自由フランスとは、第二次世界大戦中にナチス・ドイツのフランス占領とその傀儡国であるヴィシー政府に抵抗または反攻した人々による組織。1942年7月21日には「戦うフランス」に発展している。
大きく分けて、イギリスに亡命したド・ゴールによる亡命者部隊と、国内でレジスタンス運動を行っていたマキ団などの抵抗運動組織がある。当初、国内レジスタンス運動は右派から共産主義者までを含めた雑多な組織で統一性がなく、ド・ゴールへの支持・不支持も明確ではなかったが、ジャン・ムーランにより統一組織であるレジスタンス全国評議会(CNR)が誕生し、ド・ゴールをフランスの正統代表と認め一体性が認められた。
特にド・ゴール旗下の亡命者部隊を自由フランス軍と呼び、連合軍の重要な一角を占めるまでに成長した。
フランス全土が開放されたのちは正式な政府となり、戦後は戦勝国として認知された。この政府を正統として、第四共和政や現在に続く第五共和政が連なっている。
1940年5月10日から開始されたナチス・ドイツによるフランスへの全面侵攻によりフランスは敗退。同盟軍であるイギリスの海外派遣軍はダンケルクより大陸から追い立てられ、パリは6月14日に陥落した。
6月21日に成立したフィリップ・ペタンを首班としたフランス政府はこれ以上の抵抗を断念。6月22日に降伏し、北部地域をドイツに委ね、統治が認められた南部地域に政権機能を移した(ヴィシー政権)。
一方、敗戦を潔しとしない前国防次官であったド・ゴール将軍はイギリスのロンドンに亡命、放送局BBCを通じて徹底抗戦を宣言した。
6月23日、ド・ゴールは自らを代表とするフランス国民委員会を結成。イギリスは前日に成立したヴィシー政府を承認せず、同委員会の設置を支持した。6月28日には「自由なフランス人の主席」と言う地位が与えられ自由フランスと言う組織が本格的に始動し、ここにヴィシー政権に異を唱える組織が生まれた。
もっとも、この時点では自由フランスを国家としてはおろか亡命政府として承認する国は存在せず、アメリカやソ連をはじめのちにドイツと戦火を交える国もヴィシー政権を承認した。兵数もイギリスに逃亡した兵士や在住者から募った七千人に過ぎず、ド・ゴールの地位も一介の逃亡将軍またはチャーチルの居候に止まるのが現状であった。
翻って国内の抵抗運動も、のちにレジスタンスの代表とされるフランスからは想像出来ないほど不活発であった。突如起きた亡国により茫然自失となったことや第一次世界大戦から根強く残る厭戦気分、さらに7月3日にはフランス海軍艦艇がドイツに渡ることを恐れたイギリス海軍の攻撃により、戦艦一隻が撃沈され1297人もの死者を出す事件も発生(メルセルケビール海戦)。一連の事象により反戦・反軍・反英感情が噴出し、人心は一時的にヴィシー政権や枢軸国に向かった。
また、前述の国際情勢も響く。特にソ連の影響下にあったフランス共産党は独ソ不可侵条約によりドイツと蜜月関係にあり、独ソ戦開始後はレジスタンスの主流となる彼らも、この時点ではドイツ軍に協力すらしていた。
ただし、ドイツ軍の侵攻と占領を目の当たりにした北部の人々の中には、その残虐さに震撼した者も多く、彼らは比較的早く抵抗運動を意識し始める。一例として、のちにレジスタンス運動の立役者となったジャン・ムーランは侵攻当時、フランス北部のウール・エ・ロワール県の知事だったが、ドイツ軍による捕虜となったフランス外国人部隊の有色人種兵士への虐殺現場に遭遇。さらに自らも拷問を受けたためヴィシー政権とドイツ軍への協力を拒否。全ての役職から追放されたのち、レジスタンス運動に身を投じることとなる。
フランスは敗れたが、国外には多くのフランス海外領がドイツ軍やヴィシー政権の手が付けられないまま残されていた。そこで、ド・ゴールはこれら海外領を占領して行き、反攻の拠点とすることを当初の基本戦略とした。
