二式単座戦闘機とは、大日本帝國陸軍が運用していた戦闘機である。
正式名称は「キ44 二式単座戦闘機鍾馗(しょうき)」。
1937年、帝國陸軍は新たな戦闘機の開発に着手した。従来どおりの設計に則った軽戦闘機と、欧州で出現し始めている重戦闘機(ドイツのメッサーシュミットBf109やイギリスのスピットファイア等)を参考した全く新しい戦闘機を造り上げようとした。前者が後の一式戦闘機に、後者が二式単座戦闘機となる。
開発に当たっては、まず欧州で発達している重戦闘機を調査するよう、中島飛行機に命じた。機動性に優れた軽戦闘機しか造った事が無い日本にとって重武装・高速の戦闘機は未知の領域だった。手探りで設計開発が進められ、様々な試行錯誤が試みられた。高出力エンジンが無かった事から、爆撃機用の大型エンジン「ハ-41」を採用。このエンジンを内包するために機体はずんぐりむっくりになり、特徴的な見た目となった。テスト飛行では非武装の条件下とはいえ最高速度626キロを記録。
苦悩の末、試作機「キ60」が誕生する。日本機としては珍しい重武装高速の機体で、従来の格闘戦重視から一撃離脱戦法に目を向けた希有な戦闘機に仕上がった。しかし同時開発されていたキ61(後の三式戦)とのコンペに敗れ、主力機への道が閉ざされてしまう。
不遇なまま終わるかに思われたキ60だったが、挽回のチャンスが訪れる。1941年7月に行われたメッサーシュミットBf109との模擬戦。九七式艦戦は惨敗、キ61(三式戦)は互角という状況の中、キ60だけは圧勝。見事性能の高さを証明して見せた。対潜相手となったフリッツ・ロージヒカイト大尉はキ60の性能の高さを賞賛したという。この活躍により批判的な意見は消沈。増産命令が下り、主力機へと返り咲いた。
大東亜戦争開戦後の1942年3月、制式採用。二式単座戦闘機鍾と命名された。中国大陸、ビルマ、タイ、フィリピンに進出したが、陸軍初の重武装高速機体は着陸が難しいとしてベテランパイロットに嫌われた。整備も三式戦並みに難しく、整備員からの評価も芳しくなった。このため出番に恵まれず、くすぶる毎日を送った。主に防空戦闘機として運用され、敵地攻撃にはあまり用いられなかった。
そんな二式戦が輝いたのは、戦争末期の本土防空戦であった。本土の空を守るため東南アジアから呼び戻され、対B-29の迎撃に充てられた。40cm噴進砲を装備した特別仕様の機体はまさにB-29戦の切り札だった。数発命中すればB-29ですら撃墜が可能で、多くの敵爆撃機を食った。しかし硫黄島が失陥し、護衛にP-51が付随してくると、もう手柄を挙げる事は出来なくなった。それでも終戦まで使用され、本土の空を守り続けた。
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最終更新:2025/12/06(土) 09:00
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