青山忠俊(1578~1643)とは、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将である。
徳川家康の家臣団では若い世代であり、どちらかと言えば徳川秀忠の側近としておなじみの人物。
父・青山忠成は徳川家康の小姓であり、徳川秀忠の傅役となった人物である。内藤正成ともども一旦失脚するが、これは徳川家康による秀忠近臣団統制のパフォーマンスともいわれておりすぐ許されている。
一方その息子である青山忠俊は7歳の時徳川家康と徳川秀忠に御目見え。9歳から徳川秀忠に近侍する。そして天正18年(1590年)に13歳にして小田原攻めで見事な戦働きを死、感状を授けられた。
関ヶ原の戦いの後は従五位下・伯耆守に任じられ、慶長9年(1604年)に徳川家光が生まれるとその傅役となる。こうして青山忠俊は後の世に土井利勝、酒井忠世とともに「寛永の三輔」と呼ばれるほどの権勢を得たのである。
この後の父・青山忠成の失脚も、彼には影響せず、父の遺領と合わせて3万5千石を所領を得る。大坂の陣後には徳川家光の老職となり、元和5年(1619年)には江戸城の根城であった岩槻城を得た。しかし、彼の権勢もそこまでであった。元和9年(1623年)に徳川家光が将軍になった直後、酒井忠世や酒井忠勝ら雅楽頭系酒井一門相手に非礼を働いたなどを原因とし、失脚したのである。赦免後も青山忠俊は江戸城に出仕することはなかった。
こうして父子ともども将軍を育て上げた後失脚する、という数奇な目に遭うが、青山忠俊の息子・青山宗俊は許されて大坂城代にまで出世し、子孫は丹波篠山藩主となっている。
しばらく登場していなかったが、創造PKからまた復活している(似たようなポジションの土井利勝や酒井忠世に比べると、その最期からか内政屋としてもやや微妙である…)。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | 142(B) | 智才 | 78(B) | 政才 | 108(C) | 魅力 | 62 | 野望 | 59 | ||||
将星録 | 戦闘 | 68 | 智謀 | 43 | 政治 | 52 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 45 | 戦闘 | 55 | 智謀 | 23 | 政治 | 51 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 31 | 智謀 | 13 | 政治 | 40 | 野望 | 18 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 28 | 知略 | 15 | 政治 | 57 | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | 41 | 武勇 | 40 | 知略 | 28 | 政治 | 69 | ||||||
大志 | 統率 | 40 | 武勇 | 40 | 知略 | 34 | 内政 | 68 | 外政 | 47 |
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最終更新:2025/03/15(土) 07:00
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