインフルエンザのパンデミックが起こり、栄養不足による抵抗力の低下や衛生状態の悪化もあり全世界で一億人もの人が命を落とした。
第一次世界大戦まではまだ限定的であった戦略爆撃も、第二次世界大戦において本格化。総力戦を支える国民も攻撃の対象とされ、日本とドイツでは都市ごと焼き払われた。飢餓と共に悲惨な記憶として現代にまで語り継がれている。
総力戦と言う唯物的な言葉に惑わされやすいが、実際は国民の精神的支持が勝敗のみならず国政に大きな影響を与えた。革命により崩壊したロシア帝国、ドイツ帝国、諸民族への抑圧が原因となり第一次世界大戦を引き起こし崩壊したオーストリア・ハンガリー帝国、戦争指導者層に共産革命への恐怖が渦巻き降伏にいたった大日本帝国、二度の大戦をはさんで疲弊し崩壊した大英帝国など、20世紀中に帝国と呼ばれる前近代国家が総力戦の結果倒れたのは偶然ではない。20世紀後半の世界はこれらの国家形態とは袂を分かった二つのイデオロギー国家、アメリカとソ連により担われることになる。
言うまでもないが、国家は一度戦争が起きれば出来る限りの国力を軍事につぎ込んで当たることになる。戦争が国家の存亡そのものであることは孫子の言葉「兵は国の大事にして、死生の地、存亡の地なり。察せざるべからず」をひくまでもなく、古今東西変わることはない。
しかし、フランス革命までは、戦争の惨禍が無関係な民間人に降りかかることはあっても、国家の存亡が自らの生命・財産・アイデンティティに影響を与えると言う認識は人民間には希薄であった。そもそも、国民と言う概念すら存在せず、王の所有物である「臣民」が存在しているならまだ良い方で、農民は地方領主である貴族や地主に、商人や職工はギルドなどの国際的な都市中間団体にそれぞれ帰属しており、人心はさらに国際的な教会が握っていた。国家が人民の中に占める重要性は現代から見れば相当に限られていたのであり、たとえ国が滅んだところで私財と信仰さえ保障されていれば関心を持つ者は少なかった。
フランス革命と干渉戦争、次いでナポレオン戦争において国民意識を持った国民国家がフランスで誕生すると、これら中間団体は排除され、国王に忠誠を誓う傭兵的な常備軍を有する各国は、徴兵制によって立つ国家主義(ナショナリズム)的国民軍を持つフランスの前に敗れて行く。最終的にフランスは敗れこそしたが、19世紀中盤までにはヨーロッパにおいて国民と国家主義の必要性に疑問を呈する政治家は、憎しみの対象になっていた当の王や貴族含めて少数となった。
一方、かねてより始まっていた産業革命により、火砲の大量生産も軌道に乗り始める。科学技術の発展はやがて蒸気機関と鉄道技術に結びつき、通信技術とこれらを最大限に利用したプロイセンが普墺戦争、普仏戦争に圧勝。
また平等意識や人権意識、産業の高度化は識字率の向上や初等教育の普及につながり、国家主義思想の伝播と質の高い兵卒の育成(国民皆兵)にもつながった。
各国共に動員の量と質と速さが勝利につながることを確信し、ここに国家主義・国民皆兵・大量生産・大量動員と言う20世紀前半における総力戦のキーワードが出そろうことになる。
普仏戦争による勝利によってもフランスへの恐怖心が消えることはなく、宰相ビスマルクは外交的手段によりフランス封じ込め策を取った(三帝同盟ついで独露再保障条約)。しかし、東欧やバルカン半島における独露間の不信は高まり、ビスマルク引退後は独露再保障条約は更新されず、1894年の露仏同盟を招いてしまう。
二正面作戦を強いられる可能性が高まったドイツは1905年にシュリーフェン・プランを策定。具体的にはインフラ不足で動員スピードが遅いとされたロシア方面では防戦し、西部戦線に全力を注いでベルギーを侵犯したのちフランスを短期決戦で撃破。返す刀でロシアに備えると言う作戦であった。遠大だが、動員のスピードを確保するためにロシアの宣戦はもちろん、動員でも容赦なくベルギーに飛び込む必要があるとされ、軍事を外交や政治に優先するものであった。
