二式単座戦闘機 単語


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二式単座戦闘機とは、大日本帝國陸軍が運用していた戦闘機である。

概要

正式名称は「キ44 二式単座戦闘機鍾馗(しょうき)」。

1937年、帝國陸軍は新たな戦闘機の開発に着手した。日本軍にとって従来の運動性に優れた設計の軽戦闘機と、欧州で出現し始めている重戦闘機(ドイツのメッサーシュミットBf109やイギリスのスピットファイア等)を参考した全く新しい戦闘機を造り上げようとした。前者が後の一式戦闘機に、後者が二式単座戦闘機となる。

開発に当たっては、陸軍はまず欧州で発達している重戦闘機を調査するよう中島飛行機に命じた。機動性に優れた軽戦闘機しか造った事が無い日本にとって重武装・高速の戦闘機は未知の領域だった。陸軍も仕様に関してはすぐ提示せず、重戦闘機不要論も存在した。その中で中島は手探りで設計開発が進められ、とりあえずドイツのBf109を目標とし、様々な試行錯誤が試みられた。開発当時の日本には戦闘機向けの小型で高出力のエンジンが無かった事から、爆撃機用の大型エンジン「ハ41」(1250馬力)を採用。このエンジンを内包するために機体は機首が太いがそこから絞り込んでいるという特徴的な見た目となった。1939年、ようやく陸軍から要求仕様が提示された。最大速度600km/h以上、上昇時間5000mまで5分以内、行動半径600kmという内容であった。当時の陸軍の仮想敵国はソ連であり、これで十分だと思われたが後知恵で承知で書けばこの仕様は本機の不遇な運命を決定づけてしまった。

1940年、試作機「キ44」が初飛行した。エンジンの性能不足と様々な新要素により不具合は多かった。最大速度は当時の日本機としては高速の580km/hを記録するも、要求性能に届かず目張りを施した上で非武装化で626km/hを記録した。量産機で605km/hで、上昇力も5000mまで4分15秒と高かった。急降下速度も頑丈な機体におかげで800km/h以上を超えても問題無く、操縦席背面には12.7mm機銃弾に対応した13mmの防弾装甲板、燃料タンクも防弾仕様。射撃時の安定性も良く、従来の格闘戦重視から一撃離脱戦法に目を向けた希有な戦闘機に仕上がった。ただし(現在の目から見れば)武装に関しては当初は7.7mm機銃2挺、12.7mm機銃2門と、日本機としては比較的強力だが、これは対戦闘機ならともかく対大型機相手には弱武装と言える結果になっている。この辺りは後述するキ60試作戦闘機が20mm機関砲2門を乗せている事を考えると一歩劣ると言えよう。

1941年7月、ドイツから輸入されたメッサーシュミットBf109 E-7との比較試験では、川崎の試作重戦闘機キ60よりもキ44は有利とされ見事性能の高さを証明して見せた。Bf109のパイロットであるフリッツ・ロージヒカイト大尉はキ44の性能の高さを賞賛したという。欧米の戦闘機相手に互角以上の戦えるとしたがBf109 E-7は最大速度570km程度であり、キ44は優位であったがこの頃には改良型のBf109 F型が完成しており最大速度670km/hの記録している。

大東亜戦争開戦後の1942年2月、制式採用。二式単座戦闘機鍾と命名された。開戦時は正式採用前とはいえ、増加試作機によって部隊が編制されており南方戦線へ進出しているが元々少ない数に加え元々対ソ連を念頭にしていたので、南方作戦で使うには航続距離が短い故に、一式戦闘機ほど出番は無かったが機会があれば米英機相手に優位に戦っている。懸念であった格闘戦闘も米英機相手に優越していた。その後、キ44型開発中から、一型に乗せるハ41の性能不足は分かっていたので、改良型の二型が作られる事になった。エンジンはハ41の1250馬力からハ109の1450馬力に変え、垂直尾翼の高さを増して着陸時の操縦性を増している。また武装も12.7mm機銃4門に増している。

その後、主要な量産機となった二型は中国大陸、ビルマ、タイ、フィリピンに進出したが、陸軍初の重武装高速機体は着陸が難しいとしてベテランパイロットに嫌われた。整備に難がある三式戦闘機を装備している部隊から、一式か二式を寄越せと要請がある事もあったが、基本的には二式戦のハ109は整備員からの評価も芳しくなった。また二型も航続距離がやや増したものの短い為、出番に恵まれずくすぶる毎日を送った。主に防空戦闘機として運用され、敵地攻撃にはあまり用いられなかった。

そんな二式戦が輝いたのは、戦争末期の本土防空戦であった。本土の空を守るため東南アジアから呼び戻され、対B-29の迎撃に充てられた。40mm機関砲を装備した特別仕様の機体はまさにB-29戦の切り札だった。数発命中すればB-29ですら撃墜が可能で、多くの敵爆撃機を食った。しかしエンジンは高高度性能に劣っており、40mm機関砲も極めて癖のある機関砲であり楽な戦いではなかった。そして硫黄島が失陥し、護衛にP-51が付随してくると、もう手柄を挙げる事は出来なくなった。それでも残存する機体は終戦まで使用され、本土の空を守り続けた。戦後アメリカ軍のテストでは三式戦・四式戦・雷電二一型・紫電一一型と比較してもっとも迎撃機としての性能が高いと評価されている。

二式戦は日本海軍の局地戦闘機「雷電」と比較される事がある。どちらも重戦闘機ではあるが雷電のほうが機体としては新しく、エンジンも二式戦当時には無かった大馬力の火星一三型エンジン(1460馬力)を搭載し、一回り大きく、本機より一年半後の1942年2月に初飛行しており、その任務も対爆撃機用に限定している。ただし雷電は42年に初飛行したものの、その性能は不十分で、1942年10月に初飛行した試作機が一般に知られる雷電である。二式戦は対爆撃機に限らず対戦闘機も視野に入れており、対ソ連を見据えて太平洋の戦いでは結果的に不足したものの侵攻作戦にも用いる事も視野に入れている。二式戦二型と雷電二一型は比較すると速度性能では二式が僅かに優位。上昇力では五分。降下制限速度では二式。武装は雷電。航続距離は雷電である。単純に考えれば雷電のほうが良さそうであるが、雷電が不具合をある程度直し、まともな戦力となって制式化されたのは1944年であり、海軍が基地航空隊として配備したがった1943年に間に合っていない。二式戦はというと、その頃には後継機として四式戦にその座を譲っていた。

なお二式戦の改良型の三型はハ145エンジン(2000馬力)を搭載、武装も20mm機関砲4門と集大成とも言えるものであったが既に一式戦と二式戦の経験を盛り込んだ新型機である四式戦闘機「疾風」が完成間近であったので量産はされなかった。二式戦はその微妙な間の悪さにより陸軍に冷遇されたももの、その経験は四式戦闘機「疾風」の礎となった。

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関連項目

  • 軍用機の一覧
  • 一式戦闘機
  • 三式戦闘機

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