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プロイセン

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プロイセン(独:Preußen)とは、

  1. バルト海の南東沿岸一帯を指す歴史的呼称。現在のロシア領カリーニングラードなどを含む。以下「プロイセン地方」という。
  2. 1.の「プロイセン地方」を含む領土を有し、ホーエンツォレルン家の君主を戴いていた王国。以下「プロイセン王国」という。

ドイツ語の Preußen に由来する「プロイセン」のほか、英語の Prussia に由来する「プロシア」も用いられる。漢字表記は「普魯西」、略称は「普」。

プロイセン地方の概要

プロイセン地方は、バルト海の南東沿岸の一帯を指す歴史的呼称である。大雑把に述べれば、現在のロシア連邦領のカリーニングラード州と、ポーランド共和国領のヴァルミア・マズールィ県とポモージェ県とを合わせた領域に相当する。

地理的には、北はバルト海に接し、東はメーメル川を境にリトアニアと接し、南は狭義のポーランドと接し、西はポンメルン地方と接している。ポーランド南部を源に、ポーランド平原を北上してプロイセン地方を貫き、バルト海へと注いでいるポーランド最大の大河ヴァイクセル川を境界に、その東側を「東プロイセン」、西側を「西プロイセン」と称する。

中世後期以降、ドイツ語が比較的優勢だった地域である。1945年の第二次世界大戦敗北によってドイツから分離し、ソヴィエト連邦およびポーランドへと併合されて以降は、「プロイセン地方」という呼称も用いられなくなった。しかしながら、後述の「プロイセン王国」の名とともに、今でも歴史の教科書には登場している。

プロイセン王国の概要

プロイセン王国は、ベルリンを首都とし、ホーエンツォレルン家の君主を戴いた王国である。1701年の初代フリードリヒ1世の戴冠から1918年のヴィルヘルム2世の退位まで、217年間にわたって存在した。

元は神聖ローマ帝国辺境の小国であったが、軍事国家として発展し、18世紀から19世紀にかけて最盛期を誇った。シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争、普墺戦争、普仏戦争に勝利し、1871年のドイツ帝国成立を実現させた。

プロイセンはその成立過程から人造国家の様相を呈しており、特に18世紀の名君フリードリヒ・ヴィルヘルム1世、フリードリヒ2世らの諸政策により、ヨーロッパで最も自由な国となっていた。これは、プロイセンが「宗教・民族・社会」に対して無頓着で、どんなものでも受け入れる土壌があったためである。「ポーランド人は簡単にプロイセン人になることはできたが、ドイツ人にはなることはできなかった」という言葉からもこれが推察される。

ドイツ帝国の成立後は、ドイツ・ナショナリズムが強まる反面、プロイセンとしての意識が希薄化していった。これによって、プロイセンならではの自由も徐々になくなっていったと云われる。プロイセン王国は1918年のドイツ革命によって無くなり、以降はドイツ国の一部「プロイセン州」となった。

歴史

古プロイセン人とドイツ騎士団

プロイセン地方には、元々バルト系の先住民である古プロイセン人が住んでいた[1]。彼らは日本の神道にも通じるような多神教的な信仰を持っていたらしい。1326年に書かれた『プロイセン年代記』には次のような記述がある(著者がキリスト教徒である点に注意)。

彼らは神のことも知らなかったので、誤ってどんな被造物でも神的なものとして崇拝した。太陽、月、星、雷、鳥、四足の動物、ひきがえるすら崇拝した。彼らは、いくつかの森、野原、河川・湖沼を神聖なものと見なし、そこで木を切ったり、畑を耕したり、あえて魚をとったりすることをしなかった[2]

このため、西のドイツ人や、南のボヘミア人やポーランド人たちは、キリスト教を布教すべくプロイセン地方にやって来るようになったが、古プロイセン人たちは古くからの信仰を捨てなかった。そこで、異教徒を改宗させる使命を帯びた「北方十字軍」の標的となる。古プロイセン人たちはその攻撃と戦ったが、結局はドイツ騎士団チュートン騎士団)の支配下に入る。ドイツ騎士団領」の成立である。これによってキリスト教化が進められるとともに、古プロイセン人たちも徐々にドイツ化していった。西プロイセン地方のマリエンブルクに築かれたドイツ騎士団の城郭は、現在では世界遺産に登録されている。

