シモ・ヘイヘ(Simo Häyhä、1905年12月17日~2002年4月1日)とは、フィンランドの軍人・狙撃手である。
フィンランドとソ連との間で起こった冬戦争(1939~40年)において、主にコッラー河付近での防衛任務にて狙撃手として活躍し、ソビエト赤軍の脅威の的となったことで知られる。
冬戦争終戦直前の1940年3月6日にソ連軍兵士の銃撃を頭部に受けて重傷を負う。一命を取り留めるも一週間後に意識を取り戻したときには冬戦争は終結していた。終戦後は戦場に出ることはなく、2002年に96歳でこの世を去るまで猟犬ブリーダーとして余生を過ごした。
以下に述べるのは冬戦争にて残された「シモ・ヘイヘ伝説」の一端である。
白いギリースーツに身を包み、上記の活躍をするヘイへをソ連兵は「白い死神」または「災いなす者」と呼び恐れたそうです。
シモ・ヘイヘが使用していた狙撃銃はその当時、ソ連側では旧式になっていたモシン・ナガンM28である。
この銃には3.5倍~4倍の倍率をもつスコープを装着可能だったがヘイヘはこれを使用せず照星と照門のみで
狙撃を行った。
またこの銃は120㎝と長いのに対しヘイヘは152cmと1ハイドより4cmも低いにもかかわらず自由自在に操ったという。更にボルトアクション式のこの銃で狙撃訓練課程時に「150mの距離から一分間に16発の射的に成功」
という逸話も残している。
ヘイへが活躍した冬戦争は1939年~1940年と短い期間だったにもかかわらずその殺害数は505名とも524名とも言われ共に世界最高記録である。
更になんとヘイへはサブマシンガンの扱いにも優れており、殺戮の丘における戦闘ではKP31サブマシンガンを使用し、記録では200名以上、非公式なモノも含めれば狙撃で殺害した505名よりも多くの兵士を殺害したと言われている。
これらの記録は戦争開始から負傷するまでの約100日間で残されており、1939年のクリスマス直前の12月21日だけでも25名のソ連兵を殺害、クリスマスの夜には通算殺害数が138名になったとさ。五月蝿い赤軍には銃弾をプレゼントしたんですね。わかります。
これらの記録に対し自身は「やれと言われたことを、可能な限り実行したまでだ」と述べたそうです。
シモ・ヘイヘに対しアンサイクロペディアはルーデル閣下に次いでお手上げなようです。
フィンランドにはヘイヘのほかにもう一人死神がおりその名を「スロ・コルッカ」という。
この二人が何故にここまでの死神になれたのか??
その理由は「ケワタガモ」を狩猟していたからである。
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最終更新:2025/12/24(水) 02:00
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