菅野直 単語

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カンノナオシ

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「菅野直」(かんの なおし 1921 1945)とは、「菅野デストロイヤー」「イエローファイター」の異名で恐れられた男の中の男であり、太平洋戦争時の大日本帝国海軍所属のエースパイロットである。

総撃墜数は72機(ミクロネシアフィリピン時代に30機、第343海軍航空隊時代に42機)。 ※協同撃墜24機含む。

デストロイヤー誕生

1921(大正10)年9月23日に、貧農の身から苦学して警察署長になった菅野浪治とすみえの間に生まれる。

次男坊で、菅野かほる、菅野がいる。後に菅野志げ子と末菅野和子が生まれている。

出生地は父親が赴任していた朝鮮半島平壌に近い口と言う地で、二歳の頃にが大洪水被害状況視察に出た先で出された食べ物から腸チフスに感染して警察署長の務に耐えられないと判断した事から、辞職して故郷に戻り、実家等を転々とした後に落ち着いた宮城県角田町(角田)にて、厳正なと気性のしいから厳しい躾の元そだてられた。

小学生の頃は、両教育の成果もあって品行方正で学業も優秀というが両から可がられるのを見ては、反抗的な態度をとって叱られていたが、中学一年までは七歳年上のかほるが添寝していたと言う甘えん坊なところもあり、明るく喧嘩が強いガキ大将の様な存在でもあった。

旧制角田中学(現:角田高校)に進学すると、石川啄木に傾倒して読み文学について論を交わすと言う、後の大空のサムライ振りからは想像もできないと言われる程の軟学生生活を送ったと言われている。

1938(昭和13)年12月江田島海軍学校に70期として入学し、1941年昭和16年11月卒業後に第38期飛行学生となり1943昭和18)年9月に修了して戦闘機パイロットになった。

飛行学生時代は、着陸禁止区域に着陸しようとして練習機をひっくり返したり、模擬戦で教官の機体と接触を繰り返す等して、練習機を何機も壊していた事から「菅野デストロイヤー」と呼ばれるようになり(学生の間に四機から五機は破壊したらしい)、軟文学青年は立なのにも程があるレベルパイロットとなった。

南洋の攻防

1944(昭和19)年4月、初代第343航空隊(通称「」)の分隊長となったミクロネシアにて初陣を経験し、同隊が解体となる7月10日まで現地に留まった後に、第201海軍航空隊(306飛行隊)の分隊長となった。

この頃の菅野直は、軍規違反の常習犯で、嫌いな官のいた小屋を零戦の降下時の風圧で吹き飛ばしたり、他の部隊の上官や将校に殴りかかったり、女子挺身隊員に対して部下と共に一斉に宝を露出させる等していた。

実戦では、

  • 操縦する零戦を敵機B-24の尾翼にぶつけて撃墜する
  • 背面急降下攻撃で敵機の胴体との間をすり抜ける間に撃する
  • 一度に2機のB-24を撃墜する

といった「零戦は打撃武器」な戦果を上げ、乗機に指揮官識別用の黄色ラインを引いていた事から、米軍から「イエローファイター」と呼ばれて恐れられた。

レイテ沖海戦から特別攻撃いわゆる「特攻」が開始される事になった際は、最初の特別攻撃隊の隊長名されたが、丁度その頃は新しい零戦の受領とテストの為に内地に戻っていた為、最終的に最初の神風特別攻撃隊「敷隊」の隊長は、関行男が務める事になった。

※菅野直と関行男は同じ海軍70期である。

経緯を知った菅野直は悔しがり、先に逝こうと後で逝こうとの為なら同じだと言われた際には、

一番先にいきたいです

と言う、立ちたがり屋な面もあった菅野直らしい言葉を返している。

特攻そのものについては搭乗員と戦闘機駄を理由に猛反対の立場をとり、自分の部下からは特攻隊員を出さないようにしていた。

新選組

南洋での情勢が日本軍不利となると、菅野直も内地に転勤となり、田実の発案で組織された。

淵孝・喜重・宮崎勇・磯崎千利・夫ら大日本帝国海軍空の精鋭も顔を並べた「第343海軍航空隊」(二代)に配属され、301飛行隊「新選組」の隊長を務めて、四国松山基地にて「紫電」「紫電改」を駆って戦う事になった。新選組には海軍至宝杉田一」、後に宮本武蔵武藤金義」がいて、菅野の二番機となった。

新選組では、南洋でB-24相手におこなっていた急降下からのすり抜けさざま攻撃をさらに発展させ、B-29弾幕をかいくぐりながら700km/hの速度で20メートルの至近距離まで突っ込んで撃墜すると言うクソ度胸を示して撃墜数を増やし、猛将と呼ばれた。

米軍記録には、至近距離まで接近した紫電改パイロットの顔やマフラーが確認できたとの事。

※菅野直の急降下攻撃は、菅野直以外が操縦する機体が耐えられなくなって空中分解する事もあった。

343海軍航空隊に所属する3つの飛行隊の中でも最高の戦績をおさめていった新選組だったが、杉田一や武藤金義、喜重や淵孝ら海軍至宝ともいえるエースパイロット達が次々と戦死していき、燃料も機体もパイロットもままならない状況になっていった。

最後の出撃

運命の日1945(昭和20)年8月1日

九州へ向けて北上中のB-24爆撃機30機を迎撃する為に20機を率いて出撃した菅野直は、屋久島の上にて乗機の機が筒内爆発を起こしてが開き、

ワレ、機筒内爆発ス。ワレ、菅野一番

と入電し、二番機を務める雄が気づいて護衛にあたろうとすると、これを睨みつけて戦闘空域に戻るように示し、それでも雄が戻ろうとしない為、拳を振り回し、怒りの形相で戦闘に戻るように示した。

雄が戻っていくの確認した菅野直は、安堵の表情を浮かべたといわれている。

その後、菅野直の機体から

戦ヤメ、全機アツマレ

の入電が入り、雄が菅野直の乗機がいると思われる域をに向おうとすると、

ワレ、機筒内爆発ス。諸君ノ協力ニ感謝ス、ワレ、菅野一番

の入電を最後に菅野直は消息を絶った。

米軍戦闘記録に菅野直の乗機と思われる撃墜記録が残っている。

消息不明のまま終戦を迎え、その後の9月20日田実が戦死による二階級特進を具申し、正式に8月1日に戦死が認定されて中佐に昇進した。

菅野直の遺言により、遺品のほとんどは焼却されてしまったが、靖国神社の遊就館には用の財布が残されている。 

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ドリフターズ(漫画)では「管野直」と表記されている。

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