プロイセン(独:Preußen)とは、
...である。プロシア(英:Prussia)とも呼ばれ、漢字表記では普魯西と書かれる。略称は普。
この項目では、2について説明する。
首都はベルリン。一時期はケーニヒスベルク(現カリーニングラード)であったこともある。
元は神聖ローマ辺境の小国であったが、軍国として発展し、18世紀から19世紀にかけて最盛期を誇った。シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争、普墺戦争、普仏戦争を戦い、ドイツ帝国を構成する。
ドイツ帝国の成立後は、ドイツの2度の敗戦(WWI、WWII)で、プロイセン地域をポーランド、ロシアに割譲され、名実共に歴史から消滅した。これは、ドイツ帝国成立以降、プロイセンの国民意識が希薄になったことや、プロイセンならではの自由がなくなりドイツナショナリズムが勃興したことが理由である。
プロイセンはその成立過程から人造国家の様相を呈しており、特に18世紀の名君フリードリヒ・ヴィルヘルム1世、フリードリヒ2世らの諸政策により、ヨーロッパで最も自由な国となっていた。これは、プロイセンが「宗教・民族・社会」に対して無頓着で、どんなものでも受け入れる土壌があったためである。「ポーランド人は簡単にプロイセン人になることはできたが、ドイツ人にはなることはできなかった」という言葉からもこれが推察される。
プロイセン地域は、元々スラヴ系の先住民であるプロイセン人が住んでいたが、北方十字軍であるドイツ騎士団(チュートン騎士団)の殖民でドイツ化された。その後、ポーランド=リトアニアと対立し、グルンヴァルト(タンネンベルヒ)の戦いで敗戦、以降ポーランド邦臣プロイセン公として命脈を繋ぐ。
プロイセン公断絶の折、プロイセン公の縁戚であるブランデンブルク選帝侯ホーエンツォレルン家がその所領を相続した。その後、スペイン継承戦争で神聖ローマ皇帝に味方することを条件として、ブランデンブルク選帝侯兼プロイセン公フリードリヒは王として戴冠、プロイセン王国が誕生する。
フリードリヒ1世の死後、プロイセン王国は兵隊王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世、大王フリードリヒ2世の時代に入る。この二王の時代に宮廷費の削減、産業の振興が成し遂げられ、プロイセンは中欧における強国の地位に入り込むことができた。
大王フリードリヒ2世は、オーストリア継承戦争、七年戦争を勝利し、ポーランド分割で国土を大きく広げ、また軍制改革を行い、欧州最強といわれる軍を作り上げた。また、彼自身が啓蒙専制君主として産業の振興、自由政策等々を行い、国力を増強した。
フリードリヒ2世が没して後、19世紀に入ると、ナポレオン戦争で大敗し、国土の半分を割譲させられる危機に瀕するが、ナポレオンのロシア遠征が失敗し、またプロイセン軍若手(シャルンホルスト、グナイゼナウ、クラウゼヴィッツら)の軍制改革やシュタイン、ハルテンベルクの政治改革により国力を増したプロイセンはロシア・スウェーデン・オーストリア・イギリスと手を組みナポレオンをライプツィヒで破った。
ナポレオン戦争後、オーストリア宰相メッテルニヒ主導の勢力均衡政策により、ヨーロッパに新たな秩序が生まれ、プロイセンを含むドイツ諸国はオーストリアを盟主とするドイツ連邦に組み込まれた。
1860年、伊藤誠ビスマルクがプロイセン宰相に就任。ロリコン参謀総長モルトケ、陸相ローンらと共にドイツ統一に乗り出す。(なお、ドイツ統一と言っても、ビスマルク自身は南ドイツまでの統一は考えていなかった)
プロイセンは、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争で両公国をデンマークから奪い、その管理権を巡ってオーストリアと戦争しこれを下し、さらにスペイン王継承の問題でフランスと戦争し勝利した。普仏戦争の勝利によってプロイセンに主導のドイツ統一に文句を言う国はなくなり、1871年、わざわざ敗戦国フランスのヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝戴冠式が行われ、「ドイツ帝国」が誕生した。
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最終更新:2025/12/06(土) 02:00
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