9月23日まず、最初の軍事作戦としてアフリカ中西部の港湾都市ダカールに侵攻。ドイツ軍のUボート基地となることを恐れたイギリスの支援を受け上陸を企図したが、ヴィシー政権についた駐留フランス軍の沿岸砲台や艦隊の攻撃を受け撃退された(ダカール沖海戦)。
10月27日、ロンドンでの活動に限界を感じたド・ゴールはコンゴのブラザヴィルに「海外領土防衛協議会」を設置し海外領の参集を図った。海外領のうち、イギリスの影響力が強い(ヴィシー政権を支持すれば占領されるしかない)赤道アフリカとカメルーン、南太平洋のニューカレドニアとポリネシアが自由フランス支持を表明した。
無敗のままヨーロッパに君臨したドイツではあったが、1940年7月から開始された対英航空戦(バトル・オブ・ブリテン)にはイギリス空軍の頑強な抵抗に遭い敗北。ブリテン島上陸作戦(あしか作戦)は実行されることなく延期された。ドイツ軍の勝利によりヨーロッパは「常態化」すると考えたヴィシー政権や占領下のフランス国民の思惑は外れ、第二次世界大戦は長期戦の様相を呈して行く。
1941年6月22日、ドイツはソビエト連邦に侵攻を開始(独ソ戦)。蜜月状態にあったフランス共産党もモスクワの指導のもと、本格的な抵抗運動を開始した。
大戦の長期化、消耗戦化は占領下にあった各地域のドイツによる更なる収奪を招き、フランス本土も貧窮化した。フランスフランは12フラン=1マルクと言うフラン安に設定されたが、1941年以降はそれすら守らず、実質的に20フラン=1マルクにまで下落。大量の物資が買い上げられたため強烈な物不足が起こり、国民生活は占領から一年とただず破たんへの道を歩む。
また、労働力の不足を補うために二百万人にのぼるフランス人がドイツに連行され働かされた。これに反発したヴィシー政権領の成年男子は森林や山岳に逃亡。彼らを中核とした抵抗組織マキが誕生した。
9月24日、ド・ゴールは国民委員会をフランスの正統内閣とすることを宣言。26日ソ連が承認し、11月26日にはイギリスも承認。また、武器援助(レンドリース)を開始していたアメリカも自由フランスをその対象とした。
12月8日、日本による真珠湾攻撃とドイツによる対米宣戦によりアメリカが参戦。モスクワに迫ったドイツ軍も12月中に撃退され、劣勢だった連合国にわずかながら光明が差し始める。
先行きに希望を見出しはじめていた自由フランスだったが、アメリカ参戦は思わぬ軋轢を生むことになる。12月24日、自由フランス海軍がカナダのセントローレンス湾沖のフランス海外領、サンピエール島とミクロン島を強硬占領した。しかし、この二島はアメリカ政府の影響下にあり、外交努力によって中立を保たせていたため、泥を塗られたとルーズベルトたちを激怒させる結果となってしまう。
最終的にはアメリカ側が妥協したが、ルーズベルトはド・ゴールを信用しなくなり、4月1日に出された政府承認を拒否。アメリカの機嫌を伺わざるを得ないイギリスも同調し、以降1944年まで連合国の作戦に事前関与出来なくなってしまう。
ド・ゴール抜きでの作戦遂行を模索したアメリカは、旧フランス陸軍将軍で年長者だったアンリ・ジローを11月3日に南フランスから脱出させ新しい駒とした。続く11月8日の北アフリカ上陸作戦(トーチ作戦)はヴィシー政権の現地指揮官であったダルランがアメリカ側との交渉に応じたことで大きな戦闘もなく終了。ダルランを北アフリカのフランス元首とし、ジローに軍事指揮権を与えることでド・ゴールの権勢を挫こうとこころみた。しかし、12月24日にダルランは背後関係が不明なフランス人学生に暗殺されてしまい、思惑は水泡と帰した。
この様な組織間の軋轢はド・ゴールたちのみでなく、国内に抵抗組織も同様であった。
1942年開始時点で枢軸国ならびにヴィシー政権への国民の支持は皆無となったが、ドイツ秘密警察ゲシュタポの活動や占領に協力するミリスと言った親独派組織の締め付けはさらに厳しいものとなる。マキやコンバなどの抵抗組織は共産主義者から国家主義者まで様々だったが、実際の活動では反目し合うことも多く連絡手段も不十分で、ゲシュタポやミリスの後手に回ったり対立に付け込まれて検挙されたりする例が後を絶たなかった。