また、平時より成年男子の訓練率は徹底して維持されており、成年人口の六割は動員をかけ制服を着ればすぐに兵士(開戦時の動員可能数は550万)となることが出来た。鉄道は平時より戦時を想定したダイヤであったため、召集に応じ郷土の集結地に参集した兵士を素早く前線へと送った。
総じて、良く言えば効率的、悪く言えば硬直化したドイツの動員体制だったが、実際の1914年8月の侵攻では悪い面が噴出。ロシアの動員の遅れは期待が外れ、予定より三週間ほど早く東プロイセンを侵攻されてしまう。また、ベルギーではベルギー軍の予想外の抵抗に遭遇し、両者対策に合わせて四個軍団を引きはがされ、これが9月のパリ前面でのマルヌでの敗戦につながった。
以降、西部戦線は四年に渡る凄惨な塹壕戦へと発展。参謀次長職についたエーリヒ・ルーデンドルフのもと、軍部独裁と揶揄される総力戦体制が敷かれた。この期間、徴兵による農業人口の減少と前線への供出、さらに天候不順により食料が慢性的に不足。1915年には配給制が本格化し闇市は隆盛。抵抗力を失った影響で病死者が平時比で50万人増と言う悲劇を生み、のちの革命に続く機運は早くも熟成が始まっていた。
総力戦体制ではさらに劣っていたロシアを1918年に下したが、もはや戦争を続ける体力はなく、同年の春季攻勢(カイザー戦)に敗れると西部戦線は崩壊。国民の戦争や帝政に対する不支持は決定的となり、キール軍港での水兵の反乱を機に革命が発生し、ドイツ帝国は滅亡し戦争は終結した。
戦後、ヴェルサイユ条約での参謀本部の解体と徴兵制の否定(10万人の常備軍のみ存続)により、ドイツは一時的に動員体制を喪失したが、実際は参謀本部は秘密裡に存置され、10万人の兵卒に将校や下士官教育を施すことで100万人規模の軍隊を即座に編成できるように細工を施していた。
政権掌握したヒトラーはこの遺産を継ぎ1933年再軍備を宣言。しかし、塹壕戦経験者であったヒトラー自身は第一次世界大戦型の徴兵による戦争に見切りをつけ、機械化による近代化を進めた。正面装備を更新するためや道路建設(アウトバーン)のための費用を補うために割引手形(メフォ手形)が発行され、これがドイツにおける第二次世界大戦での戦時体制へとつながって行く。
第二次世界大戦序盤はこの専門的な部隊による電撃戦が行われ、練度の低い兵士たちが活躍する余地はなかった。第一次世界大戦規模の動員が本格化するのは、防御に回った1944年から始まった国民擲弾兵の編成からである。
経済については対仏戦勝利後はフランス占領地およびヴィシー政府からの物資の買い上げ(大幅なフラン安に設定されたため、事実上の略奪)、独ソ戦開始後はソ連領からの苛烈な略奪により維持したが、戦線が後退するにつれてかねてからの物資不足が本格化。国民生活は極度に貧窮化した。
また、強制収容所を通じたユダヤ人や捕虜、外国人徴用者による強制労働が行われ、こちらも収奪行為と合わせてのちのちまで禍根を残すことになる。
普仏戦争の敗戦によって成立した第三共和政下でも対独を意識した国防が改められることはなかった。引き続きドイツと同様に高い訓練率を維持したが、人口において単独でドイツに勝利する目(人口4000万、開戦時動員数は450万)はないため、露仏同盟により正面戦力を分散させることで補った。
第一次世界大戦ではドイツ軍の侵攻作戦、シュリーフェン・プランの矢面に立ち、国境線での不用意な攻勢もあいまって序盤で十万人もの損害を出し現役兵は消散してしまう。パリの命運をかけたマルヌ会戦では民間トラックはおろか軽便鉄道からパリのタクシーまでをも動員し兵士たちを運んだ。最終的に防衛に成功するも、国土の五分の一をドイツに占領された。
防御に回れば良いドイツと違い、国土を回復するための戦争であったため、不利を承知(塹壕は待ち構えるドイツ側が常に有利な位置を占めていた)で攻勢をしかけるしかなく、多大な損害を出し続けた。1917年、秋季攻勢の失敗から全軍規模で反乱が発生。責任者の更迭と待遇改善によってひとまず沈静化したが、もはや攻勢に従う兵士は存在せず将軍たちも自信を喪失していた。
