長塚智広とは茨城県出身の競輪選手である。または、「走る政治家」である。
1978年11月28日生まれ。
高校時代はインターハイで3位という実績を持ち、競輪という競技に興味を持ったことから井橋三佐雄に弟子入りし日本競輪学校に入学。81期生として1998年にデビューする。同期には加藤慎平、合志正臣、飯嶋則之などタイトルホルダーが名を連ねている。
デビュー後はおもに自転車競技の方面で活躍を見せる。公式記録会では世界3位(当時の日本新記録)のタイムを出し、ナショナルチームのメンバーに選ばれる。2000年に行なわれたシドニーオリンピックではスプリントとチームスプリント(当時はオリンピックスプリントという名目)に出場。チームスプリントでは第1走者を任され、神山雄一郎・稲村成浩とともに5位入賞を果たす。以来、ニッポン不動の第1走者としてチームを引っ張っていくようになる。
そして迎えた2004年のアテネオリンピック。長塚は伏見俊昭・井上昌己とともにチームスプリントに出場。第1走者の長塚は予選・1回戦・決勝と世界各国の第1走者の中ではナンバー1のタイムをたたき出し、チームスプリント銀メダルに大きく貢献した。
上記の通り、すべてにおいて長塚のタイムが世界を上回っている。伏見と井上がやや伸びを欠いた分、長塚のスタートダッシュでタイムを稼いだといっても過言ではない。
その後、充電期間を経て2008年の北京オリンピックにもチームスプリントに出場。予選で車体故障が発生するアクシデントもあり、その後の再発走でも思った以上のタイムが出せなかったが、渡邉一成・永井清史がこれをカバーし結果的には6位入賞を果たす。2012年のロンドンオリンピックについては指定強化選手から離れ、自転車競技については一段落が付いた模様である。
アテネオリンピックでの華々しい活躍が印象強い長塚だが、本職の競輪では銀メダルを取ったことによる周囲のプレッシャーや目標の喪失感が絡み結果が残せず、長期間レースから離れるようになってしまう。しかし2007年のふるさとダービー松阪(GⅡ)で2着に入ると、以降は先行・捲くり・追い込みと何でもこなす自在型として結果を残すようになる。
2010年の参院選後にレースに復帰すると、競輪界でブームになっている大ギアを使用しパワーアップを図ると2010年終盤からFⅠ戦を中心に驚異的な力で勝ち星を積み重ねていった。
そして迎えた2011年。3月の日本選手権では予選から3連勝で勝ち上がり決勝進出を果たすが、決勝で市田佳寿浩を押し上げ落車させたとして失格に終わる。7月のサマーナイトフェスティバル(GⅡ)では変幻自在な競争で好位置をキープし、神山雄一郎の6年ぶりビッグレース優勝に大きく貢献する(自身は3着)。9月のオールスター競輪(GⅠ)でも決勝優出を果たすも、またしても落車の原因を取られ失格に終わってしまう。
そして、12月に行なわれた競輪祭(GⅠ)で2011年3度目のGⅠの決勝に進出。武田豊樹の番手からレースを進めると、捲くった武田の後ろから最後は追い込んで悲願のGⅠ初優勝を果たす。その年の年末に行なわれたKEIRINグランプリ2011に出場するも、最終周回4コーナー付近で自身の不注意により落車。過失走行を取られ失格という結果に終わる
2012年は1年を通じて安定した結果を残し寛仁親王牌と競輪祭で決勝2着に入り、賞金ランキングで2年連続のグランプリ出場を決め、引き続き2年連続でS級S班の座に就く。2013年4月の共同通信社杯(GⅡ)では決勝で道中、村上義弘の番手を主張。一瞬の隙を突いて捌き番手を奪うと、そのまま村上義弘の先行に乗って追い込んでGⅡとしての初優勝を決めた。
アテネでも見せたダッシュ力が武器ではあったが、持久力不足からか最後までスピードが持たず途中で失速してしまう典型的なスプリントタイプであった。スランプに陥っていた頃は追い込み型に転向したが、こちらでも結果が残せず自在型に戻っている。
しかし、2010年頃からおもに4倍台の大ギアを使用し始めると本来持っているスピードが持続するようになり、強力な捲くりが出せるようになっただけでなく先行もできるようになる。さらに、この大ギアでいわゆるヨコの動きをこなし、さらには隙あらば積極的に別ラインに切り込むなど、これまでとは違う異色の自在型として一気に頭角を現した。競輪祭を優勝した際も4.25の大ギアで挑んでいた。
趣味の一つに株取引が挙げられており、その知識を生かして経済に関する番組にもコメンテーターとして出演することもある。さらには、現役の競輪選手でありながら「長塚智広の株の筋トレ」なるものを扶桑社から出版している。2009年の競輪のブランドCMでは、「1番車・株式トレーラー」の役で出演している。
また、2009年には現役競輪選手としては異例の茨城県知事選挙に無所属で出馬をする。結果は落選となったが、それでも高い知名度を生かして26万もの票を獲得し、出馬6人中3位の成績を残す。
翌年2010年の参院選には茨城県選挙区から民主党公認として出馬。民主公認でありながら民主色を薄くし個人色を強めた選挙戦を繰り広げた。結果は惜しくも落選となったが、それでも組織・団体の支援を受けず民主逆風の中で無党派層から約20万票を集め、前年の県知事選に続く知名度の高さと無党派層からの圧倒的な支持を集めた。
2013年、KEIRINグランプリを控えた12月19日、スポーツ紙にトップクラス選手を中心とした18人が日本競輪選手会を脱会し一般財団法人「SS11」による新選手会を発足、との報道がされた。
同日午後、長塚をはじめ、武田豊樹、村上義弘、平原康多、新田祐大の5人のトップレーサーが記者会見を行った。
選手会に脱会届を提出した選手は、山崎芳仁や伏見俊昭、村上博幸など計23人にのぼった。
選手会側と何やら話し合いが行われた結果、翌年1月20日に全選手が謝罪し撤回した。
綱紀審議委員会の結果、除名処分は回避されたものの、5月1日からの自粛休場勧告が下され、期間は武田・長塚・村上義が1年、平原・新田が8カ月、他18人が6カ月となった。
しかし、トップレーサー休場の影響か売上減少、内外から疑問や批判が出た結果、ほとんどの選手が自粛期間が緩和されて3カ月に短縮された。
だが長塚を含む5人は軽減対象から除外され、長塚は1年間の処分が確定する。
2015年、選手登録更新のための手続きと競走参加に注目されたが、1月27日に引退を公表、28日に引退会見。
「自転車競技者として体力的にもこれ以上、上を目指せない」との理由を述べた。
2月10日に選手登録削除。
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最終更新:2025/03/28(金) 17:00
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