また、抵抗組織と言う性質上、上層部でも信頼できる者が限られ、志を同じにする者同士でも横のつながりを構築することが難しかった。
この状態を憂いたジャン・ムーランは旗頭と中央組織の必要性を痛感。密かにフランスを脱出すると、さかのぼる1941年10月25日に旗頭と目したド・ゴールと接触し、フランス本土におけるド・ゴールの代理人としての地位を与えられた。1942年1月1日にフランスに帰国するとレジスタンス組織統一のための活動を開始。
当初、国家主義・愛国主義的レジスタンスと共産レジスタンスとの相克に苦しめられ、アンリ・ジローの脱出後はド・ゴール派の北部とジロー派の南部と言う派閥抗争も加わり、統一組織樹立は困難を極めた。しかし、1943年以降はイギリスの諜報組織・特殊作戦執行部(SOE)の支援を受けたジャン・ムーラン側が有利に立つ。
ダルラン暗殺をド・ゴールの仕業と疑ったジローは、ド・ゴールから提案された組織統合案を拒否していた。1943年1月14日から開かれたカサブランカ会談で、ようやく自由フランスを亡命政府とする認知を得たが両者の溝は埋まることはなかった。
しかし、5月7日にはフランスで活動していたジャン・ムーランがレジスタンス組織の統合組織・全国抵抗評議会の設立に成功。5月15日にド・ゴール支持の電報を送り、二者の主導権争いはド・ゴール優位に働いた。5月27日にはレジスタンス全国評議会(CNR)に発展し、極秘裏ながら初の組織間会合をもち、抵抗運動はここに大きな転換点を迎えた。
優勢を確信したド・ゴールは、1943年中に行われる地中海作戦を見据えて、解放運動の拠点をロンドンからジローの支持基盤であった北アフリカ・アルジェに移した。6月には初の自由フランス統一組織・フランス国民解放委員会が結成され、ド・ゴールとジローが共同議長につく。
7月10日、シチリア島に連合軍が上陸し8月に枢軸軍を駆逐。8月1日には北アフリカの旧ヴィシー政権軍が自由フランス軍に加わりフランス解放軍となった。8月23日にはフランス国民解放委員会が米英ソから交戦団体と認められ、名実共に一つの軍となった。
9月3日、イタリア半島に連合軍が上陸。9月12日には自由フランス軍が単独でコルシカ島(ナポレオンの生誕地でありナショナリズム的な価値が大きかった)を攻略。一連の地中海作戦で自由フランス軍は活躍をみせ、それを組織したド・ゴールに対し連合軍の将軍たちからも支持が寄せられた。
10月4日、ド・ゴールとジロー間で会談が持たれたが、ジロー側が「政治の話をするな」と非難したところド・ゴール側が「戦争は政治ではないのかね」と返されてしまう一幕も起き、ジローは委員会での力を失ってしまう。
11月9日、ジローは権力闘争に敗れ、議長の地位を喪失し、権威はド・ゴールに集約することとなった。
さかのぼる1943年6月、ジャン・ムーランはリヨンにおいて逮捕され、翌月にはゲシュタポの手によって拷問死してしまう。しかし、ジャン・ムーランが組織したCNRは共産党員を中核として着実に機能し始め、1943年9月からのわずか三か月の間に治安関係者709人が殺害され、9000件の爆弾テロが起き、600の列車が脱線した。1944年には20万人規模にまで達し、ドイツ軍の作戦を拘束し始めた。
1944年5月26日、国民解放委員会はフランス臨時政府へと発展。正式な政府として承認を求めるが、強引過ぎるとして各国から承認は受けられなかった。
1944年6月4日、アルジェで地中海作戦の指揮を執っていたド・ゴールは突如としてチャーチルによりロンドンへと呼び出された。そして、その場で連合軍のヨーロッパ反攻作戦・オーヴァーロードの実行(実際には二日前)が近いことを聞かされることとなった。