1918年にはロシアが離脱。代わりにアメリカが参戦し、ロシア離脱に乗じたドイツの侵攻を食い止めた。同時期には世界初の回転砲塔戦車ルノー・FT-17が大量導入され、比較的少ない損害で攻勢を成功させる。最終的に歩兵や野砲に戦車と言う新たな総力戦の申し子を加えたフランス軍が勝利を収めた。
勝利したフランス軍ではあったが、総力戦の後遺症は甚大であり140万人が戦死し、徴兵人口の維持は極めて困難となる。そこで静的な防御によりドイツの侵攻を抑えるマジノ線と呼ばれる要塞線が作られたが、第二次世界大戦においては機械化攻勢のお株を奪ったナチス・ドイツによる電撃戦には対応出来ず、国家としては早々に離脱することとなる。
前近代的なツアーリズム(皇帝専制)の影響で軍事・産業面でも立ち遅れが目立った。ヨーロッパでは最大の人的資源を有していたが、訓練率は低く開戦時の動員可能数はフランスと同等(450万)だった。また、ツアーリズムへの国民の憎しみは強く、士官は貴族的で兵卒には横柄であり、国土はともかく体制を自発的に守ると言う姿勢は期待できなかった。
しかし、露仏同盟以降はフランスによる投資により独露国境に鉄道が重点的に敷かれ、ドイツの侮りとは裏腹に動員計画は急速に近代的なものとなっていた。また、独露国境線の師団はヨーロッパ方面で唯一完全充足しており、即応能力は高かった。
1914年6月のサラエボ事件に端を発した戦争の前段階、七月危機において各国の交渉の最中、同じくスラブ人国家であるセルビア支援のために時の皇帝ニコライ二世が動員令を発令。これは二正面作戦を意識するドイツを刺激する結果となり、8月1日に対露、3日に対仏宣戦布告が行われ第一次世界大戦の直接的な引き金となった。
ロシアの素早い東プロイセン侵攻は窮地に立ったフランスを救ったが、17日から行われたタンネンベルクの戦いにより17万人の損害を出し敗北。9月には第一次マズーリ湖攻勢により独露国境線にまで追い返されてしまう。
工業力では他の列強の後塵に拝していたロシアは1914年中に戦前からの砲弾備蓄を使い果たしてしまい、再攻勢は1915年にまでずれ込みドイツ軍に二正面作戦は強いると言う戦前の構想は次第に機能しなくなって行った。ドイツ側には脆弱なオーストリア・ハンガリー軍の存在もあり、比較的善戦し戦線は維持されたが、動員数は1000万を超え労働力とそれに伴う食糧不足は深刻化。鉄道や炭鉱などの施設は急速に老朽化が進み、ただでさえ厳しい冬季の国民生活は限界へと達し、旧態依然としたツアーリズムへの不満が渦巻いた。
1917年2月(グレコリオ歴3月)、サンクトペテルブルクで食料配給を求める女性のデモが大規模化。皇帝ニコライ二世は銃撃を加えて鎮圧を図るが、兵士たちは銃撃を拒否。逆にツアーリズムの象徴である貴族的な士官や横暴な下士官に反発が高まり反乱へと発展した。
ニコライ二世に対する軍部の支持もこれをもって消散し、司令官たちにより退位を強制された(二月革命)。続いた社会民主勢力による臨時政府は戦闘の継続を模索したが、さらなる革命の進展を狙う左派勢力(ボリシェヴィキ)は戦闘の停止と政権掌握を狙い暴動を扇動(七月蜂起)。十月、労働者や兵士への扇動が功をなしクーデターにより臨時政府を駆逐(十月革命)。ウラジミール・レーニンにより労働者・農民・兵士による評議会、ソビエトが組織され翌1918年、大戦から離脱した。
協商国はこの裏切りを許すことはなく、干渉戦争を招く。1922年、赤軍が勝利しソビエト連邦が成立するも、国際的な孤立は進んだ。それでも戦間期中は世界最大の陸軍へと成長し、質もミハイル・トハチェフスキーを中心に近代化が進んだ。しかし、レーニンのあとを継いだヨシフ・スターリンは彼を中心とした赤軍の粛軍を開始。1937年より半数以上の士官を順次殺害して行った(大粛清)。