プロイセン地方の平定に成功したドイツ騎士団は、続いて異教国リトアニアとの戦いに身を投じる。その後、リトアニア大公国がキリスト教に改宗し、ポーランド王国と連合することに決めたため、ドイツ騎士団はポーランド=リトアニアとの対立を深めるようになった。1410年の「タンネンベルクの戦い(グルンヴァルトの戦い)」でドイツ騎士団は歴史的な敗北を喫した。

その後もドイツ騎士団は敗北を続け、西プロイセン地方はポーランド王国の統治下に組み込まれることになった。マリエンブルクの代わりにドイツ騎士団領の中心都市となったのは東プロイセン地方のケーニヒスベルクであった。

プロイセン公領からプロイセン公国へ

最後のドイツ騎士団長で、ホーエンツォレルン家出身のアルブレヒトは、カトリックからプロテスタントに改宗するとともに、ポーランド国王(ポーランド=リトアニア)の宗主権を認める世俗のプロイセン公へと転身した。これによってドイツ騎士団領は無くなり、東プロイセン地方は「プロイセン公領」となる。

アルブレヒトの直系が絶えると、同じホーエンツォレルン家のブランデンブルク辺境伯(選帝侯)がプロイセン公を兼ねるようになった。これによって、いわゆる「ブランデンブルク=プロイセン」が成立する(1618年)。ブランデンブルク=プロイセンは1648年のウェストファリア条約によってポンメルン地方西部(ヒンターポンメルン)などを獲得した。

1660年にはポーランド=リトアニアから正式に独立し、「プロイセン公国」となった。一方、西プロイセン地方は依然としてポーランド=リトアニアの統治下にあった。

プロイセン王国の成立

スペイン継承戦争(1701年-1714年)でハプスブルク家の神聖ローマ皇帝に味方することを条件として、ブランデンブルク選帝侯兼プロイセン公のフリードリヒは「プロイセンにおける王」(König in Preußen)としてケーニヒスベルクにて戴冠した。歴史的には、これをもって「プロイセン王国」の成立とみなしている。

ただし、厳密に言うと、神聖ローマ帝国の版図外にあったプロイセン公国がプロイセン王国になったとはいえ、神聖ローマ帝国の版図に含まれるブランデンブルク辺境伯(選帝侯)領がプロイセン王国になったわけではない。しかし、同じ君主を戴いているため、この狭義のプロイセン王国とブランデンブルク辺境伯領、それにこれらと同君連合になっている地域を区分する意味は徐々に無くなっていった。そこで、総称して「プロイセン王国」ないし「プロイセン諸国家」(Preußische Staaten)と呼ぶようになっていった。ここでは、以下「プロイセン王国」と表記することとする。

名君時代

フリードリヒ1世の死後、プロイセン王国は兵隊王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世、大王フリードリヒ2世の時代に入る。この両王の時代に宮廷費の削減、産業の振興が成し遂げられ、プロイセンは中欧における強国の地位に入り込むことができた。

大王フリードリヒ2世は、オーストリア継承戦争(1740年-1748年)と七年戦争(1756年-1763年)とに勝利することで、現在のポーランド南西部にあたるシュレージエン地方の大部分を獲得した。さらに、ポーランド分割で西プロイセン地方などの領土を得た。また軍制改革を行い、欧州最強といわれる軍を作り上げた。また、彼自身が啓蒙専制君主として産業の振興、自由政策等々を行い、国力を増強した。

1772年の第1次ポーランド分割によって西プロイセン地方を領有したことで、プロイセン王国は全プロイセン地方を統治することになった。同年、フリードリヒ2世は、それまでの「プロイセンにおける王」ではなく「プロイセン国王」(König von Preußen)を称することとした。

この頃、ドイツを代表する哲学者イマヌエル・カントは東プロイセンの中心都市ケーニヒスベルクで哲学を教授していた。また、プロイセン王国は、フランスで迫害され、亡命してきた新教徒(ユグノー)や、各地で差別を受けていたユダヤ人たちを積極的に受け容れたため、ベルリンやケーニヒスベルクに多種多様な人が集まり、この地域の商工業も大きく発展した。