実はこの期に及んでもルーズベルトはド・ゴールを嫌い、作戦の実行前に通達する意思はなかった。しかし、既に40万人規模になっていた自由フランス軍(特に、大陸反攻作戦の後詰めとして控えていたフランス第二機甲師団)と前述の20万人ものレジスタンスを無視することは現実的ではなく、連合国総司令官のアイゼンハワーがルーズベルトに直訴し、最終的にチャーチルを介して作戦前に説明が行われたと言うしだいであった。
ド・ゴールは屈辱感に震えたがそれ自体には異議を述べなかった。しかし、それ以上に驚愕したのはフランスを戦勝国とは認めないと言うルーズベルトとスターリンの密約、このためフランスには自由フランスを排した軍政が敷かれる予定であること、そのための軍票が既に印刷されていると言う事実だった。これには強い調子で反発し、ド・ゴールに同情的なアイゼンハワーの意見もあり軍政は棚上げが決定された。
6月8日、連合国軍がフランス北部ノルマンディー海岸に上陸。自由フランス軍の大規模参加はなかったが、英コマンド部隊傘下の特殊部隊二百人がセーヌ川河口に潜入して戦果を挙げた。また、海軍と貨物船は補給と護衛に貢献。
6月14日、ほぼ四年ぶりにド・ゴールはフランス本土の土を踏む。しかし、ド・ゴールの敵はドイツ軍だけではなくなっていた。
一向にフランスに顔向けをしないルーズベルトはもちろん、既にCNRで主流派を占めていた共産党系レジスタンスも悩みのタネであり、本土上陸後はその浸透ぶりを肌で感じ始めていた。
7月1日、ド・ゴールは共産主義勢力の浸透に危機感を持つチャーチルとアイゼンハワーの仲介でワシントンを訪問。ルーズベルトはさすがにド・ゴールと自由フランスを無視出来なくなっていたのか、または上陸作戦の成功に気をよくしていたのか、ハル国務長官やモーゲンソー財務長官の意見を入れて国家元首格の国賓として迎えた。
7月12日、会談の結果、ド・ゴールをフランス臨時政府首班として了承し、民政を認めることを承認させた。ただし、敗戦国として扱われることは回避出来たが、米英ソ中に仏を加えると言うド・ゴールの思惑は果たせなかった。
一方、大陸ではレジスタンスの活動が大きな成果を挙げていた。鉄道の使用は空爆に加えて妨害工作により不可能となり、ドイツ軍部隊の位置や規模は逐一報告され奇襲による反撃は成立しなかった。フランス南部の部隊はレジスタンスとの戦いや第二の上陸作戦に備えざるを得ず援軍には向かえなかった。
連合軍は上陸海岸東側のカーン近郊では苦戦したが、西側はがら空きとなり6月27日には要港シェルブールが陥落した。7月18日のイギリスによるカーン突破作戦は失敗に終わったものの、7月25日のアメリカ軍による東岸におけるコブラ作戦は成功をおさめた。フランス東岸がアメリカ軍の手に落ちることに危機感を抱いたヒトラーは8月2日に大規模な反撃を行うが失敗。不用意な突出部を作るのみに終わり、8月14日から25日にかけて逆包囲をかけられてしまう(ファレーズの戦い)。このファレーズの戦いではフランス第二機甲師団が南部から北部への攻撃で活躍をみせ、ドイツ軍装甲部隊に打ち負かされた四年前の雪辱を果たした。
ファレーズの戦いにより、ドイツ軍はセーヌ川東岸へと敗走を開始。連合軍はそれまでの遅れを一気に取り戻すことに成功し、パリまで150キロの地点に迫った。
この時点では実は連合国にはパリを直接落とす計画は存在しなかった。人的損害を嫌うアイゼンハワーは市街戦を嫌い、仮に占領出来ても、ようやく北岸の港湾機能が回復し始めた段階での市民に対する食料や物資の補給は不可能だったためである。むしろ、包囲に止め兵糧攻めにすればよいと言う方針であった。
しかし、8月19日には二万人のレジスタンスがパリで蜂起を開始。ド・ゴールは共産主義系勢力がパリを解放し既成事実化することを恐れてアイゼンハワーに侵攻を直訴したが認められなかった。そこで独自の侵攻計画を秘密裡に実行した。
アイゼンハワーはこれを知っても「燃料不足で不可能だろう」と取り合わなかったが、実際には第二機甲師団長ルクレルクはノルマンディー上陸後に損耗した戦車や車両の報告をせず、その車両分の燃料を請求することで余分に備蓄していた。