この大粛清は戦時体制への移行を決定的に遅らせ、1939年のフィンランドとの冬戦争で限界を露呈。1941年の独ソ戦序盤は奇襲と指揮系統の混乱、練度の低さにより敗退。1000万人もの現役兵を喪失し、これを補うため前線が後退するたびにその地の民間人に軍服を着せ、そのまま戦場に向かわせるがごとき泥縄式の動員が行われた。「ロシア兵の血を天秤にかける」と評されるなりふり構わない人的損失とスターリンによる「全ての物資を戦場へ」の号令のもとの徴発が功をなし次第にドイツ軍を圧倒。1943年より攻守が逆転し、1945年にベルリンを陥れ最終的勝利を得るも、軍隊の規模が戦前規模に戻ったのはまさにこの時点であった。
島国・海軍国のため、陸軍は動員数や速度を競う必要はなく志願制であり、開戦時動員数は100万人を割るなど他のヨーロッパ諸国とは隔絶感があった。
1914年、ドイツによるベルギー侵犯を機に大戦へと参加。志願制は維持されたが、職場や地域単位で志願する傾向が強く、心理的な圧迫感もあり半ば強制的に兵役についたものも多かった。とは言え、募兵は予想外の成功をおさめ、志願兵は48万人を数えた(陸軍大臣ホレイショ・キッチナーの名を取りキッチナー陸軍と言われる)。
また、オーストラリアやニュージーランド、カナダやインドなどの植民地からも兵が送られ終戦までには100万人を超えた。
海外派遣軍が編成されると8月中にベルギーに到着。しかし、圧倒的なドイツ軍に押され無残な形でフランス領へと撤退してしまう。マルヌにおいて押し返すことに成功し、フランス・ベルギー国境の街イペールにおいて塹壕戦を展開したが、戦術上不利な低地に陣取ったため劣勢を強いられた(ベルギー防衛と奪還が戦争目的のため、政略上も撤退は不可)。
戦いが長期化する見通しが高まるにつれ、戦時色は強くなる。それまで寛容だった飲酒はバーの開業時間の制限と言う形で統制を受け、かつての清との戦争の遠因となったアヘンなどの薬物は禁止された。また、各国を悩ませた砲弾不足はサマータイムの導入で対処。現代の労務管理にもつながる効率性重視の制度が始まった。
島国の特性として、通商破壊を受けると軍の維持はおろか国民生活にも直接的な影響を与えるため、海上護衛戦が行われ、ドイツの新兵器Uボート(潜水艦)と大西洋をめぐりしのぎを削った。大量の商船が沈められ生活は貧窮したが、独仏露と違い兵士や労働者の反乱は起きなかった。
戦闘は1916年のソンム攻勢において100万人の損害を被り事実上壊滅。1917年よりこの穴埋めとしてようやく徴兵制が施行され600万人が招集された。
また、このソンム戦において世界発の戦車(マークⅠ)が導入されたが、初期不良により決定的な兵器とはならなかった。
1918年のドイツ軍春季攻勢は縦深陣地が効果を発揮したことやアメリカ参戦もあり撃退に成功。続く反転攻勢はフランス製戦車の活躍もあり、士気が低下した前線のドイツ兵を次々に降伏に追いやりフランスからドイツ軍をほぼ駆逐。11月、ドイツは降伏した。
戦争に勝利したイギリスであったが、100万人の戦死者を出し、ほとんどが無駄な攻勢によるものであったことや直接本土を守るための戦争ではなかったため幻滅感は大きかった。また、アメリカや日本などの新興国の興隆により国力や国際競争力は低下した。植民地の維持は難しくなり、インドをはじめ独立運動がくすぶった。
戦後の厭戦気分は深刻で、ヨーロッパでナチス・ドイツの手により再び戦雲が高まる1930年代においても戦時体制の構築は進まず、ネヴィル・チェンバレン首相は盲目的に平和外交を追求した(融和政策)。この融和政策はポーランド侵攻を誘発し第二次世界大戦が勃発。フランス防衛のために再び海外派遣軍が編成されたが、1940年5月のドイツ軍による西方作戦によりダンケルクから這う這うの体で駆逐された。
チェンバレンに代わって首相となったウインストン・チャーチルは徹底した戦時体制の構築を模索。大陸で失った正面装備を補うため、戦前に競争力を喪失し廃れていた工場を次々に軍需工場とした。フランス西岸(ブレスト)を失ったことによるUボートの暗躍も始まり、物質不足は深刻化。配給制が取られ空襲と合わせて、第一次世界大戦以上の苦難を国民に敷いた。
