遊佐長教(?~1551)とは、戦国時代に活躍した武将である。
代々政長流畠山氏の河内国守護代を務めた遊佐氏。戦国時代になると守護と守護代による重層的な支配が進むにつれて、権力を伸長させ、畠山稙長亡き後に一躍キーパーソンとなった。
と思いきや、あっけなく暗殺され、木沢長政に比べるといまいち地味な扱いを受けがちな、16世紀前半の畿内政治史における重要人物である。
『相国寺供養記』に遊佐国長の遊佐河内守家が筆頭に合ったように、代々畠山氏の内衆のトップにあった遊佐氏であったが、両畠山氏に分裂して以後も両陣営に分かれて引き続き畠山氏を支えていた。その転機となってしまったのが明応2年(1493年)の明応の政変の時で、正覚寺合戦において畠山政長らとともに、遊佐長直を筆頭にした畠山政長の主要家臣がことごとく討ち取られてしまったのである。
『高野山加明院來迎堂勧進帳』によると、畠山稙長の近臣トップには引き続き遊佐氏が存在したが、その下に丹下盛賢を筆頭にした奉行人層が食い込んだ家格秩序に序列が変わってきており、足利義晴と細川高国に与し、足利義維と細川晴元の堺公方と戦っていく畠山稙長は、こうした新しい体制を築きつつあったのである。
ところが、享禄5年(1532年)に堺公方側についていた畠山義堯と三好元長が一向一揆に殺される。こうして堺公方体制が崩壊すると、足利義晴は細川晴元と結びつき、畠山稙長と敵対する木沢長政も足利義晴側についたのである。こうした流れで畠山稙長は本願寺と同盟して事態を打開しようとしたが、これに待ったをかけたのが守護代の遊佐長教であった。
遊佐長教の生年は全くの不明。史料としては天文2年にようやく登場する存在であるため、家格は高いがまだよくわかっていないことだらけの存在ではあるのだ。
なお、『天文日記』の天文5年(1536年)7月23日条から、前代の遊佐順盛の息子らしいことがわかる。
一、遊佐方より先日興正寺して条々申事候。取次顕正寺也。其内新次郎親父順盛時にかはらす可音通よし愚一筆所望候。其ヲうちのものにみせたきよし申候間、只今認従興正寺遣候。
また、安見宗房の敵討ちを描く『良尊一筆書写大般若経奥書集』の298巻にて登場する以下の文と『真観寺文書』の16号でともに登場していることから、天野忠幸は杉坊明算を実は遊佐長教の弟ではないかと推測している(あくまでも推測)。
秦南泉庵寺、貴寺御末寺由、(遊佐)長教・(根来寺杉坊)明算被仰分候、以其筋目被渡申候、然上者如前々一円可有寺納事肝要候、恐々謹言、
真観寺
侍者御中
かくして天文3年(1534年)に遊佐長教によって畠山稙長が更迭され、近臣とともに紀伊に押し込められた。政長流の家督は弟の畠山長経が後を継いだが、すぐに畠山晴熈が惣領名代として高屋城に入る。細川晴元はこうした畠山氏のいざこざに対して、細川典厩家の血縁者でもある畠山晴満を天文7年(1538年)に送り込み、これを巻き返そうとした畠山稙長が軍事行動すら起こしかけていたのであった。
一方、このころ木沢長政が畠山在氏を擁立し、南北分割では決してなかったものの、畠山在氏・木沢長政、畠山晴満・遊佐長教の河内半国体制が確立される。両畠山氏の抗争が、一向一揆への危機感等でいったん棚上げとなったのだ。
ところが、天文10年(1541年)に木沢長政が反乱を起こす。畠山晴満はこれに与同してしまったがために没落し、なんやかんやの末に畠山稙長の復権につながってしまったのであった。
天文11年(1542年)3月の大平寺の戦いで木沢長政が敗死し、畠山稙長が河内を奪回。河内半国体制が解消されたのである。しかし、畠山稙長は河内復帰後も細川氏綱に与同し、細川晴元にとっては目の上の瘤となりつつあった。ところが、天文14年(1545年)にこの畠山稙長が、同時期に丹下盛賢が死んだのである。畠山稙長は能登から後継者を迎える予定だったが、畠山義総の死でうやむやになった矢先であった。
ここで家督問題が盛大に起こる。細川晴元はもともと畠山晴俊を後継者に据えていたが、おそらくこれに反対したことで畠山稙長は細川氏綱と反乱を企てていたところを死んでしまった結果、そのまま彼が送り込まれてきた。ところが、遊佐長教が反対して畠山稙長の弟・畠山政国を擁立したのである。畠山政国はついに家督を継承できないまま惣領名代の座にあり続けたが、結局畠山政国とそれを支える遊佐長教が畠山氏領国の支配を行ったのであった。
紀州派の人々が引き続き畠山氏の惣領に仕えていたとはいえ、遊佐長教は吉益匡弼、走井盛秀、田川純忠、萱振賢継といった人々を直臣化していき、この流れで鷹山弘頼や安見宗房といった人々も遊佐長教の下に集まりつつあったかもしれない。遊佐長教の単独支配では決してなかったものの、河内や紀伊はほぼ彼の差配になりつつあった。
このタイミングで第二次細川氏綱の乱が起きる。遊佐長教は畠山政国とともに細川氏綱側につき、義就流畠山氏の畠山在氏が細川晴元に帰参し、勢力が確定する。かくして起きたのが、天文18年(1549年)の堺北庄の戦いでの畠山在氏の没落、続いて江口の戦いでの細川晴元の敗走である。三好長慶とその岳父である遊佐長教が勝利したのである。
さらに連鎖反応的に遊佐長教と三好長慶は足利義輝と対立。足利義輝が近江に逃亡する事態となる。こうした想定以上の事態の推移に畠山政国が紀伊に隠遁してしまい、おそらくここで畠山氏の当主を擁立しない、遊佐長教の単独支配が達成された。河内は少なくとも事実上遊佐長教の領国となったのである。
かくして権力の絶頂にあるさなか、天文20年(1551年)遊佐長教はあっけなく暗殺された。犯人は京都六条道場の時宗僧だったが、萱振氏が背後にいたとのとこで安見宗房らに粛清されていき、畠山氏の領国は新たな時代に移っていく。息子・遊佐信教は最終的に畠山秋高を暗殺するも、織豊時代の混乱で、遊佐氏は歴史の表舞台から姿を消していった。
時折登場する存在だったが最近定着した。案の定生年のソースは謎で、おそらくWikipediaもこれに引きずられている。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||||
覇王伝 | 采配 | 57 | 戦闘 | 47 | 智謀 | 60 | 政治 | 59 | 野望 | 76 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 104(B) | 智才 | 130(A) | 政才 | 128(B) | 魅力 | 57 | 野望 | 75 | ||||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 56 | 戦闘 | 51 | 智謀 | 62 | 政治 | 46 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 57 | 智謀 | 64 | 政治 | 47 | 野望 | 57 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 54 | 知略 | 62 | 政治 | 42 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
創造 | 統率 | 63 | 武勇 | 62 | 知略 | 70 | 政治 | 50 | ||||||||
大志 | 統率 | 61 | 武勇 | 61 | 知略 | 70 | 内政 | 50 | 外政 | 60 |
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