侵攻作戦が既成事実化してしまったことや、パリでのレジスタンスの苦境が伝えらえるに及び、アイゼンハワーもしぶしぶながら占領を認めた。第二機甲師団が先頭にたち、アメリカ第四歩兵師団が側面援護を行った。
8月25日、圧倒的な連合軍を前にパリ防衛軍ドイツ軍司令官であったディートリッヒ・フォン・コルティッツは降伏。ヒトラーの焦土化命令にも従わず、パリはほぼ無傷なままフランスへと戻った。
8月26日、ド・ゴールはパリでの凱旋パレードを挙行。親独派や残党ドイツ軍による狙撃が幾度となく起きたが意に介さず堂々と先頭を行進し、自らがフランスの代表であることを内外に示した。
8月31日、フランス臨時政府はアルジェからパリへと移転。10月23日にはフランス政府として各国が承認を行い、名実ともに復活を遂げた。
一方、ヴィシー政権はパリ陥落以前より「臨時政府への権限移譲」を行うことで正統性を確保しようとしたが、拒絶された。これによりヴィシー政権の命運は定まりドイツのフランス領駆逐により完全に崩壊した。
自由フランス軍はレジスタンスも加えて1945年には100万人となり、国軍としての威容を成した。アルザス・アルプスでの戦闘を継続し、フランスに残っていたドイツ軍の掃討と包囲を担当した。
自由フランスの連合国への貢献は大きかったが、戦後を巡る立場は微妙なものであった。敗戦国扱いや軍政は回避したものの、戦勝国として認められるかどうかはドイツ降伏の直前まで明瞭ではなかった。戦中に執拗に反対していたアメリカは折れたが、ソ連の侮りは強烈なものでソ連主導で行われたベルリンでのドイツ降伏文書のフランス代表の署名を格下扱いにする、式典でフランス国旗を揚げないなどの嫌がらせを行った。
しかし、チャーチルはイギリス単独ではソ連と対峙出来ないと判断。フランスをあえて大国として扱うことでパワーバランスを保とうと図った。ヤルタ会談ではドイツ占領四大国に数えられ、ベルリン市の占領行政にも携わることが出来た。
戦後に活動を開始した国際連合でもフランスには五大国(常任理事国)としての権限が与えられ、現在にまで続く世界秩序の一端を担うこととなる。
フランス史において第二次世界大戦中の正統政府は自由フランスとなり、ヴィシー政権が傀儡・売国奴とされるため評価は高い。また、ド・ゴールの尽力により大国としての地位も確保出来たため、大国のまま第三共和政より途切れることなく現在のフランスに続いていると言う認識を持ちやすい。しかし、ド・ゴールがリーダーシップと忍耐力を発揮出来なければ敗戦国扱いされていた可能性もあり、この地位は非常に危ういものだったことも分かる。
栄光ある海外からの捲土重来と合わせて、国内レジスタンスにも賞賛の声が戦後もしばらく続いた。抵抗運動を描いた多くの映画や小説が作られ、その中にはあたかもフランス人全員が抵抗運動を支持し主体的な生活を送っていたかのように描写されたものもある(レジスタンス神話)。この神話化に反発し、ドイツ軍やヴィシー政権の正統性を消極的ながら認め、レジスタンスにも対独協力にも走らず、ただひたすら受動的生活を送っていた大多数の人々を描いた作品もあったが、認知されるようになったのはつい最近だと言う。
ジャン・ムーランはじめ、多くのレジスタンスはゲシュタポの魔の手に落ちたが、戦後は英雄として祭り上げられた。しかし、共産党系レジスタンスの進展は戦後の国政に深い陰を落とし、その原因を作った彼らは死人に口なしとばかりに中傷の対象にもなってしまった。
フランスの植民地支配を受けていたアジア・アフリカ地域はフランスの威信低下を見逃さなかった。各地で反乱が起き、共産党躍進で機能不全の政府(1946年に発足した第四共和政)を尻目に軍は「威信をかけた」植民地戦争を戦った。しかし、1954年にはインドシナのディエンビエンフーで敗れ撤退。1956年のスエズ動乱は米ソの強烈な反発を招きしぶしぶ撤兵。超大国としての威信はこれをもって失われたとされる。