ドイツ軍による本土上陸(あしか作戦)が現実味を帯び出すと、17歳から65歳までの成年男子150万人をホーム・ガード(郷土防衛隊)として編入。貧弱な装備を与えて防衛に充てた。幸い、バトルブリテンと呼ばれる航空戦はイギリスの勝利に終わり、1941年の独ソ戦開始とアメリカ参戦により絶望的な戦況にも光明が差した。
1944年6月、アメリカや亡命・植民地フランス人たちによる自由フランス軍を加えた連合軍はフランス北西部のノルマンディーに上陸。ソ連と共にドイツ軍を挟撃し、イギリスは多大な損失と引き換えに二度目の勝利を得た。
総力戦そのものは19世期中に南北戦争で経験していたが、ヨーロッパに対してはモンロー主義と言われる不干渉政策を採り関心を持つことはなく、ヨーロッパ側の関心も薄かった。
大戦勃発後の1915年、イギリス客船ルシタニア号がドイツ軍のUボートの攻撃を受け1198人(うち128人がアメリカ人)もの死者を出す惨事が発生。ドイツによる無制限潜水艦作戦に非難が高まった。また、ドイツ帝国やオーストリア・ハンガリー帝国など、諸民族を抑圧する体制が非近代的とみなされ、急速に支持を失って行った。
1917年2月、無制限潜水艦作戦の再開が宣言されるとアメリカはドイツとの国交を断絶。3月には隣国メキシコによるアメリカへの侵攻を支持する見返りにドイツ側への参戦を要請する外交交渉(ツィンメルマン電報)が暴露され、世論は一気に対独参戦支持へと傾斜。4月、アメリカはドイツへ宣戦した。
当初は志願制により100万人を募兵する計画であったが、7万3000人ほどしか集めることが出来ず、ほどなく徴兵制へと移行した。
以前より行われていたヨーロッパへの武器輸出により工場は繁栄していたが、本格参戦後は昼夜問わずフル稼働で需要に応じた。この貿易によりアメリカは債務国から債権国へと変貌し、返済にまで100年を要する債務をイギリスなどのヨーロッパ諸国に負わせた。
1918年6月、ベローの森においてアメリカ海兵隊がドイツ軍への反撃を行い本格参戦。最終攻勢においても立役者となり、短い参戦期間ながら存在感をアピールした。
戦後、アメリカは国際連盟やヨーロッパの安全保障体制には積極的にかかわらずモンロー主義に回帰。束の間の平和と繁栄を謳歌したが、1929年には世界恐慌の爆心地となり、続く1930年代前半は経済政策に追われ戦時体制の構築どころではなくなった。
1939年、第二次世界大戦が勃発。前大戦と同様に大量の武器をイギリスに輸出または援助した。この需要に応えるために戦時標準船である「リバティ船」が作られ、戦時生産や輸送に大きな影響を与えた。
1941年12月、日本軍の真珠湾攻撃を機に大戦へと参戦。徴兵制が再び敷かれ、各州で成年男子に対する訓練が始まった。ガソリンやゴムなどの一部資源に配給制が敷かれ、食料品も砂糖を中心に大きな統制を受けた(コーラやガムなど軍のレーション納入に協力することで恩恵を受けた会社も出た)。
また、真珠湾攻撃による恐怖心から、敵性国民とされた日系人の強制収容と財産の没収が行われ、戦後に名誉回復の対象となっている。一方、軍隊内での有色人種に対する差別は公的には禁止され、一般部隊とは別だが日系人含めた有色人種の部隊が作られた。
この本格起動した圧倒的な工業力の前に枢軸国は対抗出来ず、1945年までにヨーロッパ・太平洋地域共に粉砕された。
日清・日露戦争を経験していたが現役兵中心であり、本格的な総動員は行われなかった。第一次世界大戦においても、戦地からは遠い東アジアの僻地だったこともあって、植民地の占領と艦隊の派遣に止まっている。
明治初期に標榜された国民皆兵であったが、イギリスと同様に島国と言う特性から動員量や質を争う必要性は乏しく、人口ではすでにフランスを上回っていたが訓練率は20%を割り、軍の規模は陸軍でも40万を超えなかった。まだ藩閥色も濃厚であり、若手のいわゆる革新的な軍人や官僚の間では旧態依然とした軍上層部や元老たち(ただし、彼らの多くは維新後に留学を経験した西洋よりの知識人であり、西欧やアメリカと戦争をすることなど夢にも思わない欧化論者だったことに留意)に対する不満が高まっていた。