ナポレオン戦争とウィーン体制

フリードリヒ2世が没して後、19世紀に入ると、ナポレオン戦争で大敗し、国土の半分を割譲させられる危機に瀕するが、ナポレオンのロシア遠征が失敗し、またプロイセン軍若手(シャルンホルスト、グナイゼナウ、クラウゼヴィッツら)の軍制改革やシュタイン、ハルテンベルクの政治改革により国力を増したプロイセンはロシア・スウェーデン・オーストリア・イギリスと手を組みナポレオンをライプツィヒで破った。

ナポレオン戦争後、オーストリア宰相メッテルニヒ主導の勢力均衡政策により、ヨーロッパに新たな秩序が生まれ、プロイセンを含むドイツ諸国はオーストリアを盟主とするドイツ連邦に組み込まれた。

ウィーン条約によって、プロイセン王国は新たにドイツ西部のライン地方(ラインラント)を獲得した。この「飛び地」は19世紀に大きく工業化が進んだ地域で、これによってプロイセン王国の国力は更に高まった。

ドイツ統一

1862年、伊藤誠ビスマルクがプロイセン王国首相に就任。ロリコン参謀総長モルトケ、童顔陸相ローンらと共にドイツ統一に乗り出す。(なお、ドイツ統一と言っても、ビスマルク自身は南ドイツまでの統一は考えていなかった)

プロイセン王国は、第2次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争(1864年)でシュレースヴィヒ公国およびホルシュタイン公国をデンマークから奪い、その管理権を巡ってオーストリアと戦争するも(1866年)、これも下し、さらにスペイン王継承の問題でフランスと戦争し(1870年-1871年)、三たび勝利した。普仏戦争の勝利によってプロイセンに主導のドイツ統一に文句を言う国はなくなり、1871年、わざわざ敗戦国フランスのヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝戴冠式が行われ、「ドイツ帝国」が誕生した。

ドイツの一部としてのプロイセンと、その最期

ドイツ帝国の成立によって、プロイセン王国はその構成要素の一部となった。1918年のドイツ革命によって帝政が崩壊すると、プロイセンはドイツ国(Deutsches Reich)を構成する「プロイセン自由州」(Freistaat Preußen)となった。

1919年のヴェルサイユ条約によって西プロイセン地方が新生ポーランド共和国に割譲されると、東プロイセン地方は「飛び地」として孤立した。この状態を解消しようと、1939年にナチス・ドイツはポーランドに宣戦し、第二次世界大戦を引き起こす。一時はドイツが全プロイセン地方を統治下に置いたが、1945年の敗戦によって状況は一変した。ドイツ系の住民はプロイセン地方から逃亡し、あるいは追放され、東プロイセンの北部はソヴィエト連邦に、それ以外のプロイセン地方はポーランドに併合された。これによってドイツの一部としてのプロイセンは消滅する。

また、プロイセン自由州はナチス時代には有名無実なものとなっていたが、戦後には州制度が改革され、その一部は「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州」「ノルトライン=ヴェストファーレン州」「ラインラント=プファルツ州」などへと再編された。これによって、ドイツの行政区画上のプロイセンも名実ともに消滅した。

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関連項目

  • 神聖ローマ帝国
  • ドイツ
  • オーストリア
  • ポーランド
  • 七年戦争
  • オットー・フォン・ビスマルク
  • ヘルムート・カール・ベルンハルト・フォン・モルトケ
  • 現存しない国の一覧
  • フリードリヒ・ヴィルヘルム1世
  • フリードリヒ2世

脚注

  1. *ラテン語では複数形で Pruteni (プルーテニー)、ドイツ語では Prußen (プルーセン) といい、日本語では「プルーセン人」などと訳されているが、ここでは混乱を避けるために「古プロイセン人」とする。古プロイセン人の言語は印欧語族(インド・ヨーロッパ語族)のバルト語派に属するが、現在は死語。スラヴ系ではない。
  2. *山内進『北の十字軍』講談社学術文庫、2011年、166頁より。

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