藤山一郎(ふじやま・いちろう、1911年4月8日~1993年8月21日)とは、歌手・声楽家・作曲家・指揮者である。
東京・日本橋に生まれる。本名増永丈夫(ますなが・たけお)。
慶応義塾幼稚舎、普通部を卒業後、東京音楽学校(東京藝術大学音楽部)に入学。
この時実家の呉服問屋が多額の借金を抱え倒産。借金返済と学費を稼ぐためにレコード吹込みの仕事を始めた。 だが学校の校則で校外演奏は禁止されていたため、本名ではなく藤山一郎の名を使った。
作曲家の古賀政男と出会い、「酒は涙か溜息か」が(当時蓄音機は20万台しかなかったにも関わらず)100万枚のヒット、「丘を越えて」も大ヒットした。
しかし学校に歌手活動がばれ、あわや退学処分になりそうだったが 声楽家や教授陣の擁護を受け停学で済む。その後卒業まで歌手活動は慎んだ。
前述の曲はコロムビアからの発売だったが 謹慎のせいで連絡が途絶えたため、卒業後はビクターに入社。しかしコロムビアのヒットを越える曲は出なかった。
契約満了に伴い古賀政男の働き掛けでテイチクに移籍。契約金は1万円。 この頃「東京ラプソディ」がヒットし実家の借金を全て返済。
1939年、コロムビアに移籍。「懐かしのボレロ」がヒットする。太平洋戦争の時には慰問活動を行っていたが終戦時に捕虜となる。
約1年後の7月に帰国し歌手活動を再開。「長崎の鐘」「青い山脈」のヒット。紅白歌合戦には第1回(1951年)から出場。第43回(1992年)まで歌手や指揮者として連続で出場していた。
1954年にコロムビアとの専属を解消しNHKの嘱託となる。 レコード会社の商業主義に疑問があったためとされ希望する歌を自由に歌いたいという希望もあった。
1972年には日本歌手協会の会長に就任し協会を社団法人化。 そして歌手にも著作権収入が入るようにした。紫綬褒章受章。
1992年、国民栄誉賞をスポーツ選手以外で初めて生前に受賞。
1993年 8月21日、心不全により82歳で逝去。同月に放送された歌番組が最後のテレビ出演となった。
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最終更新:2025/03/27(木) 21:00
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