この状況に対処すべく1921年、南ドイツの保養地バーデン・バーデンにおいて岡村寧次、永田鉄山、小畑敏四郎ら陸軍士官学校第16期生が会合をもち、人事一新と来たるべき次の戦争態様について討議。藩閥人事の一新と第一次世界大戦中のドイツ(軍部・ルーデンドルフ独裁)を範に国家総動員体制の構築を誓い合った(バーデン・バーデンの密約)。
三者は帰国後も支持者を増やして行き、1927年には二葉会に、1929年にはのちに「背広を着た軍人」とまで揶揄される政治軍人であった鈴木貞一の木曜会と合併し一夕会へと発展。以後、急速に政治性を帯び始め、陸軍内でも無視出来ない勢力へと拡大して行く。
1925年、加藤高明内閣の陸軍大臣・宇垣一成が正面装備の拡充を狙い四個師団の削減を断行(宇垣軍縮)。しかし、10万人規模のリストラとポストの削減は若年の将校らの将来に陰を落とし、派閥抗争に火を付ける遠因となってしまう。また、ポスト維持のために現役将校を公立学校に派遣し、軍事教練を行う学校教練制度が施行された。1927年には兵役法が施行され、戦時色を一般国民にも認識させるきっかけとなった。
1931年、満州事変が勃発。日本軍は満州全土を占領し、傀儡国である満州国が建国され大陸政策は大きな転換点を迎える。拡大した対ソ国境や不安定化が増す対支情勢を巡って、一夕会は親ソの永田(統制派)と反ソの小畑(皇道派)に分裂。以降、激しい抗争が繰り広げられ、1935年には永田が白昼の陸軍省内で皇道派の相沢三郎中佐に斬殺される事件へと発展(相沢事件)。これを機に、かえって急進的とされた皇道派に対する風当たりは強まり粛軍が開始された。危機感を抱いた皇道派青年将校は翌年の1936年にクーデターを起こすが失敗に終わり(二・二六事件)、陸軍内の抗争は体制内の中で高度国防国家を建設する目的を持った統制派の勝利に終わった。
1937年、軍事衝突(盧溝橋事件)が日中戦争へと発展。当初予定していた短期決戦や講和に失敗し、長期戦へと移行。軍を牛耳り戦時動員体制の構築に血まなこになっていた統制派に加え、産業・資源統制を行う企画院にも革新官僚と呼ばれた国家社会主義者が国政に参画。翌年の1938年には国家総動員法が発令され、成年男子の召集も拡大しついに動員数は100万規模に達した。これをもって日本は史上初の総力戦へと引きずりこまれることとなる。
1939年、欧州大戦(ヨーロッパ呼称は第二次世界大戦)が起こり、国際情勢も風雲急を告げた。1940年7月にはドイツの対仏戦勝利を機に援蔣ルートの一つ北部仏印へと進駐。国際的な孤立を招き、これを打破するために9月には日独伊三国同盟が結ばれた。1941年7月には南部仏印にも進駐。対日石油禁輸措置が取られ対英対米戦の下地が作られた。また、同時期には独ソ戦支援のための関東軍特種演習(関特演)が行われ、日本史上最大となる50万人もの動員を決行。北進は取りやめとなったが、部隊は順次南方へと送られて行った。
1941年の時点で予算規模は1936年の9.2倍に達した。配給制度は年々厳しさを増し、物質統制と市場にばら撒かれた紙幣がインフレをおこさぬよう「ぜいたくは敵」とされ個人消費は抑制された。前年の1940年には民間統制のために内務省令により隣組(戦後の町内会)が編成。「ガソリン一滴は血の一滴」とされ、電力を使うパーマをかけた女性が非国民と婦人会から注意を受けたと言う逸話はこの時期のものである。
同年12月、日本海軍による真珠湾攻撃により対米全面戦争が勃発(太平洋戦争/大東亜戦争)。1942年予算はこれを受けて前年比の2倍となり、既に日中戦争から破たんしていた財政は壊滅へと転がり落ちる。国民は物不足とインフレから来る貧窮によく耐えていたが、日用品の全てに配給制が敷かれるようになると闇市も勃興し、実質的な物価は日中戦争前の三倍に達していた。