1958年、アルジェリア駐屯軍によるクーデターが発生。コルシカ島を占領されてしまい、スペイン内戦の再来のごとき情勢となった。この混乱を鎮める力は第四共和政には存在せず、ド・ゴールの首相復活による第五共和政が成立。自由フランスは戦後にいたってもフランス人の拠り所であった。
フランス三色旗にロレーヌ十字と呼ばれる電信柱型の十字を中央にあしらった旗。ロレーヌ十字は第一回十字軍のフランス軍から使われた伝統ある十字架で、かのジャンヌダルクも使用していた。普仏戦争によりロレーヌがドイツに奪われると、第一次世界大戦終結までの半世紀に渡ってドイツに対する抵抗のシンボルともなった。戦間期はしばらく忘れられたが、フランス本土失陥により復活したことになる。
一方、共産党系レジスタンスは三色旗に赤い槌と鎌をつけた旗を用いていた。
当初、ド・ゴール旗下の部隊は7000人程度であったが、植民地での募兵や海外在住フランス人を加えて膨張して行った。アルジェのヴィシー政権軍を加えた1944年の時点では40万人に達し、イタリアで四個師団が実戦参加している。精強であったため、連合軍内での自由フランスへの評価が高まり躍進への大きな原動力となった。
軍服から戦車まで装備はアメリカから供給された。パリ解放の立役者、第二機甲師団もアメリカ戦車を装備している。一部部隊は戦前の誇りを忘れず、フランス軍の装備を継続して運用したが、オートバイ兵のヘルメットをかぶり戦車兵の服を着た歩兵など、不自然な兵士もパリ解放後まで見られた。
また、アメリカ軍の軍服を着たルクレルク将軍が、武装SSに参加していたフランス兵を「なぜフランス人のくせにドイツの軍服を着ているのか」と罵倒したところ「あなただってアメリカの軍服を着ている」と反論されたと言う逸話も残っている。彼らが即時に処刑されたことも手伝って、故国のためにどの旗についたかによって明暗が分かれてしまう悲劇の象徴ともなった。
海軍は低調であったが、ダカールで接収した戦艦『リシュリュー』は太平洋戦域に投入され、日本軍を迎え撃つ作戦に参加している。
掲示板
10 ななしのよっしん
2021/03/04(木) 20:48:54 ID: qVc5If+p+r
ユーチブで、独軍のタイガーゃパンサー戦車等々
を現在でも動かしてる人々の動画が上げられてて、
てっきりドイツ人が動態保存してるのかと思ったら
フランス人でビックリ!みたぃな;
戦利品として戦勝を誇示してる、のダロゥけど~?
それにしては何やら仄ホノ暗き情念・怨念的な物が
チロチロと伺い知れ、何やら奇妙な気分になるのダケド
フム;
そぅぃぅ複雑な心象がフランス国内にあるのか?
メッサーシュミットゃ初のジェット戦闘機は
ドイツ人がドイツ国内で飛ばしてるが・・・
戦車も動かせてるのかなぁ~;?
11 ななしのよっしん
2022/04/01(金) 05:00:14 ID: Vf3HSAJ6zK
1940:ガボンの戦い
1941:シリア・レバノン戦役
1942:ビル・ハケイム エル・アラメイン チュニジアの戦い
1943:ハスキー作戦 モンテ・カッシーノ コルシカ奪還
1944:ファレーズ包囲 ドラグーン作戦 パリ解放
1945:ノルトヴィント作戦 コルマールの戦い ヴュルテンベルク侵攻
毎年勝ってる国 常任理事国入りは当然
12 ななしのよっしん
2023/07/08(土) 07:19:50 ID: +FR7snj6Qd
当時のルーズベルトやチャーチルにとっての自由フランスは、ちょうど今の西側にとっての自由ロシアと同程度の扱い
存在は知っているが可能な限り無視していた
かくして、戦後フランスは英米と対立してドイツと蜜月、必要なら中ソとも協力する独特のスタンスへ
提供: ネブカドネザル
提供: 悠利
提供: 3月のペンギン
提供: 名無し
提供: ロードカナロア
急上昇ワード改
最終更新:2025/03/24(月) 14:00
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