シモ・ヘイヘとは、(Simo Häyhä 1905年12月17日~2002年4月1日)
フィンランドが生んだの軍人・狙撃手である。
概要
詳しくはwikipediaとかアンサイクロペディアをご覧になった下さい。
- シモ・ヘイへがいるという林の中に足を踏み入れた一時間後に小隊が全滅した。
- 戦車で合流すれば安全だろうと駆け寄ったら、戦車長がシモ・ヘイへに狙撃済みだった。
- わずか三十二人のフィンランド兵なら大丈夫だろうと四千人のソ連兵を突撃させたら撃退された。
- コラー河付近はシモ・ヘイへに殺される確率が150%。一度狙撃されて負傷すると
確実に凍傷する確率が50%の意味。
異名
白いギリースーツに身を包み、上記の活躍をするヘイへをソ連兵は
「白い死神」または「災いなす者」と呼び恐れたそうです。
使用銃について
シモ・ヘイヘが使用していた狙撃銃はその当時、ソ連側では旧式になっていたモシン・ナガンM28である。
この銃には3.5倍~4倍の倍率をもつスコープを装着可能だったがヘイヘはこれを使用せず照星と照門のみで
狙撃を行ったようです。
またこの銃は120㎝と長いのに対しヘイヘは152㎝と1ハイドより4㎝も低いにもかかわらず
自由自在に操ったそうです。
更にボルトアクション式のこの銃で狙撃訓練課程時に「150mの距離から一分間に16発の射的に成功」
という逸話も残している。
ヘイへが活躍した冬戦争は1939年~1940年と短い期間だったにもかかわらずその殺害数は
505名とも524名とも言われ共に世界最高記録である。
更になんとヘイへはサブマシンガンの扱いにも優れており、殺戮の丘における戦闘ではKP31サブマシンガンを使用し、記録では200名以上、非公式なモノも含めれば狙撃で殺害した505名よりも多くの兵士を殺害したと言われている。
これらの記録は戦争開始から負傷するまでの約100日間で残されており、1939年のクリスマス直前の
12月21日だけでも25名のソ連兵を殺害、クリスマスの夜には通算殺害数が138名になったとさ。
五月蝿い赤軍には銃弾をプレゼントしたんですね。わかります。
これらの記録に対し自身は「やれと言われたことを、可能な限り実行したまでだ」と述べたそうです。
シモ・ヘイヘに対しアンサイクロペディアはルーデル閣下に次いでお手上げなようです。
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