以前の昭和恐慌時から疲弊していた農村は、男手を徴兵で失い、農耕機械はガソリン不足で動かなくなり、化学肥料の原料は火薬へと消え生産力をさらに低下させた。終戦までに生産量は戦前の六割にまで落ち込む。食料輸入も民間船舶の徴用は大きな打撃となり、後半は通商破壊により流通そのものが壊滅した。
軍需工場は拡大したが、非軍需工場への設備投資は半額以下と言う驚異的な減少を辿った。報告される故障率は平時の16倍に達し、炭鉱設備は補修すら満足に出来ず操業は難しくなって行った。人員は農村と同様に成年男子が消え、徴用工と女学生含めた勤労学生が六割を占めるようになる。当然、熟練労働者のごとき効率性は見込めないため、日立製作所では戦前では一人で行っていた作業に三人を充てていたと言う。1944年からは朝鮮人徴用も行われ、これは戦後の日韓・日朝関係に大きな波紋を及ぼすことになる。
1944年、マリアナ諸島が陥落。軍はもちろん、情報統制を受けていた民間の間でも本土決戦がささやかれはじめた。1945年にはアメリカによる無差別空襲による被害が拡大。総力戦の直接的な被害が国民にまで降りかかり、沖縄はさらに凄惨な地上戦に巻き込まれた。列島は戦争に全てを吸われた阿鼻叫喚の飢餓地獄と化し、降伏以外の解決策は断たれることとなる。
二度に渡る戦争の惨禍から、国家総力戦への嫌悪感は高まった。また、ドイツ軍による電撃戦により職業軍・装甲軍の大衆軍に対する優越性が、日本軍による真珠湾攻撃により空母と航空機による遠隔地攻撃の有用性がそれぞれ認識され、戦後の西側諸国では総動員は徐々に形骸化して行った。これと対峙した東側諸国では統制経済(計画経済)と言う形で比較的維持されたが、核戦力の均衡化により大国間の全面戦争は人類の終末であることは独裁者ですら認識せざるを得なくなり、関心事は周辺地域での駒の配置と核戦力の充実化や交渉による核軍縮に向けられた(冷戦)。
徴兵制は戦後もしばらく機能したが、廃止も相次いだ(アメリカは1973年に、フランスは1990年代において段階的に、ドイツは統一後の2011年に、ロシアは存置しているが実質的に機能していない)。先進国のほとんどの国では、少なくとも一般市民にとっては戦争は遠い世界の出来事となって久しくなっている。
ただし、高度国防国家を作ろうと言う動きは常に存在し、日本でも国家総動員体制復活を掲げた旧陸軍グループによるクーデター未遂事件(三無事件)や自衛隊による国家総動員計画の研究が問題視された事件(三矢研究)も起きている。
掲示板
36 ななしのよっしん
2023/07/01(土) 22:03:03 ID: d6lCQblfSX
第一次までは国のトップが王族で親戚同士。外交官も貴族で自国民よりもむしろ敵である国と
同じ階層の人間の方に親近感すらあった。当然、王政の国が他の国の王政を潰すなんてことも
望まない(ヴィルヘルム2世すら内心では親英・親露だった)。
完全な復讐主義的な外交策は第一次では不可能。逆に第二次はヴェルサイユ条約が半端かつ
大雑把過ぎた反省で、直接的に敵国民には求めず、その代わり戦争犯罪者には厳しいものになってる。
(あまり知られていないが、ヴェルサイユ条約にも戦争犯罪者の処罰が決められていたものの、
ほとんどがうやむやに終わっている)。
37 ななしのよっしん
2023/07/02(日) 09:41:09 ID: R/bIvhZmJc
古代ならポエニ戦争が現代の基準で言えば総力戦に当てはまる気がする
38 ななしのよっしん
2024/11/22(金) 22:29:57 ID: 0IPb9200D4
>>35が言ってるのもあるし
そもそも10万人も死んでるのに、講和の席を設けて約束を交わしたのですっぱり割り切りますとはならんでしょう
死んだやつの遺族を中心に遺恨は残る、残らないわけがない
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最終更新:2025/02/19(水) 09:00
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